京都大学吉田寮

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吉田寮正面玄関(2011年12月).jpg

座標: 北緯35度01分21秒 東経135度46分48秒 / 北緯35.0224度 東経135.7800度 / 35.0224; 135.7800

京都大学 吉田寮(きょうとだいがく よしだりょう)は京都大学吉田キャンパス吉田南構内にある学生寄宿舎[1]。吉田寮自治会によって運営される自治寮でもある[1]。築104年の吉田寮現棟は日本最古の現役学生寮[注 1]、築128年の吉田寮食堂は第三高等中学校の遺構にして、京大最古の大学建築物[注 2]である[2][3]

京都大学の規程での名称は「京都大学学生寄宿舎吉田寮」[4]。京都大学に他の学生寮がなかった時代は「学生寄宿舎」「京大寄宿舎」などと呼んでいた[5]

目次

建物[編集]

吉田寮は主に現棟、食堂、西寮の三つの建物からなる。

現棟[編集]

現棟は木造2階建ての3棟の寮舎(南寮・中寮・北寮)が並列し、平屋の管理棟(本館)につながる構造である[2][5]。収容定員147名[6]。居室は1人部屋または2人部屋[2]1913年(大正2年)に、山本治兵衛永瀬狂三の設計により、京都帝国大学寄宿舎として建設された。その際には、現在の吉田キャンパス本部構内にあった、旧・京都帝国大学寄宿舎の部材が転用された[2]

旧・京都帝国大学寄宿舎は木造3階建ての構造であった。外からは大きな屋根のある木造2階建てに見えたが、実際は広い屋根裏部屋があった[7]。収容定員約60名。1889年(明治22年)に、山口半六久留正道の設計により、第三高等中学校寄宿舎として建設された。この建物は1894年(明治27年)からは第三高等学校寄宿舎として、1897年(明治30年)からは旧・京都帝国大学寄宿舎として使用された。1912年に一度解体され、吉田寮現棟に再構成された。現棟の階段室などには旧寄宿舎の面影がある[2]

耐震性の不足や老朽化に悩まされている。吉田寮自治会は以前より現棟の補修を求めているが、京都大学は応じていない。建築の専門家は現棟を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価し、補修を度々訴えている[8]。2009年、京都府教育庁指導部文化財保護課は現棟を「京都府の近代和風建築」にリストアップした[9]。2015年5月、日本建築学会近畿支部は京大の山極壽一総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出した[10][2]。また同年11月には建築史学会が山極総長宛に、「京都大学学生寄宿舎吉田寮の保存活用に関する要望書」を送付した[11] [12]

建築学的特徴[編集]

管理棟や食堂には、引違いのガラス窓、軒天井やスティックワーク、内部縦板張りの腰壁や換気口を開いた棹縁天井、大空間を支えるトラス構造など当時の木造洋風建築の技法が見られる。一方、三棟の寮舎は、居室内部は釣り床を備えた和風意匠とするものの、北面に廊下を走らせ、縦に部屋を割り付け、そして両端に階段を置いた平面構成、内部階段や窓廻りの細部意匠は、同時期の小学校等に見られる平面構成、意匠を踏襲しており、木造学校建築で培われた技法を応用して設計されたことを物語る[13]

食堂[編集]

食堂は木造平屋建ての構造である。1889年(明治22年)7月に山口半六と久留正道の設計により、山本治兵衛の現場管理の下、第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された。1894年(明治27年)からは第三高等学校寄宿舎の食堂として、1897年(明治30年)からは旧・京都帝国大学寄宿舎の食堂として使用され、1913年(大正2年)には吉田寮現棟の竣工に合わせて山本治兵衛により現在の場所に移築された。 七灯社建築研究所山根芳洋は、食堂が第三高等中学校の数少ない遺構であり、京都大学最古の大学建築物であることを発見した[3][14]

1986年以来、営業停止している。1996年10月、防火壁を隔てて隣接していた「賄所」が火災で全焼した。今では吉田寮自治会の寮生大会や、寮内外のサークルのライブや演劇の会場、作業場などに供されており、吉田寮自治会および食堂使用者会議、厨房使用者会議が管理と運営を行っている[15]。食堂使用者会議・厨房使用者会議に参加し、誠実に話し合うことを条件に、誰でも(寮籍や学籍が無くても)食堂を利用できる[16][注 3]。京大の文化的、芸術的活動の拠点の一つである。現棟と同様、老朽化や耐震性の不足が懸念されていたが、先述の山根の発見のおかげもあって、2015年に補修が実現した[17]

西寮[編集]

西寮は木造3階建ての2棟と鉄筋コンクリート造3階建て(地下1階)1棟からなる混構造である[18]。収容定員94名。2015年4月に現棟と食堂の西側の空き地に建設された[18][19]。吉田寮自治会によれば西寮は現棟の代替施設ではなく、(薬学部付近にあり、1989年に老朽化を理由に撤去された)旧吉田西寮の代替施設である[20]

旧吉田西寮[編集]

吉田下阿達町の薬学部構内に存在していた。木造2階建てのⅠ~Ⅲ棟が並列し、Ⅳ棟と大広間棟に近接する構造。1部屋15畳、6人2部屋で60名収容[注 4][21][22]

京都織物の女工用宿舎として竣工し、1959年に「京都大学学生寄宿舎吉田寮西寮」として吉田寮に編入され、1~2回生の住居として使われた[注 5]。1965年にⅢ棟が[23]、1988年にⅣ棟が、1989年にⅠ・Ⅱ棟が撤去され無くなった[注 6][22]

運営[編集]

1897年からあった京都帝国大学寄宿舎(現在の本部構内北西寄りにあったもの)の運営方針を受け継ぎ、吉田寮は原則的に学生によって自治されている[5]

かつては南寮・中寮・北寮それぞれから選ばれた総務からなる総務部、代議員からなる総代会、全寮生による総会などの機関を設けて運営された[5]。熊野寮が開寮した1965年、総務部制が終わり、投票で選ばれた執行委員長を中心とする執行委員会制に移行した[5]。意志決定機関は総会と寮生大会の二種類ある。総会は月に2 - 3回開かれ、定足数はなく、全会一致制である。寮生大会は年に2回開かれ、定足数があり、多数決制である[24]。多数決による迅速な意思決定よりも、話し合いによる合意形成を重視する傾向がある。

日常的な仕事は厚生部、文化部、庶務部の三つの専門部が担当する。寮生は何れかの専門部の局・係に必ず属さなければならない。

厚生部の機能は生活水準の維持である。清掃局(大掃除の指揮)、石鹸局(石鹸などの補充、伝染病対策)、衛生局(シャワー室と洗濯機の管理)、補修局(寮内設備の破損箇所の把握と補修)、リサイクル局(リサイクルに関する業務全般)、消防局(防火対策や避難訓練、AED講習)、薬品係(共用薬箱の管理と補充)、備品物品管理局(大学から支給される備品・物品の管理)からなる[25]

文化部の機能は文化的活動の支援である。意匠局(文化的活動に必要な物品、例えばペンキや工具の管理)、催事局(寮内イベントの支援)、新聞局(吉田寮新聞の発行)、食堂局(寮自治会と食堂使用者との連絡)、電算局(電気機器の管理)、情報局(学内情報収集)、言語支援局(寮内多言語化の推進)からなる[26]

庶務部の機能は名簿や現金、郵便物等の管理である。印刷機係(輪転機の使用料金の徴収)、自動車係(駐車場の車の管理)、郵便・荷物局(郵便物の仕分け)、宿泊係(寮外者の宿泊台帳の管理)、集金係(寮費の徴収)、寄宿料・負担区分係(寮費の提出)、名簿係(寮生名簿の提出)、大会計(寮自治会の会計)からなる[27]

他の寮内組織には執行委員会(外交等)、評議会(総会の開催等)、監察委員会(会計監査、退寮処分)、選挙管理委員会、入寮選考委員会などがある。執行委員会、評議会、監察委員会は相互に抑制しあう権力分立の関係にある[28][29]

門限や消灯時刻、起床時刻など明文化された生活規則は少ない[注 7]。その代わり、吉田寮自治会は寮生に対して、寮生活で問題が起きたときは当事者同士で対等に話し合い解決するよう求めており、これが基本的な生活規則となる。寮生を対等にするための取り組みとして「後輩は先輩に敬語を使用しないでよい」というタメ口文化が存在する[30][31]

歴史[編集]

略歴[編集]

第三高等中学校寄宿舎の竣工[編集]

1886年、文部省は大阪にあった第三高等中学校京都府愛宕郡吉田村に移転することを決定した[3]。翌1887年、文部省の技師の山口半六と久留正道が同地域で測量調査を行い、第三高等中学校の工事が始まった[3]。1889年7月、山口半六と久留正道の設計と山本治兵衛の現場管理の下、第三高等中学校寄宿舎と付設の食堂、便所、厨房、浴室等が次々と竣工した[3]。なお、付設の食堂とは吉田寮食堂のことである[3]。第三高等中学校寄宿舎は現在の吉田キャンパス本部構内、付属図書館の北東付近にあり、百万遍智恩寺と土手を隔てて隣接していた[32]。傾斜のある瓦ぶき屋根のある木造建築で、外からは2階建てに見えたが、実際は広い屋根裏部屋があり3階建てだった[32]。中廊下を挟んで、1階に自修室(自習室)が15室、2階に寝室が16室あり、4 - 5人の相部屋だった[32]

1894年明治27年)6月23日、第一次高等学校令に基づき第三高等中学校は第三高等学校(旧制三高)に改組された。第三高等中学校は廃止され、旧制三高は(高等中学校に匹敵する)大学予科を持たなかったため、学生の大半は京都を去った。これに伴って、第三高等中学校寄宿舎の建物は旧制三高寄宿舎に引き継がれた。

旧寄宿舎の開舎[編集]

1897年6月18日、京都帝国大学設置に関する勅令が制定された。京都帝国大学は旧制三高を一条通の南側(現在の京都大学吉田キャンパス吉田南構内)に移転させ、旧制三高の校舎や施設をしばらく利用した。1897年9月11日、旧々・京都帝国大学寄宿舎が、京大本部事務室の一角を借りて開舎した。当時の舎生は24名、大学の総学生数は53名だった[7][22]1898年8月、京大は旧制三高寄宿舎の建物を譲り受けて、旧・京都帝国大学寄宿舎を開舎した。旧々寄宿舎の舎生は旧寄宿舎に、旧制三高寄宿舎の舎生は二本松地区の自由寮に、それぞれ引っ越しした[32]

旧寄宿舎について、初代総長木下広次は以下のように語った。「最初学生の寄宿舎は別に之といふ目的のありて開設したものではなく云はば経済の点に於て下宿より都合よいといふ位のことにて開設されたのである」[33][22]また、木下は旧寄宿舎の管理運営を舎生自身に任せ、敢えて積極的に干渉しようとしなかった。これは木下が、学生を大人君子として扱い、自重自敬、自主独立を期待して、学生の指導では細大注入主義をとらないと決心していたからだった[32]木下の教育方針に従い、京大当局は旧寄宿舎に規則と役職を設けず、入舎希望者は入舎願書の届け出順で欠員が出来しだい入舎できた[32]。にもかかわらず、旧寄宿舎は初め、問題なく管理運営された[22]。学生数が非常に少なく学生と教師がみな顔見知りであったこと、京大の創立を成功させようと学生と教師が一致団結していたことが理由だと考えられている。ただし、それはほんのわずかな間だけだった[33]

京都帝国大学が新たな学科を設置し、学生数が急増すると、学生と教師の一体感は容易に失われた[33][22]日露戦争の前後、日本全国の学校教育機関で学生風紀の緩みが問題になり、京大や旧寄宿舎でも同様の現象が見られた。京大全体ではカンニングや高等任官試験の落第者が増加する傾向が見られた。旧寄宿舎でも自習室で俗謡を歌う、「コスメチック」でおめかしして夜遊びに行く、人目を気にせず猥談する、寮費や食費を滞納するなどの問題行動が多発した。旧寄宿舎が規則と役職をもたず、入舎希望者を無条件で受け入れていたことが、自由を好む学生の入舎と、秩序を好む学生の退舎を招き、舎内の無秩序化をエスカレートさせたのだった[22]。また、旧寄宿舎は風紀以外にも多くの問題を抱えていた。旧寄宿舎には舎生同士の連絡の仕組みがなかった。このため新入の舎生と在来の舎生が知り合えず、相部屋の相手が何という名前なのかを知らないまま半年過ごすのも珍しくなかった。寝室だけで生活して居るものや、自習室に何週間も来ないもの、勝手に住んでいるものもおり、舎生にも誰が舎生で誰が舎生でないのかを見分けるのは困難だった。学内外の人々が旧寄宿舎を「堕落の標本」「濁流の源泉」「百鬼横行」などと表現していたことからも、その荒廃ぶりが窺える[7][33][32]

日露戦争の終結した1905年の秋、この状況に危機感を持った北田正平外山岑作[注 8]平野正朝勝山勝司ら「寄宿舎改革グループ」は、旧寄宿舎に秩序をもたらすために立ち上がり、舎生の自由を束縛しない範囲内で規約を作ること、舎内の事務を整理する役職を設置すること、秩序を乱した者を罰することの三点を舎生全員に対して建議した。この改革案を議論するために、臨時で舎生の総会が開かれた。旧寄宿舎が出来てからというもの、これほど多くの舎生が真面目に物事を議論するために集まったのは初めてのことだった。しかし大多数の舎生は、これに反対であった。数人の舎生は「大學の寄宿舎は斯かる幼稚なる規則を設く可き處に非ず」「今一時の弊に鑑みて規則を設けんとするが如きは寄宿舎根本の理想を没却するものなり」と理想的見地から反対するとともに、「之れ(舎の腐敗)は舎生が悪いからであって舎生の淘汰を行ひて善良なる舎生のみとすれば現状の儘で少しも差支なし」と主張した。なお、大半の舎生は個人主義(個人の自由)は集団主義(集団の秩序)に優越するので規約も役職も必要ないという旨の主張をした。結局、総会は提起者を除くほぼ満場一致でこの改革案を葬りさった[7][33][22]

自彊会結成[編集]

しかし北田らは諦めず、今度は旧寄宿舎を含む、京大全体の気風革新を目指す学生運動を始めた。彼らは最初に運動の母体となる新しい学生団体「自彊会(じきょうかい)」を結成した。自彊とは易経の中の言葉で「みずから励まして努力する」の意である。自彊会の目的は、一つは会員同士が助け合い、切磋琢磨して終生の「正義の人」となること、もう一つはもちろん学内外の気風を革新することだった。自彊会は12月4日の発起人熟談会には36名、10日の発会式には42名を集め、順調な滑り出しを見せた。発会式には木下総長や石川学生監、荒木寅三郎新渡戸稲造仁保亀松などの教職員も訪れた[34]

一時閉鎖事件[編集]

木下総長は以前から旧寄宿舎の腐敗を憂慮し、色々と矯正の道を講じていたらしいが、直接的な介入は避けていた。しかし木下は、この総会で舎生が自治を実質的に拒否する姿勢を明らかにしたのを目の当たりにし、旧寄宿舎に自浄能力なしと判断したとみられる。同年12月15日、木下は旧寄宿舎の一時閉鎖を宣言し、12月29日までに退去するよう全舎生に命令した。一部の舎生はこれに反発し、閉鎖の不合理を訴えたり、木下と学生監を攻撃する演説をしたりした。そしてついには木下と石川一学生監(現在の学生担当副学長に当たる)の辞職勧告書を作成し、舎生数十名が連名し、木下らに手渡しに行った。舎生たちはこの期に及んでも組織だっておらず、まるで烏合の衆であり、強固な団結も覚悟もなく、一部の強硬な反対派に付和雷同していただけだった。辞職勧告書を突き付けられた木下らはこう答えたとされる。「(前略)学生いやしくも長上を弾劾する以上は必ずや真剣の覚悟ありて来りしなる可きにより当方に於ても同じく真剣を以て深く自ら省み考ふる処ある可きも万一自ら省みて不都合なしと信ずる場合には当方にも相当の決心あり。いやしくも勧告書を提出する以上は我去るか諸君去るかの何れかあるのみ。(後略)」 木下らの剣幕に怯んだ舎生たちは辞職勧告書を叩き付けることができず、返答の猶予を乞うて早々に退散してしまった[32][33]。「退学を賭けてまでやる馬鹿はいない」と、舎生たちはそれ以上の抵抗を諦め、期日までに旧寄宿舎を退去した[7]

旧寄宿舎の再開と、自治の始まり[編集]

1906年1月、木下総長は旧寄宿舎を再開し、新たな舎生を募集すると告示した。寄宿舎が「学生ノ研学修養上重要ナル一機関」であるためには、「規律アリ制裁アル一ノ切磋団体」を作らねばならず、その基礎を固めるためにも、今度は入舎希望者の中から学生監に相応しい者を選抜させるとした[7][33][34]。学生監は実際に入舎選考を行い、2月8日までに58名の新入舎生を入舎させた。なお、半数の29名は北田ら自彊会の会員が占めていた[34]。大学当局は自彊会に旧寄宿舎の運営を委託したという見方ができる。

新入舎生たちは木下の期待に応えようと意気込んでおり、2月10日の入舎式では一致団結して学風刷新を実行する旨を宣言した。舎生たちはまず、自治組織の整備に着手した。意思決定機関は「舎生総会」と「総代会」に定められた。舎生総会は定足数があり、多数決制だった。総代会は各部屋を代表する十数名の「総代」からなっていた。総代会は「専務総代」三名を互選して、日常の事務の執行に当たらせた。総代会は「共同生活を害するもの」に「相当の制裁」を加える権限も持っていた。専門部の園芸部も設けられた。舎生の募集は年中行い、入舎希望者の入舎の可否は、総代会の諮詢(しじゅん)を経て、学生監が決定することになった[7][33]

最初期の入舎選考のシステムは次のようなものであった。入舎希望者が入舎願を学生監に提出すると、学生監は総代会にその者を入舎させるべきか意見を求めた。総代会はその者の素行を周囲の人間に聞き回り、問題が無さそうなら直接面接し、入舎志望の動機や入舎後の決心と覚悟、学生生活等について質問をした。その結果、旧寄宿舎の理念に沿う人物と認められれば、学生監にその者を推薦し、学生監は総代会の推薦を理由に入舎を許可した。実質的には、舎生が入舎の可否を決定する仕組みであった。その理由は、入舎希望者の適性は、(寄宿舎に住んでいない)学生監よりも(実際に住んでいる)舎生の方がよく見極められるからだとされた。総代会は、舎生と主義主張が近く、なおかつ学風刷新に熱意を示した者は推薦し、主義主張の異なる者、熱意のない者は定員に余裕があるときでも推薦しなかった。入舎志望の動機を聞かれて「苦学生で、家賃の安さを求めて」と答えるような者は片端から落としたという。このことからも、当時の舎生たちは木下の新たな告示に従い、旧寄宿舎を福利厚生施設ではなく、京大生の模範の「切磋団体」にしようとしていたと分かる[7][33][32]

舎生たちは「切磋」のための交流活動も重視していた。舎内雑誌の回覧や茶話会、思想交換会を通じて意見を戦わせたり、松茸狩りや紅葉狩り、兎狩りを通じて親睦を深めたりした[32][33]。また、日常生活においても切磋の機会はあったようだ。旧寄宿舎では専門分野を異にする学生が一つ屋根の元親密に交流しているため、学生は他の学生から専門外の知識を吸収して学識を広げられる、と寄宿舎改革グループの外山は書いている[7]

再開直後の旧寄宿舎では集団主義(集団の秩序)を自治を発展させる美徳、個人主義(個人の自由)を自治を腐らせる悪徳とみなす価値観が広く共有されていた。この価値観は自彊会創設メンバーのものに他ならない。しかし再開から数年が経過し、舎生の顔ぶれが入れ替わると、個人主義を忌避することに疑問を呈する者も現れるようになった。1910年2月、舎生大山壽は「寄宿舎誌」第一号に「切磋団体問答」という文章を発表した。大山は「個人主義は個人中心主義であると同時に個人開発主義である」と定義し、「個人の開発あつて初めて団体の発展があり、個人を重し之を中心とする時に初めて団体に活気を生すると思ふ。個人主義は寧ろ奨励すべきもの、否な奨励する必要があると思ふ。吾が舎にして今個人主義の意義を明らかにしその上に基礎を立てなければ永久の発展は望み難いと思ふ」と個人の自由の尊重を訴えた[33]。1911年2月には舎生佐藤穏徳が「舎誌」で寄宿舎の理念をばっさりとこき下ろした。「当時の舎生が望んだ切磋、而して今の舎生が継承した切磋といふのは、誰もかれも一つ型にいれるといふのである。はまらない所は実際に切り去らうといふのである。余つた所はホントにけづり落すといふのである。如何なる舎生も剛健になれ、己に克て、そして国士になれといふのである。僕はドー考えても此切磋観には満足できない」佐藤は以後も茶話会で寄宿舎の理念を批判し続けた[33]

自彊会の衰退、以文会の発展[編集]

自彊会は最初の数年間、旧寄宿舎の「自治」を主導していた。しかし時間が経つにつれて現役舎生の自彊会会員は減少し、その影響力も必然的に弱まっていった。自彊会自体もやがて活動を停止した[34]

ただ、自彊会は舎外でも活発に活動しており、そこではかなり多くのことを達成した。たとえば、(それまではほとんどなかった)全学規模の講演会や遠足、茶話会、運動大会などの行事を積極的に開催し、学内の文化的活動の振興に一役かった。医科大学の親睦組織「芝蘭会」(現存)や、理工科大学の親睦組織「同帰会」の設立にも関与した。また、舎生で自彊会会員の土谷厳は1909年の「以文会」の設立を主導した。以文会は、分科大学横断的な知識の交換を目的とした京大初の全学的・文化的学生組織だった。以文会は数年後に「体育会」[注 9]と合併して「学友会」になり、1940年代には「同学会」に改組された[34]。同学会は戦後、全学学生自治会として機能し、1951年に綜合原爆展を主催した。京大天皇事件荒神橋事件にも関わった。なお、この同学会は、現在活動している「同学会中執」とは関係のない組織である。

寄宿舎移転問題[編集]

1911年6月29日、山本良吉学生監は突如、旧寄宿舎を1912年7月に閉舎すると発表した。旧寄宿舎は閉鎖後に解体、その部材は近衛地区に開舎予定の「新寄宿舎」に転用するという[32][7]

舎生は完全に不意を突かれた。京大当局は以前から旧寄宿舎を解体・再構成して新寄宿舎を建築する計画を進めていたのだが、学生監は舎生に「新旧両舎並立し互に切磋する可なり」と矛盾する説明をしていたからだった[35]。また移転の発表はほとんどの舎生が帰省している夏季休暇になされたため、舎生は寄宿舎移転が既成事実化した9月に旧寄宿舎に戻ってきてようやく事態に気が付いた[7]。舎生は大学当局に激しい不信感を抱き、学生監を問いただした。すると学生監は、移転は財政難が理由だと答えた。「新旧寄宿舎の並立は一年の経費をして余りに多額ならしめ本学の財政は之を許さず(後略)」しかし京大はそのとき、故木下広次初代総長の邸宅を移して、跡地に総長官舎を多額の費用を投じて建築しようとしていた。京大の「建築係」(山本治兵衛の可能性)も旧寄宿舎を新寄宿舎の材料にするのはかえって不経済であると言っていた[36]。舎生は財政難は本当の理由ではないと感じたが、京大から旧寄宿舎が一時的に消滅する事態だけは防ごうと、以下の三つの要求をした。一年間の閉舎中に仮寄宿舎を建設すること、仮寄宿舎が許されなければ舎生の結合保持のための補助を行うこと、さもなくば寄宿舎を二分して、逐次、新寄宿舎の棟を建設することで空白期間を防ぐこと。だが学生監は財政難と評議会の決定を理由に要求を拒絶、取りつく島もなかった[32][7]

寄宿舎の移転は三代目京大総長菊池大麓の意向だったといわれる。菊池は青少年の健全な育成に切磋琢磨が必要であることには同意していたが、少なくとも新寄宿舎は「切磋団体」である以前に、学生とくに優秀な学生の福利厚生施設にしたいと考えていた。寄宿舎が入舎選考権を持つことにも否定的だった[33][32]

12月15日、菊池総長は舎生と談話会を開き、概ね学生監と同じ説明をした。新旧寄宿舎の並立は財政上不可能である、新寄宿舎は特待生と旧寄宿舎舎生を優先的に入舎させる、ただし新寄宿舎は京大当局が直接監督し、(舎生が実質的な決定権を持つ)入舎選考も改める可能性がある、等々。しかし大方の舎生は、新寄宿舎が勉強ができる者なら無条件で入舎させることや、舎生を入舎選考から締め出す可能性が高いことに激しい嫌悪感を持った。舎生千秋二郎は従来の入舎選考を「此制度は実に完全なる自治制の根源なり」とし、「新舎の制度には絶対に容れられず」と書いた[7]。だが移転の阻止も不可能と判断されたため、舎生は舎生総会を開いて「寄宿舎舎生団体」を(京大当局に解散される前に)舎生自ら解散することを決議した。また、新寄宿舎には「高等下宿屋」以外の価値を見いだせないとして、旧寄宿舎と新寄宿舎の絶縁も決議した。舎生は精一杯怒りを堪えていたが、OBの中には「無能無智なる当局者」「クーデター」と直接的に京大当局を非難する者もいた[32]。舎生とOBは1912年2月10日に寄宿舎舎生団体の解散式を行った。式中、出席者らは悔し涙を流していたという[7]。やがて旧寄宿舎は解体され、1913年、その木材を使用して吉田寮現棟が建てられた[32]。寮食堂も現棟の西側に移築されたが、この事実は忘却され、寮食堂は一世紀もの間、1913年に新築されたと誤解されていた。

新寄宿舎(吉田寮)の開舎[編集]

1913年秋、新寄宿舎が竣工した。この寄宿舎は約500坪の敷地に木造2階建ての3棟(南寮・中寮・北寮)が並列し、平屋の管理棟(本館)につながる構造だった。各寮には「特別自習室」を兼ねた「病室」一部屋と、甲乙二種類の「舎生室」が約四十部屋あった。甲室は八畳または十畳の二人相部屋、乙室は六畳の一人部屋だった。(甲室の数は少なかった)部屋は全てが南向きで、風通しも良かった。管理棟には学生監室、事務室、会議室、医局、閲覧室、談話室、湯呑所、見張所、電話室があった。談話室には碁盤、集会所にはピアノ、オルガン、ピンポン等の娯楽用品が置かれていた。また、舎内には二つも売店があり、片方は飲食物(牛乳、「コヒー」、茶菓子、麺類、しるこ)を、もう片方は文房具を販売していた。付属建築物には食堂、賄所、洗面所、浴場、小使控所等があった。防火設備も完備されていた[37]。専属の守衛と事務員もいた。

新寄宿舎は非常に充実していたが、これは京大当局が新寄宿舎を、国家の将来を担うエリート学生のための高級アパートとして設計していたためだった。京大当局は「特待生」「一芸一技に秀でた者」など相応しい者を選抜、優先的に入舎させた[32]舟岡省吾[注 10]など旧寄宿舎の舎生十数名も、入舎が認められた[32]。新寄宿舎には1913年11月時点で117名の舎生がおり、そのうち1年生は54名、2年生は45名、3年生以上は18名だった。一方、旧寄宿舎組は十数名全員が3年生以上だった[38]。当時の寄宿舎には長幼の序があったから、旧寄宿舎組はごく自然に新寄宿舎の指導的立場に収まった[32][注 11]

開舎式から何か月も経たないうちに、新寄宿舎は旧寄宿舎のそれに似た自治組織を擁するに至った。意思決定機関として「総会」と総代会が設置された。総会には定足数があり、多数決制であった。総代会は各寮の各部(1部 - 4部)を代表する12名の総代からなった。また、各寮は二名ずつ「総務委員」を選出して「総務部」を組織、日常の事務の執行に当たらせた。専門部の園芸部、衛生部も作られた[39]1917年時点で、総務部、会計部、衛生部、談話部、遠足部、庭球部、雑誌部、園芸部、購買部が専門部として存在していた[40]

山本学生監は自ら入舎希望者と面接し、入舎選考に舎生を関与させなかったが、舎生は入舎選考権の再獲得を将来的な目標とし、寄宿舎自治の拡充に取り組んだ[32]。そして1918年、山本が学習院教授に転任すると、舎生は新任の学生監を説得し、入舎選考に舎生を関与させることを認めてもらった。舎生(総務委員)三名と学生監が入舎希望者と面接し、投票で入舎の可否を決するというものだった。舎生は一人一票、学生監は二票を持った。選考の方式には幾度か変更が加えられたが、寄宿舎と京大当局の共同入選は1965年頃まで続けられた[32][7]

沢柳事件[編集]

京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に、教授の任免を教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長を中心に結束し、「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳総長に反旗を翻した。澤柳総長と法科の対立は徐々に激化し、翌1914年1月15日、法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言する事態に発展した[41]

築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動に巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数の六十名弱は法科に所属していたからである。教官を失いそうになった法科学生は直ちに行動を開始した。同15日、法科学生は臨時の学生大会を開催し、最初に32名の委員を選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった。続いて「吾人京都法科大学々生は誓て教官の留任を期す」こと、委員11名を東京に派遣することを決議した。上京委員は東京行の汽車に飛び乗り、翌16日午後には東京新橋に降り立った。一方、京都残留委員は新寄宿舎の会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点に運動をした。舎生の半数が事件の当事者だったこと、(当時にしては珍しく)電話が通じていたことが理由と考えられる。17日、上京委員は早速、澤柳総長と奥田義人文部大臣を訪ねて、意見交換や陳情を行った。京都残留委員は第一回学生大会の決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問の独立の為に、誓て教官の留任を期す」に修正する案を次回の学生大会に附すと決め、委員2名を東京に追加派遣した。18日、上京委員は「本事件の解決は必ずや名士の仲介によるべき」と予想し、学会の名士といわれる人々を訪ね、仲介を要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会が叶わないのは悩みどころであった。19日、上京委員はこの日、元文相で前総長の菊池大麓と、元文相の濱尾新を訪ね、菊池には面会を拒否されたものの、濱尾との面会はかない、充分に思うところを述べることができた。一方、京都では二回目の学生大会が開催され、決議文の修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞が法科を糾弾し、有識者が京大法科の廃止や東大法科との合併を主張するなどしており、法科学生はひどく気分を悪くした。20日、三回目の学生大会が開催され、以下の決議文が採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官の主張にして容れられざらんか、誓て教官各位と進退を共にせんことを期す」情勢を変えるための博打であった。21日、上京委員は法学者の岡松参太郎を訪ねた。本来、法学者の富井政章を訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方、法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し、不退転の決意を固めた。また奥田文相と再度の会見をするため、三名の委員が宣言書を携えて上京することとなった。22日、上京委員は三名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し、宣言書を手渡して学生の決心が固いことを伝えることに成功した。委員らは相当な手応えを感じたようだ。同日には富井政章と、同じく法学者の穂積重遠が仲介に乗り出してくれるという嬉しいニュースも入ってきた。委員らは予想の的中を喜び、以後の運動を停止し、状況を静観することとした。そして23日、奥田文相は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科が主張する)教授会自治を認め、連帯辞職・退学は未然に回避された。28日、最後の学生大会が開かれ、経緯と会計の報告が行われた。辞職を撤回した教官たちの姿もあった。事件の円満解決に一同嬉々としており、仁保学長の挨拶の後、全員で法科大学万歳を三唱した[42]。奥田文相に梯子を外された澤柳総長は同年四月に辞任、京大を去った。この事件を機に、京大を含む、国内の大学の自治と学問の自由は大きく前進したとされる。京大では総長の学内選出も行われるようになった。

ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度、手書きの舎内雑誌を作成していたが、1914年1月には「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島の大正噴火と沢柳事件についての記事や落書きなどが多数収録されている。

スペインかぜ集団感染[編集]

1918年から1920年にかけて、強毒性インフルエンザスペインかぜが大流行し(パンデミック)、全世界で少なくとも五億人が感染し、五千万人から一億人が死亡した。京大寄宿舎(吉田寮)は来客の寮内宿泊の禁止や寮内消毒、公衆衛生の勉強会などで寮内での流行を食い止めようとした[43]が、1918年11月に寮内で患者が発生し、間もなく寮生の半数の62名が発症する集団感染に発展した。衛生部は臨時委員を増員して事態に対処した[44]。高い死亡率にもかかわらず、寮生に死者はなかったようだ。旧制三高初代校長・折田彦市はこの病気で命を落とした。

京都学連事件[編集]

1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連は瞬く間に会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行った。これに対して、マルクス主義者や共産主義者を敵視する警察は、学連の弾圧と粛清を目論んだ[45][注 12]

1925年11月5日、同志社大学構内の掲示板に、発売頒布禁止処分を受けた団体の反戦ビラが貼られているのを警察官が見つけた。これを好機とみた京都府警察部特高課は同年12月1日、京大と同志社の社研の中核メンバー36名を出版法違反の疑いで検束し、自宅や下宿の家宅捜索を行った。京大社研の熊谷孝雄(経済学部二年)と逸見重雄(経済学部三年)が舎生だったため、京大寄宿舎にも捜査が入った。しかし京大寄宿舎での家宅捜索は大学当局への通告なしに、本人不在、立会人不在で実施された違法捜査だった。また、京大社研のメンバーの一人が拷問で全治三ヶ月の怪我を負ったことも判明し[46]、学内では警察を非難する声が高まった。京大当局は京都府知事と検事正に抗議し、12月7日までに検束された学生全員が釈放された。

容疑を裏付ける証拠も見つからないまま捜査は停滞し、事件はこのまま終息するかに見えた。だが司法省を中心に捜査が立て直され、翌1926年1月15日以降、各府県警察部特高課が報道を差し止めた上で、全国的に社研会員の検挙を行った。4月16日までに逸見と熊谷を含む38名が検挙され、治安維持法第二条(協議罪)および出版法違反・不敬罪で起訴された。1927年5月の第1審判決では出版法違反および不敬罪については免訴となったが、治安維持法違反で4名の禁固1年を筆頭に37名が有罪となった。

逸見は第一審で禁錮8カ月執行猶予2年を言い渡され、控訴審で無罪となった[47]。熊谷は第一審で禁錮8ヶ月を言い渡されて控訴したが、審理中に三・一五事件で再び検挙され、両事件併せて懲役6年の刑が確定した。熊谷は出所後、河上肇転向したという記事を読み、悲嘆して自殺した[48]

京都学連事件は日本内地で治安維持法による検挙が行われた最初の事例になった。この事件以降、政府は学生の社会科学研究を禁止するなど教育や研究の統制を強め、学問の自由や大学の自治は徐々に衰退していった。

寄宿舎自治も同様に弾圧された。1933年滝川事件が起こった。1934年1月、「学生が学校行政に干渉することになると某方面より文句が出た」として厚生課が寄宿舎規定に干渉した[40]。12月、舎生が左翼運動に関して川端署に査問された[40]1937年11月、舎誌発行に際して警察の干渉を受けた[40]1940年、「赤化分子潜入防止」に関して学生部長に警告され、寄宿舎は舎内における思想または政治に関する会合を一切禁止した[40]

自炊制度[編集]

開舎以来、京大寄宿舎は寮食堂の運営を外部の賄業者に委託していたが、トラブルが少なくなく、何度か業者の変更を余儀なくされていた。1930年、寄宿舎は業者への委託を中止し、自ら炊フを雇用して食堂を経営する「自炊制度」の導入を決定した。炊フによる食料の横流し(1954年)[49]や集団食中毒(1958年)[50]など自炊制度もトラブルと無縁ではなかったが、自治精神の涵養には大いに役立った[51]

自炊制度が導入された1930年には「自炊制度記念祭」が開かれた。総長、学生監、教授らも招いて、舎生による仮装や演劇が披露された[51]。自炊制度記念祭は「吉田寮祭」に名前を変え、現在まで続いている。1930年以前の京都帝国大学にはと名のつく行事は無かったことから「吉田寮祭は京大最古の祭りである」と主張する者がいる[52]

寄宿舎廃止論[編集]

1935年、京大寄宿舎の敷地の管轄が旧制三高に移ったことをきっかけに、寄宿舎の廃止が大学内で議論されるようになった。一部の学生にお金を費やすべきではないこと、昨今の寄宿舎は風紀の乱れが著しいことが主張の根拠であった。危機感を持った寄宿舎は寮歌を制定してイメージアップを図るとともに、OB会の「舎友会」を結成して寄宿舎の支持基盤を強化した。1937年日中戦争勃発の影響で廃止論は有耶無耶になった[51]

中寮焼失[編集]

1941年3月8日午後6時50分頃。中寮2階27号室の住人が電気ストーブをつけっぱなしにして外出したところ、火災が発生した。火災に気づいた舎生は中寮二階に集合し、総務(北寮・中寮・南寮の代表者)指揮のもと、寮内設備の消火栓で消火を試みた。しかし水圧が不足していたのか放水の威力ははなはだ弱かった。消火に手間取っているうちに炎は天井から屋根裏部屋に燃え移り、西に延焼していった。火災は午後7時50分頃に下火となり、午後9時50分頃までに完全に鎮火した。中寮四十室のうち五室が全焼し、十七室が半焼、十四室が水浸し、残る四室も破壊された。備品や私物も数多く失われた。中寮全体が居住不能になり、中寮寮生は南寮と北寮に移住した。死者はなく、寮生二名と健康相談所の用務員が消火作業中に軽傷を負った[53]。中寮は翌1942年に再建された。その際には部屋の間取りが変更され、中寮は以前よりやや短くなった。

戦争前夜[編集]

1937年、日中戦争が勃発し、翌1938年国家総動員法が制定された。日本全体が戦時体制へと移行していく中で、京大寄宿舎も戦争と無縁ではいられなかった。

戦争の影響は、まず食事にあらわれた。1941年4月まで舎生一人一日あたり4.5の米が割り当てられていた。だが4月に配給が減り、食事は一日平均3合になった。そこで舎生有志が南寮の庭などを開墾し、さつまいもじゃがいもなどの栽培を始めた[54]。舎生はこの畑を「寄宿舎農園」、農作業を「アルバイト」と呼んだ。

寄宿舎自治も抑圧された。寄宿舎は開舎以来、舎生全員で議論し議決する直接民主制の「舎生総会」(今日の「総会」「寮生大会」)で意思決定を行ってきた。しかし大学の学生課は「舎生の集合」を「衆愚」とみなして、1941年6月、舎生規約を改正して舎生総会を廃止するよう寄宿舎に強く要求した。寄宿舎自ら舎生規約を改正しないならば、学生課で勝手に改正するという[55]。学生課と交渉したある総務委員は「その余りに学生の人格を無視しているのに驚いた。あれが学生を指導する学生課の態度なのであろうか。あの様な学生課の考えでは、我々はとても良心的な責任ある舎生規約を作ろうという熱意が湧かない」と怒りを露にしたが、「しかし徒に日を延ばしていると、学生課の方で原案を揃えてこちらにつきつけてくるかもしれない。その場合、寄宿舎の自治というものがなくなるのではないか」と懸念した[56]。規約改正を巡る議論は荒れに荒れたものの[57]、総務と規約改正委員会は舎生総会を廃止して総務委員を補佐する「寮務委員会」を代わりに組織する方針でまとまっていった[58]。この方針について学生課は「舎生総会を無くしたらどれでも宜しい」という顔で、大体賛成した[59]。同年9月30日、舎生たちは最後の舎生総会を開き、舎生総会の廃止を含む舎生規約の改正案を可決した[60]。同じ時期、北海道帝国大学恵迪寮でも大学当局の寮自治への介入が見られたという[61]

10月4日には学生課の要請で「寄宿舎報国隊」が結成された。寄宿舎報国隊は舎生を軍隊風に統率することを目的とした民間防衛組織で、非常時の消火や訓練を担当した。隊長は総務委員が兼務した[62]。同月には学徒出陣のために大学生と専門学校生の修業年限が三ヶ月短縮された。

10月、防空訓練が本格化し、舎生は窓に暗幕をかけ、電灯に「防空燈」と称されるカバーを取り付けて空襲に備えた[63]

このころ、集団主義や全体主義を礼賛し、個人主義や自由主義を痛罵する価値観が舎内で幅をきかせていた。「舎生ヲ代表シ、舎内ヲ総理スル」役職の総務委員もこうした価値観を好んだ。昭和16年前期総務委員の一人は、農作物の栽培に協力する寮生が少ないことについて、「徒に舎に強制力無きを歎(たん)ぜしむる。全体主義の叫ばれる今日、舎生の行動は依然として自由本位である。このアルバイトの如きも本人の随意参加でなく、もう少し強制力を持たせたいものだ」「この事にかぎらず舎生の中には相当利己主義の人もいる様だ。こういう人は舎に入れて決して矯正できるものでなく、従って舎としてはこの様な人の入舎を避けねば到底舎生意識の昂揚云々と言った所で始まらないと思う(後略)」(総務日誌1941年9月20日)[64]と書いた。また16年後期総務委員の一人は、総務就任の決意表明で「(前略)利己的な独善主義こそ癌なのだ。自分独りで生活しているんだと云はぬばかり面をしている連中、そう云った連中を根本的に矯正してやらねばならぬ。独りよがりの利己主義は現在のみならず過去に於ても間違って居たのだ」(総務日誌1941年11月1日)[65]と主張した。

太平洋戦争前期[編集]

1941年12月8日、日本は英米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。

12月10日、16年後期総務は次の掲示を出した。「檄!今や帝国の存亡を賭する一大決戦の秋は来れり。吾等の万世不易大日本帝国に生を享く光栄之に過ぐるものなし。顧るに英米諸国、東亜を目して植民地と做し、黄色民族を搾取して奴隷化せんとすること久し。帝国今や同胞の蝕まるるを黙認する能はず。敢然矛を取りて之に報ゆ。力なき正義は無能なり。正義なき力は暴逆なり。而して我が力は正義の力なり。吾等深く恩を肇国(ちょうこく)の国是に到し、帝国の使命の広く世界史的且つ人類的なるを稽(かんが)へ、刻苦勉励、不撓(ふとう)不屈、愈々(いよいよ)結束を固むると共に、帝国大学寄宿舎学生たるの本文を全くせんことを期す。総務。」[66]

この頃、大学当局の要請で、舎生が京大生を代表して戦意高揚のための行事に出席することがしばしばあった。1941年12月16日、京都御所で開かれた米英撃滅国民大会には舎生多数が「本学代表」として出席した[67]。また、1942年4月19日の「学生銃剣道大会」にも舎生数名が「本学代表」として参加した[68]

1942年4月18日。その日は土曜日で天気も良かったので、舎生の多くはハイキングに出かけていた。午後一時、警戒警報が発令され、午後二時半には空襲警報に更新された。寄宿舎に残っていた舎生は廊下と庭の消火栓にホースをつないで焼夷弾の落下に備えたが、内心では「今般もさして近くはあるまい」と誤報を疑っていた。しかしこのときアメリカ軍機による史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)が進行中であった。真相を知った総務委員は驚いたが、「一機二機では問題にならない」「敵も大分無理をするなと感心する」などど強がった。空襲警報は中々解除されず、舎生は半数ずつ交代で食事をとり、日没とともに灯火管制を実施した。午後七時半、空襲警報は解除され、舎生は胸をなでおろした[69]

5月1日、16年後期総務が退任し、17年前期総務が就任した。前期総務は寄宿舎を「戦時下学生団体」と定義し、総務就任の決意表明では「全体の動向、即ち国家の要請に対しては何処迄も応じなくてはならぬ」「吾々は誠心誠意を以って舎の為に、否、国家の為に盡(つく)す覚悟である」「吾々は單(たん)なる個人ではない。国家の個人であり臣民である」と述べ、個を捨てて全体のために奉仕することを舎生に要求した[70]。彼らは新入舎生の選考や舎友会(OB会)の発会、中寮の再建など困難な仕事に精力的に取り組んだものの、その反面、大学当局の言いなりになったり、他の舎生に監視者の如く高圧的に接する側面もあった[71]。また、一部の舎生を「駆除」すべき「癌的存在たる不良分子」呼ばわりし、舎生規約の条文を利用して「相応に処理」できないか検討していたようだ。だが何らかの事情により就任二ヶ月後に全員辞任し[72]、後任の中期総務(岩猿敏生他二名)は前期総務を批判した。

「(前略)総務の権限云々が大きな問題になってゐる。実際、何かを上に立ってやらんと思へば、何等かの力なくしては何もなし得ない事は当然である。しかし此の力は唯舎生に対する重圧のみであってはならない。本寄宿舎は唯一の帝大寄宿舎なりと言ふ真の自覚に全寮生が到達する時、そして寮に対して責任ある行動をとる時、寮の進展力として総務の権限、力が生ずるのである。総務の権限は唯条文で決めただけでは舎生に対する重圧のみなるおそれあり。総務の仕事が本当によく履行されて行く為には全舎生の協力が必要であり、此の協力ある時、総務の権限も真に生かされてくる。総務と舎生との間が監視者と被監視者と言ふが如き対立的なものであってはならない。総務の権限は舎生が盛り立ててくれなければならない。大学生の寄宿舎の運営は政府と国民との間の如き関係では直に考へられないであらう(後略)」[73]

17年中期総務以降、総務は舎生の意志を尊重し、抑制的に権力を行使する傾向が強まった。

「(前略)寮そのもののあり方を上に立つ総務たるものがよくよく考え反省を致し、寮生の絶えざる全体への努力、愛寮心によって、益々寄宿舎を発展さすことに務めなければならない。然し、大学寄宿舎の総務は高等学校の総務と同じではない。相手は大学生である。決して自己の理想、意欲通りに皆を引っ張っていくといふことは出来ない。総務は緩衝地帯であると云ってもよい。要は盛り上がる寮生の力を如何に指導統制して行くかに重要な点が存すると思う。(後略)」(17年後期総務)[74]

「人を統率する事に関し、統率者が一個の意志で指導する事は難儀の様で、いとも易しい。下より盛り上る力を巧みに誘導し、且つ利用して行く事は易しい様で難なる事と思ふ。まして総務は三人、此の三人間の意気投合が先ず第一に必要である。而して一般舎生との意思疎通が大切である。之にももっと班委員を動かして、寮に対する舎生の熱をたかめて欲しいのである。上よりする力は強いようで弱く、反対に下よりする力は強大なるものと思ふ(後略)」(18年後期総務)[75]

太平洋戦争後期[編集]

1942年10月15日、中寮の舎生中尾勁三が日誌[76]に以下の文章を書いた。(戦中戦後の中寮には寮生がローテーションで日誌を書く文化があった)

「最近頻(しき)りにアメリカの天文学的数字の生産計画が報ぜられ、現に十月十三日の大朝にはその計画が着々と実行にうつされつつあることを大々的に報じている。諸君は之を如何に感ぜられましたか。(中略)事実それほどアメリカの生産力は大きいのです。『我に精神力有り』と口先だけで空元気を出してみても心の奥底では何かしら寂しさを覚えます。精神力は自ずから限度がある。同一の精密さの同一の武器を持って立った場合には一人の大和魂を持った兵士は三人の米兵に対することはできるだろうが、然らざる場合には如何に大和魂といへども打ち勝つことは出来ない。(後略)」

中尾の予想は的中し、日本は物量に勝るアメリカに歯が立たず転進と玉砕を繰り返した。戦況はますます悪化し、学徒出陣が本格化した。法学部、文学部、経済学部の舎生はほぼ全員が出征し、何人かは戦死した。召集令状がまだ来ていない舎生も食料難に苦しみ、栄養失調で病気になる者が少なくなかった。1944年6月に炊事部が分析したところ、舎生の一日の摂取カロリーは約1600kcalだった[77]。食料を確保するため、舎生一同「寄宿舎農園」の拡張に取り組み、1944年10月までに160(600kg)の収穫物を得た[78]

学徒出陣や生活レベルの低下は「寮内空気の無味乾燥」や「舎生の質の低下」をもたらした[79]。とりわけ頻発する盗難は深刻な問題だった。総務委員は「非常に寄宿舎の内容に通じてゐる人」が犯人だと思ったが、「舎生が犯人であるとは絶対に考えられざる所である」と潔白を信じた[80]

敗戦[編集]

太平洋戦争末期、空襲警報や警戒警報は日常的な出来事と化していた。舎生は中庭に防空壕を掘り、空襲警報が鳴るたびに逃げ込んだ。1944年12月、舎生は京都上空を通過するB-29の編隊を目撃したが、高射砲の音はなく、味方の戦闘機も見えなかった[81]。戦況はすでに絶望的であった。1945年硫黄島守備隊が玉砕し、沖縄が失陥し、主要都市は空襲に見舞われ、広島長崎原爆で灰燼に帰した。

そして8月15日の早朝、ある舎生が爆弾が落下する音を聞いて「すは原子爆弾か」と舎外に飛び出したところ、ポンポンと花火のような破裂音がして、空から宣伝ビラが降ってきた。そのビラには「本日は爆弾投下に来たのでは無い」「帝国政府がポツダム宣言を受託すべく交渉中であり、又連合国は天皇陛下を尊重する」「日本を亡ぼすのは軍閥なり」などと記されていた。憲兵隊が調べに来るかも知れないので、舎生たちは敷地に落ちたビラを拾い集めた。すると午後十時頃、正午に重大放送がある事がわかった[82]

「何か胸騒ぎがした。ラジオは雑音の為、はっきりわからなかった。然し、今まで玉音は電波に乗せない事になってゐるのに陛下の御放送だといふので重大事だとは思った。然し、正直な所、国民に対する御激励の御放送であろうといふ予想が私の心中の七分を占め、残る三分が今朝の宣伝ビラと思い合わせて胸さはぎした。然し、胸さはぎの方があたったのだ。事実は事実なのだ。ラヂオはそう伝へたのだ。信じられなくても耳がさう聞いたのだ。次第に自分に帰った時、涙がにじみ出、流れ出して来た。あの勇ましい開戦の日の軍艦マーチ敵は幾万ありとても、学徒出陣の日の絵の如き分列式。サイパン、沖縄、B29、原子爆弾、グルグルと、頭の中でうずまゐている。一体、俺は何処に居るんだといふような気持ちがする」(昭和二十年前期総務)[83]

しかし何時までも茫然としていてもどうにもならないので、総務は玄関に以下の掲示を出した。「我等の生きるべき道は将来にありと信ず。血気にはやり、軽挙妄動をなさざる事、絶対に舎を離れざる事。総務」

敗戦直後、大半の舎生の関心事は「何故、戦いに負けたか」などではなく「敗戦国の民はどういう目に会ふか」「自分がどうかるか」という事だった。「京都に居ると生命があぶない」「敵軍が来たら大学生など先ず狙はれる」「殺されないにしても、強制労働位はやらされるだろう」等の悲観的な憶測が舎内で広がった。市中に横行するデマはさらにひどかった。恐怖にかられた舎生たちは舎内書類の一部を燃やしたり埋めたりした[84]。なお、京都に進駐した占領軍は寄宿舎裏の楽友会館を接収して米軍クラブ(慰安施設)に改装したが、舎生に危害は加えなかったようだ。

戦後混乱期[編集]

9月、食糧難により、舎生は畑の芋の葉や蔓を食べて飢えを凌いだ[40]。9月22日の夜、中寮のある部屋に泥棒が侵入し、舎生総出でその者を追跡して捕獲する事件があった。泥棒の正体は、食料を盗みに入った同じ舎生であった。総務委員は処分を検討したが、何人かの舎生が「彼の更生に責任を持つ」と名乗り出たため在舎を許すことにした[85]。一方、事の顛末を知った大学当局は、舎生の対応に「同情と敬意」を表したものの、穏便な措置は悪い先例になりかねないので(表向きは)自主的に退舎させたほうがよいと意見した[86]。その後の経過は不明。しかし泥棒は他にもいたらしく、10月に舎生の腕時計が[87]、12月に舎内労働者の布団が盗まれる被害があった[88]

9月、大学当局は寄宿舎に相部屋の導入を持ちかけた[89]。復学する元学徒兵を可能な限り収容するためであった。寄宿舎は相部屋への抵抗感から提案を断り、代わりに入舎選衝では復学者を最優先で入舎させたようだ。寄宿舎が「一室二人制」を導入して相部屋になるのは、下宿不足が慢性化した1953年に入ってからである[40][90][91][40]

建設的な動きもあった。日本政府による言論統制が弱まり、戦前戦中の秘密主義特攻拷問私刑等について舎生が見聞きする機会が増えた[92]。一部の舎生は旧体制への失望を深めるとともに、新体制と新体制が根拠とする思想に関心を持ちはじめた。

1946年1月1日、昭和天皇詔書を発布し、自分自身が現人神であることを否定した。いわゆる人間宣言である[93]。4日、大学当局者が寄宿舎を訪れ、「コロンビヤ大学」の「ヘンダーソン教授」が「学生より進駐軍への希望」に関する会合に学生を出席させたいと言っている、と会合への出席者を募集した[94]。5日、総務委員ら舎生3名は大学当局者とミヤコホテルに向かい、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民間情報教育局(CIE)顧問ハロルド・ヘンダーソンと会合した[95]。舎生には知る由もなかったが、ヘンダーソンは人間宣言を起草した人物であった。ヘンダーソンは私的な意見と断った上で次のように述べた[96]

「戦争はもうしたくない。その為には日本にデモクラシーを作って貰ふ。しかし、米のデモクラシーをそのまま日本に強ひるとすれば、それは既にデモクラシーではない。デモクラシーは日本自身により作らねばならぬ。その為にはアメリカのデモクラシーも見よ。スイスのそれも見よ。イギリスのそれも見よ、そして日本自身のよさを生かして日本のデモクラシーを作れ。又思想にしても、あらゆる思想をとり入れ、一つに偏するな。デモクラシーの前には過激なる危険思想は流されてしまふであらう」[97]

「(前略)デモクラシーとはやって見る事だ。失策を恐れるな。失策をすればそれだけ賢明になる、失策をしないといふ事は何もしないといふ事である。いくら他の事実を知っても日本のデモクラシーは出来ぬ。自らやってみて始めて何処が難しいか、何処が大切なのかが判る」[98]

「日本人は世界のよき市民とならねばならぬ。そして一国のよき市民ともならねばならぬ。更にその地方のよき市民とならねばならぬ。学生はまづその地方に働きかけよ、そして、work hard! work hard!」[99]

出席した総務はヘンダーソンの主張に感銘を受け、会合自体も成功裏に終わった。一方、同月22日には舎内で「マルクスの経済学序説」序文の読書会が開かれた[100]。舎内での政治的思想的会合が禁止されていた戦中には見られなかった光景であった。

切磋団体から厚生施設へ[編集]

戦前戦中、寄宿舎は切磋琢磨の意識を持つ入舎希望者を優先的に入舎させていた。しかし1947年、日本共産党系の舎生が総務委員に就任し、左翼的思想を持つ入舎希望者を依怙贔屓した。守旧派の総務委員は「総務の主観により選考を行うな」と反発したが、そういう彼らも出身高校の後輩を依怙贔屓していた。総務同士で牽制し合った結果、入舎選衝では切磋琢磨でも左翼的思想でもなく、経済事情を重視する傾向が強まり[29]、寄宿舎は研学修養のための切磋団体から貧困学生のための厚生施設へと変わっていった。1948年12月、舎生たちは舎生規約に記されていた寮自治の目的を「木下総長の告示[注 13]に基いて責任ある自治を営む」から「本寄宿舎は責任ある生活を営み、舎生相互の人格向上を図ることを期する」に書き換え、方針転換を一層明確にした[101]1950年、理学部二回生の赤崎勇という学生が寄宿舎に入舎を希望した。赤崎はそれまで他の下宿に住んでいたが、経済的に困窮しており、大家から下宿料を請求されないほどだった[注 14]。はたして寄宿舎は入舎を許可し、赤崎は三年間を寄宿舎で過ごした。卒業後は半導体の結晶成長と光電子素子開発に携わり、1989年高輝度青色発光ダイオードを発明、2014年ノーベル物理学賞を受賞した[102]

赤崎は当時の吉田寮について次のように回想している。

「吉田寮は建物こそ古かったけれども、非常に立派な寮でした。当時は個室で部屋は廊下より一段高くなっていて、非常にいい雰囲気でしたね。私はクラッシックが好きなのですが、レコード室があったりクラッシックレコードを聴く部屋もあって存分に聴けました。ほかに茶室があったり、また各種の新聞を取り寄せてくれていて、ちょうど図書館のような役割をしていました。当時は守衛さんが2人いました。北、中、南寮三つあって、中寮に住んでいました。何号室か向こうに心友がいると夜まで話し込んでいても1分で自分の部屋に帰れる。事務室に事務員の方が3人ほどいて、サポートしてくれていました」[103]

「よく寮の友達と一緒に桂離宮とか修学院離宮に行きました。当時、普通なら誰も行けなかったんですが、建築学の先生が紹介してくださったお陰でそういう所へ行けたり、あるいはみんなで比叡山を越えて琵琶湖へ渡ったり、いろんなことをしていました。勉強の面で特にプラスになったことはないかもしれませんけれど」[104]

楽友会館返還運動[編集]

楽友会館1945年10月以降、進駐軍兵士の慰安施設(将校クラブ)として運営されていたが[105]、その騒音は舎生の悩みのタネだった[106]1951年9月、寄宿舎は舎生大会を開いて楽友会館の即時返還要求を決議し[107]、署名1000筆を集め、大学、同学会、進駐軍にも働きかけた[29]。楽友会館は翌1952年に返還され[108]、寄宿舎が一部運営した[109]。1941年に廃止された舎生総会は戦後、舎生大会(寮生大会)として復活した。

荒神橋事件と退寮処分問題[編集]

1945年9月、文部省は学校報国団を解体して戦前の校友会組織へ再編するよう各大学に指示し、京都大学は学校報国団組織「同学会」を学生主体の組織に改組した[110]。新たな同学会は京都大学における学生運動の中心となり、レッドパージ朝鮮戦争、講和問題、学費の値上げなどの問題を背景に大学当局との対立を深めた。

1951年、同学会は京大天皇事件の責任を問われて解散させられ、1953年に再建された。同年9月、同学会委員長が全学連委員長に就任すると、全学連は「アメリカ占領下で破壊された学園の復興闘争を進める」目的で「全日本学園復興会議」を11月に京都大学、立命館大学同志社大学で開催することを決定した[111][112]。しかし京大では、会場に予定されていた法経一番教室の使用を服部峻治郎総長が認めず、抗議する学生を警官隊を導入して排除し負傷者40名を出したため、始まる前から極めて険悪な雰囲気が漂っていた。11月8日、全日本学園復興会議の第1日目が同志社大学明徳館にて開催され、全国から相当数の学生が集まった。寮文科会では寮自治や生活の問題等が討論され、全国寮連合結成準備会が発足した。第4日目の11月11日、立命館大学に戦没学生祈念のためのわだつみ像(本郷新製作)が到着し、立命大生を中心とする歓迎デモ隊が市中を行進していた。一方、京大では、150名の学生が法経一番教室に関する集会を時計台の下で行っていたが、学園復興会議の集会に合流するため[注 15]京大を出発した。学生は近衛通を西に出て、鴨川に架けられた荒神橋を経て河原町通に抜けようとした。しかし4時45分、学生の先頭が橋の中央をわたった時、京都市警察の警官約20名が学生の隊列を不法デモとみなして実力で阻止しにかかった。警官隊と学生は橋の上でもみ合いになり、老朽化した木製欄干にもたれかかった途端、10メートル余りにわたり欄干が壊れて10数名が約5メートル下の河原に転落、重軽傷を負った。残りの学生は立命館大に一旦向かい、学園復興会議の参加者と合流したのち市警本部に抗議に行ったが、約200名の警官隊に強制排除され、警棒で殴打されて70名が重軽傷を負った[113]。少なくない負傷者が寄宿舎に逃げ込み、舎生は警察の手入れを警戒して徹夜で守りを固めた[114]。服部総長は大勢の学生が負傷したことには一切言及せず[115][116]、12月1日に学園復興会議の会場問題に関して同学会総務部中央執行委員の松浦玲を放学、他の五学生を無期停学等の処分に付すと[117]、健康上の理由で辞任した[注 16]

そして松浦は寄宿舎の舎生であった。舎生有志は直ちに会合し、各学部・ゼミ・教室で反対運動を各自立ち上げること、ビラその他の手段で全学全市民に訴えること等を申し合わせた。6日には舎生大会が開かれ、六学生の処分の撤回を要求すること、松浦を引き続き在舎させること、全学ストを呼びかけること、「斗争委員会」を結成することが決議された。「処分撤回斗争」は全学に拡大し、宇治、吉田分校、文学部国史学科、理・経・法・農・文・医の各学部が無期限ストに入った。12日には全学学生大会が開かれ、スト体制を強化し処分撤回まで戦うことが決議された。新任の瀧川幸辰総長は、評議会に処分再審査を提案すること、放学者が復学した前例(詳細不明)を考慮すること、ストライキの実行者を処分しないこと[注 17]を同学会に確約し、同学会は16日にストを中止した[118]。だが松浦の放学処分は覆らず、復学もできなかった。翌1954年、厚生課長は寄宿舎に学籍のない松浦を退舎させるよう圧力をかけはじめた。寄宿舎は大学当局の要求を最初拒否していたものの、瀧川総長が「松浦を出さない様な寮の公募掲示は認めず、又そのような寮は不必要である」として寄宿舎入舎希望者の公募掲示を拒否したため、4月11日、やむを得ず舎生大会を開いて松浦の退舎を決議した。一方、次の事項も決議された。「我々は今後寮自治を守り、今回の如き卑劣な態度に大学当局が再び出ないことを大学当局に申し出る。我々は止むを得ず今回の松浦君の退寮を認めたのであつて、六学生の処分撤回にあらゆる方法で努力する。このため斗争委員会を強化する。そして我々は学内民主化のために戦う」[119]。その後、寄宿舎は松浦が大学を相手取って起こした処分撤回を求める行政訴訟を支援し、ある舎生が松浦を「外来者」として長期宿泊させることを黙認した。だが1955年、松浦は裁判中に自身の住所を問われて「吉田京大寄宿舎」と答え、松浦の宿泊は大学当局の知るところとなった。11月、厚生課長は寄宿舎に対して、松浦を宿泊させた舎生を退舎させ、外来者の長期宿泊は厚生課長の許可を必要とするよう舎内規則「実行箇条」を変更するよう迫った。抵抗して自治権を剥奪されるのを恐れた寄宿舎は大学当局に屈服し、当該寮生の「自発的退舎」と実行箇条の変更を決定した[120]。従来、舎生の退舎と外来者の宿泊の許可は総務委員の権限であったので、多くの舎生はこの出来事を寄宿舎自治の後退と捉えた[101]

(昭和中期に存在した)寮史編さん委員会は一連の事件について次の感想を残した。

「総務日誌を読んでいる内に気づいたことは、寮の自治というものは、外部から圧力が加わって初めて、擁護だ、獲得だとあわてていたのでは、守り切れるものではない。常に圧力を予想し、将来起り得ることを正しくつかんで、がつちりと固めなければならないということである。現在の寄宿舎規定に関しても、徹底的に斗ってゆかなければ、必ず二十八~三十年と同じ失敗を繰り返すだろう。寮の自治を、自分達自身のものとして、真剣に考える時だと思う」[121]

自治憲章と寄宿舎規定[編集]

退寮処分問題は入退舎の権利の重要性と寮内規則の整備の必要性を寮生に強く意識させた。1955年12月、寄宿舎は四十年続いてきた「舎生規約」を「自治憲章」に名称を変更し、慣習に則っていた寄宿舎の運用を明文化する改正を行った。厚生課長に「自治憲章を公表すると総長を刺激する」と要望されたため、寄宿舎はしばらく自治憲章を舎内の申し合わせ事項として扱った。一方、大学当局は学生寮の管理運営規定の制定の必要性を感じていた。1959年1月、厚生課は寄宿舎に「寄宿舎規定案」を示したが、その中には寄宿舎の運営実態や自治憲章に相反する内容が盛り込まれていた。例えば「学生部長は入舎希望者に対して選考を行う」とあるが、寄宿舎は1918年以降、学生と大学当局者が合同で面接し合否を決定していた。また「所定の日までに水光熱料を納付しない場合は退舎させることがある」とあるが、大学当局が舎生に水光熱料を請求したことはそれまで一度もなかった。また舎生は退舎の権限は総務にあると認識していた。結局、芦田譲治学生部長の「規定は規定としてあり、運用は寛大に行う」という主張に舎生は納得し、同年2月に「京都大学寄宿舎規定」が京都大学評議会で承認された。その年も入舎選衝は慣行通り合同で実施された。だが6月、厚生課が舎生に水光熱料を請求し、舎生は納入を拒否した[注 18]。自治憲章と寄宿舎規定の矛盾は早くも紛争の火種になりつつあった。1962年5月、吉田寮は寄宿舎規定を運用実態に合わせ、更に入退寮権を完全に獲得するため「規定改正運動」を開始した。1963年2月、吉田寮の要求が認められ、「寮生活の運営は、寮生の責任ある自治による」「退舎させる場合は、寮生代表及び当該寮生の意見を聴取する」「入寮選考は、寮生代表の意見をきいて、学生部長が行なう」と規定は一部改正された。入退寮権の完全獲得はならなかった[101]

なお京都大学寄宿舎規定は寄宿舎に「京都大学学生寄宿舎吉田寮」の正式名称を与えた。寄宿舎も1960年の自治憲章の改正で「吉田寮」を採用した。

新寮獲得運動[編集]

戦後、京大の吉田キャンパス周辺では下宿不足が深刻化していた。その背景には工学部の拡充に伴う新入学生の増加と、学生寮の定員の少なさがあった[29]1958年、吉田寮は宇治寮、女子寮と三寮連合を結成し、大学当局に増寮を働きかけた。翌1959年、薬学部敷地内の労働者向け宿舎を借り受けるかたちで「吉田西寮」が開寮、吉田寮に編入された[122]。だが吉田西寮の定員はわずかで、「薬学部が入用のときは返す」という条件も付いていた。三寮連合は更なる増寮を求めて大学当局と交渉を重ねたものの、二年間進捗がなく、追い打ちをかけるように薬学部から西寮の返還を催促された。危機感を持った吉田寮は1963年、「新寮建設闘争委員会」を組織し、寮生数を減らすことなく増寮することを基本方針に、大学当局に増寮を強く迫った。吉田寮、薬学部、教育学部、学生部を交えて協議した結果、東竹屋町の教育学部を吉田キャンパスに移し、その跡地[注 19]に新寮を建設する計画が次第に現実味を帯びてきた[123]1964年3月、京都大学は東竹屋町に定員400名の新寮「(仮称)熊野寮」を建設する計画を発表、吉田寮は工学部建築科の西山夘三研究室と共同で熊野寮の設計図を書いた[124]1965年4月、熊野寮A棟が竣工、開寮し[125]、吉田寮からの引越し者を中心に熊野寮自治会が形成された[126]。A棟竣工と引き換えに、吉田寮は吉田西寮第Ⅲ棟の撤去に同意した[127]1966年4月、B,C棟と食堂が竣工し熊野寮は完成した。その後1980年半ばまで吉田寮と熊野寮は共同歩調をとった[29]

ニ・一八通達、○管規[編集]

1962年7月、文部省は学徒厚生審議会答申「大学における学寮の管理運営の改善とその整備目標について」で、「学寮は貧困学生の収容施設に終わってはならない」「学寮の有する教育的意義をより効果的ならしめる」との考えを示した。この答申は吉田寮の当時のあり方を否定するもので、寮生は文部省による寮自治への介入を警戒した。1964年2月、文部省は通達「学寮における経費の負担区分について」(二・一八通達)で、学生寮や生協、学生会館の水光熱費の個人負担を指示した。同年8月には「○○大学学寮管理運営規則(参考案)」(○管規)を作成し、学生部長に入退寮の許認可権や光熱水料の徴収権等を持たせることで、学生寮の管理運営の徹底と標準化ならびに文教費の節約を行おうとした。ニ・一八通達と○管規は全国の大学で大規模な反対運動を引き起こした。一方、京大当局は○管規を「京大寄宿舎規定」の存在を理由に拒絶し、吉田寮や熊野寮の反発を回避しようとした。だが吉田や熊野の寮生は政府の動きをマルクス主義の観点から「帝国主義的国内再編」とみなし、寮運動を「学内共闘から全国共闘へ」「生活防衛闘争から政治権力闘争へ」方針転換し、政府や大学当局との対決姿勢を露わにした[29]1965年奥田東総長は吉田寮舎誌「去来十二号」に「学寮に寄せる」という文章を寄稿し、学生寮のあり方について現役寮生だけでなく元寮生の意見も聞いて考えるよう訴えたが[128]、寮生は耳を貸さなかった[29]。1969年にはOB会の舎友会を廃止し、元寮生と絶縁した[129][注 20]

京大紛争[編集]

1960年代中頃以降、日本全国の大学で大学紛争が続発した。大学紛争の特徴として、西山伸は「経験した大学および学生が多数であったこと」「学生が大学を直接の攻撃の対象としたこと」「学生たちの暴力的傾向が著しく強まったこと」「多くの大学で主体となったのは全学共闘会議と呼ばれる集団であったこと」の四点をあげている[130]。1965年には慶応大学が、1966年には早稲田大学中央大学明治大学が、1968年には東京大学日本大学が大学紛争に突入した[131]

一方、京都大学は平静を保っていた。奥田総長が「文部省の方針に追従するのではなく、京大の大学自治の範囲で独自の解決を図る」「学生の要求する話し合いには応じ、場合によっては確約を行う」「確約の実行をすぐには行わないが、紛争が収まる点には校費を出して譲歩する」方向性、いわゆる「京大方式」で学内問題の収拾を図り、延焼を回避していたためである。吉田寮も増寮や水光熱費、寮内労働者等の問題について奥田総長と話し合いを持ったものの、両者は並行線をたどり、やがて寮生は話し合いでは要求は実現できないと考えるようになった。更に悪い事に、一部の寮生は武装闘争を通じた世界同時革命を支持していた[129]。もとより平和的解決は期待していなかったのだ。

1968年12月12日、吉田寮と熊野寮の寮生150名は奥田総長、岡本学生部長と長時間の団体交渉を開催し、無条件増寮[注 21]、二十年長期計画[注 22]白紙撤回、経理全面公開の三項目を要求、奥田総長はいずれも拒否した。翌1969年1月14日、吉田寮と熊野寮の全寮闘争委員会(寮闘委)は大学当局と団交を開催し、改めて三項目を要求した。奥田総長は吉田東寮の廃止を撤回するなどの譲歩をしたが、寮闘委は三項目完全獲得に固執し、1月16日に交渉決裂を宣言すると、学生部の建物を封鎖(ロックアウト)した。寮闘委はこの行動について「長い増寮運動のなかで話し合いを続けても問題は解決しないことを知った寮生の、あらたな問題解決の表現であり、蓄積された怒りの表現」[129]「個別寮闘争からはじまったのであるが、これは過去の困難な闘いを背景にして、明確に大学の存立基盤そのものを問う闘いとして、更には資本主義社会における教育の意昧それ自体を問う闘いとして発展して来ている」[132]などと説明した。折しも東大では東大安田講堂事件が混乱の絶頂に達していた。東大紛争警視庁機動隊の学内導入をきっかけに全学化したことから、奥田総長は警察の学内導入には否定的で、寮闘委を説得して封鎖を解除させようとした。しかし同学会、大学院生協議会、職員組合、京大生協、京大生協労働組合の連合体である「五者連絡会議(五者)」は奥田総長の方針を批判し、実力による封鎖解除を主張した。ちなみに五者は日本共産党の青年組織の民青の影響下にあったが、寮闘委は日本共産党や民青と対立する勢力(反民青)の影響下にあった。21日、五者を中心とした封鎖反対派は吉田キャンパス全体を重ねてロックアウトし、学生部の寮闘委を孤立させることに成功した。このとき、京大当局はヘルメットを支給するなどして封鎖反対派を支援した。封鎖支持派は寮闘委を救援すべくキャンパス内に突入しようとしたが、封鎖反対派のバリケードや放水、ピケに阻まれ追い返された。封鎖反対派と封鎖支持派の衝突は雪の降る中、昼夜を問わず三日間続き、双方に多数の負傷者を出した。1月23日午前10時、五者は学生部の封鎖を実力で解除し、寮闘委は窓に白旗を掲げて降伏した。午前11時、勝利した五者は寮闘委の寮生六十名を「暴力学生弾劾」集会に連行し、吊し上げを行った。集会には学生教職員1500人が参加した。しかしある参加者が吊し上げを非難し、吊るし上げられていた寮委員長が寮運動の意義と五者の運動妨害を主張すると、会場からは寮闘委を支持する声が続出した[129][133]。実力での封鎖解除に対して一般学生が抱いた「最終的には実力がモノを言った」ことへの不満や「大学は日共ペースに乗せられているのではないか」という不信感[134]が寮闘委に味方したらしい。目論見の外れた五者は集会を退席し、残された寮闘委は奥田総長を呼び出して運動妨害の責任追及を行った。奥田総長は再度の団体交渉を約束した。25日、全学闘争委員会(後の京大全共闘)が結成され、寮闘委はこれに合流した。同日には法経一番教室で総長団交が開催され[129]、学生側は「学生部の封鎖解除の自己批判」「ロックアウトの自己批判」「寮三項目要求の即時承認」等の八項目を突きつけた。一方、奥田総長は「職員が学生のために仕事をしている場所を封鎖することは、暴力であり、大学として認めることはできない」「実力排除は大学の本意ではなかったが、五者連絡会議の実力行使を黙認していたのは事実だ」「学生部封鎖解除のための実力行使は、総体的には暴力というほどのものではなかった」などと要求を突っぱね、「話合いが決裂したからといって、すぐ封鎖するというのは理解できない」「相手の意見を参考にし、態度をかえていくことが話合いだと思う」と、話し合いの継続を学生側に求めた。団体交渉は二度の休憩を挟んで53時間続いたが、双方の主張は平行線のまま終了した。1月31日に教養部が、2月3日に文学部が、5日に医学部が、13日に工学部が、18日に農学部がストライキに突入した。ここに京大紛争は始まった[135][129]

京大紛争では、講座制・学位制への疑問、学生の大学運営参加、教授会公開、財政公開、カリキュラムなどの学内の問題のほか、中教審粉砕、ASPEC(アジア南太平洋閣僚会議)粉砕、安保、沖縄など学外の問題も議論の遡上に上がった[136]。争点が拡散したせいで「寮三項目要求」等の学寮問題は相対的に小さく扱われ、他の問題に埋没した[129]。また、紛争中は内ゲバが珍しくなかった[注 23]。学生部封鎖をめぐって学生同士が衝突したことが、学生と学生、民青と反民青の憎悪をかきたて、暴力の行使に駆り立てたのだ[137]。紛争は1969年9月に終結したが、増寮要求は通らず、大学当局との関係性は決定的に悪化した。

吉田寮委員長として総長団交、学生部封鎖を推進した若狭雅信は、のちに学生部封鎖について後悔の弁を述べた。「あのとき、先生[注 24]の誠意に私たちが襟元を開けず、政治の言葉で対応してしまったのは、自らを閉ざすバリケードのありようと似ていた」[101]

入退寮権に関する合意[編集]

1971年2月、吉田寮・熊野寮自治会と淺井学生部長との間で「入退寮権は一切寮自治会が保持・行使すべきだと考える」「新入寮生全員の名前を選考概評とともに『京大新聞』紙上に発表する」という確認書が結ばれた[129]。以後、学寮の運営は寮生の自治によってなされ、大学当局との間で問題が生じた場合には公開の団体交渉で話し合い解決を図るという「団交(団体交渉)-確約体制」が確立した。京大紛争以降、大学当局は吉田寮や熊野寮の要求のほとんどを受け入れ、表面的な対立は減った[129]。嵐の前の静けさであった。

看学寮ストーム事件[編集]

吉田寮は旧制高校のバンカラな文化の一つ、ストームを受け継いでいた。これは他寮に集団で押しかけ、大声を出しながら廊下を闊歩するというもので[注 25]、物を壊したり、居室に乱入することもあった。しかしストームは受ける側にとって迷惑極まりなく、ときには恐怖感さえ伴った。1964年、女子寮の寮生が吉田寮の舎誌「去来十一号」で「ストームは寮間の交流の場にはなり得ない。暴れ回るのはやめてほしい」と訴えたが、吉田寮生は仲間意識醸成の手段としてストームを正当化し以後も繰り返した。1972年3月4日、卒寮生の追い出しコンパの後、寮生数十名が酒の勢いで看護学校瑞穂寮(女子学生の寮)にストームをかけた。瑞穂寮生が拒否したにもかかわらず、吉田寮生は無理やり寮内に上がり込み、大声をあげて廊下を走る、差別発言を口にする等の狼藉をはたらいた[101][29][138]。瑞穂寮はこのストームをセクハラ女性差別あるいは暴力として公に糾弾した。糾弾された吉田寮は「戦前の旧制高校時の男子生徒の女子に対する見方」の反省が生かされていないこと、ストームの高揚感と寮祭の高揚感は同根であること、寮祭に文化的な問題があること[注 26]を理由にストームと寮祭を中止した[139]。この後、吉田寮と熊野寮は男性中心主義の寮のあり方を問い直すべく、女子の入寮について議論を始めた[140]。寮祭は1980年に再開された[141][注 27]

暴力事件[編集]

京大紛争の前後、吉田寮生の思想信条は極めて多様であった。吉田寮の執行部は全共闘に親和的だったが、寮生の中には全共闘と敵対する民青も大勢いた。また中核派革マル派社学同社青同解放第四インター等に所属したり共鳴した人もいたはずだという。ただ寮自治に関しては協働する間柄だったのか、彼らは寮外の暴力的な対立関係を寮内に持ち込まず[142]、京大紛争の最中も寮内で内ゲバは発生しなかった。しかし1974年4月27日の寮生大会で、執行部系の寮生が民青系の寮生に暴力をふるい、複数名を負傷させた[129][143]。被害者は加害者を刑事告訴し、6月25日以降、執行部系の寮生4名が逮捕され、うち3名が起訴された。また、民青と日本共産党は「寮は暴力学生に支配されている」とネガティブ・キャンペーンを張り、入寮希望者が激減して吉田寮は定員割れを起こした。1977年9月、3名全員に執行猶予付き有罪判決が言い渡された[129]

廃寮の危機[編集]

戦後、吉田寮の寮生は三つの価値観を原動力に生活改善運動や寮運動を展開してきた。価値観の一つ目は貧困意識で、寮生自身が貧しいことが運動を切実なものにした。二つ目は仲間意識で、寮生同士の時間的・空間的な繋がりが仲間意識を醸成し、組織的な行動を促した。三つ目はマルクス主義だった。しかし1970年代、高度経済成長は日本全体を豊かにし、寮生の貧困意識を薄めた。また、寮生が寮外のサークル等に所属する機会が増えたことや、看学寮ストーム事件で伝統的な文化が否定されたことは、仲間意識の希薄化を促した。さらに政治に関心を持たない寮生が増加し、マルクス主義も影響力を無くしていった。事実、寮生大会の「活動方針案」には世界革命に向けての状勢分析、任務、行動提起が書かれることが1960年代半ば以降はお約束になっていたが、1976年以降は無くなっていった[129]

この頃、文部省に不穏な動きがあった。1971年6月、文部省は中央教育審議会答申で、「(前略)わが国の大学では、学寮は学生の単なる厚生施設として扱われ、その物的条件も長く劣悪なままに放置されてきた。しかも、学生集団の特殊な意識にもとづく自治活動が学寮の運営に持ち込まれて、ことごとに大学の管理方針と対立するようになった。そして今日では、多くの学寮は、学生にとって教育的に有意義なものでないどころか、さまざまな紛争の根源地とさえみられるような不幸な状態にある」と分析し、「したがって今後一般の大学としては、これまで学寮が果たしてきた機能を分解して、それに代わる方策をとることも必要であろう」と自治寮を分解する方針を打ちだした。その後、全国各地の大学は文部省に従って自治寮の管理寮化や廃寮化を行った。電気通信大学大阪大学岡山大学など幾つかの大学の自治寮は徹底抗戦を図ったが、大学当局は警察力を借りて次々に廃寮に追い込んでいった[129]

京大も例外ではなかった。1978年4月、沢田敏男学生部長は、吉田寮や熊野寮との団体交渉を拒否し、吉田寮と大学当局が従来交わしてきた寮運営のルール(確約)を白紙化すること、寮内労働者(炊フ、事務員、守衛、掃除人)が退職しても今後は公費で補充しないことを一方的に宣言した。1979年には会計検査院が吉田寮と熊野寮への予算の執行を「不正常」だと指摘し、岡本道雄総長は三年以内の改善を約束した[144]1980年、沢田が総長に就任すると、吉田寮への圧力を一層強めた。同年、大学当局は在寮者確認並びに寄宿料及び水光熱費の納付を寮生個人に要求した。それまで寮生は寄宿料のみを吉田寮自治会を通じて納付し、在寮者確認は京大新聞を通じて実施していた。一方、吉田寮自治会は入退寮権の侵害や厚生施設としての質の低下を理由に要求を拒絶した。そこで大学当局は吉田寮の「正常化」をあきらめ、吉田寮を廃寮にし、吉田寮との人的繋がりを断った「新規格寮(新々寮)」に建て替える決意を固めた[145]

「新規格寮(新々寮)」とは「入退寮権が学生部長が完全に掌握している」「水光熱費等の負担区分が完全に適用される」「全室個室で集会所がない」「寮食堂がない」の四条件を満たす学生寮で[146]、アパートやマンションとの機能的・価格的差異はあまりない。当時、文部省は各大学に自治寮の新規格寮への建て替えを推奨していた。

「在寮期限」闘争[編集]

吉田寮の在寮期限を昭和六十一年三月三十一日とする — 京都大学評議会

1982年12月14日、京都大学の最高意志決定機関である評議会はこのように決定した。つまり吉田寮を1986年3月31日をもって廃寮にするというのだ[147]。なお、廃寮の理由には「正常化」ではなく「老朽化」のみを挙げた[注 28]。当日、吉田寮と同学会のデモ隊が時計台二階に押しかけ評議会の開催を実力で阻止しようとしたが、職員も実力でデモ隊を排除し、学生8名を二階から突き落として重軽傷を負わせた[148][注 29]。12月15日、沢田総長は京大広報に「学生寄宿舎をめぐる問題」を掲載し、廃寮の理由に「正常化」を付け加えた[144]

この時点で、大学当局は1983年度に吉田寮の入寮募集を停止し、熊野寮にも同様の在寮期限を設定するつもりでいた。しかし学内の合意形成を欠いた在寮期限の設定は学生や教員の反発や不信を買った。吉田寮自治会や他の学生自治会は文学部・教養部・農学部・理学部の学部長や協議会の評議員を説得し、部長らは学生部の独走を非難し、数名の評議員は自己批判した。大学当局が内部分裂を起こしたのである。これを受けて、大学当局は1983年度の吉田寮の入寮募集停止ならびに熊野寮への在寮期限の設定を見送らざるを得なくなった[149][144]

1983年4月15日、吉田寮と熊野寮の寮生数名が時計台二階の総長室に乱入し、沢田総長の前で抗議文を手渡した[注 30]。一ヶ月後の5月18日早朝、機動隊が二寮を急襲し、時計台二階に上がったことをもって建造物侵入で三名を逮捕し、一名を指名手配した。寮生らは「緊急抗議集会」を開き、集会後の午後1時頃、学生部棟に抗議に訪れた。学生部長は退去を命じ、寮生らは渋った。1時5分、大学当局は出入り口を塞いで寮生を建物に閉じ込め、機動隊を呼んで一網打尽にした[150][151][144]。結局、八名が建造物侵入や公務執行妨害で逮捕され、うち五名が起訴された[152][144][注 31]。吉田寮はこの事件の公判維持に限られた人的資源を割いたため、以前ほど在寮期限撤回運動に注力できなくなった。戦況は膠着した[144]

在寮期限を1年後に控えた1985年5月、吉田寮自治会は運動方針を大胆に転換した。これまでは在寮期限の撤回に向けて運動してきたが、これからは吉田寮南側への新寮建設を積極的に推進する[144]。ただし①在寮期限が到来したからといって吉田寮の機能をただちに停止しないこと、②大学当局が新寮に関する全ての事柄に関して吉田寮自治会と話し合いを続けること、③吉田寮生全員が新寮に移行することを条件として[153]。吉田寮自治会の狙いは、大学当局との交渉を通じて新規格寮四条件(学生部長の入退寮権完全掌握、負担区分完全適用、全室個室で集会所がない、寮食堂がない)を骨抜きにした新寮を建設し、新寮に寮生と自治会を移行させて自治寮化することであった[154][注 32]。そしてもう一つの狙いは、新寮建設の目処が立ち、吉田寮と大学当局が学生寮正常化に向けて努力している(ように見える)かぎり、大学当局は吉田寮の在寮期限及び在寮期限に伴う措置[注 33]を延期せざるを得なくなるであろうということだった。加藤幹太学生部長は①については頑なに否定したが、②と③については譲歩の余地を見せた[155]。そこで吉田寮自治会は新寮予算の確保に必要な新寮予定地[注 34]埋蔵文化財調査を学生部に要求し[156]、学生部は7月29日以降に埋文調査の予定を入れた[157]。しかしここで思いもよらない事態が発生した。

この頃、吉田寮自治会は自主管理反差別の共同性を重視し、「自主管理が可能な新寮を獲得することで共同性を破壊する在寮期限の効力を無効にしよう」と主張していた[144][158]。一方、熊野寮自治会は反戦や大学や寮の治外法権自治を重視し、「先制的に巨大な大衆をつくり、何千人の学生決起で学生部を実力包囲することによって、在寮期限を実質的に粉砕しよう」と異なる主張を持っていた[159][160][161]。吉田寮と大学当局が埋文調査に合意すると、熊野寮自治会書記局は吉田寮自治会の方針転換を「決戦から逃亡」して「自治を売り渡」す「ペテン」だと非難した[144][162][163]。そして埋文調査当日の7月29日、熊野寮自治会書記局の寮生数名は「『埋文』実力阻止『在期』決戦勝利」を唱えて埋蔵文化財研究センター玄関に座り込み、職員を建物内に釘付けにした[164][165]。さらに、翌日にはヘルメットや旗竿[注 35]で武装して吉田東寮(現棟)に侵入し、卓球室[注 36]に立てこもった[166][167][144]。熊野寮自治会書記局の実力行使により埋文センターは調査を中止し[144][168][169]、新寮の予算化も無期延期され[170]、今まで新寮獲得を前提に活動していた吉田寮は在寮期限との全面対決を強いられた[171][172][144]。その後も熊野寮自治会書記局は吉田寮自治会に繰り返し干渉し、吉田寮自治会は熊野寮の「自治破壊行為」を非難して共闘関係を打ち切った[173][144]

9月、吉田寮は「あらゆる隔離・分断・差別・抑圧を許さず、『在寮期限』を粉砕しよう」をスローガンに掲げ、在寮期限と在寮期限に伴う措置の撤回に全力を挙げた[174]。同月、吉田寮は朝尾直弘学生部長に「『在寮期限』到来後も寮の機能を一切停止しないこと」「『在寮期限』到来後も吉田寮の入寮募集を停止しないこと」などの四項目を要求した。10月からは四項目(+一項目)要求の署名運動を、同月24日からは時計台正面で抗議の座り込みを行った[175]。しかし、学生部長は四項目要求への回答や吉田寮自治会との交渉を一切拒否し、吉田寮生本人や父兄に在寮期限を通告する文書を繰り返し送付した[176]。12月、沢田敏男総長が退任し、西島安則工学部教授が総長に就任した。西島総長は京大新聞社の取材に対して「在寮期限はそもそも新寮を前提にしていないので、新寮が建っていないから在寮期限は実施できない、ということにはならない」「ただ、一方で百四十人もの寮生が住みたいと言っているのだから、単純に筋道だけでは割り切れないものがあることもわかっています」「寮生・大学の京大らしさや、われわれの誇りとする学問の府という理念を念頭においてこの問題に腐心してゆく必要があると思います」と述べ、柔軟に問題に対処する考えをにじませた[177][178]。在寮期限が迫る中、吉田寮自治会や熊野寮自治会、各学部自治会その他多数の学生団体は猛烈な反対運動を繰り広げた。その甲斐あってか、在寮期限2日前の3月29日、学生部長は「4月1日以降も吉田寮生を強制的に退寮させず、引き続き交渉を行う」と約束し[179]、最悪の事態――寮生百四十名の即時の叩き出しは回避された[144]。その一方で、大学当局は4月1日以降は寮機能を縮小する措置をとりつつ、寮生には自主的な退寮を求める方針を固めていた[180]

ついに在寮期限が到来した。3月31日、大学当局は「在寮期限執行中」として事務員1名を除く吉田寮の寮内労働者(守衛1名と炊フ2名)を他の施設に配置転換し、吉田寮食堂を営業停止にした[144]。また、吉田寮の入寮募集を禁止し、寮外生には入寮しないように、在寮生(と父兄)には速やかに退寮する(させる)ように繰り返し呼びかけた[181]。だが大半の寮生は退寮を拒否し、入寮募集も独自に実施、相当数の入寮希望者が現れた。このため寮生数は減少せず、むしろ増加し、1988年5月には150名に達した[144]。また、吉田寮の訴えが学生の共感を集めたこと[29]や営業停止中の寮食堂で寮外団体がバンドや演劇、講演等を開催することを許可したこと(後述)、女子学部学生の入寮を可能にしたこと(後述)は吉田寮の利害関係者を増やし、寮運動の大衆化に一役買った。

とはいうものの、大学当局は1986年4月以降の入寮者を正規の寮生と認めなかったので、1985年入寮の「正規寮生」一回生が最短修業年限を迎える1989年3月前後に大学当局が廃寮化に向けたアクションを起こす恐れが高まった[182][注 37]。1988年7月22日、学生部は極度の老朽化で1985年以降居住放棄されていた「吉田西寮第Ⅳ棟」を撤去することを吉田寮に通知した。一方、吉田寮は「Ⅳ棟の老朽化は大学当局の長年にわたる補修のサボタージュが原因である」として、この決定を撤回し、寮生・学生と話し合うまで取り壊しを延期するよう要求した。しかし学生部は話し合いに応じず、8月4日午前8時頃、Ⅳ棟を奇襲的に強制撤去しようとした。寮生と支持者らは大学関係者や業者を締め出して抵抗し、午前10時、学生部は強制撤去を諦め、話し合いに応じた。話し合いの中で、学生部は「Ⅳ棟は廃棄物だから処理について寮生と話し合う必要はない」などと主張し、寮生は「空き缶などゴミの処理だって寮生と合意の上で処理しているんだぞ」「(そもそも)Ⅳ棟は廃棄物かどうかも寮生と話し合って決めるべきだ」「(そもそも)人が住めない状態になってしまったのは誰のせいだと思っているんだ」などと反論した。交渉の結果、大学当局は「これまでの吉田寮への補修を行ってこなかったことを認める」「今後吉田寮の補修を行うよう努力する」「老朽化の抜本的対策としての新寮建設の具体的プログラムを示すよう努力する」「話し合いの議題も含めて、寮に関することはすべて寮自治会と話し合い、合意の上決定する」と文書で確約。この文書に満足した吉田寮はⅣ棟の取り壊しに同意し、Ⅳ棟は8月4日から6日にかけて取り壊された[183]。この事件で吉田寮と大学当局の間に雪解けムードが生まれ、以後、両者は紛争終結を目指して話し合いを重ねた。

1988年11月、河合隼雄学生部長は吉田寮との話し合いの席上で「終戦協定」の素案を提案した。それは「吉田寮は寄宿料の納付および寮生名簿の提出を行う。大学当局は西寮を撤去し東寮を補修する。これをもって『在寮期限の執行完了』とする」というものだった。吉田寮は河合案に幾つか注文を付け、1989年1月24日に大学当局と合意に達した。最終的な合意事項はおおむね以下である[184][185]

「大学は東寮の補修を行う。西寮代替スペースとしてプレハブを設置する。現寮の補修を行ってこなかったこと、及び今回設置するプレハブが西寮代替スペースとして不十分であることを認め、今後も寮機能の回復、維持、発展に努める。その抜本的解決策として新しい寮の建設に努める。入寮募集停止を解除する。西寮撤去を理由に吉田寮の寮内労働者の削減を行わない。一方、吉田寮自治会は西寮を明け渡す。在寮者名簿の提出と寄宿料の納付を行う。また、大学は今後も継続して学生との話し合いを行う。他の厚生施設に関しても、当事者と話し合うことなく一方的な決定を下さない。また、大学は寮自治会と確認した以上の諸点に関して学生部長名文書に記述し次期以降の学生部長に引き継ぐ」[186][187]

1989年3月、吉田東寮中庭にプレハブが建設される中、吉田西寮第Ⅰ,Ⅱ棟が撤去され、以後、吉田東寮は吉田寮と呼ばれるようになった。4月14日、吉田寮は在寮者名簿の提出及び寄宿料の納付を行い、4月18日、評議会は在寮期限の執行完了を了承した[188][189][190]。吉田寮は存続した。

入寮対象者の拡大[編集]

1985年以降、吉田寮自治会は段階的に入寮対象者を拡大した。1985年に女性の学部生、1990年に留学生、1991年に院生、研究生、医療短期学部生等の全ての京大生、1994年には「京大生との同居の切実な必要性を認められる者」[注 38]に入寮の権利を与えた[29][144][注 39]。1993年には全室を相部屋[注 40]に変更し、定員の約1.5倍の約200名の収容を可能にした[129][注 41]

その目的は、女性・留学生・家族など今まで権利や権限を制限されていた者が、吉田寮の厚生施設としての利益を享受できるようにするためである[29][144]

当然の帰結として、吉田寮は「男性・学部生・日本人」という均質性の高い集団から、性別・国籍・言語・所属・生活習慣等の多様性の高い集団へと変貌していった。そのため、寮運営や日常生活について、以前は「暗黙の了解」で済んでいたことも、現在は「当事者同士の対等な話し合い」を通じて合意を形成する努力がより求められている[129][191]。対等な立場で話し合うための取り組みとして「後輩は先輩に敬語を使わないでよい」というタメ口文化が生まれ、現在定着している[192][193]

1995年、吉田寮自治会は阪神・淡路大震災被災者の受け入れに合意し、1名を受け入れた[144]。2011年、東日本大震災被災学生の入寮を入寮募集期間外でも受け付けた[194][注 42]

寮食堂が文化芸術拠点に[編集]

1986年4月、「在寮期限」の影響で寮食堂は出食機能を喪失した。その後しばらくの間、寮食堂は寮生の作業場や吉田寮祭やクリスマスパーティー、近隣のサークルの会議等に供されていた。翌1987年6月、吉田寮自治会は大阪を中心に活動していた劇団「満開座」から寮食堂で公演を開きたいと打診された。これに対して吉田寮自治会は、面白そうだという意見、廃寮反対のアピールに利用できそうだという思惑、及び「吉田寮は吉田寮生が自主管理するが、吉田寮生だけのものではなく外部に開かれているべきで、外部の人々との交流が寮の在り方をよりよいものにしていくだろう、そして食堂で行われるイベントが、そのためのツールとなり得る」という考えから満開座に寮食堂を貸し出した。公演は9月17日から23日にかけて行われた。この公演以後、アマチュアバンドや劇団など沢山の寮外の個人や団体が寮食堂を使用するようになり、やがて寮食堂は京大における文化的・芸術的活動の拠点となった。しかし食堂使用者が増えるにつれ、吉田寮自治会が寮食堂を開放している理由――寮自治、学内自治への理解と支持を得る――を理解しない者や、寮食堂を好き勝手に使える場所としてしか考えない者も増え、様々な問題が生じるようになった。これらへの対応として1996年、文化部食堂局員と食堂利用者からなる「食堂使用者会議」が発足し、毎月の会議に参加しなければ寮食堂を使用できないというルールが導入された。また、食堂使用者会議での議論を経て「食堂使用マニュアル」が整備された。当マニュアルの基本原則は「吉田寮食堂は自主管理」[注 43]「食堂使用は自己責任」[注 44]「運営は話し合いで」[注 45]の三点で、寮生のみならず食堂使用者も食堂の運営に主体的に関わるべきだという考えが明記されていた。これによりトラブルは減少し、2005年まで寮食堂はおおむね問題なく運営された[195]

老朽化問題への試行錯誤[編集]

「在寮期限」を経て、吉田寮自治会は現棟の老朽化問題を解決するため試行錯誤を重ねた。まず模索したのは現棟の新寮への「建て替え」だった。1996年5月16日、吉田寮自治会は益川敏英学生部長と「新寮の運営についても寮生の自治とする」等の確約を結んだ。1999年6月には「新寮を現在の場所に建てる」「水光熱費の負担区分の値上げをしない」等の進展した確約を副学長と交わした。しかしながら吉田寮自治会の要求する自治寮と文部省の学寮方針のすれ違いもあり、建て替えの計画は中々具体化しなかった。

2002年頃、寮生は新寮建設は難しいと判断し、現棟を徹底的に補修して耐震問題・老朽化問題を全面解決する「大規模補修」を検討し始めた。吉田寮自治会は大規模補修の必要性と実現可能性を確認するため補修特別委員会を設置し、寮内での議論と合意形成の後、大学側にこれを要求した。大学側も地震学者の尾池和夫副学長を中心に大規模補修を目指し、2005年には大規模補修に向けた耐震調査と耐震補強の設計が行われた。ところがこの計画は2006年夏から秋にかけての概算要求の学内選考で廃案になった[196][197][198]

同年10月6日、大学側は吉田寮自治会に対して「京都大学重点アクションプランという予算枠で吉田寮を建て替えられる、10月23日までに返答すればすぐにも実行できる」と打診した。突然大規模補修とは真反対の提案がなされたこと、猶予期間が短いことに寮生は混乱し、連日連夜の議論を重ねても結論を出すことはできなかった。23日、吉田寮自治会は「もし建て替えを行うのであれば、このような条件であれば合意可能である」という新寮の条件確約案15項目を持って東山紘久副学長らとの交渉に臨んだが、寄宿料、定員、敷地面積等の項目で意見が合わないまま日付が変わり、大学当局は交渉を打ち切った。翌24日、東山副学長は理事懇談会で予算申請の話を取り下げた[199][200][注 46]。その後、大学側は「今後も建て替えに関する交渉には応じる」と発言した[201]

2009年4月20日、西村周三副学長は吉田寮自治会に対して「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」を提示した。この方針案は「寮食堂を取り壊し、寮食堂の跡地と寮食堂西側の空き地(焼け跡)に『吉田寮A棟』を建設。全寮生をA棟に引っ越しさせた後、現棟を『吉田寮B棟』に建て替える」という計画だった。吉田寮自治会は現棟を建て替えるかどうかは別の話としつつ、まずはA棟について話し合うことを大学当局と確認した[202][203]。食堂利用者は活動の場が失われることを懸念し、食堂・厨房施設の存続を求める「要望書」と、寮食堂を取り壊さない場合でもA棟建設は可能とする「調査書」を西村副学長に提出した[204]。吉田寮自治会も食堂利用者に同調し、「A棟を焼け跡に建設する。寮食堂は補修する」方針をとった。2011年5月と6月、吉田寮自治会と大学当局はA棟について交渉し、大学当局は寮食堂の撤去を、吉田寮自治会は寮食堂の存続を改めて主張した。吉田寮自治会は寮食堂存続の理由として「食堂が外部に開かれたスペースとして、入寮資格枠の拡大など吉田寮自治会の運営に好影響を与えてきたこと、そしてこれからも与えるであろうこと」「吉田寮食堂が学内の数少ない自治・自主管理スペースとして存続してきたこと」「食堂の雰囲気や構造が、代替不可能であること」の三点を挙げた。一方、大学当局は食堂撤去の理由として「食堂の代替スペースでも自治自主管理は可能であること」「食堂を撤去すればより大きなA棟を作ることができ、寮の定員増加を達成できること」を挙げた。定員増加について吉田寮自治会は「寮食堂という吉田寮自治会にとって意義あるものを壊し、自治会に悪影響を及ぼしてまで増加を望んでいない」と反論した。議論は平行線を辿った[205][206]

吉田寮食堂問題[編集]

2012年4月19日、赤松明彦副学長は「吉田寮食堂の取り壊しと代替スペースの建設」「吉田寮A棟の建設」「これに関する吉田寮自治会との交渉打ち切り」を吉田寮自治会に通知した。これに対して吉田寮自治会や食堂利用者は「当事者の意見を無視した一方的な決定であり容認できない」と反発し、大学当局に決定の撤回と再度の交渉を求めた。大学当局は当初交渉を拒否していたものの、非難の声が高まるにつれて、23日に「吉田寮食堂取り壊しに関する説明会」を開いた。説明会には吉田寮や熊野寮の寮生や食堂関係者が大勢詰めかけた[207]

この説明会において、赤松副学長は「寮食堂を取り壊し、2014年3月までにA棟を建設し、ついで2016年秋までに現寮を取り壊してB棟を建設する」計画を提示し、「吉田南再整備計画の予算を第2期目標中期計画期間内に消化する必要がある。またその選択が寮生の安全を守るために最善の策である」「A棟には十分な定員を確保し寮の収容人員不足を解消したい」「A棟の建設を決定することで、現吉田寮の老朽化について議論でき、寮生の安全の早期確保にもつながる」と主張し、「寮生の自治を否定するものではない」と理解を求めた[208]。一方、吉田寮自治会側は、大学側の決定を批判し、決定の撤回を要求した上で、食堂と現棟の補修ならびに焼け跡のみを敷地とするA棟の建設案を対案として提出した。吉田寮側は「大学側の主張する建て替え計画はそもそも第2期中期計画の期限の2016年3月に間に合わない」「しかし自治会側の提案する補修案を採用すれば工期が大幅に短縮され、第2期中期計画の期間中に工事が完了する公算が大きい」「自治会側は寮食堂と現棟を補修してA棟を建てた場合でも大学側の主張する十分な定員を確保できる案を提示している。にもかかわらず大学側がこの案を無視しているのは納得がいかない」「吉田寮の老朽化対策が必要なのは事実だが補修で解決できる問題であり、むしろ補修をした方が早急に問題を解決できる」と主張、大学側プランへの疑問点や自治会側プランの利点を挙げて副学長らを追求した[209]

更に、説明会参加者のひとり、七灯社建築研究所の山根芳洋は「京都大学学生寄宿舎吉田寮食堂建築物の調査実測によるその京都大学内で最古の建築物である実証 ―京大最古の建築施設― 」と題した論文を配布し、寮食堂に関する知られざる事実を明らかにした。2012年当時、寮食堂は現棟と同じく1913年に竣工したと考えられていた。ところが、山根が吉田寮自治会の依頼で寮食堂を調査したところ、寮食堂が1889年7月に第三高等中学校寄宿舎の食堂として竣工し、1897年からは京都帝国大学旧寄宿舎の食堂として使用され、1913年に旧寄宿舎の閉寮と新寄宿舎(吉田寮)の開寮に合わせて現在の場所に移築されたことがわかった。つまり、寮食堂は第三高等中学校の数少ない大学建築遺構で[注 47]、京大最古の大学建築物[注 48]だったのだ。その上で山根は、京大当局が物理学実験場[注 49]を「本学において現存する唯一の第三高等中学校の遺構で、山口半六と久留正道が設計し、堅実な構成と意匠を見せている。本学の建築では最も古く、また焼失した本校と同一の意匠をもっているので、第三高等中学校のイメージを伝える建築といってよい。本学の起源を示す建物として歴史的価値は高く、また文化史的、建築的価値もきわめて高い」[210]などと評価していることを引き合いに「吉田寮食堂も堅実な構成と意匠をみせて、京大において最も古く、また焼失した本校と同一の意匠をもっている。また食堂は最も重要な中央軸線上にあった重要施設であり、京大の起源を最もよく示している建築と言へ、歴史的価値は高く、また文化史的、建築的価値もきわめて高い重要建築物である。この認識を共有するならば、吉田寮食堂は国の重要文化財となるであろう」「焚書に等しき行為は無きものと信じる」と主張した[211][212]

吉田寮側の批判と説得、そして山根の発見のおかげで、赤松副学長は食堂の取り壊しを撤回し、食堂の補修そして焼け跡へのA棟の建設を受け入れた[213][214]

食堂の補修、西寮の新築[編集]

「募集停止」問題[編集]

2015年7月、京都大学は吉田寮自治会および現棟の居住者に対して、現棟の耐震性に不安があることを理由に、新規入寮者募集を停止することと、順次新棟に転居していくことを要求した[215]。これに対して吉田寮自治会は、新規入寮者募集の停止は学生の福利厚生の縮小につながること、入寮募集の停止措置が大学が学生寮を廃寮に追い込むときの常套手段であること、吉田寮は数十年前から現棟の補修を要求してきた(にもかかわらず大学は補修を行わず、老朽化問題をさらに深刻化させた)ことなどを理由に抗議した[216]。なお京都大学が入寮を禁じたわけではなく、2015年秋と2016年春秋の新規入寮者募集は例年通り実施された。2017年春の募集も通常通り実施される予定である[217]

年表[編集]

明治[編集]

  • 1889年
    • 7月 第三高等中学校寄宿舎と付設の食堂(後の吉田寮食堂)、便所、厨房、浴室等が竣工[22]
    • 9月 第三高等中学校の移転が完了、開業式[22]
  • 1897年
    • 6月18日 京都帝国大学が創設[22]
    • 9月11日 旧々・京大寄宿舎が本部事務室の一角で開舎[22]
  • 1898年
    • 8月 旧制三高寄宿舎の建物で、旧・京大寄宿舎が開舎[22]
  • 1900年代 「風紀の乱れ」深刻化[22]
  • 1905年
    • 12月 自彊会結成
    • 同月 木下広次初代総長、風紀の乱れを理由に全舎生に退舎命令。一時閉鎖事件[22]
  • 1906年
    • 1月 入舎希望者を募集[22]
    • 2月10日 入舎式。寄宿舎再開[22]
    • 同年 規則と役職の制定[22]
  • 1909年 以文会結成
  • 1911年6月29日 大学当局、寄宿舎の新築移転を突然発表。寄宿舎移転問題[22]

大正[編集]

昭和[編集]

平成[編集]

所在地・アクセス[編集]

所在地[編集]

〒606-8317 京都府京都市左京区吉田近衛町69

アクセス[編集]

  • 電車

叡山電鉄元田中駅から徒歩20分

出町柳駅から徒歩18分

神宮丸太町駅から徒歩15分

京都市営地下鉄東西線東山駅から徒歩21分

  • バス

京都市営バス近衛通」停留所から徒歩1分

京都市営バス・京都バス京阪バス百万遍」停留所から徒歩10分

登場作品[編集]

現在では稀少となった旧制大学以来の木造施設で、かつ生活空間として現役使用されているという点から、多くのメディア作品の舞台として登場し、あるいはロケ地として使用されている。

小説[編集]

アニメ[編集]

映画[編集]

テレビ番組[編集]

参考・関連文献[編集]

資料集[編集]

文集・記念誌[編集]

建築関連[編集]

自治・学生運動関連[編集]

雑誌[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 現存する最古の学生寮として建てられた建物は龍谷大学南北黌(1879年竣工・重要文化財)だが、今は学生寮として使用されていない。学生寮の機能を維持しているのは吉田寮が最古である。そういう意味で「日本最古の現役学生寮」
  2. ^ 以前は第三高等中学校物理学実験場が京大最古の大学建築物と言われていたが、吉田寮食堂が四ヶ月早く竣工したことがわかった
  3. ^ 詳しくは吉田寮に問い合わせること
  4. ^ 64名とも
  5. ^ 西寮編入後、現棟は「吉田東寮」と呼ばれた
  6. ^ Ⅲ棟撤去は熊野寮開寮と引き換え。Ⅰ・Ⅱ・Ⅳ棟撤去は吉田寮廃寮撤回と引き換え
  7. ^ ないわけではない。例えば寮以外に下宿を確保する行為(セカンドハウス)、割り当てられていない部屋に住む行為は禁止されており、退寮処分に処されることもある
  8. ^ 外山正一東京帝国大学総長の長男
  9. ^ 旧寄宿舎舎内に本部を置いていた
  10. ^ 後の京都帝国大学医学部長。広島原爆京都大学研究班
  11. ^ 要するに旧寄宿舎組が新寄宿舎を乗っ取ったのである
  12. ^ 「レプセ歓迎事件」が京都学連事件の伏線になったと言われる。訪日したロシア労働組合代表レプセに対して、京大生が京都府警察部の警備の目をかいくぐり手紙を手渡したというもの
  13. ^ 大学寄宿舎カ学生ノ研学修養上重要ナルー機関タルへキ所以ノモノハ在舎学生力特二規律アリ制裁アルーノ切磋団体ヲ組織スルニ由リテ存ス(後略)
  14. ^ 大家の厚意を苦痛に感じたのが入舎の動機だという
  15. ^ 歓迎デモ隊に合流するため、とも
  16. ^ 京大天皇事件の責任をとって辞任した、とも
  17. ^ 当時、京都大学は1950年の告示第9号を根拠に学生のストライキを禁止し、ストライキの企画者及び実行者に無期停学や放学等の厳しい処分を課していた
  18. ^ 教育機会均等を重視し、教育コストの受益者負担に反対していたためである
  19. ^ 京大は付属高校を建てる予定だった
  20. ^ 舎友会は吉田寮の現役寮生が中心となって運営していた。このため彼らが廃止と言えばそれまでであった
  21. ^ ○管規、水光熱費の徴収を行わない新寮の建設
  22. ^ 吉田東寮の廃止を含む京大当局の長期計画
  23. ^ 2月14日には教養部自治会代議員大会をめぐり民青系と全共闘系が衝突し、負傷者250名を出している
  24. ^ 奥田東元総長
  25. ^ NHKのドキュメンタリー番組「日本の素顔」に映像資料が残されている
  26. ^ 余興演目「北寮土民団」の「土民踊り」のこと。全身に墨を塗ってみのを巻いて踊るというもの。1930年から続けられていた
  27. ^ 演目は刷新され、鴨川レースが始まった
  28. ^ 評議員の淺井健二郎理学部教授が、正常化を理由とした廃寮に反対したため
  29. ^ 厳密には、職員が学生らを二階の手すりに押さえ付けたさい、手すりが壊れて学生らが階下に転落したのである
  30. ^ 手渡そうとした、読み上げた、とも
  31. ^ 1984年、公務執行妨害の被告一名に懲役四ヶ月執行猶予二年の有罪判決が、1985年、建造物侵入罪の被告四名に懲役三~四月執行猶予二年の有罪判決が言い渡された
  32. ^ 吉田寮も開寮当初は自治寮ではなかったが、(自治寮の)旧寄宿舎の寮生の影響で自治寮化したと思われる
  33. ^ 寮労働者の配置転換、食堂の停止、電気ガス水道の停止、寮生の叩き出しなど
  34. ^ 吉田寮南寮南側の空き地
  35. ^ 旗を外すとゲバルト棒になる
  36. ^ 現在のビリヤード部屋。新寮予定地に面していた
  37. ^ 事実、官僚は1989年3月以降の廃寮化計画を作成していた
  38. ^ 家族や介護者
  39. ^ ちなみに熊野寮は1970年代から学部生・院生・医療短期学部生の男女に拡大していた
  40. ^ 「二室に三人」「三室に四人」という独特な割り振り方をする。部屋の使い方は自由。三室に四人の場合は、一室を遊び部屋、一室を勉強部屋、一室を寝部屋など
  41. ^ これ以前、三回生以上の寮生は個室に住む特権が与えられていた
  42. ^ 「地震の発生時期から考えて、新入生の諸手続きに遅れが出ることが容易に想像できる」「震災により家計の状況が激変した場合、新入生・在学生を問わず通学を断念せざるを得ない可能性があり、吉田寮がそういった人々の受け皿になれる可能性がある」ことが理由
  43. ^ 「寮食堂の維持・管理は使用者一人一人の仕事です。借りるのではなく、食堂使用者会議の一員になり、自分が運営する立場になるのだと思ってください」
  44. ^ 「吉田寮食堂は貸しホール、貸しスタジオではありません。管理者は一人一人の使用者です。ですから食堂を使うときの責任は基本的に主催団体のもとにあります。必要な仕事があればまず自分たちで、必要な交渉があればまず自分たちで、苦情がくればまず自分たちで対応するようにしてください。もちろん必要な助けをもとめてもかまいませんが、たのまなければ誰も何もしてくれませんし、失敗したらまず自分たちがリスクを負うのだということは忘れないでください」
  45. ^ 「食堂に関する決まりごとは基本的に使用者会議での話し合いで決めましょう。日程がかぶった時、使用者同士で交渉が必要なときは、使用者同士の話し合いで決めてください。もし決まらなかったら……? じゃんけんでもしてください」
  46. ^ なお、大学側は最初の打診は10月ではなく8月であり、検討の時間は十分あったはずだと主張した
  47. ^ 寮食堂を除けば物理学実験場しかない
  48. ^ 物理学実験場は1889年11月竣工
  49. ^ 2012年当時、京大最古の大学建築物とされていた
  50. ^ 家族、介護者
  51. ^ 「K大吉田寮」が舞台のボーイズラブ小説
  52. ^ ロケ地であり「下鴨幽水荘」のモデルとなっている。
  53. ^ ロケ地。
  54. ^ ロケ地
  55. ^ ロケ地。「百万遍寮」として作中に登場している。
  56. ^ 寮食堂での食事や炊事、茶室での宴会、総長官舎や女子寮へのストームの映像
  57. ^ 旧印刷室での集団生活、自治活動の映像
  58. ^ 吉田寮自治会が京都大学文書館に寄贈した寮内文書など1263点。大学文書館で閲覧・複写可能
  59. ^ 吉田寮舎誌「アルトハイデルベルク」「去来」、記念誌「同釜」など23点。大学文書館で閲覧・複写可能
  60. ^ 1950年代前半の京大の学生運動に関連する資料と解説。楽友会館返還運動も含む。大学文書館で閲覧・複写可能
  61. ^ 京都大学の大学紛争に関連する資料と解説。年表付き。大学文書館で閲覧・複写可能
  62. ^ 木下広次の文部省時代・京都帝大総長時代の公的文書、式辞草稿等。大学文書館で閲覧・複写可能
  63. ^ 1980年代の吉田寮廃寮反対運動「在寮期限闘争」の資料と解説
  64. ^ 旧寄宿舎および新寄宿舎(吉田寮)の総務日誌等を収録。開寮前後、二次大戦前後が中心
  65. ^ 旧寄宿舎の舎内雑誌等を収録
  66. ^ 寮生発行の文学雑誌。冒頭に退寮処分問題の経緯。p.68に「京都大学寄宿舎史」。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  67. ^ 1940年から約20年吉田寮事務員を務めた野田もとさんの追悼集。吉田寮関係者が多数寄稿。巻末に寄宿舎史
  68. ^ 吉田寮元寮生の同窓会記念随筆集。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  69. ^ 1940-60年代の元寮生が多数寄稿した。荒神橋事件・退寮処分問題に詳しい。巻末に寄宿舎史。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  70. ^ 1960年代の元寮生が多数寄稿。熊野寮建設の経緯(新寮獲得運動)に詳しい。巻末に寄宿舎史(1950-1971)
  71. ^ p.416-417に吉田寮の紹介。配置図(1/1200)、補修前の寮食堂の写真
  72. ^ 京大紛争への吉田寮の関与について
  73. ^ 旧寄宿舎史1987-1911。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  74. ^ 新寄宿舎(吉田寮)史1912-1945。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  75. ^ 新寄宿舎(吉田寮)史1945-1959。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  76. ^ 吉田寮史1960-1968。大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  77. ^ 吉田寮史1968-1978
  78. ^ 吉田寮史1978-1998
  79. ^ p.53以降に寄宿舎、以文会、学友会、同学会の設立経緯
  80. ^ 資料編2第2編第7章「戦後の大学生活と学生運動」に京大紛争や在寮期限問題の経緯
  81. ^ 大学文書館「吉田寮関係資料Ⅱ」に収録
  82. ^ 佐久間毅教授の民法の講義に突如「上半身にペインティングを施したり、仮面をかぷったりという異形の集団」が「奇声を発しながら闖入」した事件に関する記事。問題化した理由は仮装決起のアポをとり忘れたため
  83. ^ 1980年以降の吉田寮情勢に触れた「吉田寮史」等
  84. ^ 著者の足立は吉田寮出身者。本書は1980年代、廃寮反対運動を闘っていた吉田寮で流行し、対立する勢力とのディベートで威力を発揮した

出典[編集]

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  280. ^ うわ〜!!!吉田寮ほぼ1000年祭blog
  281. ^ ノーベル物理学賞受賞者・赤﨑勇博士と京都大学 -大学時代に育まれた研究者の芽-京都大学
  282. ^ 京都青春物語

関連項目[編集]

外部リンク[編集]