京都大学吉田寮

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吉田寮正面玄関(2011年12月).jpg

座標: 北緯35度01分21秒 東経135度46分48秒 / 北緯35.0224度 東経135.7800度 / 35.0224; 135.7800

京都大学 吉田寮(きょうとだいがく よしだりょう)は京都大学吉田キャンパス吉田南構内にある学生寄宿舎[1]。吉田寮自治会によって運営される自治寮でもある[1]。築103年の吉田寮現棟は日本最古の現役学生寮、築127年の吉田寮食堂は第三高等中学校の遺構にして、京大最古の大学建築物である[2][3]

京都大学の規程での名称は「京都大学学生寄宿舎吉田寮」[4]。京都大学に他の学生寮がなかった時代は「学生寄宿舎」「京大寄宿舎」などと呼んでいたが、1952年に宇治寮が(1965年廃止)、1954年に女子寮が設置されてからは、他の寮と区別するために「吉田寮」と呼ぶようになった[5]

建築[ソースを編集]

吉田寮はおもに現棟、食堂、西寮の三つの建物からなる。

現棟[ソースを編集]

現棟は木造2階建ての3棟(南寮・中寮・北寮)が並列し、平屋の管理棟(本館)につながる構造である[2][5]。収容定員147名[6]。居室は1人部屋または2人部屋[2]1913年(大正2年)に、山本治兵衛永瀬狂三の設計により、京都帝国大学寄宿舎として建設された。その際には、現在の吉田キャンパス本部構内にあった、旧・京都帝国大学寄宿舎の部材が転用されたことがわかっている[2]

旧・京都帝国大学寄宿舎は木造3階建ての構造であった。外からは大きな屋根のある木造2階建てに見えたが、実際は広い屋根裏部屋があった[7]。収容定員約60名。1889年(明治22年)に、山口半六久留正道の設計により、第三高等中学校寄宿舎として建設された。この建物は1894年(明治27年)からは第三高等学校(旧制三高)寄宿舎として、1897年(明治30年)からは旧・京都帝国大学寄宿舎として使用された。1912年に一度解体され、吉田寮現棟に再構成された。現棟の階段室などには旧寄宿舎の面影がある[2]

耐震性の不足や老朽化に悩まされている。吉田寮自治会は以前より現棟の補修を求めているが、京都大学は応じていない。なお、建築学の専門家らは現棟を明治・大正時代の歴史的建築資産と評価し、補修を度々訴えている[8]。2009年、京都府教育庁指導部文化財保護課は現棟を「京都府の近代和風建築」にリストアップした[9]。2015年5月、日本建築学会近畿支部は京大の山極壽一総長宛に「京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書」を提出した[10][2]。また同年11月には建築史学会が山極総長宛に、現棟の保存活用を求める要望書を送付した[11]

食堂[ソースを編集]

食堂は木造平屋建ての構造である。1889年(明治22年)7月に山口半六久留正道の設計により、山本治兵衛の現場管理のもと、第三高等中学校寄宿舎の食堂として建設された。1894年(明治27年)からは第三高等学校(旧制三高)寄宿舎の食堂として、1897年(明治30年)からは旧・京都帝国大学寄宿舎の食堂として使用され、1913年(大正2年)には吉田寮現棟の竣工にあわせて山本治兵衛により現在の場所に移築された。これらの事実を発見した七灯社建築研究所の山根芳洋は、食堂は京都大学最古の大学建築遺構である可能性が高いと主張した[3][12]。なおこの食堂は1986年から休業している。今では吉田寮自治会の寮生大会や、寮内外のサークルのライブや演劇の会場、作業場などに供されており、吉田寮自治会および食堂使用者会議、厨房使用者会議が管理と運営を行っている[13]。食堂使用者会議・厨房使用者会議に参加し、誠実に話し合うことを条件に、誰でも(寮外者でも)食堂を利用できる。京都大学学生の文化的、芸術的活動の拠点の一つである。現棟と同様、老朽化や耐震性の不足が懸念されていたが、2015年に補修が実現した[14]

西寮[ソースを編集]

西寮は木造3階建ての2棟と鉄筋コンクリート造3階建て(地下1階)1棟からなる混構造である[15]。収容定員94名。2015年4月に現棟と食堂の西側の空き地に建設された[15][16]。吉田寮自治会によれば西寮は現棟の代替施設ではなく、(薬学部付近にあり、1989年に老朽化を理由に撤去された)旧吉田西寮の代替施設として位置付けられている[17]

運営[ソースを編集]

1897年からあった京都帝国大学寄宿舎(現在の本部構内北西寄りにあったもの)の運営方針を受け継ぎ、吉田寮は原則的に学生によって自治されている[5]

かつては南寮・中寮・北寮それぞれから選ばれた総務からなる総務部、代議員からなる総代会、全寮生による総会などの機関を設けて運営された[5]。熊野寮が開寮した1965年、総務部制が終わり、投票で選ばれた執行委員長を中心とする執行委員会制に移行した[5]

意志決定機関は総会と寮生大会の二種類ある。総会は月に2~3回開かれ、定足数はなく、全会一致制である。寮生大会は年に2回開かれ、定足数があり、多数決制である[18]。多数決による迅速な意思決定よりも、話し合いによる合意形成を重視する傾向がある。

日常的な雑務は厚生部、文化部、庶務部の三つの専門部が担当する。寮生は何れかの専門部に必ず属さなければならない。

厚生部の機能は生活水準の維持である。清掃局(大掃除の監督)、石鹸局(石鹸の在庫管理)、補修局(破損個所の把握と補修)、リサイクル局(古紙回収等)、消防局(防火対策)、薬品係(共用薬箱の管理)、衛生局(シャワー室と洗濯場の管理)、備品物品管理局(こたつなどの管理)などの局・係からなる。

文化部の機能は文化的活動の支援である。意匠局(ペンキや文房具、工具の管理)、催事局(寮内イベントの後援)、新聞局(吉田寮新聞の発行)、食堂局(食堂使用者との連絡)、電算局(電気機器のメンテ)、情報局(学内の情報収集)などの局・係からなる。

庶務部の機能は名簿や現金、郵便物等の管理である。印刷機係(輪転機の管理)、自動車係(駐車場の管理)、郵便・荷物局(郵便物の仕分け等)、宿泊係(宿泊台帳の管理)、集金係(寮費の徴収)、大会計(会計)などの局・係からなる。

他の寮内組織には執行委員会、評議会、選挙管理委員会、入寮選考委員会、監察委員会などがある[19]

門限や消灯時刻、起床時刻のような画一的な生活規則はあまりない。その代わり、吉田寮自治会は寮生に対して、寮生活で問題が起きたときは当事者同士で対等に話し合い解決するよう求めており、これが基本的な生活規則となる。寮生同士を対等にするための取組みのひとつとして、年少の寮生は年長の寮生に敬語を使用しないでよい。年長の寮生もタメ口を推奨している[20]

歴史[ソースを編集]

略歴[ソースを編集]

第三高等中学校寄宿舎の竣工[ソースを編集]

1886年、文部省は大阪にあった第三高等中学校愛宕郡吉田村に移転することを決定した[3]。翌1887年、文部省の技師の山口半六と久留正道が同地域で測量調査を行い、第三高等中学校の工事がはじまった[3]。1889年7月、山口半六と久留正道の設計と山本治兵衛の現場管理のもと、第三高等中学校寄宿舎と付設の食堂、便所、厨房、浴室等が次々と竣工した[3]。なお、付設の食堂とは吉田寮食堂のことである[3]。第三高等中学校寄宿舎は現在の吉田キャンパス本部構内、付属図書館の北東付近にあり、百万遍智恩寺と土手を隔てて隣接していた[21]。傾斜のある瓦ぶき屋根のある木造建築で、外からは二階建てに見えたが、実際は広い屋根裏部屋があり三階建てだった[21]。中廊下を挟んで、一階に自修室(自習室)が十五室、二階に寝室が十六室あり、四~五人の相部屋だった[21]

1894年明治27年)6月23日、第一次高等学校令に基づき第三高等中学校は第三高等学校(旧制三高)に改組された。第三高等中学校は廃止され、旧制三高は(高等中学校に匹敵する)大学予科を持たなかったため、学生の大半は京都を去った。これに伴って、第三高等中学校寄宿舎の建物は旧制三高寄宿舎に引き継がれた。

旧寄宿舎の開舎[ソースを編集]

1897年6月18日、京都帝国大学設置に関する勅令が制定された。京都帝国大学は旧制三高を一条通の南側(現在の京都大学吉田キャンパス吉田南構内)に移転させ、旧制三高の校舎や施設をしばらく利用した。1897年9月11日、旧々・京都帝国大学寄宿舎が、京大本部事務室の一角を借りて開舎した。当時の舎生は24名、大学の総学生数は53名だった[7]1898年8月、京大は旧制三高寄宿舎の建物を譲り受けて、旧・京都帝国大学寄宿舎を開舎した。旧々寄宿舎の舎生は旧寄宿舎に、旧制三高寄宿舎の舎生は二本松地区の自由寮に、それぞれ引っ越しした[21]

旧寄宿舎について、初代総長木下広次は以下のように語った。「最初学生の寄宿舎は別に之といふ目的のありて開設したものではなく云はば経済の点に於て下宿より都合よいといふ位のことにて開設されたのである」[22]また、木下は旧寄宿舎の管理運営を舎生自身に任せ、敢えて積極的に干渉しようとしなかった。これは木下が、学生を大人君子として扱い、自重自敬、自主独立を期待して、学生の指導では細大注入主義をとらないと決心していたからだった[21]木下の教育方針に従い、京大当局は旧寄宿舎に規則と役職を設けず、入舎希望者は入舎願書の届け出順で欠員が出来しだい入舎できた[21]。にもかかわらず、旧寄宿舎ははじめ、問題なく管理運営された。学生数が非常に少なく学生と教師がみな顔見知りであったこと、京大の創立を成功させようと学生と教師が一致団結していたことが理由だと考えられている。ただし、それはほんのわずかな間だけだった。 [22]

京都帝国大学が新たな学科を設置し、学生数が急増すると、学生と教師の一体感は容易に失われた[22]。日露戦争の前後、日本全国の学校教育機関で学生風紀の緩みが問題になり、京大や旧寄宿舎でも同様の現象が見られた。京大全体ではカンニングや高等任官試験の落第者が増加する傾向が見られた。旧寄宿舎でも自習室で俗謡を歌う、「コスメチック」でおめかしして夜遊びに行く、人目を気にせず猥談する、寮費や食費を滞納するなどの問題行動が多発した。旧寄宿舎が規則と役職をもたず、入舎希望者を無条件で受け入れていたことが、自由を好む学生の入舎と、秩序を好む学生の退舎を招き、舎内の無秩序化をエスカレートさせたのだった。また、旧寄宿舎は風紀以外にも多くの問題を抱えていた。旧寄宿舎には舎生同士の連絡の仕組みがなかった。このため新入の舎生と在来の舎生が知り合えず、相部屋の相手が何という名前なのかを知らないまま半年過ごすのも珍しくなかった。寝室だけで生活して居るものや、自習室に何週間も来ないもの、勝手に住んでいるものもおり、舎生にも誰が舎生で誰が舎生でないのかを見分けるのは困難だった。学内外の人々が旧寄宿舎を「堕落の標本」「濁流の源泉」「百鬼横行」などと表現していたことからも、その荒廃ぶりが伺える[7][22][21]

日露戦争の終結した1905年の秋、この状況に危機感を持った北田正平外山岑作平野正朝勝山勝司ら「寄宿舎改革グループ」は、旧寄宿舎に秩序をもたらすために立ち上がり、舎生の自由を束縛しない範囲内で規約を作ること、舎内の事務を整理する役職を設置すること、秩序を乱した者を罰することの三点を舎生全員に対して建議した。この改革案を議論するために、臨時で舎生の総会が開かれた。旧寄宿舎が出来てからというもの、これほど多くの舎生が真面目に物事を議論するために集まったのは初めてのことだった。しかし大多数の舎生は、これに反対であった。数人の舎生は「大學の寄宿舎は斯かる幼稚なる規則を設く可き處に非ず」「今一時の弊に鑑みて規則を設けんとするが如きは寄宿舎根本の理想を没却するものなり」と理想的見地から反対するとともに、「之れ(舎の腐敗)は舎生が悪いからであって舎生の淘汰を行ひて善良なる舎生のみとすれば現状の儘で少しも差支なし」と主張した。なお、大半の舎生は個人主義(個人の自由)は集団主義(集団の秩序)に優越するので規約も役職も必要ないという旨の主張をした。結局、総会は提起者を除くほぼ満場一致でこの改革案を葬りさった[7][22]

自彊会結成[ソースを編集]

しかし北田らは諦めず、今度は旧寄宿舎を含む、京大全体の気風革新を目指す学生運動を始めた。彼らは最初に運動の母体となる新しい学生団体「自彊会(じきょうかい)」を結成した。自彊とは易経の中の言葉で「みずから励まして努力する」の意である。自彊会の目的は、一つは会員同士が助け合い、切磋琢磨して終生の「正義の人」となること、もう一つはもちろん学内外の気風を革新することだった。自彊会は12月4日の発起人熟談会には36名、10日の発会式には42名を集め、順調な滑り出しを見せた。発会式には木下総長や石川学生監、荒木寅三郎新渡戸稲造仁保亀松などの教職員も訪れた[23]

一時閉鎖事件[ソースを編集]

木下総長は以前から旧寄宿舎の腐敗を憂慮し、色々と矯正の道を講じていたらしいが、直接的な介入は避けていた。しかし木下は、この総会で舎生が自治を実質的に拒否する姿勢を明らかにしたのを目の当たりにし、旧寄宿舎に自浄能力なしと判断したとみられる。同年12月15日、木下は旧寄宿舎の一時閉鎖を宣言し、12月29日までに退去するよう全舎生に命令した。一部の舎生はこれに反発し、閉鎖の不合理を訴えたり、木下と学生監を攻撃する演説をしたりした。そしてついには木下と石川一学生監(現在の学生担当副学長にあたる)の辞職勧告書を作成し、舎生数十名が連名し、木下らに手渡しに行った。舎生たちはこの期に及んでも組織だっておらず、まるで烏合の衆であり、強固な団結も覚悟もなく、一部の強硬な反対派に付和雷同していただけだった。辞職勧告書を突き付けられた木下らはこう答えたとされる。「(前略)学生いやしくも長上を弾劾する以上は必ずや真剣の覚悟ありて来りしなる可きにより当方に於ても同じく真剣を以て深く自ら省み考ふる処ある可きも万一自ら省みて不都合なしと信ずる場合には当方にも相当の決心あり。いやしくも勧告書を提出する以上は我去るか諸君去るかの何れかあるのみ。(後略)」 木下らの剣幕に怯んだ舎生たちは辞職勧告書を叩き付けることができず、返答の猶予を乞うて早々に退散してしまった[21][22]。「退学を賭けてまでやる馬鹿はいない」と、舎生たちはそれ以上の抵抗を諦め、期日までに旧寄宿舎を退去した[7]

旧寄宿舎の再開と、自治のはじまり[ソースを編集]

1906年1月、木下総長は旧寄宿舎を再開し、新たな舎生を募集すると告示した。寄宿舎が「学生ノ研学修養上重要ナル一機関」であるためには、「規律アリ制裁アル一ノ切磋団体」を作らねばならず、その基礎を固めるためにも、今度は入舎希望者の中から学生監に相応しい者を選抜させるとした[7][22][23]。 学生監は実際に入舎選考を行い、2月8日までに58名の新入舎生を入舎させた。なお、半数の29名は北田ら自彊会の会員が占めていた[23]。大学当局は自彊会に旧寄宿舎の運営を委託したという見方ができる。

新入舎生たちは木下の期待に応えようと意気込んでおり、2月10日の入舎式では一致団結して学風刷新を実行する旨を宣言した。舎生たちはまず、自治組織の整備に着手した。意思決定機関は「舎生総会」と「総代会」に定められた。舎生総会は定足数があり、多数決制だった。総代会は各部屋を代表する十数名の「総代」からなっていた。総代会は「専務総代」三名を互選して、日常の事務の執行にあたらせた。総代会は「共同生活を害するもの」に「相当の制裁」を加える権限も持っていた。専門部の園芸部も設けられた。舎生の募集は年中行い、入舎希望者の入舎の可否は、総代会の諮詢(しじゅん)を経て、学生監が決定することになった[7][22]。 最初期の入舎選考のシステムは次のようなものであった。入舎希望者が入舎願を学生監に提出すると、学生監は総代会にその者を入舎させるべきか意見を求めた。総代会はその者の素行を周囲の人間に聞きまわり、問題が無さそうなら直接面接し、入舎志望の動機や入舎後の決心と覚悟、学生生活等について質問をした。その結果、旧寄宿舎の理念に沿う人物と認められれば、学生監にその者を推薦し、学生監は総代会の推薦を理由に入舎を許可した。実質的には、舎生が入舎の可否を決定する仕組みであった。その理由は、入舎希望者の適性は、(寄宿舎に住んでいない)学生監よりも(実際に住んでいる)舎生の方がよく見極められるからだとされた。総代会は、舎生と主義主張が近く、なおかつ学風刷新に熱意を示した者は推薦し、主義主張の異なる者、熱意のない者は定員に余裕があるときでも推薦しなかった。入舎志望の動機を聞かれて「苦学生で、家賃の安さを求めて」と答えるような者は片端から落としたという。このことからも、当時の舎生たちは木下の新たな告示に従い、旧寄宿舎を福利厚生施設ではなく、京大生の模範の「切磋団体」にしようとしていたとわかる[7][22][21]

舎生たちは「切磋」のための交流活動も重視していた。舎内雑誌の回覧や茶話会、思想交換会を通じて意見をたたかわせたり、松茸狩りや紅葉狩り、兎狩りを通じて親睦を深めたりした[21][22]。また、日常生活においても切磋の機会はあったようだ。旧寄宿舎では専門分野を異にする学生がひとつ屋根のもと親密に交流しているため、学生は他の学生から専門外の知識を吸収して学識を広げられる、と寄宿舎改革グループの外山は書いている[7]当時の京大では、分野横断的な学習・交流の機会は珍しかったのだろう[要出典]

再開直後の旧寄宿舎では集団主義(集団の秩序)を自治を発展させる美徳、個人主義(個人の自由)を自治を腐らせる悪徳とみなす価値観が広く共有されていた。この価値観は自彊会創設メンバーのものに他ならない。しかし再開から数年が経過し、舎生の顔ぶれが入れ替わると、個人主義を忌避することに疑問を呈する者も現れるようになった。1910年2月、舎生大山壽は「寄宿舎誌」第一号に「切磋団体問答」という文章を発表した。大山は「個人主義は個人中心主義であると同時に個人開発主義である」と定義し、「個人の開発あつて初めて団体の発展があり、個人を重し之を中心とする時に初めて団体に活気を生すると思ふ。個人主義は寧ろ奨励すべきもの、否な奨励する必要があると思ふ。吾が舎にして今個人主義の意義を明らかにしその上に基礎を立てなければ永久の発展は望み難いと思ふ」と個人の自由の尊重を訴えた[22]。1911年2月には舎生佐藤穏徳が「舎誌」で寄宿舎の理念をばっさりとこき下ろした。「当時の舎生が望んだ切磋、而して今の舎生が継承した切磋といふのは、誰もかれも一つ型にいれるといふのである。はまらない所は実際に切り去らうといふのである。余つた所はホントにけづり落すといふのである。如何なる舎生も剛健になれ、己に克て、そして国士になれといふのである。僕はドー考えても此切磋観には満足できない」佐藤は以後も茶話会で寄宿舎の理念を批判し続けた[22]

自彊会の衰退、以文会の発展[ソースを編集]

自彊会は最初の数年間、旧寄宿舎の「自治」を主導していた。しかし新規会員の勧誘にあまり熱心でなかったことなどが原因で、現役舎生の自彊会会員は減少し、その影響力も必然的に弱まっていった。自彊会自体もやがて活動を停止した[23]

ただ、自彊会は舎外でも活発に活動しており、そこではかなり多くのことを達成した。たとえば、(それまではほとんどなかった)全学規模の講演会や遠足、茶話会、運動大会などの行事を積極的に開催し、学内の文化的活動の振興に一役かった。医科大学の親睦組織「芝蘭会」(現存)や、理工科大学の親睦組織「同帰会」の設立にも関与した。また、舎生で自彊会会員の土谷厳は1909年の「以文会」の設立を主導した。以文会は、分科大学横断的な知識の交換を目的とした京大初の全学的・文化的学生組織だった。以文会は数年後に「体育会」と合併して「学友会」になり、1940年代には「同学会」に改組された[23]。同学会は戦後、全学学生自治会として機能し、1951年に綜合原爆展を主催した。京大天皇事件荒神橋事件にも関わった。なお、この同学会は、現在活動している「同学会中執」とは関係のない組織である。

寄宿舎移転問題[ソースを編集]

1911年6月29日、山本良吉学生監は突如、旧寄宿舎を1912年7月に閉舎すると発表した。旧寄宿舎は閉鎖後に解体、その部材は近衛地区に開舎予定の「新寄宿舎」に転用するという[21][7]

舎生は完全に不意を突かれた。京大当局は以前から旧寄宿舎を解体・再構成して新寄宿舎を建築する計画を進めていたのだが、学生監は舎生に「新旧両舎並立し互に切磋する可なり」と矛盾する説明をしていたからだった[24]。また移転の発表は、殆んどの舎生が帰省している夏季休暇になされたため、舎生は(寄宿舎移転が既成事実化した)9月に旧寄宿舎に戻ってきてようやく事態に気が付いた[7]。舎生は大学当局に激しい不信感を抱き、学生監を問いただした。すると学生監は、移転は財政難が理由だと答えた。「新旧寄宿舎の並立は一年の経費をして余りに多額ならしめ本学の財政は之を許さず(後略)」しかし京大はそのとき、故木下広次初代総長の邸宅を移して、跡地に総長官舎を多額の費用を投じて建築しようとしていた。京大の「建築係」(山本治兵衛の可能性)も旧寄宿舎を新寄宿舎の材料にするのは却って不経済であると言っていた[25]。舎生は財政難は本当の理由ではないと感じたが、京大から旧寄宿舎が一時的に消滅する事態だけは防ごうと、以下の三つの要求をした。一年間の閉舎中に仮寄宿舎を建設すること、仮寄宿舎が許されなければ舎生の結合保持のための補助を行うこと、さもなくば寄宿舎を二分して、逐次、新寄宿舎の棟を建設することで空白期間を防ぐこと。だが学生監は財政難と評議会の決定を理由に要求を拒絶、取りつく島もなかった[21][7]

寄宿舎の移転は三代目京大総長菊池大麓の意向だったと言われる。菊池は青少年の健全な育成に切磋琢磨が必要であることには同意していたが、少なくとも新寄宿舎は「切磋団体」である以前に、学生とくに優秀な学生の福利厚生施設にしたいと考えていた。寄宿舎が入舎選考権を持つことにも否定的だった[22][21]

12月15日、菊池総長は舎生と談話会を開き、概ね学生監と同じ説明をした。新旧寄宿舎の並立は財政上不可能である、新寄宿舎は特待生と旧寄宿舎舎生を優先的に入舎させる、ただし新寄宿舎は京大当局が直接監督し、(舎生が実質的な決定権を持つ)入舎選考も改める可能性がある等々。しかし大方の舎生は、新寄宿舎が勉強が出来る者なら無条件で入舎させることや、舎生を入舎選考から締め出す可能性が高いことに激しい嫌悪感を持った。舎生千秋二郎は従来の入舎選考を「此制度は実に完全なる自治制の根源なり」とし、「新舎の制度には絶対に容れられず」と書いた[7]。だが移転の阻止も不可能と判断されたため、舎生は舎生総会を開いて「寄宿舎舎生団体」を(京大当局に解散される前に)舎生自ら解散することを決議した。また、新寄宿舎には「高等下宿屋」以外の価値を見いだせないとして、旧寄宿舎と新寄宿舎の絶縁も決議した。舎生は精一杯怒りを堪えていたが、OBの中には「無能無智なる当局者」「クーデター」と直接的に京大当局を非難する者もいた[21]。舎生とOBは1912年2月10日に寄宿舎舎生団体の解散式を行った。式中、出席者らは悔し涙を流していたという[7]。やがて旧寄宿舎は解体され、その木材を使用して吉田寮現棟が建てられた[21]

新寄宿舎(吉田寮)の開舎[ソースを編集]

1913年秋、新寄宿舎が竣工した。この寄宿舎は約500坪の敷地に木造2階建ての3棟(南寮・中寮・北寮)が並列し、平屋の管理棟(本館)につながる構造だった。各寮には「特別自習室」を兼ねた「病室」一部屋と、甲乙二種類の「舎生室」が約四十部屋あった。甲室は八畳又は十畳の二人相部屋、乙室は六畳の一人部屋だった。(甲室の数は少なかった)部屋は全てが南向きで、風通しも良かった。管理棟には学生監室、事務室、会議室、医局、閲覧室、談話室、湯呑所があった。談話室には碁盤、集会所にはピアノ、オルガン、ピンポン等の娯楽用品が置かれていた。また、舎内には二つも売店があり、片方は飲食物(牛乳、「コヒー」、茶菓子、麺類、しるこ)を、もう片方は文房具を販売していた。付属建築物には食堂、賄所、洗面所、浴場、小使控所等があった。防火設備も完備されていた[26]。専属の守衛と事務員もいた。

新寄宿舎は非常に充実していたが、これは京大当局が新寄宿舎を、国家の将来を担うエリート学生のための高級アパートとして設計していたためだった。京大当局は「特待生」「一芸一技に秀でた者」など相応しい者を選抜、優先的に入舎させた[21]舟岡省五など旧寄宿舎の舎生十数名も、入舎が認められた[21]。新寄宿舎には1913年11月時点で117名の舎生がおり、そのうち1年生は54名、2年生は45名、3年生以上は18名だった。一方、旧寄宿舎組は十数名全員が3年生以上だった[27]。当時の寄宿舎には長幼の序があったから、旧寄宿舎組はごく自然に新寄宿舎の指導的立場におさまった[21]

開舎式から何か月も経たないうちに、新寄宿舎は旧寄宿舎のそれに似た自治組織を擁するにいたった。意思決定機関として「総会」と総代会が設置された。総会には定足数があり、多数決制であった。総代会は各寮の各部(1部~4部)を代表する12名の総代からなった。また、各寮は二名ずつ「総務委員」を選出して「総務部」を組織、日常の事務の執行にあたらせた。専門部の園芸部、衛生部も作られた[28]。山本学生監は自ら入舎希望者と面接し、入舎選考に舎生を関与させなかったが、舎生は入舎選考権の再獲得を将来的な目標とし、寄宿舎自治の拡充に取り組んだ[21]。そして1918年、山本が学習院教授に転任すると、舎生は新任の学生監を説得し、入舎選考に舎生を関与させることを認めてもらった。舎生(総務委員)三名と学生監が入舎希望者と面接し、投票で入舎の可否を決するというものだった。舎生は一人一票、学生監は二票をもった。選考の方式には幾度か変更が加えられたが、寄宿舎と京大当局の共同入選は1965年頃まで続けられた[21][7]

沢柳事件[ソースを編集]

京都帝国大学では学問の自由大学の自治の観点から、慣行的に、教授の任免を教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長を中心に結束し、「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳総長に反旗を翻した。澤柳総長と法科の対立は徐々に激化し、翌1914年1月15日、法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言する事態に発展した[29]

築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動に巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数の六十名弱は法科に所属していたからである。教官を失いそうになった法科学生は直ちに行動を開始した。同15日、法科学生は臨時の学生大会を開催し、最初に32名の委員を選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった。続いて「吾人京都法科大学々生は誓て教官の留任を期す」こと、委員11名を東京に派遣することを決議した。上京委員は東京行の汽車に飛び乗り、翌16日午後には東京新橋に降り立った。一方、京都残留委員は新寄宿舎の会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点に運動をした。舎生の半数が事件の当事者だったこと、(当時にしては珍しく)電話が通じていたと思われることなどが理由と考えられる。17日、上京委員は早速、澤柳総長と奥田義人文部大臣を訪ねて、意見交換や陳情を行った。京都残留委員は第一回学生大会の決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問の独立の為に、誓て教官の留任を期す」に修正する案を次回の学生大会に附すと決め、委員2名を東京に追加派遣した。18日、上京委員は「本事件の解決は必ずや名士の仲介によるべき」と予想し、学会の名士といわれる人々を訪ね、仲介を要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会が叶わないのは悩みどころであった。19日、上京委員はこの日、元文相で前総長の菊池大麓と、元文相の濱尾新を訪ね、菊池には面会を拒否されたものの、濱尾との面会はかない、充分に思うところを述べることができた。一方、京都では二回目の学生大会が開催され、決議文の修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞が法科を糾弾し、有識者が京大法科の廃止や東大法科との合併を主張するなどしており、法科学生はひどく気分を悪くした。20日、三回目の学生大会が開催され、以下の決議文が採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官の主張にして容れられざらんか、誓て教官各位と進退を共にせんことを期す」情勢を変えるための博打であった。21日、上京委員は法学者の岡松参太郎を訪ねた。本来、法学者の富井政章を訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方、法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し、不退転の決意を固めた。また奥田文相と再度の会見をするため、三名の委員が宣言書を携えて上京することとなった。22日、上京委員は三名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し、宣言書を手渡して学生の決心が固いことを伝えることに成功した。委員らは相当な手応えを感じたようだ。同日には富井政章と、同じく法学者の穂積重遠が仲介に乗り出してくれるという嬉しいニュースも入ってきた。委員らは予想の的中を喜び、以後の運動を停止し、状況を静観することとした。そして23日、奥田文相は「教授ノ任免ニ付テハ総長カ職権ノ運用上教授会ト協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科が主張する)教授会自治を認め、連帯辞職・退学は未然に回避された。28日、最後の学生大会が開かれ、経緯と会計の報告が行われた。辞職を撤回した教官たちの姿もあった。事件の円満解決に一同嬉々としており、仁保学長の挨拶の後、全員で法科大学万歳を三唱した[30]。奥田文相に梯子を外された澤柳総長は同年四月に辞任、京大を去った。この事件を機に、京大を含む、国内の大学の自治と学問の自由は大きく前進したとされる。京大では総長の学内選出も行われるようになった。

ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度、手書きの舎内雑誌(京大大学文書館所蔵)を作成していたが、1914年1月のみ「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島の大爆発と沢柳事件についての記事や落書きなどが多数収録されている。

スペインかぜ集団感染[ソースを編集]

1918年から1920年にかけて、強毒性インフルエンザスペインかぜが大流行し(パンデミック)、全世界で少なくとも五億人が感染し、五千万人から一億人が死亡する大惨事になった。京大寄宿舎(吉田寮)の衛生部は、寮内を消毒したり、医学部の教授を招いて公衆衛生の勉強会を開催したり、衛生部員を臨時増員したりしてこの事態に対処しようとした。しかし1918年の秋、寮内で患者が発生し、間もなく全寮生の半数が寝込む集団感染に発展してしまった[7]。非常に高い死亡率にもかかわらず、寮生に死者はなかった。なお旧制三高の初代校長・折田彦市はこの病気で命を落としている。

ところで90年後の2009年新型インフルエンザが大流行したときには、厚生部の石鹸局が事態に対処した。石鹸局は、患者の早期発見、早期隔離を軸にした感染症対策プランを策定したが、今度も大勢の寮生が寝込んだ。

京都学連事件[ソースを編集]

「募集停止」問題[ソースを編集]

2015年7月、京都大学は吉田寮自治会および現棟の居住者に対して、現棟の耐震性に不安があることを理由に、新規入寮者募集を停止することと、順次新棟に転居していくことを要求した[31]。これに対して吉田寮自治会は、新規入寮者募集の停止は学生の福利厚生の縮小につながること、入寮募集の停止措置が大学が学生寮を廃寮に追い込むときの常套手段であること、吉田寮は数十年前から現棟の補修を要求してきた(にもかかわらず大学は補修を行わず、老朽化問題をさらに深刻化させた)ことなどを理由に抗議した[32]。なお京都大学が入寮を禁じたわけではなく、2015年秋と2016年春秋の新規入寮者募集は例年通り実施された。2017年春の募集も通常通り実施される予定である[33]

年表[ソースを編集]

明治[ソースを編集]

  • 1889年
    • 7月 第三高等中学校寄宿舎と付設の食堂(後の吉田寮食堂)、便所、厨房、浴室等が竣工
    • 9月 第三高等中学校の移転が完了、開業式
  • 1897年
    • 6月18日 京都帝国大学が創設
    • 9月11日 旧々・京大寄宿舎が本部事務室の一角で開舎
    • 9月13日 京都帝国大学が開講
  • 1898年
    • 8月 旧制三高寄宿舎の建物で、旧・京大寄宿舎が開舎
  • 1900年代 「風紀の乱れ」深刻化
  • 1905年
    • 12月 自彊会結成
    • 同月 木下広次初代総長、風紀の乱れを理由に全舎生に退舎命令。一時閉鎖事件
  • 1906年
    • 1月 入舎希望者を募集
    • 2月10日 入舎式。寄宿舎再開
    • 同年 規則と役職の制定
  • 1909年 以文会結成
  • 1911年6月29日 大学当局、寄宿舎の新築移転を突然発表。寄宿舎移転問題

大正[ソースを編集]

  • 1912年
    • 2月10日 旧寄宿舎解散式
    • 7月15日 旧寄宿舎閉鎖
  • 1913年
    • 同年 現・寄宿舎(現棟)が竣工。食堂も移転
    • 9月11日 寄宿舎が開舎
    • 10月1日 開舎式
    • 同年 舎生規約の制定
  • 1914年1月 沢柳事件
  • 1919年 スペインかぜ集団感染

昭和[ソースを編集]

平成[ソースを編集]

  • 1990年7月 留学生に入寮を許可
  • 1991年 全京大生に入寮を許可
  • 2000年代 現棟と食堂の建築学的価値が明らかに
  • 2005年 食堂のイベント使用を停止
  • 2006年 「アクションプラン」騒動
  • 2008年
  • 2009年 「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」騒動
  • 2010年 アニメ四畳半神話大系ロケ
  • 2011年9月 「やったね!吉田寮ほぼ100周年祭」開催
  • 2012年
    • 4月 吉田寮食堂問題
    • 9月18日 食堂の補修と新棟の建設が決定。現棟の補修は継続協議
  • 2013年
    • 9月 「うわ~!!!吉田寮ほぼ1000年祭」開催
    • 10月1日 開寮100周年
  • 2014年
  • 2015年
    • 3月 食堂の補修が完了
    • 4月 西寮が完成
    • 7月28日~ 「募集停止」問題

脚注[ソースを編集]

  1. ^ a b Yoshida-ryo: Dilapidated, decrepit and downright dirty , CNN Travel, By Roy Berman 4 May, 2010
  2. ^ a b c d e f 150529: 京都大学吉田寮の保存活用に関する要望書(近畿支部) 日本建築学会 2015年5月29日
  3. ^ a b c d e f 京都大学寄宿舎吉田寮食堂建築物の調査実測によるその京都大学内で最古の建築物である実証 山根芳洋 七灯社建築研究所
  4. ^ 京都大学学生寄宿舎規程 昭和34年2月10日
  5. ^ a b c d e 京都大学大学文書館『吉田寮関係資料』解説・目録 京都大学大学文書館 2009年 所収 河西秀哉「『吉田寮関係資料』について」
  6. ^ 各寮の概要・諸経費 — 京都大学
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 京都帝国大学寄宿舎史 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  8. ^ 京大吉田寮、学会が保存要望 現役最古「建築史的に希少」 2015年11月30日 22時30分 京都新聞
  9. ^ 京都府の近代和風建築 : 京都府近代和風建築総合調査報告書 京都府教育庁指導部文化財保護課 2009年
  10. ^ 現役最古・京大吉田寮の保存要望 建築学会近畿支部 2015年5月29日 22時00分 京都新聞
  11. ^ 京大吉田寮、学会が保存要望 現役最古「建築史的に希少」 2015年11月30日 22時30分 京都新聞
  12. ^ 〈企画〉京都大学学生寄宿舎吉田寮食堂建築が文部省営繕設計による現存最古の建築である実証(2012.11.01) 京都大学新聞 2012年11月1日
  13. ^ 吉田寮入寮案内WEBパンフ 2010年
  14. ^ 吉田寮食堂 補修終わる 足掛け5年の議論が結実(2015.04.01) 京都大学新聞 2015年4月1日
  15. ^ a b 吉田寮新棟完成する 50年ぶりの学生寮増棟 京都大学新聞 2015年5月16日
  16. ^ 京大吉田寮「募集停止」で溝 築百年の旧棟、学生反発 2015年07月31日 08時03分 京都新聞
  17. ^ 2015年4月21日の朝日新聞による吉田寮新棟記事に関する意見表明 2015/06/15
  18. ^ 吉田寮入寮案内WEBパンフ 2010年
  19. ^ 吉田寮入寮案内WEBパンフ 2010年
  20. ^ 吉田寮入寮案内WEBパンフ 2010年
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t [京都大学の世紀1897-1997 p.401~411 京都総合研究所 紫翠会出版 1997年]
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m 京都帝国大学における寄宿舎「自治」の成立とその変化 富岡勝
  23. ^ a b c d e 学生団体「自彊会」による京都帝国大学の校風改革運動 冨岡勝
  24. ^ 京都帝国大学寄宿舎史 p.94 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  25. ^ 京都帝国大学寄宿舎史 p.89 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  26. ^ 京都帝国大学寄宿舎史 p.107 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  27. ^ 京都帝国大学寄宿舎史 p.108 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  28. ^ 京都帝国大学寄宿舎史 p.107 京都大学寄宿舎舎史編纂委員会 1986年
  29. ^ 京都大学百年史
  30. ^ 京都大学百年史 資料編 p.257~
  31. ^ 吉田寮自治会への通知について 2015年07月29日 京都大学
  32. ^ 2015年8月4日に吉田寮自治会が京都大学当局に対して出した抗議声明文
  33. ^ 吉田寮公式サイト

関連文献[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]