藤井種太郎
表示
藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)11月22日[1] - 1968年(昭和43年)6月22日[1])は、日本の教育者。宮中顧問官。文学博士。
経歴
[編集]兵庫県出身。1903年(明治36年)、陸軍歩兵少尉となり、日露戦争では歩兵第40連隊に属して出征し、中尉に昇進した。1908年(明治41年)、広島高等師範学校英語部を卒業し、さらに1911年(明治44年)に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。明治専門学校(現在の九州工業大学)生徒監・教授を務め、1918年(大正7年)に学習院教授に就任。さらに広島高等師範学校教授、広島文理科大学教授を歴任した。1932年(昭和7年)からは宮内省に入り、皇后宮職、皇子御養育掛長を務め、1937年(昭和12年)に宮中顧問官に任命された。さらに内親王傅育掛長を務めた。また1933年(昭和8年)には文学博士号を受けた。
戦後は福岡学芸大学(現在の福岡教育大学)学長を務めた[2]。
著書
[編集]- 『カント倫理の批判』(目黒書店、1934年)
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。