矢野事件

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矢野事件(やのじけん)、または京大・矢野事件(きょうだい・やのじけん)は日本事件。日本の大学における初めてのセクシュアルハラスメント事件として話題となった。

概要[編集]

1993年1月12日、京都大学東南アジア研究センター所長の政治学者矢野暢教授(当時)は、同センター職員の妹を秘書として採用するに当たり、この女性を京都のホテルの地下のバーに誘い、「私はこういう風に疲れたときは、『先生、今日は一緒に飲みに行きましょう』とか『先生、今日は添い寝してさしあげましょう』とか言わなければならない。それが秘書の役割だ」と要求。女性に「私には恋人がいるから」と拒絶されると矢野は立腹し、「能力もないし、とびきり美人でもないのに雇ってやろうと言っているのにお前は断るのか」「男がいるような妹を紹介したお姉さんもお姉さんだ。責任をとってもらう。私は所長だからやめさせることは簡単だ」(1995年判決文)と発言。これが学内で問題となり、矢野は「二度とこんなことはしない」という念書を書かされた。

しかしその後も矢野のセクハラは止むことなく、1993年4月に秘書として採用された別の女性は、矢野の東京出張に同行した際、宿泊先の帝国ホテルの部屋で突然抱きつかれ、足を絡められ、服を脱がされそうになる性的暴行を受けた。また、別の秘書は京都グランドホテルエレベーターで抱きつかれ、部屋に連れ込まれそうになったため、「私は矢野教授の愛人にはなれません」と宣言して辞表を出した。同年4月から6月にかけて、矢野からのセクハラ被害を訴えて辞職した秘書は計7人にのぼる。

これに対して、女性職員たちが「事件の真偽の究明と断固たる処置を求める」質問状を事務局に提出。センターが「勤務環境調査改善委員会」を結成し対策に乗り出すと、矢野は同センターを「研究に専念したい」旨をもって辞任した。

しかし1993年12月、元秘書の一人が矢野に強姦されたと弁護士会に申し立て、人権救済を要求した。その訴えによると、元秘書は矢野が別の大学で非常勤講師として教えていたときの学生であり、矢野の著書『「南進」の系譜』に感銘を受けたことから矢野に接近。ホテルのラウンジで「今日は疲れているから部屋で話の続きがしたい」と部屋に誘われた後、顔を殴打され、強引に犯されたという。その後、この女性は矢野の勧めで同センターの秘書となり、「性行為は対等な人間同士がやることであり、君と僕が性的関係を持ったことは東南アジア研究を目指すもの同士の同志的連帯の証である」(1995年判決文)と言い含められ、それから6年間、結婚後も矢野の愛人であり続けた。

この事件をスキャンダルとしてマスコミに報じられた矢野は、1993年12月20日、「一身上の理由」により京都大学教授を辞任。翌日から京都市東山区臨済宗東福寺在家の修行者となったが、当初は1年から3年の修行を予定していたにも拘らず、フェミニスト団体の抗議により40日間で寺から追放された。

矢野は秘書と性的関係を持った事実は認めつつも、相互責任に基づく和姦を主張。1994年、京大への復職や名誉毀損の損害賠償を要求して京都地方裁判所に3件の訴訟を提起したが、自身では一度も出廷せず、1997年に全て敗訴が決定。この間、1996年には単身ウィーンに渡り、ウィーン大学客員教授(無給)となったが、日本に帰国しないまま1999年にウィーンで客死した。

矢野の甥でお笑い芸人の有田哲平くりぃむしちゅー)は、この事件を「親戚にいる大学教授のオジサンを見習えと言われていたが、その人セクハラで訴えられた」とネタにしている。

参考文献[編集]

  • 小野和子『京大・矢野事件―キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの』(インパクト出版会)
  • 甲野乙子『悔やむことも恥じることもなく―京大・矢野教授事件の告発』(解放出版社)
  • 矢野暢『近代の超克―世紀末日本の「明日」を問う』(カッパサイエンス・光文社
  • 新潮452006年11月号「京都大学「日本の知性」矢野教授の秘書セクハラ訴訟」(新潮社)