小錦八十吉 (6代)
小錦 八十吉(こにしき やそきち、本名同じ、1963年12月31日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身で現在は日本国籍(帰化)の元大相撲力士(高砂部屋所属)、株式会社ケーピー所属のタレント。現在はKONISHIKI(コニシキ)の芸名でタレント活動を行っている。他に子供向け教育番組などでコニちゃんの芸名を使用することもある。本名の旧姓は塩田、米国籍時代の本名はサレバ・ファウリ・アティサノエ(Saleva'a Fuauli Atisano'e)。愛称はサリー、コニチャン。現在の体格は身長184cm、体重153kg。血液型はAB型、星座は山羊座。
関取時代のプロフィールは、身長187cm、体重275kg(最重量時は285kg)。得意手は突き、押し。最高位は東大関(外国人初)。横綱を含む幕内力士としては3人目の小錦、十両以下を含めては6人目の小錦である。
生粋のハワイアンではなく、両親はサモアからの移民(ただしポリネシア人の身体形質・言語上の同質性は極めて高い)。10人兄弟の8番目。兄にアントニオ猪木と格闘技戦で戦ったこともあるアノアロ・アティサノエ。親族の中にアメリカのヒップホップグループ、Boo Yaa T.R.I.B.E.のメンバーが居る。
来歴
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1996年5月場所、場所入りする小錦 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 小錦 八十吉 | |||
本名 |
小錦 八十吉 (米国名:Saleva'a Fuauli Atisano'e) | |||
愛称 | サリー | |||
生年月日 | 1963年12月31日(60歳) | |||
出身 | ハワイ州・オアフ島 | |||
身長 | 187cm | |||
体重 | 285kg | |||
所属部屋 | 高砂部屋 | |||
得意技 | 突き、押し | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
生涯戦歴 | 733勝498敗95休(93場所) | |||
幕内戦歴 | 649勝476敗89休(81場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝3回 十両優勝2回 序二段優勝1回 序の口優勝1回 | |||
賞 | 殊勲賞4回、敢闘賞5回、技能賞1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1982年7月場所 | |||
入幕 | 1984年7月場所 | |||
引退 | 1997年11月場所 | |||
引退後 | 佐ノ山親方 | |||
他の活動 | タレント | |||
備考 | ||||
金星2個(千代の富士1個、隆の里1個) | ||||
2007年10月2日現在 |
元大関で現役引退後は当初、年寄・佐ノ山を襲名し高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、人気者だったため、タレントに転向。旧芸名は四股名をローマ字にした「KONISHIKI」であった。「小錦八十吉」は高砂部屋の由緒ある四股名であり芸名としての使用は許可されなかった。その代わり、ローマ字の「KONISHIKIは?」と聞かれて、ローマ字ならOKと許可が下りた。なお、この時点での名字は「塩田」であり、「小錦」と改姓したのはその後、前妻と離婚し再婚した後である。芸名としては認められなかったが本名としては認められた。しかし、2010年5月に今後はハワイアン歌手としての活動を除き、本名の小錦八十吉名義で活動することを自身のブログで公表した[1][2]。
入門〜「ハワイの黒船」
サモア系移民の家庭に生まれ、貧しいながらも敬虔なクリスチャンである厳格な両親の元で育てられた。高校時代はアメリカンフットボールや重量挙げで活躍した。本人は弁護士を志していたようだが、髙見山にスカウトされて昭和57年高砂部屋に入門。初土俵は同年7月場所。新弟子検査では体重計の目盛を振り切ってしまい、急遽もう1台用意して脚を片方ずつ乗せて測定(1台では150kgまでしか測れなかった、105kg+70kgと記録されている)したり腕が太すぎて血圧計が使えないなどの破格振りを示した。
入門すると高砂親方(元横綱朝潮)に押し相撲の基礎を教え込まれる。若い頃は髙見山に稽古をつけられ言葉や習慣の違いについても相談相手になってもらうなどいろいろと世話になったという。また、水戸泉もよき理解者で、水戸泉が優勝した場所では自ら優勝旗手を務めた。小錦も昇進後は後輩の外国出身力士の面倒をよく見たといい、部屋の後輩南海龍の酒癖を大層心配して、飲みに行った際南海龍が席を立った隙に酒とウーロン茶をすり替えてしまったというエピソードなどが伝わっている。後の横綱武蔵丸は入門当初から目をかけられており、ウエイトトレーニング器具を買ってもらうなどしたこともあるという。
入幕2場所目、蔵前国技館での本場所開催が最後だった1984年(昭和59年)9月場所、前頭6枚目の地位で千代の富士、隆の里の両横綱からそれぞれ初金星を奪い、さらに横綱昇進を目指した大関若嶋津も倒すなど上位陣をなぎ倒し12勝3敗、殊勲賞と敢闘賞を獲得し「黒船来航(襲来とも)」「小錦旋風(台風とも)」と恐れられた(千秋楽で大関琴風に敗れたため13勝2敗の平幕多賀竜が優勝した)。この頃が最強だったという見方は根強い。また、この場所で小錦に一方的に敗れたのに発奮した千代の富士は稽古に励んで低迷を脱しており、千代の富士が優勝31回の大横綱となる上で小錦が与えた衝撃は大きな役割を果たしている。一方で、その猪突猛進な取り口や地元紙のインタビューで発言したとされる「相撲は喧嘩だ」発言(「相撲はファイト」と言ったのが誤解されたという)等の過激な発言も「品格に欠ける」として一部で物議を醸し、当時の協会幹部の一人は「あの黒ンボだけは横綱にするな」と発言したという説がある[要出典]他、小坂秀二に至っては「小錦は二場所連続優勝でも横綱にすべきではない」と雑誌の連載で表明していたほどであった。
1986年(昭和61年)1月場所小結で10勝、3月場所同じく小結で12勝を挙げ、大関を懸けた5月場所(この場所は関脇)、当時大関の北尾との対戦で取り直しの一番で小錦がつり上げようとした所で北尾が鯖折りをかけ、両者合わせて400kg以上の体重が小錦の右膝に集中、耐えきれずに骨折した。その後もこの負傷はついに完治せず後遺症に苦しんで、好不調の波が大きくなり、大相撲史上最重量のその身体(当時約240kg)をむしろ持てあますことが多くなった。プッシュ戦法がツボにはまれば無敵だが、一歩間違うと驚くほどもろいという土俵の繰り返しだった。膝の故障でどうしても稽古を減らさざるを得ず、それが体重を増やし余計に膝を悪化させる悪循環になったという。
なお、それから一年後の1987年(昭和62年)3月場所では、当時気鋭の大関であった北天佑との対戦で、皮肉にも北天佑の膝にのしかかる形で致命的な負傷を負わせている。取り直しの一番では、北天佑が膝のケガを痛がっているのを察し、ケガを庇いながらそっと寄り切るという内容で勝利、翌日から北天佑は休場した。
大関昇進
1987年5月場所後に小錦は念願だった大関昇進を果たし、外国出身力士としては史上初めての大関誕生となった(同時に大関北勝海も横綱に昇進)。それから横綱を期待されたものの、膝の故障の影響で1988年(昭和63年)9月場所は3勝12敗という、15日制における大関皆勤最多敗タイ記録(現在は千代大海の2勝13敗が大関皆勤最多敗記録)の大敗を喫し、その直後には面倒を見ていた弟弟子の南海龍が飲酒をめぐるトラブルから廃業し、師匠の高砂親方が死去するなど身辺でも不幸が相次いだ。1989年(平成元年)9月場所にも5勝10敗と負け越し。しかし次の11月場所は絶好調、初日から8連勝して角番脱出、12日目に北勝海に敗戦となり連勝は11でストップしたが、最後まで優勝を争った千代の富士には、13日目の直接対決で勝利する。そして千秋楽では琴ヶ梅に勝って14勝1敗、ようやく悲願だった幕内初優勝を果たした。小錦は髙見山に次いで、史上2人目の外国出身の優勝力士となった。
初優勝を決めた瞬間、小錦は勝ち残りの土俵下で思わず涙を流した。当時のマスコミはその小錦の涙を「歓喜にむせぶ男泣き」と報道したが、実はそれは嬉し泣きではなかった。小錦は引退後に「なぜもっと早く優勝できなかったのか」と、余りの悔しさで思わず泣いてしまったのだ、と説明していた。このコメントは有名なエピソードである。
千代の富士が引退した1991年(平成3年)から安定期を迎え、同年5月場所から翌1992年(平成4年)3月場所にかけて6場所で75勝15敗の好記録を残した。1991年11月場所は13勝2敗で優勝。翌1992年1月場所は12勝3敗、さらに次の3月場所は13勝2敗で優勝。かつての感覚ではこの成績なら横綱になれる所だったが昇進させてもらえなかった。3月場所後、「自分が横綱になれないのは人種差別があるからだ、もし日本人ならとっくに横綱になっているはずだ」という趣旨の記事がニューヨーク・タイムズに掲載された。また、日本経済新聞にも「小錦が横綱になれないのは、人種差別のせいだ。」といった趣旨の記事が掲載された。これらの件に関し、小錦はニューヨーク・タイムズの記事については小錦自身では無く、自身の付き人である幕下力士・高竜(ハワイ出身)が電話で答えたものであり、日本経済新聞の記事についても「人種差別とはいっていない」と弁明した。しかし、これらの新聞記事の掲載対象となった発言が小錦自身によるものではないかという疑惑からバッシングが発生し横綱どころではなくなり、兎にも角にも謝罪する事態に至った。ただし、体重が重すぎて安定期が短かったため、仮に横綱になれたとしても横綱としての地位を守れるほどの実力があったかについては大いに疑問視されており、むしろ横綱になれなかったからこそ、名大関として名を残せたのではないかという意見が一般的である。
その後はショックの影響もあったのか、翌5月場所以降は成績が下降し、最後まで優勝争いに加わることは無くなった。そして1993年(平成5年)9月場所で蜂窩織炎による高熱のため0勝2敗13休と途中休場、同年11月場所に7回目の大関角番だったが6勝9敗、2場所連続で負け越したために、ついに在位39場所で大関の座から陥落してしまった。その大関転落が決まった同場所13日目の対戦相手は、奇しくも同じハワイ出身の後輩だった当時横綱の曙であった。のちに曙は「先輩の大関陥落が決まる日に正直当たりたくなかった。とても辛い恩返しです」と語っている。一方小錦本人は「仕方が無い。でもいつかこの日が来るだろうと前々から覚悟はしていた」と曙とは全く対照的に淡々とコメントしていた。
晩年には突っ張ろうにも足が出なくなっていたため、威力がなく前に落ちやすいので、相手を捕まえて自分の正面に固定して少しずつ運ぶという取り口になっていた。
10勝以上の場所は33場所と、最高位が大関の力士としては魁皇の35場所に次ぎ、歴代横綱と比しても中位に位置する。優勝3回で何度も「綱取り」に手をかけるなど、戦後大関の中でも「最強大関」の一人に数えられる。しかし膝の負傷以降、万全でない場所での大負けがあり、大関時代の勝率では、小錦の.637に対して、同時代の霧島のほうが大関在位は短い(16場所)ながら.647とわずかに上回っている。また、後年の魁皇は、大関在位場所数、優勝回数などで小錦を上回っているものの、勝率では.615と小錦を下回っている。
大関陥落後
翌1994年(平成6年)1月場所、関脇の地位で10勝以上の成績を挙げれば大関に復活できたが、初日から8連敗でストレートの負け越し決定、結局2勝13敗に終わり皆勤場所では自己ワーストの成績となってしまった。次の同年3月場所は、1986年9月場所以来7年半ぶりの平幕(前頭9枚目)に下がったが、8勝7敗と4場所振りに勝ち越しを決めた。その後平幕上位に復活することは何度かあったものの、三役(関脇・小結)以上への復帰は果たせなかった。それでも「三賞候補?そんなのいらないよ、目標は1000萬円だよ」と言ったりしていた(1000萬円は幕内最高優勝の賞金額である)。
それまで大関時代の小錦はどちらかと言えば、若貴兄弟、琴錦ら後進(特に大関候補)に対する憎まれ役を演じ続けていた。しかし大関を陥落してからその後、さらに幕尻近くまで落ちても現役に執着するその姿は、最盛期にも勝る人気を得た。特に同じく大関から陥落していた霧島との平幕対決は、小錦の突っ張りか霧島の投げか目が離せないほどのライバル関係にあり、それは北の湖と輪島に似たものがあった。その良きライバルの霧島との幕内成績は、38回対戦して19勝19敗の全くの五分であった。また土俵上だけでなく悩みがあったときには、この2人は励まし合っていたという。今でも霧島(現・陸奥親方)とは大の仲良しである。また、ハワイ出身の後輩であり横綱に昇進した曙と武蔵丸は、新弟子時代から小錦を大変尊敬していたそうである。
さらに、舞の海との体重差約200kgの異色対戦も、大きな話題になった。初対決は小錦が前頭9枚目だった1994年3月場所で、小錦が勝利した。その2年後、1996年(平成8年)7月場所の対戦では、舞の海が勝ちながらも膝に小錦の体重がまともに圧し掛かり、大ケガをしてしまった。その後、舞の海は2場所連続休場して平幕から十両に陥落するも、1997年(平成9年)5月場所で舞の海が幕内に復帰した時、ずっと心配していた小錦は自分のことのように喜んだという。
前頭2枚目まで復帰した1997年(平成9年)9月場所の11日目横綱貴乃花戦では、その場所全敗(蜂窩織炎による5日間の途中休場分も含む)していたものの、立合いと同時に貴乃花を押し込み、土俵際まで追い詰めた。しかし貴乃花の土俵際からの上手投げに小錦は思わず横転し、惜しくも金星獲得を逃したものの、館内は敗れ去った小錦に万雷の喝采を送っていた。
引退前には怪我のため痛み止め薬を一日10錠も飲んでいたが、これが災いし出血性胃潰瘍を発症、巡業先のホテルで大量に下血。体内の血液を40%も失う危険な状態であったが何とか一命をとりとめた。痛み止めのため発症には気付かず、入院中も厚い脂肪のため外科手術ができない上に、これ以上の投薬は危険と判断され、激痛に耐えながら自然回復による治癒を待つしかない状態だった。なお、この時は風邪による体調不良のため休場と公表していた。
廻しの色は当初は水色、後に黒であったが、後年は水色に戻していた。
現役引退
そして幕尻に近い東前頭14枚目で迎えた1997年11月場所、本人はこの場所限りで勝ち越しても引退することを決め、千秋楽にはハワイにいる家族を呼び寄せる予定でいたという。13日目に琴の若に敗れて負け越しが決まると、取組後に高砂親方(元小結富士錦)の所に報道陣が殺到したため、親方が今場所限りでの小錦の現役引退を示唆してしまう。小錦本人は千秋楽まで土俵に上がる意向だったものの、「死に体で土俵に上がることは許されない」という境川理事長(元横綱佐田の山)の意見により、千秋楽を待たず14日目・三杉里戦の不戦敗を最後に引退することになった。元大関の栃東は小錦が千秋楽の土俵に上がった時に花束を渡そうと考えていたことをスポーツ紙に明かしたが前述の理由より実現できなかった。
現役引退後は、取得していた年寄株を使用して年寄「佐ノ山」を襲名、しばらく高砂部屋付きの親方として相撲協会に残ったが、1998年7月場所を以て短期間で退職した。2007年6月まで、東京新聞夕刊紙上にて「この道」を執筆、横綱昇進問題や南海龍事件など現役時代のエピソードを含めた自分史を自ら語り、今後の進路として音楽プロデューサーの道を歩むことを明かした。
現役中からボランティア活動にも積極的に取り組み、阪神・淡路大震災の復興支援などを行った。1997年には「KONISHIKI基金」を設立し、ハワイの子どもへの就学援助や日本との文化交流に力を注いでいる。横綱にはなれなかったが、その存在感・人気は横綱クラスで、人格者として角界の人気・地位を向上させた。また、初めて外国人大関となった小錦の存在が、外国人力士の評価を高める上で大きく役立ったことも高く評価されている。
エピソード
- 現役時代、ギネスブックの相撲の項目で「最も体重の重いプロスポーツ選手」と紹介されていた。
- 幕内に昇進した当時、(小錦よりは)体格が小柄な大錦という力士がおり、対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった(ただし身長は大錦が186センチと小錦より2センチ大きい)。
- 1998年(平成10年)5月場所後の引退相撲では、小錦最後の取組が行われ、その対戦相手は小錦らと同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。小錦が現役最後の場所となった1997年11月場所、千秋楽の対戦は寺尾との予定で組まれていたが、先述の通り境川理事長の「死に体で土俵には上がれない」という理由により、結局同場所千秋楽の寺尾戦は割り返されて幻となってしまった。その後小錦は、引退相撲で寺尾と最後の対戦を申し入れ、心残りだった寺尾も承諾。そしてその取組では、小錦が寺尾を押し出しての勝利となったが、その取組の後土俵上で小錦と寺尾はがっちりと握手を交わしていた(それ以前にも寺尾は、北勝海と琴ヶ梅の引退相撲で二人共に、最後の取組相手として指名されて勝負していた)。
- 現役時代からそのキャラクターは際立っており、乾電池のCMに出演するなどしてTVへの露出は多かった(なお、大関時代に力士のCM出演が禁止されており、それがなければもっと露出は多くなっていたとされる)。
- 現役時、エアロスミスのアルバム『Big Ones』の裏ジャケットに小錦の取り組み前の姿を正面から撮影した写真が使用され、日本相撲協会から事情を聴取されたことがある。
- 風雲たけし城の「コニシキ君」、漫画『スクラップ三太夫』の「スモウロボ」、『武天のカイト』の「ビッグ・ダディ」、『ああ播磨灘』の「富嶽」など小錦をモデルとする、モデルとすると思われるキャラクターは多い。
- 藤波辰爾や加藤博一と親交があり、藤波の影響で(現役中から)ハワイの青少年育成活動に取り組むようになった。
- 北天佑が死去した際、その弔問にアロハシャツ姿で現れた。なお、アロハは出身地のハワイの正装であるが、日本では「リゾート着」として着用されることが多いために、「礼儀を欠く」と勘違いするものも多かったが、日本相撲協会退職後ということや、ハワイの正装であるということが伝わったこともあり批判は起きなかった(ちなみにハワイでの葬儀の習慣は男性はアロハ、女性はムームーが一般的で、黒い喪服は皆無ではないがそれほど使われない)。
- また、北天佑とは結果的には同時代の大関となったが、現役時代は最大の苦手であったとされる。小錦が北天佑より番付下位の時代だったが、小錦は北天佑から初顔以来6連敗を喫した。勝った「取り直し」の相撲も、前述したとおり「物言いの一番」で北天佑を負傷させてのものであった。北天佑に横綱を狙う力がなくなってからも、小錦はたびたび苦杯を嘗めさせられた。
- 初顔合わせで横綱・千代の富士に完勝こそしたが、その後の取り組みでは千代の富士の躍動感ある相撲に、まるでついていけていない場面が目立ち、最終的な対戦成績は小錦の9勝20敗で大きく負け越してしまい、最終的には横綱との実力差を見せつけられた恰好となった。特に昭和60年春場所に華麗な下手ひねりで敗れた際は悔しさを露わにしていた。
- 中央競馬の馬券の券種である拡大馬番連勝複式の愛称が「ワイド」に決まった際に、その体型にちなんでCMキャラクターとして採用される。なお、後年中央競馬会で「21世紀の名馬」を著名人に挙げてもらった際には、同じ外国出身の馬であるエルコンドルパサーを挙げている(ただしこれは自分がプレゼンターを勤めたレースの勝利馬であるということも影響していると思われる)。
- 国技館に常設されている力士専用トイレの個室便器は、彼が使用すると小さすぎたために、後に陶器メーカーに特注することになったといわれている。
- ゴルフをした時に最初はゴルフシャツを着ていたが、途中で日焼けの痕が残ることを気にして裸になってプレーした(「クイズダービー」第597回(1987年7月4日放送分)の5問目より)。
- 同郷のプロ野球選手ベニー・アグバヤニ(元千葉ロッテマリーンズ)と親交がある。
- 2009年6月22日にゲスト出演した日本テレビ系列おもいッきりDON!にて、自身の宝物として、カール・ルイスのサイン入りNIKE製の陸上競技用スパイクを披露し、1991年の世界陸上東京大会にて、9.86の世界新記録を達成したスパイクを、その場で頂いたものである説明した。しかしながら、1985年以降、カール・ルイスはミズノと契約し、該当、世界陸上においても、当然ミズノ製スパイクで世界新記録を達成している。また、該当大会においては、レース前後とも、スパイクは国際陸上競技連盟による、検査を受けるため、第三者に譲渡することは不可能である。日本テレビは該当大会の独占放送を行っていたため、当時のレースの模様も放送したが、1991年当時には、カール・ルイスの足元から、ランバードのデザイン入りのスパイクを映していたにもかかわらず、おもいッきりDON!では、カール・ルイスの足元は写すことはなかった。当時、ミズノ社が行ったスパイク開発をNHKのプロジェクトX〜挑戦者たち〜の第8回放送「カール・ルイスの魔法の靴 超軽量シューズ・若手社員の闘い」にて 特集している。KONISHIKIが所持するスパイクは、1984年ロサンゼルスオリンピック時のNIKE製カール・ルイスモデルと思われる。
減量
相撲協会退職後はたびたびテレビ番組の企画でダイエットに挑戦したが、減量とリバウンドの繰り返しであった。2008年2月、ついに体重が300kgを超え、現役時代に傷めた膝を手術するにも支障がでることから、半年間の食習慣改善および講習の末に胃の縮小手術を受け[3]、3か月で70kg減量し230kgになった[4]。2009年7月には174kgまで減量し[5]、それまでは座って行っていたコンサートでの歌唱も立って行うことが可能になった[6]。さらに、減量によって余剰となった皮膚の切除を決意するものの、脈が1分間に38しかないスポーツ心臓の持ち主だったため、術中術後管理の困難さから手術を承諾する病院捜しに難航するも、結局10時間を費やす大手術によって21kg分を切除したことによって体重は153kgとなり、既製服も着ることができるようになった。また、この減量により、複数回に渡る膝の手術も行い、歩行も改善されている。
最終目標は130kgに設定している(医師が設定した理想体重は135kg前後)。現在本人は至って健康体であるが、結果としてあまりにも急激な減量に成功したためか、詳細を知らぬ人物から「どこか具合でも悪いのですか?」と心配される声も多いという。後妻との結婚により、長生きをしたいと思ったことが、この減量を支える決意になったと語っている。
- 2008年3月 … 300kg
- 2008年6月 … 230kg
- 2009年7月 … 174kg
- 2009年末頃 … 153kg
略歴
- 1982年7月場所 - 髙砂部屋入門、初土俵。
- 1983年11月場所 - 新十両。
- 1984年7月場所 - 新入幕。
- 1984年9月場所 - 初の金星(隆の里・千代の富士)、初の三賞(殊勲賞、敢闘賞)受賞。
- 1984年11月場所 - 新三役(小結を飛び越えて関脇に昇進)。
- 1987年7月場所 - 大関昇進。
- 1989年11月場所 - 初の幕内最高優勝(14勝1敗)。
- 1991年11月場所 - 2度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
- 1992年3月場所 - 4人による優勝争い、千秋楽に2敗同士の大関霧島との相星決戦を寄り倒しで下して3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
- 1993年11月場所 - 大関陥落。
- 1997年11月場所 - 現役引退、年寄・佐ノ山を襲名。
- 1998年5月 - 小錦引退佐ノ山襲名大相撲(断髪式)。
- 1998年9月 - 日本相撲協会を退職、タレントへ転向。
大相撲時代の成績
通算成績
- 通算成績:733勝498敗95休
- 幕内成績:649勝476敗89休
- 幕内在位:81場所(当時歴代3位タイ、現在7位)
- 大関在位:39場所(当時歴代3位、現在5位)
- 三役在位:12場所(関脇9場所、小結3場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:12場所(1986年9月場所~1988年7月場所)
- 幕内2桁連続勝利記録:6場所(1991年5月場所~1992年3月場所)
- 連勝記録:22(1982年7月場所4日日~1983年3月場所10日目・前相撲→三段目時代)
各段優勝
- 幕内最高優勝:3回(1989年11月場所、1991年11月場所、1992年3月場所)
- 十両優勝:2回(1984年3月場所、1984年5月場所)
- 序二段優勝:1回(1982年11月場所)
- 序ノ口優勝:1回(1982年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:10回
- 殊勲賞:4回(1984年9月場所、1986年9月場所、1986年11月場所、1987年1月場所)
- 敢闘賞:5回(1984年9月場所、1985年5月場所、1985年11月場所、1986年1月場所、1987年5月場所)
- 技能賞:1回 (1986年1月場所)
- 金星:2個
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1982年 (昭和57年) |
x | x | x | (前相撲) | 東序ノ口32枚目 優勝 7–0 |
西序二段56枚目 優勝 7–0 |
1983年 (昭和58年) |
西三段目50枚目 6–1 |
西三段目2枚目 6–1 |
西幕下28枚目 6–1 |
西幕下8枚目 4–3 |
東幕下6枚目 6–1 |
西十両12枚目 11–4 |
1984年 (昭和59年) |
東十両3枚目 4–5–6[7] |
西十両10枚目 優勝 13–2 |
東十両2枚目 優勝 11–4 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭6枚目 12–3 敢殊★★ |
西関脇 5–6–4[7] |
1985年 (昭和60年) |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭3枚目 8–7 |
西小結 12–3 敢 |
西関脇 9–6 |
東関脇 休場 0–0–15 |
西前頭9枚目 11–4 敢 |
1986年 (昭和61年) |
西小結 10–5 |
東小結 12–3 敢技 |
西関脇 3–6–6[7] |
東前頭4枚目 休場[8] 0–0–15 |
東前頭4枚目 12–3 敢 |
西関脇 10–5 敢 |
1987年 (昭和62年) |
東関脇 10–5 敢 |
東関脇 11–4 |
東関脇 12–3 |
西大関 9–6 |
西大関 12–3 |
東大関 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
東張出大関 13–2 |
西大関 8–7 |
西大関 8–7 |
西大関 8–7 |
東張出大関 3–12 |
西張出大関 10–5[9] |
1989年 (平成元年) |
東張出大関 3–9–3[7] |
西張出大関 10–5 |
西張出大関 9–6 |
西張出大関 8–7 |
西張出大関 5–10 |
西張出大関 14–1[9] |
1990年 (平成2年) |
東大関 10–5 |
東大関 13–2[10] |
東大関 12–3 |
西大関 10–5 |
東大関 9–6 |
西大関 10–5 |
1991年 (平成3年) |
西大関 0–1–14[11] |
西大関 9–6[9] |
東大関 14–1[12] |
東大関 12–3 |
東大関 11–4 |
西大関 13–2 |
1992年 (平成4年) |
東大関 12–3 |
東大関 13–2 |
東大関 9–6 |
西大関 10–5 |
西大関 9–6 |
東大関 0–2–13[7] |
1993年 (平成5年) |
西大関 10–5[9] |
西大関 9–6 |
西大関 7–8 |
西大関 9–6[9] |
東張出大関 0–2–13[7] |
東張出大関 6–9[9] |
1994年 (平成6年) |
西張出関脇 2–13[13] |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭5枚目 5–10 |
東前頭12枚目 8–7 |
東前頭10枚目 8–7 |
東前頭5枚目 6–9 |
1995年 (平成7年) |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 5–10 |
西前頭13枚目 9–6 |
東前頭5枚目 5–10 |
西前頭10枚目 8–7 |
1996年 (平成8年) |
東前頭8枚目 7–8 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭14枚目 10–5 |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭4枚目 4–11 |
東前頭9枚目 6–9 |
1997年 (平成9年) |
東前頭13枚目 8–7 |
西前頭10枚目 6–7–2[14] |
東前頭14枚目 8–7 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭2枚目 0–11–4[15] |
東前頭14枚目 引退 5–9–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
ミュージシャンとしての活動
2000年3月にデビューアルバムの『KMS』を発表。このタイトルは「King Master of Sumo」から名づけられている。このアルバムではR&B・ヒップホップのスタイルに則っており、歌詞は全曲英語である。アメリカのクリーヴランドを本拠地とするラップグループ、ボーン・サグズン・ハーモニー(en:Bone Thugs n Harmony)のメンバー、レイジー・ボーン(Layzie Bone)を迎えた楽曲「リビン・ライク・キングス」ではラップを披露している。
2002年3月に公開された映画ドラえもんのび太とロボット王国の主題歌を担当した。2002年7月にサザンオールスターズのベーシストの関口和之と共に「関口和之 featuring KONISHIKI」名義でマキシシングル『私の青空〜MY BLUE HEAVEN〜』を発売。スタンダード・ナンバーのカヴァーで、関口はウクレレを、KONISHIKIはヴォーカルを担当。また、2003年のアニメである星のカービィの後期エンディングテーマである「カービィ☆ステップ!」が使用された(ちなみに前期EDは、シャンチーの「きほんはまる」である)。
2010年5月26日、小錦八十吉名義で『ドスコイ・ダンシング』を発売。曲自体は1985年頃の現役力士時代に作ったものだが、相撲に専念するためお蔵入りになっていたという。
テレビでの活動
現在は、NHK教育テレビの平日7:25-7:35・17:05-17:15に放送される小児向け教育番組『にほんごであそぼ』にも、『コニちゃん』の名で出演している。微笑ましい姿で子供たちからの人気も高い。
『その時歴史が動いた』(2006年8月23日放送)では、故郷ハワイの英雄カラカウア王を演じた。
その他の活動
アニメ
- ドラえもん のび太とロボット王国 - コニック役
- ドッとKONIちゃん(自身がキャラクターモデルとなったアニメ 2000年11月 - 2001年5月)
吹き替え
- X-ファイル ディプスロート役(スカパーフェクTV!版)
CM
- サントリー - ウィスキー(I-suki you-suki Whiskeyシリーズ、さまざまなボトルと軽快な歌でヒットCMに 1997年)
- 三洋電機 - 2000年頃、洗濯機や食器洗い乾燥機、オーディオ製品(MD-U4)などのCMに出演
- トヨタ自動車 - トヨタ・コルサ
- ダイハツ - ダイハツ・ムーヴ
- ツムラ - バスクリン
- DDI(現:KDDI) - 国際電話0078 相撲スタイルでもある(プッシュ、プッシュ)をCMで流していた。
- ユニデン
- ローソン
- セガ・エンタープライゼス - ドリームキャスト
- ソニー・コンピュータエンタテインメント - プレイステーション2・EyeToy
ドラマ
映画
- チェケラッチョ!! - アンディ・クラレンス役
- ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT - 熊の刺青の男役
- ヤバい経済学
テレビ
- ここがヘンだよ日本人 - TBS
- にほんごであそぼ-NHK教育テレビ(2003年-) コニちゃん役
ラジオ
著書
- はだかの小錦 - 読売新聞社
- 今日も快晴 KONISHIKI日記 - 中央公論新社
- 裸百貫 - 講談社
- みなみのしまからのおくりもの - 心泉社
- KONISHIKI+HuLa Hut ハワイアン・ダイニング - PARCO出版
脚注
- ^ 小錦八十吉の『ドスコイ・ダンシング』2010年5月27日 KONISHIKI 公式ブログ
- ^ 皆さん、ありがとう・・・2010年5月29日 Konishikiオフィシャルサイト Konishiki日記
- ^ メタボリックシンドロームの原因となる内臓脂肪の量は少なかったために、手術そのものは平均的な所要時間よりはるかに短く終わった。
- ^ NTVで2008年6月に放送した『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』内で、300kg台の時には腹部がじゃまになり自分で靴を履くことができず他の人に履かせてもらっていたが230kgになり自分で靴を履けるようになった様子が放送された。
- ^ 世界変わる?KONISHIKI 129キロ減量スポーツニッポン2009年7月24日、2009年8月4日閲覧
- ^ KONISHIKI初めて立って歌った!スポーツニッポン2009年7月27日、2009年8月4日閲覧
- ^ a b c d e f 途中休場
- ^ 公傷
- ^ a b c d e f 角番
- ^ 北勝海・霧島と優勝決定戦
- ^ 初日不戦敗・休場
- ^ 旭富士と優勝決定戦
- ^ 関脇陥落
- ^ 初日より休場・3日目から途中出場
- ^ 4日目より途中休場・9日目から再出場
関連項目
外部リンク
- 公式ホームページ
- KONISHIKI 公式ブログ
- 小錦 八十吉 - 相撲レファレンス
- ジャパン・スポーツ・マーケティング
- KONISHIKI講演活動