佐高信

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さたか まこと

佐高 信
生誕 (1945-01-19) 1945年1月19日(79歳)
日本の旗 日本 山形県酒田市
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学法学部法律学科
職業 評論家、東北公益文科大学客員教授
佐高 兼太郎
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佐高 信(さたか まこと、1945年1月19日 - )は、日本評論家東北公益文科大学客員教授。元週刊金曜日編集委員。「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」共同代表。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務める[1]山形県酒田市出身。

人物

父・兼太郎は茜舟(せんしゅう)の雅号を持つ書道家教師[2]、支持政党は一貫して日本社会党(現・社会民主党)である。 山形県立酒田東高等学校慶應義塾大学法学部法律学科卒業。1967年に大学を卒業後、郷里・山形県で高校教員となるが同僚女性との出会いがあり、前妻と離婚し1972年に再度上京した。佐高の全面協力により書かれた評伝によると、次のような事情があったという。

「昭和四十二年の春、卒業と共に帰郷して庄内農高の社会科教師となる。ここで三年、教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため“赤い教師”の非難を浴びた、酒田工高に転じて結婚もしたが、同じく“赤軍派教師”のレッテルを貼られる。教育の現場に怒って県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚教師と同志的恋愛に陥った。「佐高なんかのツラも見たくない」と反発する教師仲間は、陰湿に白眼視。母・千代は孫娘を抱いて死ぬと言い出し、佐高も自殺を思いつめる。四十七年八月、ついに辞表を出して上京」[2]

ちなみに『週刊文春』(2019年6月27日号)によれば、2005年に3度目の結婚。現在に至る(2019年8月)。

上京後は総会屋系経済誌『現代ビジョン』編集部員を経て編集長となる。その後、評論家活動に入った(『現代ビジョン』誌については下の項目も参照)。

日本企業に関する批判的な評論で、『噂の眞相』(休刊に伴い、月刊『(つくる)』に移行)に連載した「タレント文化人筆刀両断」は連載100回を超える。「佐高信の政経外科」をサンデー毎日に連載していた。また『週刊金曜日』のコラム「風速計」を担当していた。

池波正太郎藤沢周平の熱心なファン。『金融腐蝕列島』(角川書店1997年)など高杉良の著書の解説を多く手がける。

第44回衆議院議員総選挙直前の2005年9月4日放送「サンデープロジェクト」(テレビ朝日)に『社民党応援団』として出演するなど、公然とした社民党支持者である。また、2007年3月まで新社会党の機関紙『週刊新社会』にコラム『毒言毒語』を連載していた。土井たか子らと“憲法行脚の会”を結成、加藤紘一との対談集会を開くなど護憲運動を行なっている。日本共産党には批判的で、九条の会への参加を呼びかけられた時は日本共産党の関係者が加わっていることを理由に拒否していた。 2005年3月、「マガジン9条」発起人となった[3]

小泉内閣・安倍内閣への批判から、「クリーンなタカ派よりはダーティでもハト派の方が良い」と、加藤紘一や野中広務鈴木宗男自民党内の左派旧竹下派人脈との関係を深め、ロッキード事件で失脚した田中角栄に関してもかつてはこき下ろしていたものの今では「ダーティなハト」として相対的に評価している。なお田中秀征については「クリーンなハト」としており、昔から親しい。

批評活動と自身の評価

批判の対象である保守系や共産党系の人びとでも佐高の企業批判を高く評価する人は少なくない一方で、その言動や姿勢を批判されることも多い。

人物評論の特徴、事例、変遷

問題発言など

  • 1990年、日本社会党から出馬し当選したマドンナブームの一人長谷百合子(バー経営者)が、のちに1993年の総選挙で落選したあと小沢一郎新進党に入党すると批判した。
  • 日垣隆も「日垣を使うなら俺は降りる」と、佐高が雑誌に圧力をかけて回ったと告発した[7]呉智英も、同様の体験をしていると書いている[8]
  • また鳩山邦夫を批判する際、「変質者の代名詞のような蝶のコレクター[9]」と書いたことが昆虫研究者などから批判された[10]。また、他の執筆者(斎藤美奈子)からも批判されている。
  • 2006年10月28日鶴岡市にて「言論の自由を考える」と題した討論会が行われた際、加藤紘一宅放火事件を聞いて、「思うに『犯人』は小泉前首相ではないか。問答無用のやり方が受ける時代をつくってしまった。小泉さんは右翼を元気づけることしかしなかった」と発言した。
一方で、1970年代連続企業爆破事件などの爆弾テロを実行した新左翼集団「東アジア反日武装戦線」を評して「爆弾テロが善行でないことは確かだが、なんの弁明も許されぬ悪業かといえば、それは断定できない」としている[11]
  • 池田大作名誉会長の意向のままに動くとされる創価学会公明党批判を、自自公連立以降活発に行い、一部の対立する言論人に対しては創価学会系の『潮』(潮出版社)に執筆すること自体を批判材料にしている。佐高自身も以前は創価系雑誌『潮』『パンプキン』『第三文明』などに寄稿していたが、自自公連立を機に絶縁を宣言している(政教分離を尊重する建前から、当初は公明党の媒体のみ寄稿を中止していたが、まもなく創価学会系全般への寄稿を取りやめた)。
  • 田原総一朗を権力者の「マイク」(インタビュー対象者の主張を拡声するだけ)として、田原の姿勢に対し執拗といえるほどの批判を展開。佐高と田原の確執は、1997年から1998年にかけて起こった山一證券の破綻、旧大蔵省汚職事件、金融危機の際に旧大蔵省に対する批判が巻き起こった際、責任者である旧大蔵省幹部・長野庬士に対する田原の取材が「説得力があった」と結ばれていたことから、取材姿勢が大蔵側に迎合的だと佐高が批判し、田原が「自身のジャーナリストとしてのキャリアに対する全否定」と激しく応酬したことが発端。また、田原には仕事上の姿勢以外にも、「田原総一朗は自身の妻に『君が死んだら後を追うよ』と言っていた。妻の友人達は『いつ後を追うのか』と噂しているという」などと、今すぐ後を追えというような解釈も出来る批判を行い、これに対し田原は「佐高は私に死ねと言うのか!」と激怒したという。佐高は「言論人として言葉に責任をもてといいたいだけである」と反論した。ただし対談は拒んではおらず、2012年には毎日新聞社から『激突!朝まで生対談』を出している。
  • 佐高が「小心者」として断罪した石原慎太郎との『週刊金曜日』誌上での対談[12]は、梶村太一郎から「佐高氏とは面識もなく、なんの偏見もないが、この対談だけは、いくらなんでもひどすぎる」、「まるで青大将に睨まれた雨蛙が、捕って喰われるのではないかと脅えながら、相手にすり寄るだけのような体たらく」と対談内容を批判された[13]。また、日垣隆も「卑屈な迎合ぶり」を指摘し、「やっていることは常に時代の引き戻し以外のものではなく、相手がいないときだけダジャレと自慢話を垂れ流し、相手が目の前にいるときは太鼓持ちになる」と書いている[7]。石原との対談が実現したのは、東京都が当時推進していた銀行税を佐高が評価していたためである。佐高と石原は政治的信念を180度異にするが、大蔵省・銀行に対する認識では一致している。

「皇室コント事件」

  • 2006年11月19日、『週刊金曜日』主催で「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」が日比谷公会堂にて行われ、佐高が司会を務めた。この集会で演じられたコントが皇室に対する侮辱であるとして『週刊新潮』で取り上げられた。内容は悠仁親王を「猿のぬいぐるみ」に見立て「こんな子い〜らない」と放り投げる、以前前立腺癌を患った天皇をネタにしたというものだった。
  • 佐高は『週刊新潮』の取材に対して「劇中で『皇室』なんて一言も言っていない」、「それは受け取る側の見方だからこちらがコメントする理由はない」とコメントした。しかし、最初に登場する上皇后美智子に扮していると思われる女性を演じた役者を「この会場のすぐ近く、千代田区1丁目1番地(=皇居のこと)[14]にお住まいの高貴な方の奥様」と佐高自身が紹介しており、その役者も皇室典範の話題について触れている。
  • このコントを演じた劇団「他言無用」が多くの批判を受け、ホームページ上に「皇室をパロディーとした寸劇を上演」したことに対する謝罪文を掲載している[1]。また、結果的に『週刊金曜日』は謝罪した。

「現代ビジョン」について

  • 佐高は文筆・評論活動のスタート地点となった「現代ビジョン」という雑誌の性質を後に回想し、「はじめにびっくりしたのは、そうした雑誌は、雑誌を売って金をもうけるのでないということです。公称三万部といっても実売は三千もいっていない。九割九分が広告収入なのです。それも一流大企業のです。長い間、不思議でならなかった。あるとき気づいたのは、企業は(雑誌に)広告を出すメリットはないが、スネに傷持つ以上、出さないとデメリットがあるということです」と告白している[15]
  • 同誌は、自社に広告を出すか、出さないかによって批判記事・賞賛記事のどちらを掲載するかを決める[7](また同じスペースでも、企業の規模に応じ広告料金はまるで違っていたという)という性質の雑誌で、佐高は10年近く勤務し、編集長に上り詰めた。 最終的には、職場内で後輩からの突き上げ団交に会い、人間関係のもつれとなって退職。
  • またオバタカズユキのインタビューに「…広告とタイアップした記事はたくさんあるわけで、どこぞの社長の提灯記事書けとかは日常茶飯事だからね。一方で批判記事というのも書いてはいたわな」 「総会屋云々のほうは、そういう雑誌にいたってことを隠してはいない」と答えている[16]
  • その後、佐高は2007年の「週刊金曜日」コラムなどで「総会屋雑誌とは謙遜して言っただけ」と弁明した。日垣も「これこそ総会屋雑誌の本流記事」と評する[7]

著書

単著

以下はサンデー毎日連載の『政経外科』シリーズ

  • 『佐高信の政経外科』(シリーズ「タレント文化人筆刀両断」をまとめた物を収録)
  • 『日本は頭から腐る 佐高信の政経外科II』毎日新聞社 2000年 ISBN 462031451X
  • 『中坊公平への手紙 佐高信の政経外科III』毎日新聞社 2001年 ISBN 4620315060
  • 『泣くより怒れ 佐高信の政経外科IV』毎日新聞社 2002年 ISBN 4620315648
  • 『許されざる者 佐高信の政経外科V』毎日新聞社 2003年 ISBN 4620316245
  • 『小泉純一郎を嗤う 佐高信の政経外科VI』毎日新聞社 2004年 ISBN 4620316830
  • 『政財界メッタ斬り 佐高信の政経外科VII』毎日新聞社 2005年 ISBN 4620317217
  • 『田原総一朗よ驕るなかれ 佐高信の政経外科VIII』
  • 『石原慎太郎の老残 佐高信の政経外科IX』
  • 『田原総一朗への退場勧告 佐高信の政経外科X』
  • 『小泉純一郎と竹中平蔵の罪 佐高信の政経外科XI』
  • 『小沢一郎の功罪 佐高信の政経外科XII』
  • 『誰が日本をここまで不幸にしたか 佐高信の政経外科13』
  • 『日本の社長はなぜ責任をとらないか 佐高信の政経外科14』
  • 『いま日本はタカ派ばかり 佐高信の政経外科15』
  • 『安倍政権10の大罪 佐高信の政経外科16』
  • 『佐高信の政経外科 鯛は頭から腐る』光文社 知恵の森文庫 2002年 ISBN 4334781934
  • 『私の喧嘩作法 佐高信の政経外科2』光文社 知恵の森文庫 2004年 ISBN 4334782620
  • 『安倍晋三と翼賛文化人20人斬り 新・佐高信の政経外科』河出書房新社 2015年3月 ISBN 978-4309246932
  • 『安倍晋三と岸信介と公明党の罪 新・佐高信の政経外科』河出書房新社 2016年1月 ISBN 978-4309247472
  • 『自公政権のお抱え知識人徹底批判 新・佐高信の政経外科』河出書房新社 2017年1月 ISBN 978-4309247922
  • 『安倍「日本会議」政権と共犯者たち 新・佐高信の政経外科』河出書房新社 2018年1月 ISBN 978-4309248448

共著

編著

  • なかにし礼田中優子黒鉄ヒロシ加藤陽子柴山桂太中島岳志 著、西部邁・佐高信 編 編『日本および日本人論』七つ森書館、2012年8月。ISBN 9784822812553 

論文

脚注

  1. ^ 先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請
  2. ^ a b 『現代の肖像』AERA編集部・編(朝日ソノラマ
  3. ^ マガジン9とは?
  4. ^ 週刊現代』2018年12月1日号p157
  5. ^ 毎日新聞』2009年4月28日付
  6. ^ 『北朝鮮で兄は死んだ』梁英姫・佐高信著(七つ森書館)p22
  7. ^ a b c d 日垣隆『敢闘言』単行本補記。一方の日垣は「辛口評論家の正体」として、「戦後無責任主義の権化たる反動的評論家」「本人も訳がわからぬ理屈を垂れ流すほどの退歩的非文化人」と批判している(日垣隆『偽善系Ⅱ 正義の味方に御用心!』 初出は『諸君!』2000年10月号「辛口評論家の正体」)。
  8. ^ 産経新聞書評欄・日垣隆『偽善系2』評
  9. ^ 『噂の眞相』1999年5月号
  10. ^ 「日本昆虫協会」は「昆虫愛好会」ではありません。
  11. ^ 『時代を読む』(光文社)
  12. ^ 『週刊金曜日』第322号(2000年7月7日)
  13. ^ 週刊金曜日』第327号(2000年8月11日)
  14. ^ 正しくは千代田区千代田1番1号(住居表示)、または千代田区千代田1番地(地番)
  15. ^ 産経新聞』2005年10月24日付
  16. ^ 『宝島30』1993年9月号

外部リンク