第一勧業銀行

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(旧)株式会社第一勧業銀行
The Dai-Ichi Kangyo Bank, Limited
Mizuho Bank, Ltd. (head office).jpg
第一勧業銀行本店
(現みずほ銀行東京営業部
種類 株式会社
市場情報
東証1部 8311 2000年9月上場廃止
大証1部(廃止) 8311 2000年9月上場廃止
京証 8311 2000年9月上場廃止
広証 8311 2000年3月[1]上場廃止
新証 8311 2000年3月[2]上場廃止
略称 第一勧銀、一勧、勧銀、DKBなど
本社所在地 日本の旗 日本
東京都千代田区内幸町一丁目1番5号
設立 1897年明治30年)6月7日[3]
日本勧業銀行
業種 銀行業
金融機関コード 0001
SWIFTコード DKBLJPJT
事業内容 普通銀行業務
代表者 杉田力之
(最後の代表取締役会長頭取
資本金 8,587億8,400万円
売上高 単体:1兆3,980億4,600万円
連結:1兆5,459億1,700万円
(経常収益、2001年3月期)
営業利益 単体:1,318億7,600万円
連結:1,515億8,400万円
経常利益、同期)
純利益 単体:725億4,100万円
連結:848億4,600万円
(同期)
純資産 単体:2兆4,979億4,100万円
連結:2兆4,624億4,300万円
(同期末)
総資産 単体:51兆8,182億8,900万円
連結:52兆8,336億8,200万円
(同)
従業員数 14,714人(単体、同)
決算期 3月31日
主要子会社 第一勧業銀行のグループ企業系統図 (PDF) - 後身のみずほFGウェブサイトに掲載されている第一勧銀ディスクロージャー誌。
関係する人物 横田郁(初代頭取)
特記事項:いずれも2002年3月期決算。数値は、後身である「みずほフィナンシャルグループ」ホームページに掲載されている同行のディスクロージャー誌(単体決算 (PDF)連結決算 (PDF) )によった。
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旧・第一勧業銀行のデータ
統一金融機関コード 0001
SWIFTコード DKBLJPJT
店舗数 国内:319
海外:31
(※海外には出張所・駐在員事務所を含む)
貸出金残高 315,5094,500万円
預金残高 338,8319,200万円
(※単体。譲渡性預金を含む)
特記事項:
いずれも2001年3月期決算。後身である「みずほフィナンシャルグループ」ホームページに掲載されている同行のディスクロージャー誌(単体決算 (PDF) )によった。
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株式会社第一勧業銀行 (だいいちかんぎょうぎんこう、英称The Dai-Ichi Kangyo Bank, Ltd.) は、1971年から2002年まで存在した日本都市銀行。現在のみずほ銀行の前身。

通称は「第一勧銀」「一勧」「勧銀」あるいは英字略称の「DKB」であった。

歴史[編集]

合併[編集]

1971年第一銀行(国内資金量順位6位)とかつての特殊銀行だった日本勧業銀行(同8位、勧銀)が合併し、総資産では富士銀行を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。この合併には神戸銀行が加わる計画もあったが、同行は離脱、翌々年に太陽銀行と合併し太陽神戸銀行が発足する運びとなる。

第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」とその意義を説明した。特に第一側には財閥系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く(詳細は後述)、勧銀が非財閥系であることは合併相手の選定において極めて重要な要素だった。

大蔵省は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価した。

経営・人事[編集]

存続会社は勧銀だが、統一金融機関コードは第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた[4]。 当初の本店は旧第一銀行の本店(現在のみずほ銀行丸之内支店)に置かれたが、1981年千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビルを新築し、移転した(現在のみずほ銀行内幸町本部ビル)。

旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した三菱銀行との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は富士住友三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった[5]

一方、一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる[6]。また、合併から20年を経た1991年3月期決算では業務純益で都市銀行首位となったこともある。佐高信バブル景気崩壊以降の都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。

総会屋事件[編集]

1997年には、総会屋への利益供与事件で本店を家宅捜索され、近藤克彦頭取の退任、頭取経験者の多数逮捕や宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、社会的に非難された。この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった現在も、広告には表示されていない[7]

沿革[編集]

合併以前の沿革は第一銀行日本勧業銀行を、3行合併統合以後の沿革はみずほ銀行みずほコーポレート銀行を参照のこと。

出身者[編集]

備考[編集]

  • 第一勧銀グループ 1980年発足。最大の規模を誇った企業グループであるが、その実態は旧行それぞれの企業グループを同行と伊藤忠商事が中心となって統合した物で、同一業種の企業が複数所属していることなどから結束力が他の企業グループよりも弱いと言われた。
  • シンガーソングライター小椋佳が同行浜松支店長を務めていた。これは小椋が芸能活動の傍ら同行に勤務し続けていたため。
  • 1971年の合併成立時に制定したロゴマーク(ハートマーク及び同行の略称“DKB”を○で囲んだもの)やロゴタイプ、コーポレートカラーは、2002年に同行がみずほ銀行に商号変更されるまで一切変更する事なく使用し続けた。2002年3月時点で1970年代に制定したロゴマークやロゴタイプ、コーポレートカラーの全てを継続使用していたのは、都市銀行では当行が唯一であった[8]
  • 1971年の合併成立時より、同行独自のキャラクターを設定し広告媒体などに使用していたが、1998年サンリオハローキティを新たに起用し、みずほ銀行成立時まで広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用しており、みずほ銀行合併後においてもキャッシュカード・通帳のデザインとしてハローキティを選択できる。なお、アートデザイン通帳として1990年代後半、タレントのジミー大西デザインの通帳を発行していた時期がある。

CMキャラクター[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 東証に吸収
  2. ^ 東証に吸収
  3. ^ 2001年度版ディスクロージャー誌』株式会社みずほホールディングス、2001年7月
  4. ^ 全県庁所在地に支店を置いている理由(本土返還から1984年まで那覇市には支店が存在しなかった。)として、正確には、大正時代に旧勧銀が全国の農工銀行を吸収ないしは譲受した関係による、受け皿支店の設置に伴うもので、厳密な意味では宝くじ関係は戦後に後付けされたものである。宝くじの項目等を参照
  5. ^ 前述のたすきがけ人事や二系統に分かれた人事管理などが影響し、他の銀行に比べ全体的に動きが鈍い傾向があることから、当時はそれらの点を揶揄する意味で、英字略称の「DKB」をもじった「デクノボー」という蔑称で呼ばれることがあった。
  6. ^ 橘木俊詔、羽根田明博「都市銀行の合併効果 (PDF) 」『フィナンシャル・レビュー』1999年12月号、大蔵省財政金融研究所
  7. ^ なお、宝くじ券面には受託銀行の表示がなされているが、これは宝くじの根拠法令である「当せん金付証票法」第9条第3号によって義務付けられているからである。
  8. ^ 同じみずほグループとなった日本興業銀行は都市銀行ではなかったが、第一勧銀同様に2002年の再編まで同じロゴ・コーポレートカラーを継続使用していた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]