「南京事件論争」の版間の差分

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「南京事件」、「南京大虐殺」について論じる諸氏は、自他を様々に分類する諸説を提示している。
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*秦郁彦は、'''大虐殺派'''(本多勝一、洞富雄、南京事件調査研究会)、'''中間派'''(秦、板倉)、'''マボロシ派'''(鈴木明、田中正明)と分類<ref name=ht302>{{Harvnb|秦郁彦|2007|pp=271・302}}</ref>。マボロシ派は中国では「虚構派」と呼ばれる<ref name=ht302/>。秦は2007年時点では、マボロシ派と中間派の影響力が伸びて、大虐殺派は低落しつつある、と述べている<ref name=ht302/>。軍事史家[[原剛 (軍事史家)|原剛]]も大虐殺派、中間派、まぼろし派(虐殺否定説)に分類<ref name=haraiwayuru/>。
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*[[笠原十九司]]は、上記大虐殺派を'''史実派'''、中間派を'''虐殺少数派'''、マボロシ派を'''否定派'''とする<ref name=sijit/>。
*野村耕一は、'''虐殺派'''(笠原十九司、吉田裕)、'''中間派'''(櫻井よしこ、 原剛)、'''まぼろし派'''(鈴木明、田中正明) に分類<ref name=nomko>野村耕一「[http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/15030/1/10C17646.pdf 過去の克服をめぐる学問と政治]」三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2016, 33, p. 75-83.</ref>。
*野村耕一は、'''虐殺派'''(笠原十九司、吉田裕)、'''中間派'''(櫻井よしこ、 原剛)、'''まぼろし派'''(鈴木明、田中正明) に分類<ref name=nomko>野村耕一「[http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/15030/1/10C17646.pdf 過去の克服をめぐる学問と政治]」三重大学人文学部文化学科研究紀要. 2016, 33, p. 75-83.</ref>。
*星山隆は、'''虐殺肯定派'''(笠原十九司)、'''中間派'''(北村稔)、'''虐殺否定派'''(東中野修道)に分類<ref name=hosi>星山隆「[http://www.iips.org/research/data/bp328j.pdf 南京事件 70 年―収束しない論争]」北村稔の分類はp.21</ref>。
*星山隆は、'''虐殺肯定派'''(笠原十九司)、'''中間派'''(北村稔)、'''虐殺否定派'''(東中野修道)に分類<ref name=hosi>星山隆「[http://www.iips.org/research/data/bp328j.pdf 南京事件 70 年―収束しない論争]」北村稔の分類はp.21</ref>。
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以下の区分や「派の名称」や人名は、あくまで研究者ごとに異なる呼び方であり、ひとつの目安であることを付け加える
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;大虐殺派・虐殺肯定
;大虐殺派・史実
ただし、30万人-20万人以上という数字を示すのは以下のような中国の研究者のみである。
ただし、30万人-20万人以上という数字を示すのは以下のような中国の研究者のみである。
*[[中華人民共和国]]政府・[[南京大虐殺紀念館]]
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;まぼろし派・虐殺否定派
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*[[松尾一郎]] 1998年より[[自由主義史観]]研究会・[[プロパガンダ写真研究会]]で中心的活動を担い、南京事件の関連写真を研究した。その研究成果を[[藤岡信勝]]と[[東中野修道]]に盗用されたと訴えている。
*[[松尾一郎]] 1998年より[[自由主義史観]]研究会・[[プロパガンダ写真研究会]]で中心的活動を担い、南京事件の関連写真を研究した。その研究成果を[[藤岡信勝]]と[[東中野修道]]に盗用されたと訴えている。
*[[阿羅健一]]<ref name=haraiwayuru/>
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*[[日本の前途と歴史教育を考える議員の会]] - 自由民主党内の議員連盟。
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*[[板倉由明]]<ref name=ht302/>
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*[[北村稔]]<ref name=hosi/> - 日本軍による組織的大虐殺</b>そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定する。 北村は、南京裁判にて検察側が提示した「20万人の虐殺」について、「中華民国による戦時宣伝の虚構」と位置付け、この戦時宣伝の成立過程を解明したり、「10数万人の遺体を埋葬処理した」と称する崇善堂の実務能力を解明(この団体の人数・装備では自称通りの日程で自称する数の遺体を処理することは不可能)する一方で、幕府山捕虜殺害事件(被害者数約1万8千)については新資料({{要追加記述範囲|date=2016年9月|親日政権が発行した中国語新聞}})を発掘するとともに、当時の日本軍による非行と位置付けている<ref>『南京事件の探求』(文春新書,2001){{要ページ番号|date=2016年9月}}。</ref>。2007年北村は便衣兵や捕虜の殺害は認定した上で、一般市民を対象とした「虐殺」はなかったと述べた<ref>2007年4月2日の[[日本外国特派員協会]]における講演。「旧日本軍が南京で゛無秩序〟や゛混乱〟に陥って便衣兵や捕虜を殺害したことはあったが、一般市民を対象とした゛虐殺〟(massacre)はなかったとの結論に達する」と述べた。{{Cite journal|和書| author = [[櫻井よしこ]]| title = 外国特派員団に南京事件否定論| journal = [[週刊新潮]]| issue = 2007年4月19日号| publisher = [[新潮社]]| url = http://yoshiko-sakurai.jp/2007/04/19/580| accessdate = 2013-06-18}}</ref>。虐殺派の笠原十九司は北村を否定派とする<ref name=kasakita>笠原十九司は北村稔を「南京虐殺否定論者」とする。「南京虐殺『虚構説』のトリックの見分け方」『週刊金曜日』2002年8月2日(No.422) pp.66-67。笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』。渡辺久志「もとめているのは「実像」か「虚像」か? 北村稔著『「南京事件」の探求 その実像を求めて』を批判する」(4回連載)(季刊『中帰連』2002夏(21)、2002秋(22)、2002冬(23)、2003春(24)){{要ページ番号|date=2019年4月14日}}</ref>。
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2019年8月20日 (火) 06:03時点における版

南京戦 > 南京事件 > 南京事件論争

南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]

論争史

戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えた[3]が、以降は事件への関心は薄れた[4]1971年朝日新聞本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平鈴木明との間で論争となった[5]1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えたという報道がきっかけで起きた第一次教科書問題で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった[6]中国から抗議を受け[7]、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した[8]1989年偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した[9]

否定派は[誰?]1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し[10]、新しい論客東中野修道佐藤和男[11]らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった[12]

海外では[どこ?]中国系アメリカ人の反日団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された[13]。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えている[14]否定派[誰?]は、後述するように中国側の誇張をプロパガンダとして厳しく批判している。

中国政府は、日本の虐殺肯定派が犠牲者数「20万未満」と考えていることに対して、距離をとるようになったとされる。日本の側から加害者の意識を強調する松岡環の考え(ただし30万説は支持していない)を中国は支持しているとも言われる[15][16]

90年代以降の日本での論争は、「まぼろし派(否定派)」の新たな論客が目立っているとも秦郁彦は考える[17]。一方で、「虚構説」の論理は、破綻しており「あったこと」が正しいことは学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している[18]

否定派である[要出典]自民党の戸井田徹西川京子などの国会議員による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は、2007年に南京問題小委員会委員長の衆議院議員の戸井田徹による衆議院内閣委員会での答弁などによって、東中野修道佐藤和男の説を含めた検討結果を発表し、その結果を日本語、英語の両方を収録する「南京の実相」として出版、米国の議員にも配布し、「南京では日本軍の虐殺はなかっった」と主張した。

日中歴史共同研究では、両国の歴史の専門的な研究者による日中共同研究が行われ、2010年1月に報告書が発表された[19]日本・中国双方とも戦時国際法違反の中国兵・中国民間人への虐殺が一定規模あったことを結論づけた。日本側は規模は諸説ありとし、中国側は大規模でありえたとも記述した。また、虐殺の原因も、日本側は分析・記述(南京事件 (代表的なトピック)#南京事件の発生原因を参照)した。[要出典]

このほか、東史郎の「郵便袋裁判」(東側が敗訴)、百人斬り裁判(原告敗訴)、東中野修道の「夏淑琴による名誉棄損裁判」(東中野側が敗訴)などの裁判もある。

現在[いつ?]も、日本・中国の事件肯定派と日本国内の保守派を中心とする事件否定派との摩擦は頻繁に見られる。このような状況について、日中歴史共同研究に参加した北岡伸一安倍談話有識者会議座長代理)は、日中歴史共同研究を振り返り、「南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある」が、「虐殺がなかったという説は受け入れられない」[20]とし、「日本人の一部に南京事変は存在しなかったと主張する人たちがいること」も中国側の根強い反日感情の要因だと指摘している[21]

各派の主な論者とその特徴

「南京事件」、「南京大虐殺」について論じる諸氏は、自他を様々に分類する諸説を提示している。

  • 秦郁彦は、大虐殺派(本多勝一、洞富雄、南京事件調査研究会)、中間派(秦、板倉)、マボロシ派(鈴木明、田中正明)と分類[22]。マボロシ派は中国では「虚構派」と呼ばれる[22]。秦は2007年時点では、マボロシ派と中間派の影響力が伸びて、大虐殺派は低落しつつある、と述べている[22]。軍事史家原剛も大虐殺派、中間派、まぼろし派(虐殺否定説)に分類[23]
  • 笠原十九司は、上記大虐殺派を史実派、中間派を虐殺少数派、マボロシ派を否定派とする[24]
  • 野村耕一は、虐殺派(笠原十九司、吉田裕)、中間派(櫻井よしこ、 原剛)、まぼろし派(鈴木明、田中正明) に分類[25]
  • 星山隆は、虐殺肯定派(笠原十九司)、中間派(北村稔)、虐殺否定派(東中野修道)に分類[26]

以下の区分や「派の名称」や人名は、あくまで研究者ごとに異なる呼び方であり、ひとつの目安であることを付け加える

大虐殺派・史実派

ただし、30万人-20万人以上という数字を示すのは以下のような中国の研究者のみである。

以下の日本の研究者の場合、例えば笠原十九司の様に11万9千人以上の犠牲者を主張するが、南京城内民間人犠牲は1万2千人程度と主張、主たる違法殺人は中国兵への殺人であるとする[28]

マボロシ派・否定派
中間派・虐殺少数派
  • 板倉由明[22]
  • 北村稔[26] - 日本軍による組織的大虐殺そのものについては否定しつつ、個別の殺害事案については、資料的根拠の確認できるものについて認定する。 北村は、南京裁判にて検察側が提示した「20万人の虐殺」について、「中華民国による戦時宣伝の虚構」と位置付け、この戦時宣伝の成立過程を解明したり、「10数万人の遺体を埋葬処理した」と称する崇善堂の実務能力を解明(この団体の人数・装備では自称通りの日程で自称する数の遺体を処理することは不可能)する一方で、幕府山捕虜殺害事件(被害者数約1万8千)については新資料(親日政権が発行した中国語新聞[要追加記述])を発掘するとともに、当時の日本軍による非行と位置付けている[39]。2007年北村は便衣兵や捕虜の殺害は認定した上で、一般市民を対象とした「虐殺」はなかったと述べた[40]。虐殺派の笠原十九司は北村を否定派とする[41]
  • 櫻井よしこ[25](ただし「まぼろし派・虐殺否定派」が主賛同者である映画『南京の真実』(南京事件を歴史的事実に基づかない政治的創作とした)の賛同者に名を連ねている[42])。
  • 中村粲
  • 秦郁彦[22]
  • 原剛[25] - 中国政府の「大虐殺説」は人口や当時の兵力、また崇善堂記録や魯甦証言の信憑性から成り立たないとするが、虐殺否定説の戦時プロパガンダ論では事件がなかったことを立証したことにはならないとする[23]。また日本側の捕虜や中国人への蔑視だけでなく、中国側の民衆保護対策の欠如も事件の要因とする[23]
  • 偕行社『南京戦史』[43]
  • 山本昌弘[44]
  • D.アスキュー[45]
  • ボブ・T.ワカバヤシ[45]
  • ジョシュア・フォーゲル[45]
  • T.ブルック[45]

主要な論点

犠牲者数

事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり[46]、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある[47]

  • 30万人以上 - 1947年国民政府による南京軍事法廷判決書[48]。中国共産党政府の見解はこれに依拠している[47]。なお、この説には南京城外の犠牲者数は入っていない[49]。30万人説は資料的根拠が乏しく、日本側の学者からは支持されていない[50][47][48]
  • 20万人 - 極東国際軍事裁判判決[47]。松井司令官に対する判決文では 10 万人以上[47]。これも日本の学者の支持する意見でない(笠原十九司が20万近くの可能性を示唆するが、周辺の農村部被害などを含めた数であり、しかも本人の説の一部である[51])。

これ以下が、日本側の学者から支持されている意見である。

  • 11万9000人以上 - 笠原十九司が、南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という[51]
  • 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした[52][注釈 1]。ほか久野輝夫は37,820人とする[54]。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる[55]
  • 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする[56]。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある[57]
  • ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」はなかったと主張。佐藤和男の戦時国際法上合法説では、便衣兵ゲリラ兵)や投降兵の殺害も戦闘行為の延長であり、戦時国際法上合法とする[58]。ほか、南京安全区の欧米人記録やその話をもとにしたジャーナリストの記録の信頼性への疑問、国民党は事件の翌年の300回の記者会見で言及しなかった[注釈 2]、国民政府の記録[60]での人口記録の矛盾、また日本軍の非行として訴えられた殺人は計26件、目撃された事件は合法殺害1件のみ[61]、「大虐殺」を証明する写真がないと主張[61]
  • 日中歴史共同研究2010年1月の報告書(日本側): 日本は、戦時国際法違反の中国兵・中国民間人への虐殺が一定規模あったことを結論づけたが、「日本側の研究 では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計 など資料に対する検証の相違が存在している」と記述している[62]

人口推移

南京の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富豪などの疎開によって、南京戦当時の人口はかなり減少していた[63]スマイス調査によれば、南京攻撃の直前の11月には約50万人(数字にはほかに諸説あり)に半減していた[64]

日本占領前、欧米人の南京安全区国際委員会は、市内人口は「日本占領直後は約20万」に至ると予測し、難民救済を行った[65]

そして、日本占領12月13日の後、日本側が住民登録を行い、約16万人(子供や老人の一部が入っていない)が登録し、南京安全区国際委員会は子供・老人等を含めると人口は約25万人と算定した[66]スマイス調査は、占領時の12月12〜13日の南京の人口は約20-25万人とした[67][63]。また三か月後の1938年3月の人口は22万1150人で、これは未調査分を含めた人口全体の80〜90%とした(つまり全人口は約24万―26万人)[63][68]

以上の様に、12月の日本占領時(12月13日)の南京市内の人口の推定は、約25万人説(日本側の住民登録を基に南京安全区国際委員会が推察した)、約20-25万人説(スマイス調査[69][63]、そして三か月後の3月では約24万―26万人説(スマイス調査[63][70]である。

南京安全区国際委員会ジョン・ラーベは、占領後の安全区に外部からの人口増があったと証言しており、その理由は、南京市内で欧米人に守られた安全区への南京市内の他の荒廃した場所に潜んでいた人口が流入したための増加、と表現している[71]

1984年、偕行社の戦史編集委員の畝元正己は20万人説について、1937年12月17日の南京安全区国際委員会発第6号文書『難民区の特殊地位の解釈』には「(12月13日)あらゆる市民は殆ど完全に難民区内に蝟集し」ていると記されており、また12月13日に入城した日本将兵の証言では、安全区(難民区)以外の城南、城西、城東、城北地区では殆ど住民が目撃されていないので、安全区内に大部分の市民が移動したのは事実であろう、しかし、3.52平方キロメートルの狭い安全区に20万人を収容することが可能であったかは疑問であると述べた[63]。3.52平方キロメートルに20万人いたとすると1平方キロメートルあたり56,818人の人口密度になる[63]。さらに畝元は、スマイス調査に難民収容所に27,500人、収容所に入らず安全区にいたものが68,000人(合計95,500人)と記載されていること、さらに12月17日の国際委員会文書では49,340〜51,340人と記載されていることから、20万人が安全区に収容されたとは考えにくいとした[63]

人口推移の論点

  • 20万人しかいないため30万人を殺せない説の論争
藤岡信勝は、南京市の人口が20万人(実際は占領時の南京市民の難民推定人口)しかいないため、(中国側の主張する)30万人も殺害できず30万人説は虚構であると主張した[72]
これに対して笠原十九司は、「南京事件の集団虐殺でもっとも多かった」のは占領時の南京市民の推定20万人の数から「抜け落ち」た南京防衛軍の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵の戦時国際法に違反した処刑であったとし、「数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態を遠ざける」と主張した[73]
なお、一般市民の犠牲者としてみると、南京城市内の占領前、つまり南京攻略戦の前後に避難中の市民が兵卒とともに巻き込まれて殺害され(数は不明)[74]、南京市外の農村部においても、日本軍が組織的住民虐殺を行った記録がある[75][76][注釈 3]#一般市民に関して参照)。
  • 20万人が25万人に増えたので治安が良かった説の論争
2007年、南京事件の真実を検証する会[注釈 4]は、当時の南京の人口は日本軍占領直前は20万であるとの推定値の記録[注釈 5]から、また占領1ヵ月後の1月は人口25万と記録(スマイス調査:周辺部からの流入による増加とされる)されており、5万人も増えたとすれば、「30万の市民虐殺」はありえないと主張[注釈 6][注釈 7]、また、田中正明や百田尚樹は、日本軍占領後、治安がよくなったので人口が増えたのであるとして、南京事件がなかった証拠とした[78][79]
ただし、人口が増えたという具体的な証言は確かにあるものの、南京市全体というより、あくまで欧米人の南京安全区国際委員会が守る南京安全区へ安全区外からの人口が流入して増えていること(ジョン・ラーベ証言)である[80]。また、その人口増加の理由も、安全を求めて、南京市内で欧米人に守られている(日本軍の立ち入り制限ある)安全区へと、市内に潜んだ人口が流入したための増加とジョン・ラーベは表現している[81]
なお、南京の治安は、日本軍占領後も、安全区の内外に大きな差があり、南京安全区国際委員会が占領後1ケ月後の1月10日に記述した文書(国際委員会第32号文書)では、安全区外は日本兵の存在のために安全区に避難した住民が戻れないので、日本軍による憲兵配置(つまり(不良)日本兵への取締)による治安強化が必要であるとしている[82]。その後の1月26日に、日本側が、安全区より出て区外の家に帰宅することを難民に命令した後も、「かなりの難民が」安全区の「収容所にまた戻って」(国際委員会第30号文書 1月30日)いるとの記録や、安全区で女性の保護を行ったミニー・ヴォートリン女史も、日本兵を恐れて安全区から出ることを恐れて留まることを泣訴する女性が非常に多くいたことを記録した[83]

虐殺の対象

一般市民に関して

日本の研究者の共通の意見として、日本軍による南京事件の南京城内での民間人の殺害数は、中国兵への日本軍の違法殺人よりはずっと少ないとされており、その理由には後述の様に、欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会による約20万人ともされる避難民への人道支援が存在する。南京事件の犠牲者を約12万人以上と主張する笠原十九司も、南京城内の民間人犠牲は1万2千人程度と主張し、むしろ日本軍の違法殺人は中国兵への殺人が主であるとする[84]。また、日本軍による南京事件の民間人死者数を示す調査である、事件直後に行われたスマイス調査では死者は6千6百人〜1万2千人と記録された。

民間人の犠牲者数が過大にならなかった理由としては、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会によって南京市内に安全区[注釈 8]が設定され、多くの被災民が避難できたことにあると秦郁彦は述べる[86]。「ラーベの感謝状」[注釈 9]にもあるように、南京安全区(別称 難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかったとされ、占領後も日本軍は立ち入りは制限されており、組織的な住民虐殺を行っていない。ただし、安全区内でも、日本軍は、敗残兵狩りとして誤って多くの民間人を捕まえて安全区の外で殺したりする等の市民への違法殺人などの問題有る行為を行っているとされる[88][89]

しかし、南京周辺の農村部では、日本軍が組織的でときに村単位の住民虐殺を南京への進軍中に行ったとの記録がのこると、笠原十九司は述べる[90]。この農村での虐殺については日中共同研究において中国側も具体的に指摘しており、スマイス調査でも農村地域の犠牲者は2万6千人以上と記録されており、南京城内の被害者数を上回る[76][注釈 3]

南京市内での市民の殺害では、安全区へと避難民の避難が終了する前、つまり日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされ(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)、この時点での南京城内の殺害の実数は不明であり、南京城外において占領戦前後の避難中のかなりの市民(数は不明)が兵卒とともに巻き込まれて殺害されて遺体が長江に流された記録(徳川義親ジョン・ラーベの残した記述など)は存在するものの、その数も不明である[91]

また、南京占領後も、南京市内の安全区外を中心にした、日本軍による、民間人の老若男女の殺害事例が、個々の件数や被害者数は過多ではないが当時安全区にいた欧米人の記録として残っている(安全区外なので被害者関係者による伝聞が主であるために記録の正確性は問われるが、逆に記録された以外の事件発生の可能性もありうる)[92]。なお、日本軍は、南京占領直後に(警察官や消防夫の殺害もあったが)、中国側の発電所の技術者を政府企業に勤めていたというだけの理由で虐殺した[93]ため、日本側が電力インフラの復旧を行うこととなった。

中国軍敗残兵の暴行が日本兵の仕業と誤った可能性や、中国側の漢奸狩りや「堅壁清野作戦」という焼き払い作戦のように中国側も残虐行為を行ったことを東中野修道らは主張している。多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れたことは孫宅巍臼井勝美なども認めている[47][94]。そして、南京における日本軍の乱暴狼藉と思われる中には、中国側の撹乱工作隊の仕業とされる事件があったと1938年1月4日にニューヨーク・タイムズも報道している[95]。また、ベイツも日本軍の犯行だけではなく、中国人による犯行もあったと記録している[96]

板倉由明によれば、日本兵の仕業と見せかけた中国軍敗残兵の暴行であったとする、東中野修道らの中国敗残兵工作説は、中国軍兵士と疑われる人物の安全区内での逮捕事件を日本側が「中国兵も悪いのだ」と宣伝した当時の記事を誇張しているだけで、工作隊を捕らえたのがどの部隊かも明らかでなく、第16師団関係者、憲兵隊関係者の日記や証言や新聞にも全く見当たらないと批判している[97]

なお、中国軍が陥落前に南京市内やその周辺の建物を焼いたことは当時のニューヨーク・タイムズにも報道されて[98]おり、中国軍の南京市の焼き払いは、南部と南東部の城壁周辺の一部と城の西方面にある建物が中心であった。しかし、城内の南京安全区外の中心街の放火(太平路周辺など)をはじめとした市内広範囲は、日本軍の放火であるともニューヨークタイムズは報道し[95]ジョン・ラーベやスマイスら欧米人の記録にも書いてある[99]。上海派遣軍参謀長飯沼守も日記でソ連大使館の放火は日本軍による疑いがあるとした[100]。ただし、放火に関して、家屋、集落に対する焼却(放火)は戦争時に戦術上行われることがあり、防守されている都市、集落、住宅または建物に対する攻撃はハーグ陸戦条約上は禁止されてはいない。

便衣兵と戦時国際法

兵士が民間人を装って戦闘行為を行う便衣兵であるとして中国兵が殺害された事例があり、例えば12月14日-16日の安全区において、日本軍が、元中国兵を約6500-6700名ほど摘発し、処刑した[101]。この便衣兵としての処刑の戦時国際法における解釈(その「定義」や「兵民分離」)は、後述するとおり意見の違いによる論議がある。

便衣兵、つまり兵士が民間人を装って行う戦闘行動は、当時の戦時国際法ではハーグ陸戦条約第23条第2項で禁止されている。そして、便衣兵であるかないかの基準には、同条約1条で交戦者(戦闘員)は軍服着用が規定されており、同条約第3条には戦闘員であることを示さないで戦闘行為を行おうとしている者は便衣兵の対象となり捕虜待遇を受ける資格がないとされている。石田清史は「戦争法規を犯して敵対行為を働く者は単なる戦時重罪犯、戦時刑法犯であるから国際法の保護を受けない」と述べ[102]、また当時の国際法学者立作太郎も昭和19年に、以下の引用のとおり、民間人の敵対行為は原則禁止されるし、戦時犯罪として「概ね死刑に処し得べきもの」であり、正規軍人が民間人に偽装した場合は交戦者としての特権を失う[103]とされる[104]

(乙) 軍人以外のもの(非交戦者)に依りて行はるる敵対行為
軍人以外の者(即ち私人)にして敵軍に対して敵対行為を行う場合に於いては、其行為は、正確に言えば国際法規違反の行為に非ざるも、現時の国際法上、戦争における敵対行為は、原則として一国の正規兵力に依り、敵国の正規の兵力に対して行はるべきものにして、私人は敵国の直接の敵対行為に依る加害を受けざると同時に、自己も亦敵国軍に対して直接の敵対行為を行ふを得ざる以って、敵対行為を行うて捕へらるれば、敵軍は、自己の安全の必要上より、之を戦時犯罪人として処罰し得べきことを認められるのである。 — 立作太郎『戦時国際法論』昭和19年

便衣兵の対象となった場合、軍律(占領軍が制定した占領地の住民に対する規則)や軍律審判(軍律会議による裁判)を経て処罰、また敵対行為(戦時反逆)をすれば軍律で定めれば即決処分も可能であると、されていた[102]。それに関して、日本軍は南京占領前の1937年12月1日に「中方軍令第一、第二、第三号」で、中支那方面軍軍律、軍罰令、軍律審判規則を以下のとおりに定めて、軍律違反の場合、「軍律会議を経て審判により処罰(審判第1条)」そして「長官の許可を得たうえで死刑(審判第8条)は可能」と定めていた[105]

中支那方面軍軍律

第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す
第二条 左記に掲ぐる行為を為したる者は軍罰に処す
  一、帝国軍に対する反逆行為
  二、間諜行為
  三、前二号の外帝国軍の安寧を害し又は其の軍事行動を妨害する行為
第三条 前条の行為の教唆若は幇助又は予備、陰謀若は未遂も又之を罰す 但し情状に因り罰を減軽又は免除することを得

第四条 前二条の行為を為し未だ発覚せざる前自首したる者は其の罰を減軽又は免除す — 中方軍令第一号 昭和十二年十二月一日
中支那方面軍軍罰令

第一条 本令は中支那方面軍々律を犯したる者に之を適用す
第二条 軍罰の種類左の如し
  一、死
  二、監禁
  三、追放
  四、過料

  五、没取 — 中方軍令第二号、昭和十二年十二月一日
中支那方面軍軍律審判規則

第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
第二条 軍律会議は上海派遣軍及第十軍に之を設く
第三条 軍律会議は之を設置したる軍の作戦地域内に在り又は其の地域内に於いて軍律を犯したる者に対する事件を管轄す(中略)
第四条 軍律会議は軍司令官を以て長官とす
第五条 軍律会議は審判官三名を以て之を構成す 審判官は陸軍の将校二名及法務官一名を以て充て長官之を命ず
第六条 中華民国人以外の外国人を審判に付せんとするときは方面軍司令官の認可を受くべし
第七条 軍律会議は審判官、検察官及録事列席して之を開く
第八条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くべし

— 中方軍令第三号,昭和十二年十二月一日

軍服を脱いで民衆に紛れようとしただけでは便衣兵とみなさない、という考えがある。つまり、(軍服着用などの)交戦者資格を満たしていないだけでなく、「害敵手段(戦闘行為やテロ行為)を行うもの」を便衣兵とみなす、と戦前の国際法学者信夫淳平は説明する。便衣兵の定義は、「交戦者たるの資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから」であるとする[106]。同じく、戦前の戦時国際法の研究者篠田治策も、当時『北支事変と陸戦法規』において、抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していて敵対行動をとらない兵士は、便衣兵とは見なしていない、と記している[107]。また、北岡伸一も、「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降伏すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍」と主張している[108]

軍服を脱いで民衆に紛れようとしただけで便衣兵とみなすという考えもある。((軍服着用などの)交戦者資格を満たしていない場合は(そのまま)非合法戦闘員(便衣兵)となり、戦時国際法に照らして処刑しても合法であり虐殺ではないと東中野修道は主張した[109](東中野のこの国際法理解については反論があり、吉田裕は反論し、論争が行われた[110])。国際法学者佐藤和男は、一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、逃走したと認められないので攻撃できると述べた[111]

便衣兵の識別(兵民分離)について、当時の国際法学者信夫淳平の(1932年第一次上海事変の経験から)意見として、便衣隊は戦時国際法違反であるものの、「確たる証拠なきに重罪に処する」は「理に於ては穏当でない」と見なした[注釈 10]。同様な意見として、秦郁彦は、「便衣兵捕虜と異なり、陸戦法規の保護を適用されず、状況によっては即時処刑されてもやむをえない」が、「一般市民と区分する手続きを経ないで処刑してしまってはいいわけができない」としており[113]

そのうえで、便衣兵摘発時の兵民分離について、国際法学者佐藤和男は、南京占領後の潜伏敗残兵の摘発・処刑は、兵民分離が厳正に行われたと述べている[58]。しかし、一方で、南京占領後、便衣兵摘発に日本軍は手こずり、疑わしい一般人を処刑したとされる記録がある[114]南京事件の日本側記録では、中国側敗残兵追及の際の兵民分離は必ずしも一律に厳正でなく、ときに荒っぽく行われており、水谷上等兵の証言では「目につく殆どの若者は狩り出される」「市民と認められる者はすぐ帰」すが、他は銃殺、「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」とある[115]

また、便衣兵の審判なしの処刑に関しては、日本軍は、前述の様に、中支那方面軍軍律・軍罰令・軍律審判規則を定め、便衣兵の様な軍律違反の場合、正規な手続きを経た処罰、つまり「軍律会議を経て審判により処罰(審判第1条)」そして「長官の許可を得たうえで死刑(審判第8条)は可能」を定めていた[116]。そのため、北村稔も「手続きなき処刑の正当性」には疑問を示している[117]。一方で、国際法学者佐藤和男は、南京占領時の潜伏敗残兵の摘発・処刑は、兵民分離が厳正に行われており、しかも、(捕獲した中国兵が)多人数であったために軍律審判の実施が不可能(軍律審判なしの処刑も可能)と述べる[58]

投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法

南京戦では、最も多いとされる殺害事案が、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害である。この組織的殺害の場合、山田支隊の行ったとされる1万人単位の大掛かりな捕虜の殺害は稀な例であり、数十人や数百人単位の虐殺が数多く発生し、合計で約3万人の捕虜・投降兵などが殺害されたと、秦郁彦は説明する[118]

当時の捕虜の取り扱いに係る戦時国際法として日中間でともに受け入れていたものはハーグ陸戦条約(1907年改定後)であり、日本・中華民国がともに条約として批准(中華民国:1917年5月10日、日本:1911年12月13日)[119]していた。同条約の第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっており、同条約の第23条第3項では「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」が禁止されている。なお、同じく捕虜などの保護を定めた条約でありハーグ陸戦条約に定めた捕虜の取り扱いを補完する役割を持つ、赤十字国際委員会の提唱がきっかけとなて成立した[120]俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)は、中華民国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[121]が、日本は署名のみで批准していなかった[122][123]

さて、日中戦争時に、日本の軍部が、日中が批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を遵守・履行しなくても良いと解釈できる命令を出した記録が残っている。日中戦争初期の1937年8月に、日中が批准した戦時国際法(ハーグ陸戦条約)の扱いについて日本陸軍上層部から以下の様な通知が現地の中国への派遣軍に送られていた。つまり、日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」(陸支密第198号)では、「陸戦の法規慣例に関する条約その他交戦法規に関する諸条約中、害敵手段の選用等に関し、これが規定を努めて尊重すべき」とあり、また「日支全面戦を相手に先んじて決心せりと見らるるがごとき言動(例えば、戦利品、俘虜等の名称の使用、あるいは軍自ら交戦法規をそのまま適用せりと公称すること)は努めてこれを避け」と指示している[124][125]。秦郁彦はこれは国際法を遵守しなくともよいとも読めるが、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げたともとれるとした[126]。また吉田裕は、日本軍は明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたと主張している。その理由として、海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」とあり、「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れる[127]

このように、日本側が、自ら批准した戦時国際法に忠実にならなかった背景には、日本側が宣戦布告を行わず「事変」とみなす政策をとったため(もし宣戦布告した場合、アメリカが中立法を発動して軍需品をアメリカから輸入できなくなるなど不利であるため)に、本来と公的に「戦争」を宣言しないことの影響として、戦争なら当然適応される戦時国際法による捕虜の対処策などがおろそかになったのでは、という説が日中歴史共同研究にて指摘されている[128]

そのうえ、このときの日本陸軍は捕虜管理のための機構を設置しなかった[129]武藤章(参謀本部)によれば、1938年に「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」されており、つまり、陸軍は戦争ではない支那事変では捕虜そのものを捕らないという方針を採用、したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった[130]。ただし1941年には俘虜情報局俘虜収容所が設置された[122]戦陣訓はまだ公布されていなかったが、日本軍では捕虜をタブー視しており、秦は「捕虜になることを禁じられた日本兵が、敵国の捕虜に寛大な気持ちで接せられるはずはな」いとする[131]。また日本は大量の捕虜がでたときの指針に欠け、上海戦では捕虜処刑が暗黙の方針になっていたが、首都の南京攻略では明確な方針があるべきだったと秦郁彦は述べる[132]

一方で、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害は、そもそも戦時国際法上、合法だったという意見がある。つまり、作戦遂行の妨げになる場合、敵兵の降伏・投降を拒否することは戦時国際法上でも合法であるので捕虜にしないで殺害してもよかった、また、中国側の違法行為に対する復仇なども殺害の理由となり得る、という意見を国際法学者の佐藤和男は唱える。佐藤は、軍事作戦遂行のために捕虜を拒否することも許される場合があるという国際法学者ラサ・オッペンハイムの考えに沿っており、「日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した」と主張する。 その理由として、①ラサ・オッペンハイムの「多数の敵兵を捕えたので自軍の安全が危ないとき、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよい」という考えは1921年の学説で1937年の南京事件から時間がたっていないので有効な考えである(ただしこの考えに反する1929年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)のこと)がその間にあることも佐藤は記述)、②中国側も通州事件で残虐行為を行った復仇であった(ただし佐藤は同じ論文の中で1929年の俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇が禁止されていたことも記述)、③日本の開城勧告を無視して自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた中華民国政府首脳部の責任、④日本軍は和平開城勧告を行い、それを無視されても難民区などの砲撃を自粛したので(許され得る)、の4点をあげている[注釈 11]。なお、復仇に関連して、南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した[135]

しかし、それに対して、戦時国際法に則った、捕虜の人道的扱いが必要であったとする意見がある。北岡伸一は「捕虜に対しては人道的な対応をするのが国際法の義務であって、軽微な不服従程度で殺してよいなどということはありえない。」[136]と主張している。また、当時の国際法学者の信夫淳平は、例えば18世紀の欧州では捕虜に食べさせる食糧が不足していることを理由にした捕虜処分(虐殺)があったものの、これは”現在の戦時国際法では許されない”(「今日の交戦法則の許さざる所」)と述べて、同時に、”捕虜にして安全に収容することができないときは解放すべきである。捕虜を解放したら敵の兵力が増えるので不利というが、人道法の掟を破ることによる不利益に比べれば、不利といっても小さいものである”(「俘虜にして之を安全に収容し置く能はざる場合は之を解放すべきである。敵の兵力を増大することの不利は人道の掟則を破るの不利に比すればヨリ小である」)という、ウイリアム・エドワード・ホール英語版[注釈 12]の学説を紹介している[137]吉田裕は、「仮に不法殺害に該当しないとしても」日本軍の行動は非難・糾弾されると批判した[138]

また、捕虜の審判なしの処刑に関しては、日本軍は、「便衣兵と戦時国際法」でも記載したように、軍律違反の場合、「軍律会議を経て審判により処罰(審判第1条)」そして「長官の許可を得たうえで死刑(審判第8条)は可能」と定めていた[139]ため、原剛は、(問題とされる中国兵であっても即処刑でなく)、当時の国際法や条約に照らしても軍法会議や軍律会議によって処断すべきであったと主張する[140][23]

なお、日本軍は、それ以前、つまり日露戦争のときは、戦時国際法つまり1900年に批准したハーグ陸戦条約を忠実に守りつつ、外国人の捕虜に対する人道的配慮を行った[141]ことが国際的にも知られており、その後の第一次大戦のときも同様に、中国山東省で捕えたドイツ人捕虜への配慮、日本国内での捕虜収容所での生活ぶりなどにおいて、人道的扱い[142]で広くその名誉ある行動が知られていた。

なお、水間政憲は、日本軍が中国兵を大切に扱ったと主張する証拠として、占領後に中国軍負傷兵を日本軍が市内で集めて病院で治療したと、ニューヨークタイムズの記事と当時の日本の雑誌の写真から説明する[143](ただし、このニューヨークタイムズの記事[注釈 13]によると、実際の中国兵の負傷兵の病院への搬送は、日本軍ではなく、旧中国政府施設の野戦病院を継承した欧米人の医療関係者の自発的メンバー(彼らが国際赤十字を設置したうえでの活動)であると記載されている。

捕虜殺害の論争例:幕府山事件(山田支隊の捕虜処断)

第13師団第65連隊を主力した山田支隊(長・山田栴二少将)は、1937年12月13日〜15日にかけて、烏龍山砲台、幕府山砲台その他掃討地域で14777名以上の捕虜を捕獲し、幕府山にあった国民党軍の兵舎に収容した。1937年12月17日付『東京朝日新聞』朝刊には、「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」という見出しで記事が掲載されている。山田少将は軍上層部へ処置を問い合わせたところ、殺害するように命令を受けた。この多数の捕虜の処置について、殺害数や殺害理由が、戦時国際法上で合法かについて議論される。幕府山事件とも言われる。

自衛発砲説
自衛発砲説とは、当時、第65連隊長だった両角業作大佐手記証言に基づいた見解で、虐殺は少数で、戦時国際法上、合法と主張する。
両角手記によれば、捕らえた捕虜は15300余名であったが、非戦闘員を抽出し解放した結果、8000人程度を幕府山南側の十数棟の建物に収容した。給養のため炊事をした際に火災となり、混乱によって半数が逃亡した。
軍上層部より山田少将へ捕虜を殺害するように督促がなされ、山田少将は両角大佐へ捕虜を処分するよう命令する。両角大佐はこの命令に反し、夜陰に乗じて捕虜を長江対岸へ逃がすことを部下に命じた。長江渡河の最初の船が対岸へ進んだところ、対岸より機関銃による攻撃を受けた。渡河を待っていた残りの捕虜は、この攻撃の音を自分たちを江上で殺害するものと錯覚し、暴動となった為、やむ得ず銃火をもって制止し、その結果、僅少の死者を出し、他は逃亡した。[145]
小野賢二説
小野賢二は、歩兵第65連隊の元将兵に対する聞き取り調査の結果、証言数約200本、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本およびその他資料を入手し、これらの資料を基に、自衛発砲説には一次資料による裏づけが無いと批判、以下のような調査結果を発表する。
山田支隊が捕らえた捕虜は、12月13日〜14日にかけて烏龍山・幕府山各砲台付近で14777名、その後の掃討戦における捕虜を合わせると総数17000〜18000名になった。この捕虜を幕府山南側の22棟の兵舎に収容する。
12月16日、昼頃に収容所が火災となるが捕虜の逃亡はなかった。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000〜3000人が虐殺され、長江へ流される。
12月17日夕〜18日朝、残りの捕虜を長江岸の大湾子で虐殺した。同日は、魚雷営でも捕虜虐殺が行われた可能性がある。山田支隊は、18日〜19日にかけて死体の処理を行った。
小野は、山田支隊による一連の捕虜虐殺を、長勇参謀一人による独断や、山田少将による独断ではなく、軍命令によって計画的・組織的に実行されたものであり、この命令を受けた山田支隊は、準備も行動も一貫して捕虜殺害を行ったことが証言や陣中日記などで実証されているとし、自衛発砲説が成立しない(戦時国際法上は違法)と断じた。
この小野説は、南京事件調査研究会などにおいて支持されている[146][147]。ただし、小野賢二が発掘した日記群は重要でない2名を除いて残り全てが仮名であることは踏まえておかなければならない[148]

期間と場所

事件の期間

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

笠原十九司は、南京市のみならず、周辺部の農村部である南京行政区への日本軍進入後の事件も被害の対象にしているので、異説としても少し早い時期も含めた「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を唱える[要出典]

地理的範囲

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

  • 地理的概念として地区を限定しないもの
  • 南京行政区 :南京市と近郊6県
  • 南京市 :城区と郷区
  • 城区 :南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
  • 南京城 :城壁を境にした内部
  • 安全区 :南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km2

東京裁判では、検察側最終論告で「南京市とその周辺」、判決文で「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」としている。事件発生後に行われた被害調査(スマイス報告)では、市部(城区)と南京行政区が調査対象とされた。

板倉由明は「一般には南京の周辺地域まで」とする[149]

藤原彰は、この定義に対し、日本軍が進撃した広大な地域で残虐行為が繰り返し行われており、もっと広い地域を定義すべきである、虐殺数を少なくするために地域や時間を限定している、と批判した[150]

笠原十九司は、大本営が南京攻略戦を下命した12月4日における日本軍の侵攻地点、中国側の南京防衛線における南京戦区の規定より、地理的範囲を南京行政区とする[151]。これは、集団虐殺(とされる行為)が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などで集中していること、投降兵あるいはゲリラ容疑の者が城内より城外へ連行され殺害された(とされている)こと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた100万人以上の市民の中の一部が多数巻き添えとなっている(とされる)ことなどによるとする[152]

本多勝一は、第10軍と上海派遣軍が南京へ向けて進撃をはじめた時から残虐行為が始まっており、残虐行為の質は上海から南京まで変わらず、南京付近では人口が増えたために被害者数が増大したし、杭州湾・上海近郊から南京までの南京攻略戦の過程すべてを地理的範囲と定義する[153]

当時の国際社会の認知についての議論

国際連盟の決議

1938年2月(南京事件発生の約2か月後)に開催された国際連盟第100回理事会[注釈 14]において、日中戦争による中国の苦境を理解した国際連盟第100回理事会は、日本の軍事行動に対して、「前回の理事会以降も、中国での紛争が継続し、さらに激化している事実を遺憾の意とともに銘記し、中国国民政府が中国の政治的経済的再建に注いだ努力と成果にかんがみて、いっそうの事態の悪化を憂慮し」、日本の軍事行動が不戦条約等の国際法違反であるとした前年10月の国際連盟総会での非難決議を確認する形で再度非難の決議をした。非難決議案が公表されて理事会で決議されるまでの間に、中国側代表の顧維鈞は演説を行い、(前年10月の国際連盟総会後の)11月以降の日中戦争全般の状況ついて、深刻な事態であると「南京事件」もその一部として含めて主張し、日本の中国への主権侵害が中国の存亡にかかわる深刻な状況にあると、日本が南京に傀儡政権を作った、中国経済を破壊するような不利な関税策を一方的に設置したなどと例を挙げたうえで演説した[154]

この国際連盟第100回決議を根拠に、「国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった」とする説が存在する。日本の前途と歴史教育を考える議員の会戸井田徹衆議院議員(2008年当時)[注釈 15]は、国際連盟の第100回理事会において中国側代表顧維鈞が、南京事件(死者2万人などの当時中国の把握した被害内容で説明)や空爆などの日中戦争による中国の深刻な被害について説明した(ただし後述のプロパガンダ説にあるように内容の一部に事実の誇張やプロパガンダの意図があったとされる)ことに関して、そのときの演説での南京事件の説明は(他の個別の軍事被害の説明も含めて)、国際連盟の非難決議案に含まれなかった(正確には連盟理事会がすでに起案した非難決議案に「追加」で記述しなかった)ことに注目した。そして、戸井田は、非難決議案に南京事件が含まれていないのは、国際連盟がデマにもとづく南京事件を無視して、「南京2万人虐殺」すら認めなかったからであると主張した。さらに、当時中国は2万人と主張していたことから後の30万人説は虚偽であるとし、日本への制裁[注釈 16]を中国は希望したが国際連盟が実施しなかったことも強調した[158]。戸井田は、1937年9月に日本軍の中国の都市への空爆(渡洋爆撃など)には国際連盟の具体的な非難決議があったのに、南京事件は具体的な非難決議がないので無視している、と主張した[159]

これに対して笠原十九司は、第100回の理事会の決議案が固まった後、中国側代表の演説の際に述べた南京事件等の個々の日本の軍事行動の内容を、連盟理事会が非難決議案に「追加で記述して」いないのは事実であるとしたうえで、中国側代表顧維鈞の演説の趣旨は、ナチスドイツの台頭などの欧州大戦の危機に国際連盟の関心が向く中、何とか国際社会の中国支援を引き出して「中国滅亡の危機を阻止」することであり、南京事件への非難決議を個別に要求しておらず、国際連盟の決議案も個々の軍事行為については協議せずに日本の軍事行動への全体的非難を行っていると主張している。さらに笠原は、この様な背景と決議案の趣旨からして、南京事件を含めた個々の軍事行動への非難を決議案に追加する必要はなく、演説で一部だけ説明された南京事件を虚偽として「国際連盟が無視した」とまでは見なすことはできないと主張した[159]

なお、戸井田徹の言う通り、中国が連盟に対して「行動を要求」したが、国際連盟は「日本の軍事行動全体を非難」しただけで、イタリアのエチオピア侵略行為のときの様な「制裁措置」つまり「行動」が日本に対して実施されなかったのは事実である。ただ、その後、[注釈 17]に記載ある様に、1938年に日本への「経済制裁」を加盟国が実施できることが決議され、ある意味の「行動」は行われた。

当時の中国政府の認知

戸井田徹は、東中野修道の研究[162]から、当時の中国国民党が1937年12月から約11か月の間に300回の記者会見を行ったという記録があるが、国民党の秘密文書の中には「南京事件の記者会見があった」という記録はなく、事件の存在自体が疑わしいと主張した[163]

ただし、国民党の新聞では、外国報道の翻訳のみではあるが南京事件について報じており、国民党の新聞中央日報新華日報はアメリカの上海新聞Shanghai Evening Post and Mercury(大美晩報),The China Weekly Review(John W. Powell主幹)の事件報道の記事を翻訳して掲載した[164]。関根謙は、中国側が独自取材の記事としては南京事件を報道しなかった理由として、当時中国側の新聞は戦意高揚のために戦勝記事を繰り返しており、南京戦での敗北を報じたくなかったためと主張している[164]

また、中共中央文献研究室編纂『毛沢東年譜』での1937年12月13日欄には、「南京失陥」(南京陥落)とあるだけで、全9冊で6000頁以上あるこの年譜では「南京大虐殺」に一言も触れておらず、1957年の中学教科書(江蘇人民出版社)には南京事件が書かれていたが、1958年版の『中学歴史教師指導要領』[165]には「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、60年版でも1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」にも虐殺について記載がないなど、中華人民共和国の刊行物において南京事件についての記載がないことについて、遠藤誉は、毛沢東が虐殺について触れなかったのは、事件当時中国共産党軍が日本軍とはまともには戦わなかった事実や、国民党軍の奮闘と犠牲が強調されるのを避けたかったためと主張している[166]

なお、中国政府に関連し、水間政憲は、当時の中国国民が、国民政府よりも日本軍の存在を、治安回復に役立ったとして歓迎していたと述べている[167]。その証拠として、南京陥落直後の12月15日に、北京にある天安⾨広場には5万人の北京市民が集まり、日の丸と五⾊旗を振って南京陥落を祝っている[168]姿の写真を示した。ただし、当時の北京は、すでに7月より日本軍が占領し、占領統治も実施しており、その写真の前日に北京で日本の傀儡政権である中華民国臨時政府 (北京)が設立していた[169]ため、祝賀がはたして市民の自発的な行動なのかどうかは、その様な背景を見る必要がある(南京陥落後の占領下の入城式の南京市民の旗振りについてはまた、日本軍の入城式の場でも住民が「しょうがない」と歓迎の手旗をふったことがあったとの日本側の証言がある[170])。

当時の国際報道についての議論

当時、南京攻略戦後も、現地欧米人記者5名(ニューヨーク・タイムズティルマン・ダーディン特派員やシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者、ロイター通信社のスミス記者、アソシエイツプレスのマクダニエル記者、パラマウントニュースリールのメンケン記者)が駐在していたが[171][172]、南京占領後すぐ上海方面へ船で避難したので、ごく初期の事件以外は現地記者不在のために直接確認できないものの[173]、この5人の記者は実際に南京戦に遭遇しており、その後、以下の様に多くの南京事件についての記事が国際社会に対して1937年12月以降翌年にかけて数多く掲載された。ただし、現地欧米人記者はすぐ上海方面へ避難したので、ごく初期の事件以外は自社の記者では直接確認できていない[173]し、記者が避難したことなどによる取材の正確さには問題がないわけではなく、またパネイ号事件・アリソン殴打事件のようにアメリカ国民の関心がより高い報道がより大きく取り上げられるといった事実がある。

1937年12月15日、南京戦時も南京にいたA・T・スティール記者はシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を世界で初めて報道した[171][172]。また12月17日「特派員の描く中国戦の恐怖 ―南京における虐殺と略奪の支配」、12月18日「南京のアメリカ人の勇敢さを語る」と報道した[172]1938年2月4日記事では、南京の中国人虐殺をウサギ狩り(ジャックラビット狩り)に比して「ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。 逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。そのあす多くは武器をすでに放棄していた。(略)日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。(略)日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」と報じた[174][172]

同じく南京戦を直接見たティルマン・ダーディン特派員は12月17日に上海アメリカ船オアフ号から記事を発信し、12月18日にニューヨーク・タイムズに掲載された。この記事では「・・少なくとも戦争状態が終わるまで、日本側の規律は厳格であろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である」「現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった」と報道している[175]

そのほか、南京戦を見たスミス記者(ロイター通信社)も、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為が日本軍によって行われたと報道し、同じく現地を見たメンケン記者(シアトルデイリーニュース(12月16日)・シカゴデイリートリビューン(12月17日))とマクダニエル記者(シアトルデイリータイムズ(12月17日)・スプリングフィールドデイリーリパブリカン(12月18日))も南京事件の悲惨な現実を報道した[176]。また、イギリスのロンドンタイムズ(12月20日)でも報道されており、「日本軍は安全区に入り、戸外で捕らえた中国人を、理由もなくその場で銃殺した」ことが書かれている[177]

なお、アメリカの新聞が南京事件よりもパネイ号事件(アメリカの船の日本軍による沈没事件[178])を確かに大きくとりあげたが、まずパネイ号事件は、当時アメリカと日本との間では重大問題となっており、日本海軍・外務省も巻き込んで解決されたが、日米開戦もあわやという事件[179]であった。そして、パネイ号事件は、アメリカ人も同時期のアジアの一部でおきた南京での虐殺事件の新聞報道よりも、アメリカの船を意図的に攻撃したのでは、との世論の高い関心を呼ぶこととなり大きく連続してアメリカでは報道された[180]。同じく、南京事件よりもアメリカで報道されたとされるアリソン殴打事件(在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件)は、米本土で日本に対する世論の憤慨を巻き起こし、ワシントンでは日本特産シルクのボイコットを求めるデモも発生し、外務省側の陳謝でようやく沈静化した事件であった[181]

なお、前述のニューヨーク・タイムズ記者だったティルマン・ダーディン特派員は、戦後の日本からの取材にて、(1986年・ 笠原十九司の質問に答え)、日本軍が南京に向かい上海から進軍する約3か月前に、上海から南京に移り在住し[173]、そのとき「戦闘に遭わずに南京に行くため」上海からは南の道を通った[173]とのべ、またその後、1989年文藝春秋誌上では、日本軍の南京進軍より約3か月前のとき(南京戦のときではない)、上海から南京までの行程では、虐殺は見ていないと説明した(「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。」と答えた[182])。

一方、欧米の報道の内容に対して疑問を深くする意見が、日本の研究者の中に存在する。「南京戦史」(偕行社)編纂者で南京戦当時独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己は、日本に敵意を持つ英米独の宣教師や新聞記者らは、日本軍の行動を針小棒大に伝聞、憶測まで伝えたとする[63]。虐殺否定派の東中野は、南京陥落後の12月13〜15日は日本軍は掃討戦中であり、安全区国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみでスティールら外国人記者が見たという証言の信憑性を疑い、また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されたのではない」としている[183]。また、東中野は当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性があると主張している[184]。たとえば日本兵の内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[185]渡部昇一は、『ニューヨーク・タイムズ』やアメリカの地方紙の「大虐殺」の記事を、便衣隊あるいはそれと間違われた市民の処刑を見て誤解したと推定する[186]

また、日本の前途と歴史教育を考える議員の会によれば、「南京事件の発生後の約2ヶ月の新聞記事を調査、その間は12月の場合は市民が大虐殺されたとか1月以降も強姦や殺人事件があったという記事はない」と主張し、同時にアメリカの船パネイ号事件の日本軍による沈没事件[178]や、1938年1月26日に発生した在南京アメリカ領事ジョン・ムーア・アリソンを日本軍人が殴打した事件(アリソン殴打事件[注釈 18])が主であり、(アリソンへの)殴打事件よりも記事の重要度が低いなら、それ以上のこと、例えば強姦や殺人は南京には当然なかったと主張した[191]。以上の事実から、同会の西川京子衆議院議員(2008年当時)は、ニューヨーク・タイムズロンドンタイムズも虐殺など全く報道していないと、2013年4月の衆議院予算委員会で述べた[192]。しかし、前述の通り実際には、欧米の新聞は記事の不正確さや頻度は別としてこの時期に確かに南京での日本軍の違法殺人を報道しており、またパネイ号事件やアリソン殴打事件が当時のアメリカで南京事件よりも報道された経緯も前述したとおりの事情であったため、当時の欧米の新聞記事の情報の正確さへの疑問はあるものの、欧米の新聞は南京事件を確かに報道しており、決して南京事件が全くなかったとまでは、そして日本による中国軍民の違法殺人が全くなかったとまでは言い切れないとの説がある。

中国や連合国側によるプロパガンダとの主張

当時から現在にかけて[いつ?]、中国や連合国側が、報道・著作・映画などの反日的な戦時プロパガンダを用いて、南京事件の実際の被害(史実)を誇張し、日本を貶めているという主張がある。中国がプロパガンダに走った背景には、欧米の大口貿易相手国である日本への具体的な行動を起こすまでには欧米世論が至っていなかった当時の国際情勢の中で、国際連盟での中国側の激しい日本非難さえも欧米を動かしていない現実があった[193]。その中で、国際連盟の中国側の演説での「田中上奏文」の様な、日本の行動の誇張や捏造がプロパガンダとして見られることとなる[194]。同時に、事件の事実の誇張や捏造とともに、日中戦争の長期化を狙ったコミンテルンの策謀(宗教的な平和運動への浸透工作)が存在したとの主張もある。

中国のプロパガンダ

中国では、敵対する国家間では相手を打倒するためにあらゆる手段がとられ、戦争のほかに謀略プロパガンダも用いられ、またプロパガンダは国民を結集する方法でもあるとし、南京事件以前の中国の歴史でも多数のプロパガンダがあると田中秀雄は主張している[注釈 19][196]。田中によれば、中国にとっては敵側の残虐性を宣伝し攻撃する「宣伝が武器よりも優先」し、「プロパガンダが世界に認められたとき、初めて抗日戦争は彼らにとって勝利となる」という思想があり、南京事件もプロパガンダによる誇張があったという[196]

国民政府(蒋介石政権)におけるプロパガンダ

南京陥落前の1937年11月、国民党は蒋介石の直属機関として中央宣伝部および国際宣伝処を設け、本部を重慶に、さらに上海、香港、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンに支部を置いた[197]。国際宣伝処の対敵宣伝科は1937年12月1日にプロパガンダ活動を開始し、対敵宣伝本としてティンパーリの著作を発刊した[197][198]

事実の誇張の例としては、国際連盟の決議にも紹介した中華民国の外交官の顧維鈞による、1938年2月2日の国際連盟理事会での中国代表演説の中にもある。ティルマン・ダーディン特派員の1938年1月20日ロンドン・タイムズ記事を引用しているが、「虐殺された「中国人市民」の数は2万人」(ダーディンの記事では2万人の「捕虜」)と一部を変えて演説で述べた[199][199]。また、演説のなかに、現在は[いつ?]偽造文書であることが分かっている「田中上奏文」という、日本が世界征服するためには中国、満州、蒙古を征服しなければならないという内容の文書も紹介しており、誇張がみられなくもなかった[注釈 20]

なお当時の国際情勢を評して「世界的に左派リベラルと共産主義が結びついていた「人民戦線」の時代で、"中国を侵略する日本"という図式は確固なものとしてあり、欧米の世論は日本非難に傾きがちだった」と、安全区委員や記者も国民党や共産党とつながっていたという説があり[196]、実際、日本側は当時、安全区国際委員会を「半公式の中国政府機関」とも見なしていた[200]。また、中国側の日本人工作員である鹿地亘青山和夫が、プロパガンダに影響を与えた説もある[注釈 21]

1937年12月から1938年1月にかけて南京にいたジョン・マギーが現地で撮影したフィルムは、ティンパーリの指示で編集された。「侵略された中国」と題されたこのフィルムは、中国YMCAのジョージ・フィッチが持ち出し、アメリカ各地でYMCA等によって上映された[201]

ソ連・コミンテルンの関与

江崎道朗は、「南京大虐殺」キャンペーンの背後にソ連およびコミンテルンの影響があった可能性を述べている[201]。事件当時、南京にあったドイツ大使館は本国政府に「日本軍は殺人マシーンとなって市民を殺害している」という報告書を提出しているが、江崎は、ソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲがこの報告書に関与していた疑いがあると述べている[201]。また、ゾルゲはドイツの新聞記者として南京を訪れ、事件を目撃していたといわれる[201][202]

A.スメドレーもコミンテルンから資金援助を受けて反日プロパガンダ工作を上海で行い、「南京市民20万人虐殺」説を唱えていた[201][203]

上海でゾルゲやスメドレーを支援していたルドルフ・ハンブルガー英語版もソ連赤軍諜報部責任者で、その妻ルート・ウェルナーはゾルゲの助手であり、またジョン・ラーベの友人であった[201][204]

米中合作プロパガンダ

早稲田大学有馬哲夫によれば、終戦後GHQCIE民間情報教育局)がウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって新聞連載『太平洋戰爭史』やラジオ『眞相はかうだ』などで南京の暴行事件を報道し、日本人に「認罪」に導こうとしたとし、また現在[いつ?]中華人民共和国が「南京大屠殺」を反日プロパガンダとして使う際には戦闘員の戦死、便衣兵の処刑、民間人の虐殺を故意に混同していると主張している[205]。古くは、旅順虐殺事件とイエロー・ジャーナリズムの例もある[206][207]秦郁彦や一之瀬俊也は旅順事件を南京事件と比較している[206][207]

戦後のGHQの宣伝政策

終戦後の連合国軍占領下の日本でのアメリカ合衆国の宣伝もプロパガンダ[注釈 22]であり、行き過ぎとも言われることがある。

民間情報教育局のケン・ダイクは『太平洋戰爭史』とラジオ『眞相はかうだ』のメディアキャンペーンを行った。1945年12月8日からGHQの宣伝政策で全国の新聞各紙で連載された『太平洋戰爭史』では

2万人の市民、子供 が殺戮された。4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された — 朝日新聞1945年12月8日

と報道された。 また『太平洋戰爭史』をドラマ仕立てにしたNHKラジオ『眞相はかうだ』が同年12月9日から放送され、そのなかで「南京の暴行」として、

上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に婦女子2万名 が惨殺されたのであります。

南京城内の各街路は数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。この間血に狂った日本兵士らは非戦闘員を捕え、手当り次第に殺戮、掠奪を逞しくし、また語ることも憚る暴行を敢て致しました。(略)集団的なる掠奪、テロ行為、暴行等人道上許すべからざる行為は、市内至るところで行われました。(略)これは明らかに日本軍将校が煽動して起こしたものであり、彼等の中には自ら街頭に出て商店の掠奪を指揮したものもあったと言われています。日本軍の捕虜となった支那兵を集め、これを四、五十人づつロープで縛り、束にして惨殺したのもまた日本軍将校の命令であったのです。日本軍兵士は街頭や家庭の夫人を陵辱し、暴行を拒んだものは銃剣で突き殺し、老いたるは六十才の夫人から若きは十一才の少女まで見逃しませんでした。
そして中国赤十字社の衛生班が街路上の死体片付けに出動するや、わが将兵は、かれらの有する木製の棺桶を奪いそれを「勝利」の炬火のために使用いたしました。赤十字作業夫の多数が惨殺され、その死体は今までかれらが片付けていた死体の山に投げ上げられました。(略)
(日本)政府の御用機関たる東京放送局は次の如きデタラメな虚報を世界に向かって送ったものです。『南京においてかく多数を惨殺し、また財産を掠奪した●●の徒はこれを捕縛した上厳罰に処されました。かれらは蒋介石軍にいて平素から不満を抱いていた兵士の仕業であることが判明いたしました』と。(略)

南京の暴行、これこそ中国をして最後まで日本に抵抗を決意せしめた最初の動機となったものであります — 「南京の暴行」連合軍総司令部民間情報教育局編『眞相はかうだ』聯合プレス社,昭和21年、pp.30-p33[211]

と放送した。

有馬哲夫はこのラジオ番組『眞相はかうだ』は、GHQの民間情報教育局が製作したにもかかわらずそのことを隠しNHK製作であるかのように思いこませたという点でブラック・プロパガンダであるとした。

米国人宣教師によるプロパガンダ疑惑

池田悠は『正論』(2018年12月号)への寄稿で、南京に残留していた複数の米国人宣教師が事件を創作し、それを中国政府が利用したと主張している[212]

ティンパーリ著作におけるプロパガンダ疑惑

オーストラリア人記者でマンチェスター・ガーディアン紙のハロルド・J・ティンパーリは、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について1938年著作「戦争とは何か」を出版し[213][214]、この著作は当時英米だけで12万冊出版され、日本軍の残虐行為を知らしめ、戦後の戦犯裁判では検察側の主要な証拠として採用された[197]たが、この内容に対しては、正確性についてや、そのほか大多くの批判・議論がある[214]

まず、中国政府のプロパガンダによる誇張や脚色が存在するという説がある。ティンパーリ著作の内容は、コミンテルンの支援で日本から帰国した郭沫若が中国語版の序文を書き[214]、また日本版は鹿地亘青山和夫らが序文を書いた(詳細は#日本人工作員を参照)[196]。また、鈴木明北村稔東中野修道によって『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』、国民政府国際宣伝処長の曽虚白自伝などの中国側の資料が発見され[215]、これらの資料よりティンパーリは蒋介石国民党政府中央宣伝部顧問に就任しており、国民政府の依頼を受けてイギリスやアメリカで戦時プロパガンダを行っていたことが判明し、著作の公平性が疑われると主張した[216][217][218][219][197][注釈 23] このほか、南京陥落の翌日に現地に赴いた外交官福田篤泰は、「残虐行為」の存在を否定しないものの、「私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという[220]。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする[220][注釈 24]。また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している[196]

なお、執筆者の信頼性に関する論議もある。匿名で書かれた第1章「南京の生き地獄」、第2章「掠奪、虐殺、強姦」、第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第4章「悪魔の所為」までは、マイナー・シール・ベイツジョージ・アシュモア・フィッチが執筆した[197][221]。ベイツは金陵大学歴史学教授兼安全区国際委員会委員で、国民党顧問であった[222][197][214]。フィッチはYMCA支部長で、国民党軍輜重部隊顧問だった[223]。ティンパリーは当時上海におり、南京で見聞した内容ではなかった[214]

一方、このような批判に対し、渡辺久志は、曽虚白の証言にも問題があり、またティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのも1939年であったといい、井上久士は「曽虚白自伝」による中国側の依頼でティンパーリが書いたのは誤りとしている[224][225][226]。笠原十九司は、曽虚白の証言は信憑性がなく採用できないとし、また、ティンパーリの本では主要な部分は南京在住者の手記で構成されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする[226]。なお、ティンパーリやベイツと親しかった新聞記者松本重治の記録では両名とも日本への好感を持っていたが、日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている[227]

ただし、前述した渡辺久志や笠原十九司はティンパリーが国民党顧問になったのは「戦争とは何か」刊行後の1939年であったために国民党のプロパガンダとティンパリー著作とは無関係であるとする主張に対して[224][226]、すでに1937年にティンパリーは「戦争とは何か」を発表前に国民党のプロパガンダ工作員となっていたとする反論を、マクヒュードキュメントや董顕光の証言をもとに、展開する意見がある[214][注釈 25]。その説によると、アメリカ海軍情報将校で蒋介石と親しかったジェームズ・M・マクヒューの史料[229]によれば、ティンパリーは南京陥落以前の1937年11月に蒋介石夫妻の私的顧問でオーストラリア人記者ウィリアム・ヘンリー・ドナルドから国民党のプロパガンダ工作員に参加するよう勧誘され[214]たため[注釈 26]、その結果、国民政府元財政部長宋子文と月額1000ドル(現在[いつ?]の貨幣価値で約175万円[233])の報酬で合意したと主張する[214]

またこの本の付録の報告で殺人事件は50人程度であった[197]。しかし、ベイツは1万2千人の中国人非戦闘員の殺害を東京裁判で証言しており、この相違は説明がつかないと田辺敏雄は指摘している[197][注釈 27]

エドガー・スノーの著作

中国共産党に取材した『中国の赤い星』で高評を得ていたエドガー・スノーは、南京戦当時には上海にいたが1941年の著作『アジアの戦争』[注釈 28]

南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世界に聞こえている。南京国際救済委員会の委員が私に示した算定によると、日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人子供だったのである。また、上海・南京間の進撃中に、30万人の人民が日本軍に殺されたと見積られているが、これは中国軍の受けた死傷者とほぼ同数であった。いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者はすべて強姦された。難民は泥酔した兵士にしばしば銃剣で刺し殺された。母親は赤ん坊の頚が切られるのを見た上で強姦を受けねばならぬことがしばしばであった。 — エドガー・スノー『アジアの戦争』(1941)

と書いた[234]

田辺敏雄によれば、国際救済委員会の前身は南京安全区国際委員会で、スノーはベイツやティンパーリの著作を参考にしていたが、「非戦闘員1万2千人殺害」でなく、「女、子供4万2千人虐殺」 にすり替わっており、「聞き伝えというのは当てにならないという好例で、そこに個人的感情、政治的立場が入りこめば、悪意を込めた方向に際限もなく変形していく」、30万人虐殺説はスノーの「上海・南京間の30万人虐殺」説の影響を受けている可能性があると主張している[234]

記録映像による被害誇張説

ザ・バトル・オブ・チャイナ』(米国、1944年)監督フランク・キャプラ、およびこの映画を編集した『中国之怒吼』(中華民国(台湾)、1945年)についても、その一部について、アメリカや中国のプロパガンダ映画であるとの批判や問題点の指摘がある。アメリカ陸軍省が監修したプロパガンダ映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』中の「南京大虐殺」シーンは、女性を連行する軍人の肩章勲章が日本軍のものではない、腰に弾帯を巻いているが日本軍の拳銃は回転式ではないので必要がない、南京事件は12月なのに半袖姿がある、生き埋めにされる婦人の上に「三民主義」と書かれた紙片が載せられるなど、日本軍が南京で行った連行殺害の映像ではなく、中国軍が別の時期に行ったものではないかと大原康男竹本忠雄は主張している[235]

アイリス・チャンの「天皇の陰謀説」

日本軍部の現場での捕虜殺害命令についての議論とは別に、アイリス・チャンは著書『ザ・レイプ・オブ・南京』で、デビッド・バーガミニ英語版の著書『天皇の陰謀』(1971)[注釈 29]に基づいて、昭和天皇朝香宮鳩彦中将に日本軍指揮を命じ、その後朝香宮中将またはその参謀が「捕虜はすべて殺害せよ」との命令を発したと主張した[236]。しかし、アメリカン大学名誉教授のリチャード・フィンはアメリカの歴史家はバーガミニが使った情報源に懐疑的で、天皇や朝香宮中将による命令について信頼に足る証拠はないと批判した[237][236]。歴史家のバーバラ・タックマンはバーガミニの『天皇の陰謀』は「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物」と非難した[238][236]

ただし、実は日本陸軍は、捕虜殺害命令というより、戦時国際法(ハーグ陸戦条約)を蔑ろにしてもよいととれる命令を日中戦争開始後に出したため、捕虜の殺害が正当化されたという説がある(詳しくは#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法を参照)が、この命令はあくまで陸軍省独自の判断による通達であり、たとえ軍の統帥権を持つとしても(戦時国際法を重んじた)天皇陛下の命令では全くない。[要出典]なお、日本陸軍による捕虜殺害についての、中島今朝吾日記を捕虜殺害命令とする説と論争については#陣中日誌を参照。

アイリスチャンなどの南京ホロコースト説

南京事件をホロコーストと呼ぶ説があり、誇張・プロパガンダともされている[要出典]

アイリス・チャンは著書「ザ・レイプ・オブ・南京」の副題に「忘れられたホロコースト」と付け、南京の犠牲者は26万から35万にのぼり、東京大空襲広島・長崎の原爆投下の犠牲者(犠牲者推計約23万8900人[239])よりも多く[236]、南京事件を犠牲者は580万とも推計される[240]ナチスドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)と同一視した[236]。またチャンの著作が刊行された1997年11月30日ニューズウィークはチャンの著作と内容が重複する編集部書名記事「南京のレイプを白日の下に晒してみよう(EXPOSING THE RAPE OF NANKING)」を報道した[241]

一方、リチャード・フィンはチャンの数字は誇張であり、当時南京にいたラーベは犠牲者を5万〜6万人、現地入りしたダーディン特派員は数千人と記録していると批判した[236]ハーバード大学エズラ・ヴォーゲルもラーベの記録はチャンの数よりはるかに少ないと指摘している[242][236]スタンフォード大学のデビッド・M・ケネディは「南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に与えていない」と評した[238]。『ニュー・リパブリック』誌のジェイコブ・ハイルブランは「ホロコーストはナチによる組織的、計画的、かつ政府組織をあげてのユダヤ民族の絶滅を目指す殺人行為だった。だが、南京破壊は戦争犯罪であり、中国人絶滅の試みなどではない。日本政府が事前に残虐行為を命令した証拠はなく、前線の軍隊が暴走した結果だろう。その意味では、南京でのような事件は歴史上、他にも多数、起きたといえる。センセーショナルな宣伝文句に間違った比較を使うことには納得できない」「事件はあくまで軍隊の一部による戦争犯罪であり、日本以外の国の軍隊も同じようなことはしてきたのだ」とコメントし、さらに中国政府は大躍進政策文化大革命での何百万の大量虐殺に直面することを避け続けていると批判した[243][236]

その他にも内外のマスコミや中国の2000年以降の見解にもホロコーストの表現が見られる[注釈 30]

戦後の戦犯裁判の検証

南京裁判

阿羅健一は、谷寿夫中将が事件の責任者として裁かれたことについて、谷指揮下の第6師団は城内の数百メートルまで進んだに過ぎず、谷も入城式に参加するために一週間程滞在したのみであるとした。また、谷が裁判にて、事件を知ったのは戦後GHQの「太平洋戰爭史」によってであると述べたとしている[250]。ただし、第6師団は、捕虜の解放の戦闘詳報が残る一方で、入城しないで向かった南京城近くの長江周辺で軍民を含めた(戦闘の延長と見るかは論議はありうるが)虐殺の記録がある[251]

東京裁判

この裁判への批判は数多い。[要出典]すでに#主要な争点での#虐殺の対象でも説明したように、占領後の中国兵への不法殺害の記録や占領直後までの市民殺害などの記された戦時国際法違反は存在するし数も総数は万を優に越える説があるが、治安回復した都市での市民(に捕虜も含めた)計20万人の「大虐殺」までは明確な証拠がないのに、判決に採用されたことについては批判が多い[要出典]。また、否定派の田中正明は、戦後の戦犯裁判ではじめて中国は死体埋葬一覧表などの資料を急造し、被害者と称する人物の誇大宣伝や「屍体は累々として山をなし、流血は二条の河となって膝に没する程なり」といった文学的作文まで証言・証拠とされ、東京裁判では日本軍に関するかぎり偽証罪がなく[252]、諸報告や記録より総計20万人までの「大虐殺」は不可能であると主張した[252][253]

文献記録と口述資料、写真・映像

広田弘毅外相の電報

1994年にアメリカ公文書館によって解禁された資料のなかに1938年1月17日付の外務省から在ワシントン日本大使館宛に南京視察後の広田弘毅外相が発信した暗号電報が発見され、「日本軍部隊はフン族アッティラ王を思い出させるように振る舞った。三十万人以上の中国市民が殺害され、多くは冷酷な死を遂げた」との内容が記録されており、以降中国は虐殺の証拠として「広田電」を宣伝している[238]アイリス・チャンも、この広田電報が30万虐殺の動かしがたい証拠であると主張した[236]

しかし、広田外相は当時日本国内におり外務省に送られた南京事件の資料を見聞しただけで、南京視察は行っていない[238][254]。また、ジョージ・ワシントン大学のダキン・ヤンはこの電報は広田弘毅ではなく、記者ティンパリーが書いたニュースであると指摘している[255][236]。諸君!編集部はこの電報とされる文書はティンパーリー記事を現地の日本当局が検閲・押収したもので、「アッチラ大王」や「フン族」などの言及からも日本人らしからぬ発想であると指摘している[238]

証言

当時南京戦に参加した日本軍将兵や従軍記者、外交官などの証言があり、「虐殺」があった、「捕虜」「便衣兵」の処刑を目撃したという証言がある[256]。一方で、当時「虐殺」は見ていない・聞いていないとする証言も多数ある[257]。また再調査によって証言が虚偽であったことが判明しているものもある[258]。日本人以外では戦後の南京裁判や東京裁判で証人となった安全区にいた外国人の証言や中国人の証言がある。

日記史料

陣中日誌

陸軍のOB会偕行社が編纂した「南京戦史」・「南京戦史資料集I」「南京戦史資料集II」には多数の軍人の陣中日誌、日記、部隊の戦闘詳報が掲載されており、松井石根大将、飯沼守上海派遣軍参謀長(資料集I)、上村利道上海派遣軍参謀副長(資料集II)、山田栴二(歩兵第104旅団長・山田支隊支隊長)の日記等が収録されている。個別の出版では、下士官だった村田 和志郎の「日中戦争日記」(1986年出版)などが出されている。

1937年12月13日「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ 時 恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり[259]」「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千、5千、1万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ 後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7,8千人アリ尚続々投降シ来ル 此7.8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ100,200二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ[260]
この記述の「大体捕虜ハセヌ方針」を軍による捕虜殺害命令とする見方がある(藤原彰[261]笠原十九司[262]秦郁彦[263]吉田裕[264])。吉田裕は裏付けとして第38連隊児玉義雄証言、第16師団歩兵33連隊、第114師団第66連隊第一大隊戦闘詳報を挙げている。

一方、中島日記の記述を裏付ける命令書と物証は発見されていない。東中野修道はこれを捕虜殺害の意味でないと意見する。当初から殺害する方針であったとすれば明記するはずであり、捕虜にせずに釈放するのだと考え、上海派遣軍参謀・大西一大尉「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです」という証言も挙げる[265]。日本軍は捕虜収容所を作り捕虜を収容し汪兆銘政権下の兵士となった者もいて、戦闘中の捕虜を解放した事例もある[265]

  • 小原立一 (第16師団経理部予備主計少尉 )日記1937年12月14日「最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ」(秦郁彦が引用[266]
  • 井家又一 (歩兵第七連隊第二中隊上等兵) 日記12月22日「百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。(中略)一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。(中略)戦にやぶれた兵の行先は日本軍人に殺されたのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。 (中略)水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。 いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家具を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す[267]」。
  • 児玉義雄 (第16師団第38連隊の副官) 師団命令として中国兵の降伏を拒否し、殺害するよう伝えられた[264]
  • 佐々木到一(第16師団の歩兵第30旅団長) 掃討戦記『佐々木到一少将私記』[268]を残す。「城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。」
  • 遠藤高明(第13師団山田支隊第65連隊第8中隊少尉)
  • 黒須忠信 (第13師団山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊上等兵)
  • 牧原信夫(歩兵第26連隊・上等兵) 笠原十九司『南京事件』で引用
  • 堀越文雄 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊) 中国人女、子供を銃殺。笠原十九司『南京事件』で引用
  • 大寺隆 (第13連隊山田支隊歩兵第65連隊第7中隊) 12月18日、昨夜までの揚子江捕虜殺害は2万。笠原十九司『南京事件』で引用
  • 増田六助 (第16師団歩兵20連隊伍長)難民区掃討。『南京戦史資料集』偕行社。笠原十九司『南京事件』で引用

欧米人の日記・記録

  • ジョン・ラーベ- 南京安全区国際委員会委員長。日記(日本語訳「南京の真実」)[269]。ジョン・ラーベは日本軍入城後は秩序が安定すると信じていた[270]ものの日本軍の行動に裏切られる。日記には、ラーベ等の安全区での活動や日本側との折衝も書かれており、同時に日本軍の暴行や不法殺人も記録されている。一方で、在南京ドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長のように、ラーベはアメリカに肩入れしすぎ、中国側からの一方的情報を聞いているだけという批判もある[271]
  • ミニー・ヴォートリン- 南京安全区国際委員会の女性委員であり金陵女子大学内に女性をかくまうなど救援し、日記を残した[272]
  • ロバート・O・ウィルソン- 南京安全区国際委員会委員であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の医師。本人の手紙[273]
  • ジョージ・アシュモア・フィッチ - 南京安全区国際委員会のメンバー。本人の著書「中国での八十年」[274]
  • ジェームズ・H・マッカラム- 南京安全区国際委員会委員。宣教師であり金陵大学付属病院(鼓楼病院)の事務管理総括(医師ではない)[275][276]。マッカラムの1937年12月29日の日記の以下の文章は、日本軍の虐殺否定の証拠として東京裁判[277]に提出された[278]。1937年12月29日「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」。なお同日日記に「私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる」とも記載[279]。マッカラムの日記には他にも日本側の食料提供などを好意的に書いた部分もあるが、12月30日、1月7日の日記には「きょう病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼は九死に一生を得た。ボブ・ウィルソン(引用注:ロバート・O・ウィルソン医師のこと)がほぼ半日かけて傷を縫合した。夕食前に日本兵二人が来て、一二歳の少女を黄色のタクシーで連れ去った。」「プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。」という記載もある[280]
  • 国民党監修南京安全区国際委員会の記録集『Documents of the Nanking Safety Zone南京安全地帯の記録)』-この記録を翻訳した否定派の 冨澤繁信は、記録に日本軍兵士の所行とされる根拠がなく、むしろ日本軍兵士の所行とされるべきものは少ないと推論し、しかも記録内容が事実であっても大虐殺説の間違いを証明すると主張した[281]

中国人の日記

2015年ユネスコ記憶遺産に登録された程瑞芳の日記について、日本の否定派から、この日記では強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件のみで殺人事件の記録もなく、また目撃証言もないので、「大虐殺」の証拠としては不適当であるという批判がある[注釈 31]

公式記録(戦闘詳報)

遺体埋葬記録とその論争

南京事件では、日本軍の違法殺人による軍人・民間人の遺体が城外で殺されたあと、長江に流された例が数多く記録されているが、城内や城外にも遺棄遺体(ただし、他の戦闘や違法でない戦闘の死亡者などの遺棄遺体などの違法殺人以外の遺体も含むので全てが虐殺(違法殺人)とは限らない)が数多く残されていたので、中国側の慈善団体である紅卍字会崇善堂とが、多くの遺体処理を行ったことが記録も含めて残っている。両団体が4月まで行った遺体の埋葬数は、以下のとおりであり、南京城内での作業分担は、紅卍字会が安全区のある城内西側を、そして崇善堂が城内東側を担当した[285]

  • 紅卍字会が、城内(主に安全区を含む城内西側)埋葬 1,795(当時の資料では1,793)、城外埋葬 41,330。
  • 崇善堂が、城内(主に城内東側)埋葬 7,549、城外埋葬 104,718。ただし、3月まで城内で、4月より城外での埋葬。

なお、死者は城内外ともに9割以上が成人男性であり、違法殺人か戦死かは別として中国軍人が多数であるが、ミニー・ヴォートリン日記では、紅卍字会の処理遺体の3分の1は民間人の死体であった報告があり(4月2日)、紅卍字会の処理した城内1,793体の遺体の80%は民間人(4月15日)との伝聞情報を記述している[286]

この埋葬数に対して、東中野修道は、ジョン・ラーベの日記の中に、1月末まで近所にあった遺体の埋葬を日本側が許可しなかったとの記述があることから、ウソがあるとみなし、また崇善堂の4月以降の埋葬数が過大であり不可能な数字とみなし、同団体の存在も含めて埋葬数の信憑性が低いと述べている。また、阿羅健一は、3月に成立した日本の傀儡政権の中華民国維新政府の資料に、崇善堂の活動が再開された時期が1938年9月とのみ記されている(ただし、団体の一覧表に活動再開時期の年月のみが記述されただけであり、どのような活動の再開か、資料の背景等の詳細は全く記載されていない)ことを根拠に、それ以前は活動していないと主張した。そのうえで、水間政憲は、以上の考えから、崇善堂の埋葬活動をナシ、イコール実績なしであるとし、崇善堂の南京城外の城外埋葬104,718人と城内の東側の埋葬7,549人をゼロとみなし、南京事件の埋葬数(被害者数)は紅卍字会の埋葬、しかも城外埋葬41,330人は南京事件の被害とみなさず、城内の1,793人の埋葬のみが被害者(しかも女性・子供の様な確実に民間人と特定できる死者数はその中のわずか“34人”だった)であると主張した[287]

これら否定派への反論として、井上久士は、まず日本軍特務機関の記録から1月にはすでに埋葬活動そのものが許可されていたと反論し、また崇善堂もすでに長い歴史を持った現地の互助団体として不動産収入などを得て活動しており(日本側がこの団体に埋葬を委託した資料はないが)、南京市自治委員会への書簡などの具体的資料により崇善堂の1-2月の埋葬活動が確認でき[288]ていると述べた。ただし、同氏は、4月以降の埋葬数が多いのは、3月にはもう遺体の損傷が激しくなったので多数の遺体が粗雑に埋葬されたためかもしれないが、粗雑であれば埋葬数字の信頼性も低い(が埋葬活動の全面否定まではされない)と推察する。また、崇善堂の埋葬活動の記録はたしかに少ないことを認めつつも、即、偽資料や捏造と呼ぶことについては、資料をあげつつ批判している[289]

また、紅卍字会の記録にも、わずか1日で6,000体の城外の埋葬という記録があり、その記録を虚構という説があるが、洞富雄が中国にある原本を調べたところ、そのときは長江沿いに遺棄された大量の遺体をそのまま長江に(埋葬せず)流したと記載されているので、説明がつくと述べた[290]

文学作品・映画など

南京事件 (代表的なトピック)#南京事件を扱った作品を参照。記録映画は#記録映像資料も参照。

書簡史料

2000年に死後発表された従軍作家火野葦平の手紙には、以下のように記載されている[291]

(1937年12月15日)つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、 誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。 支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。 山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。 すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます

疑問ある写真

南京事件の写真資料(マギー牧師の写真、国国民党が編纂した『日寇暴行実録』(1938年)、日本人のカメラマン撮影など)は、数多く存在しているが[要出典]、その信憑性を検証しないままに扱われていた。だが、後述するように1984年の朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)「南京大虐殺の証拠写真」の生首写真が間違いであったなど、信憑性のない写真が一部混在していた。[要出典]

南京事件関連の写真を検証してきた松尾一郎 やその研究に参加した東中野修道等は、アイリス・チャンの著作などの南京事件関係の書籍に掲載数多くの「証拠写真」を捏造写真としている[292]故意(捏造)であるかは、別として今まで指摘された間違い写真の例は、他の関係ない写真が混じっている、南京事件の後の1938年の日本軍の軍装(つまり南京以外の場所のもの)、編集者の誤記など、様々である。[要出典]

その上で、東中野修道”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している[293]。ただし、東中野修道の写真分析と全て捏造という主張には、行き過ぎがあり、考証・指摘の間違いもある。例えば女性の陰部に異物を入れる残虐行為は中国人しか行わないので偽写真とみなしたが、実は日本兵も同じことを行っていた記録はあり[294]、そもそも外国人でも殺人事件そのものは撮影がほぼ不可能なことを考慮していない、などの疑問点が存在する。

産経新聞は2008年、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したと報じた[295]。しかし、中国側は撤去を否定した[296]

1. 『アサヒグラフ』1937年(昭和12年)11月10日号

「我が兵に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」1937年10月14日熊崎玉樹撮影 『アサヒグラフ』1937年11月10日号。
中国国民政府(蒋介石政権)によって1938年の『日寇暴行実録』で日本軍に拉致された中国人女性と解説され転載された。
写真週刊誌『アサヒグラフ』1937年(昭和12年)11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載された[297]。この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載された[297]
この『日寇暴行実録』の写真は、本多勝一が1972年の著書『中国の日本軍』(創樹社)や、1997年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された。
1998年、秦郁彦がこの写真の原版は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが指摘された[297]。笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン、朝日新聞、読者に詫びた[298]。これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』[299]の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替えた。
2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は7歳の幼女から70歳の老婆まで及んだ」とのキャプションとともに掲載していた(上記笠原と同様の)写真の誤用を指摘すると、本多は「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例にも明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。ただ中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた座談会 [300]で、吉田裕さんが次のように指摘しているとおりだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があって、それを反動派につけこまれている>。『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです」と、文書で回答を寄せた[301]

2. 朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」

朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として生首写真を掲載した。しかし、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵23連隊戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になった(1986年1月に和解)[302]

3. 村瀬守保写真集

村瀬守保写真集・『従軍中国戦線』は東中野修道からその信憑性について疑義が出された[303]が、笠原は反論している[304]

記録映像資料

ユネスコ記憶遺産登録に関して

中国が南京事件に関する文書と慰安婦関連資料のユネスコ記憶遺産への登録申請をユネスコへ行ったことに対し、日本政府は登録までに繰返し中国政府に申請を取り下げるよう抗議を行っていた[306]2015年10月9日ユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」に関する文書をユネスコ記憶遺産に登録することを決めた[307]

中国が申請し、登録された資料は、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記など11点であった[308]

  1. 金陵女子文理学院宿舎管理員・程瑞芳の日記
  2. 米国人ジョン・マギー牧師の16ミリフィルム
  3. 南京市民の羅瑾が保存した日本軍撮影の民間人虐殺や女性へのいたずら、強姦の写真16枚
  4. 呉旋が南京臨時政府参議院宛てに送った日本軍の暴行写真
  5. 南京軍事法廷における谷寿夫への判決文
  6. 南京軍事法廷での米国人マイナー・シール・ベイツの証言
  7. 南京大虐殺の生存者陸李秀英の証言
  8. 南京臨時政府調査委員会の調査表
  9. 南京軍事法廷が調査した犯罪の証拠
  10. 南京大虐殺の案件に対する市民の上申書
  11. 外国人日記「南京占領-目撃者の記述」

日本政府は中国の申請はユネスコ記憶遺産の政治利用であると抗議した[308]。登録発表後、日本政府は「資料は中国側の一方的な主張に基づいており、真正性や完全性に問題があることは明らかだ。」として抗議した。日本外務省は「中立公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾」「政治利用されることがないよう制度改革を求めていく」との外務報道官談話を発表した。また、日本政府は登録された際には世界第二位の拠出率(アメリカは支払いを停止しているため日本が実質一位)のユネスコの分担金を見直すことを示唆していたが、登録を受けて分担金拠出の凍結の検討に入った。日本の自由民主党や民主党や維新の党など与野党も登録を批判した[309][310][311]毎日新聞はユネスコ世界遺産無形文化遺産は、登録審議が公開されるが、記憶遺産は審議も勧告内容も非公開であるため透明化が求められていると報じた[308]。このほか藤岡信勝は登録を決定した現事務局長イリナ・ボコヴァ抗日戦争勝利70周年記念式典にも参加した親中派であり、公正性にも疑問があるとした[283]

関連作品に関する論争

  • 本宮ひろ志の漫画『国が燃える』では、南京事件に関する描写が問題となった。
  • 英国人記者ジョージ・ホッグ英語版を主人公にしたオーストラリア・中国・ドイツ合作映画『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』が2008年に製作され、同作の中でホッグは南京事件を報道した記者として描かれた[312]。2015年10月には、習近平総書記が訪英した際に、南京事件を報道した記者としてホッグの名前をあげて日本を非難した[312]。しかし、産経新聞の報道によると、映画原作者で脚本も担当したジェームズ・マクマナスは、「ホッグが中国入りしたのは1938年2月であり、しかも南京には行っていない。映画は脚色され、事実そのままではない」と回答した。さらにホッグはマンチェスター・ガーディアン記者であったとされるが、署名記事も在職記録も発見できなかった[312][注釈 32]

論争に対する評価

南京事件論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者中山治は、「互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評している[313]
  • 政治学者藤原帰一は、論争は「生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない」と論評している[314]

脚注

注釈

  1. ^ 秦は南京の中国軍の兵力10万、5万が戦死、4万が捕虜、3万が殺害(生存捕虜は1万)と推定。台湾公式戦史、上海派遣軍参謀長飯沼守少将日記、上海派遣軍郵便長佐々木元勝の12月15日日記の「俘虜はおよそ四万二千と私は聞かされている」に符合[53]
  2. ^ 日本の前途と歴史教育を考える議員の会は、国民党文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』に基づき、1937年12月1日から1938年10月24日まで漢口で300回の記者会見で事件に言及しなかったとしている[59]
  3. ^ a b ただし、南京城内から離れた南京行政区の農村部の被害者は、ふつう、南京事件の被害者に加えない。
  4. ^ 会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝
  5. ^ 国民政府が監修し1939年に出版された南京安全区国際委員会の記録『 Documents of the Nanking Safety Zone』(国民政府外務部顧問徐淑希編集)
  6. ^ 南京事件の真実を検証する会の2007年公開質問によれば、「国民政府国際問題研究所監修、Documents of the Nanking Safety Zone,1939年出版,上海」[61]冨澤繁信『原典による南京事件の解明』では「『南京安全区攩案』徐淑希, Documents of the Nanking Safety Zone. Kelly & Walsh, 1939. 重慶 国際問題研究所の援助により編纂」とある。バージニア大学TOKYO WAR CRIMES TRIAL DIGITAL COLLECTIONには原本がオンラインで公開されており、「Documents of the Nanking Safety Zone. Edited by Shuhsi Hsu, PhD, sometime adviser to the Ministry of Foreign Affairs. Prepared under the Auspices of the Council of International Affairs, Chungking." Printed by Kelly Walsh, Limited, Shanghai-Hong Kong-Singapore. 1939."」と説明している。
  7. ^ 2015年に作家の百田尚樹も同趣旨の発言をしている[77]
  8. ^ 南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、アメリカ人宣教師(ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内にアメリカ大使館に協力を依頼して、設定した地域である。ジョン・ラーベが委員会の委員長となり、南京陥落前に南京安全区への市民の避難を呼びかけた。この安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[85]
  9. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[87]。この文書の冒頭に「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  10. ^ 「便衣隊は交戦者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戦法規違反である。その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に問ふこと固より妨げない。ただ然しながら、彼等は暗中狙撃を事とし、事終るや闇から闇を伝って逃去る者であるから、その現行犯を捕ふることが甚だ六ヶしく、会々捕へて見た者は犯人よりも嫌疑者であるといふ場合が多い。嫌疑者でも現に銃器弾薬類を携帯して居れば、嫌疑濃厚として之を引致拘禁するに理はあるが、漠然たる嫌疑位で之を行ひ、甚しきは確たる証拠なきに重罪に処するなどは、形勢危殆に直面し激情昂奮の際たるに於て多少は已むなしとして斟酌すべきも、理に於ては穏当でないこと論を俟たない。」[112]
  11. ^ 『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約(注:俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)のこと)の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるべき戦時国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない」と述べている[133]。(ただし、そのように主張した佐藤和男は、自著の中で、俘虜の待遇に関する条約ジュネーブ条約)によって捕虜への復仇が禁止されていたことも、記述している[134]
  12. ^ William Edward Hall(1835-94)英国の法律家で旅行家。国際法では中立に関わる研究で知られる。『国際法論』(1880年)の日本語訳あり。
  13. ^ 一九三八年一月九日 中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為 F・ティルマン・ダーディン上海十二月二十二日発 (中略)アメリカ伝道団の大学病院は戦闘中も開業し、一般市民の負傷者のために病院が利用できるよう努力がなされていた。しかし、若干の兵隊も入院していた。二人のアメリカ人医師(フランク・ウィルソン(訳注 正しくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカ人看護婦二人(グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかの数の中国人の助けをえて、昼夜を分かたず、二〇〇人近い患者の世話をした。日本軍が市を占領するや、戦傷者救済委員会は国際赤十字の支部として組織され、外交部の建物内にあった中国陸軍の主要な病院を引き継いだ。配備可能な輸送手段は、町の全域にくりだして負傷兵を運び込んだ。市にまだ残っていた医師や看護婦を集め、この病院で仕事についてもらった。日本軍は当初、この病院を自由に活動させてくれたが、十二月十四日火曜日の朝、この場所へ外国人が立ち入ることを禁止し、中にいる五〇〇人の中国兵の運命に関与させないようにした。(以下略) (「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収) (以下英文)The American mission University Hospital operated throughout the battle, and an effort was made to keep it reserved for civilian casualties. However, a few soldiers were admitted. Two American doctors, Frank Wilson and C. S. Trimmer, and two American nurses, Grace Bauer and Iva Hynds, labored day and night with only a few Chinese helpers to care for the nearly 200 patients in their charge. When the Japanese had occupied the city, the war wounded relief committee within a few minutes organized themselves as a chapter of the International Red Cross and took over the main hospital of the Chinese Army in the Foreign Ministry building. What transport could be marshaled was sent throughout the city to bring in wounded soldiers, and Chinese doctors and nurses still in the city were rallied to work at the institution. The Japanese at first permitted free function of this hospital, but on Wednesday morning, Dec. 15, they barred foreign access to the place and would make no commitments as to the fate of the 500 Chinese soldiers within. [144]
  14. ^ 国際連盟の理事会の第100回議事録は、国際連盟が刊行した公開資料であり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」の中に決議文とともに中国側演説や各国の議事内容が詳細に掲載されていた。「ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店)でも2001年にも掲載。
  15. ^ 日本の前途と歴史教育を考える議員の会の「南京問題小委員会」は、当時の一次資料を元に南京事件を調査し、戸井田は、国立公文図書館のアジア歴史資料センターより、「国際連盟理事会第100回の議事録」を入手して同資料を新たに発見した1次資料として扱った。同資料は日本外務省にも保管してあり、戸井田が資料の縮小写真を提供させた[155]。ただ、同資料は国際連盟が刊行していた公開資料であり「League of Nations, Official Journal 19, No. 2 (1938)」に含まれており、すでに2001年の既刊『ドイツ外交官の見た南京事件』にも日本訳が掲載されていた。
  16. ^ 中国側は、国際連盟規約第16条の「経済制裁」を英仏ソとの会談で日本に対して行うことを提案したものの英仏の反対で実施されず[156]。ただし、この国際連盟規約第16条は、それまではイタリアのエチオピア侵略において発動されたのみであった。ちなみに、1938年9月の国際連盟理事会において、中国の再度の要求によって、加盟国が個別に国際連盟規約第16条の「経済制裁」を日本に対して実施できることを決議した[157]
  17. ^ 中国側は、国際連盟規約第16条の「経済制裁」を英仏ソとの会談で日本に対して行うことを提案したものの英仏の反対で実施されず[160]。ただし、この国際連盟規約第16条は、それまではイタリアのエチオピア侵略において発動されたのみであった。ちなみに、1938年9月の国際連盟理事会において、中国の再度の要求によって、加盟国が個別に国際連盟規約第16条の「経済制裁」を日本に対して実施できることを決議した[161]
  18. ^ アリソンは日本の海軍機関学校の英語教員の経験があり、後に駐日アメリカ合衆国大使サンフランシスコ講和条約草案作成を行い、アイゼンハワーの対日政策にも影響を与えた[187]。アリソンの記録では、まず(1)武装した日本兵たちが安全区の金陵大学農学院作業所に深夜に侵入し、中国人女性1人を連れ去り強姦して返した、(2)女性の強姦された場所は、もともとアメリカ人のカソリック司祭が住んでいた家屋であり日本兵が占拠していた、(3)強姦事件は日本大使館に報告され、1月26日の午後、日本人の憲兵等を伴ってアリソンともうひとりアメリカ人がその日本兵占拠の家を被害者の女性とともに事件の調査のために訪問し、(4)日本人憲兵と女性のみならずアリソンたちもその家に入ろうとしたら、日本兵に押し戻されて侮辱され、殴打された、(5)アリソン達アメリカ人は日本側に乱暴や侮辱的なことをしなかった[188]。これに対して日本軍の公式見解では、「アリソン米国領事がある事件調査のため、日本軍中隊長の制止を振り切って家屋内に侵入しようとした」「アリソン氏が日本軍に恰も検察官的不遜の態度を以て、その領事たるの職分を超越し、事毎に日本軍の非を鳴らすが如き態度に出た」とし、東中野修道はこの日本軍の見解が正しいとした[189]。この他、飯沼守日記では、その家では天野中隊長と日本兵十数名が住み、何人もの女性を拉致しては皆で強姦していたとある[190]
  19. ^ 敵側の残虐性を宣伝し攻撃する先例として、軍の攻撃で80万人の犠牲者を生んだ揚州大虐殺側から記録した『揚州十日記』が、1911年中国革命以前には「滅満興漢」のスローガンとともにバイブルとなったことや、1937年12月の南京事件以前の1937年10月25日に中国共産党の毛沢東はイギリスの記者バートラムに対して日本軍が「虐殺、掠奪、強姦、放火」をしていると述べている例、また、1927年の北伐で蒋介石の国民党軍が張作霖張宗昌軍を攻撃するために撒いたビラ[195]には「虐殺、掠奪、強姦、放火」と表記してあった例などを挙げて、南京事件との関連を指摘している。
  20. ^ 顧維鈞は1933年2月のリットン調査団を審議する国際連盟理事会で田中上奏文を引用して平頂山事件に触れて日本を非難しており、虐殺事件を用いて非難するところは南京事件の場合と類似していると田辺は指摘する[199]
  21. ^ 後述するティンパリー『戦争とは何か?』は1938年(昭和13年)に日本訳(『外国人の見た日本軍の暴行』)が出版され、鹿地亘青山和夫の共産主義者の序文がついていることから、この二名の日本人工作員が関わっていると田中秀雄は指摘している[196]
  22. ^ アメリカは、ハロルド・ラスウェルのプロパガンダ研究を基礎にして、プロパガンダや情報操作によって相手国をしたがわせる心理戦を重視した[208][209][210]。戦時中にも戦時情報局(OWI)や戦略諜報局(OSS)に心理戦部局が作られ、ハドレー・キャントリルジョージ・ギャラップ世論調査で知られる)、フランク・スタントン(後CBS)らがいた。アメリカ政府は1945年11月1日にマッカーサーに対して占領政策の基本方針として以下を通達した。
    適当な方法をもって日本人のあらゆる階層に対してその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき、初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない。
  23. ^ 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(台北国民党党史館蔵)には「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、ティンパーリの著作の中国語版名『外人目睹中之日軍暴行』が挙げられている[214]。国民政府国際宣伝処長の曽虚白は以下のように著書で証言している[197]
    ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に、上海の「抗戦委員会」に参加した3人の重要人物のうちの1人であった。・・・そして彼に香港から飛行機で漢口(国民政府)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した 。(略)このあとティンパーリィはそのとおりにやり、(略)2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。 — 『曾虚白自伝』聯経出版社、1988年[217][197]

    「2つの書物」とはティンパーリの本と、スマイス調査のことであった。前者が『日軍暴行記実』 (『外人目賭之内日軍暴行』)で、後者は『南京戦禍写真』であったと田辺はいう[197]。また、ティンパーリはベイツへの書簡で「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚もできるでしょうが、ここでは劇的な効果をあげるためにもそれを犠牲にしなければならない」とセンセーショナルに書くと述べていた[197]。田辺敏雄は、南京在住の米欧人が日本軍に対して悪感情を持ち、中国人に肩入れするのもごく自然のことであっただろうが、それらの記録は中立の立場とはいえないものだったとしている[197]

  24. ^ 新聞報道によれば、当時の日本の報道官は「1,500人の中国兵が難民区に保護を求め、そこで武器が発見された」と語っている。"Japan Seizes Control Of International Relief Body" The Deseret News, January 21, 1938. 同旨The New York Times, January 22, 1938.
  25. ^ 『中央宣伝部副部長の董顕光はティンパリーについて「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」と回顧している[214]。ティンパリーはその後、国民党国際宣伝処のイギリス・アメリカ支部の開設に尽力し、1938年7月に国際宣伝処顧問に正式に就任し、同年9月にマンチェスター・ガーディアンを辞職し、国民党の宣伝工作に従事した[228]が、董顕光によればティンパリーは専用クルーザーや自動車を要求するなど高慢になり、1941年後半には国民党国際宣伝処を辞任した[214]
  26. ^ ドナルドはファーイースタンレビュー紙編集員であったが、オーナーと日本の衝突によって1915年より反日の立場となり、日本を声高に非難してきた[230]。ドナルドは張学良の顧問の後に蒋介石夫妻の私的顧問となっていた[230]。ドナルドは、国民党シドニー支部で勤め、国民党19路軍でプロパガンダを担当していたウィリアム・ジョセフ・リュウと親しかった[231]。リュウは1931年に田中上奏文によって日本の世界征服計画によって中国と満州が被害者となっていると主張した著書 China and the Trouble in Manchuria:what it means to China, Japan, Russia and the world(『中国と満州問題:中国、日本、ロシア、世界にとっての意味』)を出版するなど有力な反日プロパガンダ運動家だった[231][232]
  27. ^ 『付録には南京安全区国際委員会による「南京暴行報告」 と書簡文」(国民党外交部顧問徐淑希編『南京安全区档案』にも収録)、および「南京の『殺人競争』」として日本の百人斬り競争記事が収録された[197]。なお当時国民党外交部長官は王寵恵であった。ティンパーリは「南京暴行報告」 について日本軍占領当初安全区内2ヶ月の報告を「完全に取り揃えている」と評価し、以下のような暴行案件が掲載された[197]
    • No. 1:12月15日、道路掃除夫6名が鼓楼で日本兵によって銃殺、1名重傷。
    • No. 12:12月14日夜、日本兵11名が銅銀巷の家に闖入し、女性4名を輪姦。
    • No. 15:12月15日、日本兵が漢口路の家で嫁を強姦し、3名の女を拉致した。2人の夫は銃殺。
    • No. 20:12月16日夜、日本兵7名が窓から難民区へ侵入し、その場で婦女を強姦。
    • No. 24:日本兵は紅卍字会の鉄鍋1個を掠奪し、鍋の中の米粥を地上に投げた。
    • No. 146:12月23日午後3時、日本兵2名が漢口路小学校収容所で女子職員を強姦。夕方、日本兵数名が女子を輪姦。7時頃、日本兵3名が少女2名を強姦。
  28. ^ 日本語訳:みすず書房、1956年
  29. ^ David Bergamini, Japan's Imperial Conspiracy,1971(邦訳:出帆社1974,NRK出版部、1983-1988)
  30. ^ 1984年8月4日朝日新聞夕刊は、南京大虐殺を「広島、長崎の原爆やアウシュビッツと並ぶ無差別大量殺人」と報道した[244][245][246]。また、アメリカの学校ではユダヤ人ホロコーストは授業で扱われるのに、中国人へのホロコーストは扱われていなかったので、在米華僑団体はサンフランシスコの公立学校での歴史の授業で第二次大戦での中国の被害について扱うようキャンペーンを行い、取り入れることに成功した[247]。2000年には中国ホロコースト博物館がサンフランシスコで開館した[248]大阪教育大学の馬暁華によれば、中国系アメリカ人にとって日本の戦争犯罪は「中国人ホロコースト」であり、ユダヤ人へのホロコーストよりも恐ろしく、破壊的打撃であるという[247]。 2015年、習近平共産党総書記は、南京大虐殺、ナチスによるユダヤ人虐殺、日本への原爆投下は、第二次世界大戦史における三大惨事であると主張した[249]
  31. ^ 阿羅健一藤岡信勝はこの日記では強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件のみで殺人事件の記録もなく、また目撃証言もないので、「大虐殺」の証拠としては不適当であると述べている[283][250]。また藤岡や阿羅は1938年1月4日にニューヨークタイムスが「中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた」と報道していると、同日に金陵女学院にいたミニー・ヴォートリンの日記[284]には事件について記載がない、などと批判している[283][250]阿羅健一は「二十万の虐殺があったとしたなら、収容人数の比率からいって金陵女子文理学院では一万人ほどの殺害があってよいはず」だし、「程が挙げた強姦にしても日本軍によるものかどうか。強姦と同数起きたとされた掠奪は食料の鶏やお金といったもので」、「むしろ南京が通常の戦場であることの証拠である」と指摘した[250]。藤岡は、女性であった程瑞芳の日記が筆頭にあげられたのはアンネの日記(2009年登録)を参考にしたためであろうと述べている[283]
  32. ^ マクマナスによると、ホッグは湖北省黄石市の孤児施設で教師を務め、国民党軍徴兵を避けて1944年11月に孤児60人を甘粛省山丹へ移動して守った「中国版シンドラー」と評される[312]

出典

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関連項目

外部リンク

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