旅順虐殺事件

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旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん)は、日清戦争旅順攻略の際、市内及び近郊で日本軍清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件[1]。中国では「旅順大屠殺」、英語ではthe Port Arthur Massacre、またはthe Port Arthur Atrocitiesと言う。

遼東半島

背景[編集]

1894年より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、11月には旅順を陥落させんとした。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍李鴻章の実質私軍)の基地となっており、それに加え清朝の海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。

旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。この戦いは後々大きな影を落とすことになる。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った。東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった。ただ不平等条約改正を悲願とする日本は戦争冒頭よりこの戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度に関わりなく戦時国際法を絶対遵守することを国内外に宣伝してきたが、旅順占領後、自らこの言に背く事態を引き起こすこととなった。それがこの事件である。

なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森鴎外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏み、生々しい爪痕を目撃している。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、戦後この事件や日清戦争そのものの正当化活動に深く関与している。

事件の経緯[編集]

この事件発生は大きく分けて二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。

第一段階(11月21日午後~夕刻)[編集]

午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、第一師団所属で乃木希典少将率いる歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊に市内掃討の任務を命じたが、この二つの部隊が事件第一段階時点での当事者となった。直接のきっかけはさきに触れた土城子戦後に日本軍死傷者に加えられた陵辱行為であった。鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃し激昂したのである。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発していたが、これ以後旅順の日本軍は文明とは反する敵討ち的感情にとらわれていくことになる[2]

なお、こうした清兵の死体損壊は、敵兵の首級や体の各部分を戦果の証拠とし、それに対し懸賞金を支払ったためであった。この事件の目撃者となった外国人記者は、首級に対し賞金が払われるのを見たと証言していることからもそれが分かる[3]

敵討ち的感情を宿したまま旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、そこでまたやっかいな事態に遭遇する。清兵が軍服を捨てゲリラ的戦闘をしたためである。兵士と住民との区別がつきにくくなり、「終に民家に闖入して兵士と覚しき年齢の男子は引出して殺戮するの止むを得ざるに至れり」いう事態となった[4]

戦後、パリにて『日清戦役国際法論』を出版し日清戦争の正当化工作を担った有賀長雄(第二軍付国際法顧問)でさえ、この事件を隠蔽できるものではなかった。彼は事件第一段階の時には旅順郊外にて戦勝祝賀会に参加していたが、翌22日午前10時に旅順に入り、その時見た状況を「市街に在りし死体の総数は無慮二千にして其の中の五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、是れ水中にも多く死体を存せし所以なり」と述べている(引用は可読性を鑑み片仮名を平仮名に変えて掲載。以後同じ)。有賀の見た惨状は前日の戦闘のものであると思われるが、最も日本軍を擁護する任を負った彼ですら、『日清戦役国際法論』においてこの事件を触れざるを得なかったのである。さらに総責任者大山巌も弁明書において「二十一日に於て市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況」と述べている。

ただこの掃討戦は同じ日に行われた旅順要塞(市街の背面に位置)への攻撃と連動した作戦であり、清兵も全く戦意喪失していたわけではなく、市街でも激しい抵抗が試みられていた点は考慮を要する。そのため事件第一段階が戦時国際法に明確に悖る行為がどの程度あったかについては、研究者の間でも分かれている。虐殺行為として特に国際的・歴史的に問題とされたのは以下に述べる第二段階である。

第二段階(11月22日以降の三日ないしは四日間)[編集]

事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、有賀が「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりも虐殺といわれる状況に近づいている。この段階では掃討任務を引き継いだ歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊が当事者であった。

戦争中より従軍兵士の手紙が新聞などに掲載されることはよくあったが、上記の第二十四連隊の軍曹の手紙も掲載されている。「夜明けて敵の敗兵十三名を捕す、然れども下士哨にて悉く之を剣殺す、予も三人やりつけたり。・・・敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし」(『福岡日日新聞』12月19日付)。この他当事者ではない第一師団野戦砲兵第一連隊付き輜重輸卒であった小野六蔵は、日記に「11月25日 ・・・毎家多きは二三名の敵屍有り、白髭の老爺は嬰児と共に斃れ、白髪の老婆は嫁娘と共に手を連ねて横たわる、其惨状実に名状すべからず」と目撃したことを書き記している。

こうした虐殺を伴う掃討作戦によって、市内には中国人がまばらとなり、さすがに慌てた第二軍司令部は各人・各家の安全を保証する措置を講じることとなった。すなわち紙あるいは布に「此者殺すべからず、何 々 隊」、「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文もまちまちな書き付けを中国人に与えたのである。ただこうした措置は新嘗祭にあたる11月24日以降出され、その遅さ故に司令部の不作為の罪として、後に外国人従軍記者に弾劾されることになる。そしてこのことは、このような書き付けがなければ、非常に市街が危険であったことを示している。

以上のように第二段階における掃討は、もはや捕虜を取るということをせず、殺害に重きを置いていたといえる。問題はこうした虐殺が組織的なものだったのか否かという点である。戦中・戦後出版された民間人の戦争実記の一つに三田村熊蔵の『日清戦争記 金州旅順の大戦』があるが、そこには土城子戦に激怒した上官が命じたという記述、「師団長は各将校に諭すに報復を以てし各隊又現に其の惨状を視て進み旅順の進撃は鏖殺を期せしなり」がある。また関根房次郎の『征清従軍日記』の近年発見された第一稿には「山地将軍より左の命令あり」「今よりは土民といえども我軍に妨害するものは不残殺すべしとの令あり」と山地元治第一師団長の命令によるとの記述がある(決定稿では「団体長」とぼかされている)。

第一師団司令部付き通訳官向野堅一も山地師団長の命令によって虐殺が行われたことを証言している[5]

「余談ニナリマスガ旅順デ山路(山地の誤記・以下同)将軍ガ非戦闘員ヲモ捕ヘテ惨殺シタト云フコトガ当時新聞デ大分(だいぶ)八ヶ間敷(やかましく)ナッタコトガアリマシタガ是レハ旅順戦ノ初メ我ガ騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬(名は徳次)中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口(そうこう)カラ石ヲ入レ或ハ睾丸(こうがん)ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此(カク)ノ如キ非人道ヲ敢(あえ)テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐(せんじょ)セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨亦惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」

被害者数について[編集]

旅順陥落後の犠牲者はどの程度の数に上るのか。この犠牲者とは基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者を指すが、その被害者数については諸説ある。被害者は「万忠墓」という墓に葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国史料ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。これは虐殺を生き残って死体処理に当たった中国人の証言に基づいている。

一方その他の証言は大きくそれを下回る。

  • 有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
  • 『タイムズ』(1894.11.28)・・・・200名
  • 『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・2000名
  • フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1500名

以上は事件発生当時からさして年数が経過していない期間の証言であるが、現代の中国側の研究では2万名弱という数が定説となっている。一方日本の研究では2000名弱~6000名という風にばらつきがある。被害者数の認定に大きな差異が生じているのは、正確な資料がないこともあるが、その事件の発生期間やどのような人を虐殺された人として認定するかについて懸隔があるからに他ならない。

事件の露見[編集]

日本の新聞による勝利報道[編集]

旅順攻略は戦勝に慣れていた日本国民にとっても、重大な関心事であった。11月24日には大山巌からの電文が広島に置かれた大本営に届いていたが、国民には翌日の新聞によってはじめて知らされた。たとえば『自由新聞』は「旅順陥落の大快報は万雷の響きを為して正さに吾が頭上に墜ち来たれり」と報じている。これを受けて日本各地で戦勝祝賀会が開かれた。日本の従軍記者達は旅順における虐殺事件を否定的に報じていないこともあって、日本中が戦勝ムード一色に染まっていたといってよい。日本人従軍記者達が否定的に報道しなかったのは、軍による検閲があったこともさることながら、「殺せしものは余一人に止まらず他従軍記者の内にも数多有之由」(『東京日日新聞』12月12日付)とあるように自らも住民殺害に手を貸したためであった。しかし戦勝祝いのさなか、事件告発を胸に期した外国人ジャーナリストが来日しつつあった。

欧米の新聞による告発報道[編集]

告発報道[編集]

旅順での事件を目撃した外国人ジャーナリストたちは、記事を打電するために日本に引き揚げていた。彼らは第二軍に従軍し取材していた記者達で、この事件報道に深く関わるのは『タイムズ』の特派員トーマス・コーウェン、『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン(James Creelman)、『ヘラルド』のA・B・ド・ガーヴィル、『スタンダード』及び『ブラック・アンド・ホワイト』のヴィリアースの4人である。11月26日以降、旅順占領が報じられるようになる。タイムズはイギリス極東艦隊のフリーマントル中将に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順から戻ったコーウェン記者の記事を発表し、事件が海外に知られることとなった。しかし注目を集めるようになったのは12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」と述べている。その後も彼は旅順占領後の詳細を報じ続けた。クリールマンは、トルストイローマ教皇シッティング・ブルとの単独会見に成功したことで有名なジャーナリストであった。彼の報道にその他の新聞・雑誌も追随し、日本政府は苦境に立たされることになる。

欧米の新聞全てがクリールマン報道に追随したわけではない。新聞『ニューヨーク・ヘラルド』のガーヴィルは日本軍を擁護する論陣を張った。ただ擁護するにしても土城子戦への報復として正当化するといった調子で、虐殺そのものは認めるものであった。

最もセンセーショナルな報道は『ノース・アメリカン・レヴュー1895年3月号におけるウィリアースの「旅順の真実」("The Truth about Port Arthur")という体験記事である(外部リンクに原文あり)。その中でウィリアースは三日間の虐殺によって「僅か36人の中国人だけが生き残った」と書いている。この文章には一部の研究者からもあまりに誇張しているのではないかと真実性について疑問が呈せられている[誰?]が、後に国際法の権威であったホランドの論文(1895年)に引用されて大きな影響があった。陸奥宗光の『蹇蹇録』にも引用されている。なおこの記事を元に中国では教科書に記載することもあり、ある意味その影響は今でもあるといって良い。

告発の重点と特徴[編集]

旅順虐殺事件を告発した『ニューヨーク・ワールド』紙や『タイムズ』紙のジャーナリストたちの批判の重点は以下の二点にあった。

  1. 旅順制圧が一通り完了した11月22日以降における敗残兵及び民間人の虐殺。つまり21日の第一段階では戦闘中だとして遺憾とはしながらも大きな批判を向けてはいない。
  2. 虐殺が為されていることを知りながら祝賀会を開き安閑と過ごしていた大山巌以下第二軍司令部の無神経さ

これらの点をアジア的=非文明的とし、暴かれた野蛮な日本の本性の証左として論陣を張った点が特徴である。非西欧を非文明的と見なすオリエンタリズム的な記者達の見方も現在では厳しく批判されて然るべきであるが、さりとてこうした論調は当時の日本政府にとって容易に無視できるものではなかった。何故なら日清戦争は日本政府によって「文明戦争」と位置づけられ、日本側が規律正しい行動に終始することを以て西欧的「文明」を受容したことを各国に示すことが戦争遂行の目的の一つだったからである。いわば明治日本自らが率先してそういう文明/野蛮言説を取り込んでいた。文明国たる資格があることを示すことで、悲願である不平等条約体制を打破することは日本の国策であった。したがって海外のマスコミより「非文明的」と批判されること、そしてそうした国際世論が醸成されることは、絶対に避けねばならない事態だったのである。その意味では旅順虐殺事件は日本にとって大きな試金石であったといえよう。

マスコミ以外の事件把握について[編集]

また従軍新聞記者以外にも、ロシアアメリカの従軍武官たち、日本郵船に雇われていたコナーなど直接事件を目撃した人々の体験報告が続々と本国に送信され、旅順の虐殺事件が動かし難い真実であるという確信が欧米各国のコンセンサスとなっていった。

政治問題としての旅順虐殺事件-明治政府の対応-[編集]

この事件の国際問題化は明治政府首脳を苦況に陥れた。首脳陣の伊藤博文や陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものよりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響であった。これはアメリカ一国だけの問題ではなかった。アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねず、それを伊藤や陸奥は恐れたのである。『蹇蹇録』ではこの事件に触れた冒頭に「日清交戦中に起こりたる一事件が、復(また)如何に日米条約改正の問題に対し防障を及ぼしたるかを略述すべし」とわざわざ述べている。事件の露見後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が沸き上がった。

マスコミ対策[編集]

明治政府は国際世論対策を戦争当初から画策しており、陸奥宗光と各国公使の電報のやり取りからそれがうかがえる。これを「外国新聞操縦」と称した。たとえばニュース配信会社ロイターやそのライバルであるセントラル・ニュース社、デバ、マタン、エスタフェット、チャイナ・ガゼットといったマスコミに契約した料金を払うことで日本に都合の良い情報のみを流すようにした。こうした工作は明治政府に雇われていた欧米人が担っていたのであるが、旅順での事件についても、日本はマスコミ対策を積極的に活用しようとした[6]

『タイムズ』の報道以後、日本政府は情報収集に努めつつ、虐殺報道に対し逐一反駁を行い、沈静化に努めた。沈静化とは具体的にはマスコミの買収である。たとえば口火をきった『タイムズ』の報道に対し、11月29日付けの『セントラル・ニュース』は正当な戦闘以外での殺傷はなかったと報道しているが、これも陸奥の意を受けた内田康哉(駐英臨時代理公使)が工作した結果であった。内田はイギリスにおける事件報道を陸奥に伝える電文の中で、マスコミ対策用の資金の上積みを求めている。陸奥もこれに応えて、二千円ほど送るよう指示している[7]

日本の弁明[編集]

しかし、当初マスコミ対策は効を奏せず、日本批判の声は次第に高まっていった。結果、アメリカの新聞の中には条約改正延期もやむなしという論調が出てくる。これに対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを決定した。簡単にまとめると、以下の通り。

  1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
  2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
  3. 住民は交戦前に逃亡していた。
  4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
  5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
  6. 日本側は軍紀を守っていた。
  7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
  8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。

この伊藤らが作成した弁明書は、第七項を省いたものが12月の17日・18日の両日にアメリカの各新聞に掲載された。弁明そのものは虐殺があったことを肯定しつつも、やむを得ざる理由があったと述べ、さしたる虐殺は無かったとするものであった。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。

軍への処分[編集]

一方第二軍への処分であるが、やはり海外マスコミ対策に動いていた伊東巳代治井上馨に書き送ったものには「戦捷の後とて何となく逡巡の色相見え候」とあるように、難攻不落と見られていた旅順を落とし意気軒昂な軍隊をこの事件で処分することは不可能と政府首脳は判断した。伊藤博文も「取糺すことは危険多くして不得策なれば此儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なきが如し」との断を下している。結果、第二軍にはお咎めはなかった。しかしそれは事件を事実無根としたからではないことは、伊東及び伊藤の言からも明らかである。

事件の終息[編集]

日本政府のマスコミ対策がどの程度の効果を発揮したのかについて、陸奥の伝記作者は、陸奥の対策が非常に効果的だったとするが、それに否定的な研究もある。ともあれ、海外の論調は次第にこの旅順虐殺事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、工作に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が全くの無根拠とされたわけではなく、虐殺そのものがあったことは認められ、アメリカにおける親日報道は無くなっていった[8]

しかし最大の懸案であったアメリカとの間に進めていた条約改正は、 2月5日にアメリカ上院で批准され、伊藤博文や陸奥宗光の危惧は杞憂に終わった。これは同時に明治政府首脳にとっての旅順虐殺事件の終焉を意味するものであった。

4月17日下関条約が締結されると有賀長雄はフランスに飛び、日清戦争及びこの事件が正当なものであることを宣伝する著作を刊行した。それが‘La Guerre Sino-Japonaise au point de vue du droit international.1986,Paris’(和名『日清戦役国際法論』)である。

簡易年表[編集]

1894年 7月25日 日本軍と清朝軍が戦端を開く。
8月1日 日本、清に対し宣戦布告。
11月18日 旅順近郊の土城子で秋山好古らと清朝軍が戦闘。
11月21日 旅順制圧。歩兵第二連隊及び第十五連隊第三大隊が市街掃討。事件の第一段階
11月22日以降数日間 歩兵第十四連隊及び第二十四連隊が市街を再度掃討。事件の第二段階
11月24日 大将大山巌からの電文にて旅順陥落の報が日本にもたらされる。市街の中国人に対し安全保障を通達。
11月25日 日本の新聞各社が旅順陥落を報道し、各地で戦勝祝いが催される。国木田独歩、旅順に上陸。
11月26日 『タイムズ』、旅順で大虐殺が起きたとの一行記事を掲載。
11月28日 『タイムズ』、日本兵が清国人民を二百名ほど虐殺したとの記事を載せる。
11月29日 イギリスの『セントラル・ニューズ』が『タイムズ』の記事を否定する記事(戦闘以外での殺害は無かった)を報道。
11月30日 外務大臣陸奥宗光、コーウェンと会見。事件の状況を知らされる。これをうけて陸奥は、各国の欧州公使に滞在国の世論調査を命ずる。
12月1日 各国公使より報告電報届き始める。駐英臨時代理公使内田康哉は、『タイムズ』(11月28日付け)の報道に対し、『セントラル・ニューズ』が否定の報道したことを報告。電文最後にマスコミ対策用の経費を以下のように要求。‘Cannot you grant money I have requested. I have no money from the beginning for press purpose.’
12月3日 11月30日の陸奥・コーウェン会談が『タイムズ』にて報じられる。
12月7日 横浜で発行されていた英字の新聞『ジャパン・メール』がクリールマンから取材した虐殺事実を報道。翌日には『神戸クロニクル』(神戸の英字新聞)も事件を取り上げる。虐殺事件報道、日本上陸
12月12日 『ワールド』にクリールマンの記事が掲載される。「日本軍が大量虐殺」、「ワールドの戦争特派員、旅順での虐殺を報告す」、「三日間にわたる殺人、無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた。恐ろしい残虐行為に戦(おのの)き外国特派員、全員一団となって日本軍を離脱す」という文句が紙面に踊る。
12月13日 『ワールド』、社説において日本軍の残虐行為を指弾し、このような国との新条約を締結することに反対を唱える。また『サンフランシスコ・クロニクル』も条約改正延期やむなしとの論調で報道。
12月15日 内閣総理大臣伊藤博文より事件処理の方針が打ち出されたが、積極的な真相究明は日本にとって得策ではないとの判断から、弁明に終始することとした。また大山巌率いる第二軍もさしたる懲罰を与えないとした。
12月17日 『ワールド』に陸奥宗光の弁明が掲載される。この他『ワシントン・ポスト』や『サンフランシスコ・クロニクル』も掲載。一方『ニューヨーク・タイムズ』が旅順虐殺は虚報との記事を掲載する。
12月20日 『ワールド』一面と二面に挿絵つきで、クリールマンの虐殺事件詳細を「旅順での大虐殺」との見出しで報道。この記事は『デイリー・ワールド』(ヴァンクーバーの新聞)にも節録転載された。一方日本では同時期、『ジャパン・メール』が日本政府の弁明に即した記事を掲載。
12月25日 日本政府が公式の弁明。上記の八ヶ条。
1895年 1月2日 クリールマンの記事(『ワールド』12月20日付)に反論する記事を、『ヘラルド』の特派員ガーヴィルが寄稿。
1月5日 『タイムズ』のコーウェンは「旅順陥落」という長文の記事を掲載。
1月7日 『スタンダード』のヴィリアース、旅順の陥落と虐殺について報道。
1月8日 『タイムズ』、再び旅順が陥落した後の残虐行為について報道。おなじイギリスの新聞『グローブ』は『ワールド』(1月7日付)の記事を転載。この中において『タイムズ』特派員コーウェンが日本政府より買収を持ち帰られたことを報道。
1月17日 外務省事務次官林董、五日目の虐殺について「無かった」と弁明すれば、それまでの四日間の虐殺について逆に自認することになるため、自然に立ち消えとなるのを待った方がよいとする暗号電報を陸奥に打つ。以後これが対海外マスコミの基本方針となる。
2月5日 事件による影響が心配されていた日米新条約が米国上院にて批准される。
3月 「『ノース・アメリカン・レビュー』3月号にヴィリアースの「旅順の真実」が掲載される。
4月17日 下関講和条約締結。

参考文献[編集]

この記事初稿は上記大谷本及び井上本に大きく依拠している。

脚注[編集]

  1. ^ 「山地将軍より左の命令あり。・・・今よりは土民といえども我軍に妨害する者は不残殺すべしとの令あり」(『征清従軍日記』)、「当時市内に逃げ後れたる小商人及貧民等は敗残兵と混入して類害を被り非命の死を致したるもの一万五六百名の多きに至りたり」、「(海外メディアからの批判に対し)左記の事実を以推究せば二十一日に於て市街の人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況なるをしるべし」(直前の二証言とも有賀長雄『日清戦役国際法論』)。これらの資料については一ノ瀬俊也『旅順と南京』や原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)で取り上げている確度の高い資料である。他に「(死者の)過半数約六〇〇〇以上が戦闘と関係がない無辜の住民であることは絶対に動かしようがない事実である」(大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房、1998,P444)、「日本軍は多数の市民を虐殺」(菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005、P91)など日本側の資料・研究書で指摘されている。なお上記の研究書は『史学雑誌』の回顧と展望でも注目すべき研究として取り上げられたことがあるレベルのものに限定している。
  2. ^ 井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995、p147。
  3. ^ 井上前掲書、p147。
  4. ^ 『東京日日新聞』12.19付け記事
  5. ^ 向野堅一講演録「三崎山の追想」,『明治二十七八年戦役余聞戦役夜話』
  6. ^ 大谷正「日清戦争時の対外宣伝活動と旅順虐殺事件」(『近代日本の対外宣伝』研文出版、1994、PP168-178)。欧州における対外宣伝活動を担ったのは、青木周蔵公使とお雇い外国人のシーボルトであった。当時外相だった陸奥宗光は青木からのロイター工作のための資金として年間約600ポンド支払うという提案を許可しし、以下のような訓令を出している。「ルーター電信会社ニ於イテ、我ニ利益ナル通信ヲ世界中ン頒布スベキニヨリ、英貨六百零ポンドヲ其報酬トシテ申受度旨申出タル義ニ関シ、本年七月二十一日付電信ヲ以テ御申越相成候ニ付、来意ニ従ヒ其砌御申越ノ金額ヲ電送致置候」。
  7. ^ 大谷正前掲論文、PP190-178。
  8. ^ 大谷正前掲論文、PP208-209。

外部リンク[編集]

上では特に触れなかったが、’Under the Dragon Flag’は非常に重要である。それは中国の研究ではよく典拠として引用されるからである。ただこれは小説であって、著者もその詳しい素性は知られていない。無論中国の研究でもそのまま信じるのではなく、その記述を生存者の証言で補強する形で引用しているが、取り扱いに注意を要することは変わりない。中国では『旅順落難記』(抄訳、1958)あるいは『在龍旗下-甲午戦争親歴記』(1985)というタイトルで訳された。なお日本語訳は管見の限りなかった。