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田中清玄

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たなか きよはる

田中 清玄
生誕 (1906-03-05) 1906年3月5日
北海道亀田郡七飯村(現七飯町
死没 (1993-12-10) 1993年12月10日(87歳没)
国籍 日本の旗 日本
別名 たなか せいげん, 東京タイガー
出身校 旧制函館中学
旧制弘前高校
東京帝国大学(中退)
職業 実業家政治活動家
政党日本共産党第二次共産党武装共産党)中央委員長
宗教 臨済宗妙心寺派
配偶者 ひで
子供 次男:田中愛治
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田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本実業家政治活動家CIA協力者[1][2][3]フィクサーともいわれる。

戦前期の非合法時代の日本共産党第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。

生涯

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少年期

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共産党闘士時代

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資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。

  • 同年2月26日に和歌浦で共産党と官憲が銃撃戦になった和歌浦事件が起きる。直後、清玄の母が自決。遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。自分は死をもって諫める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあり、子のための諫死だった。清玄は衝撃を受け、苦悶するも、活動を休止せずに、同年5月、田中は日本共産党代表として、バイオリニストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航。同年7月14日、治安維持法違反で逮捕。

転向

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  • 1932年5月にはコミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」1932年7月10日特別号に発表される。ヨシフ・スターリンは日本の極左冒険主義を批判、当面する革命は絶対主義天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。
  • 1933年6月、党委員長の佐野学鍋山貞親が獄中で転向声明を出した。これは、ソ連の指導を受けて共産主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動をおこなうという内容であった。田中は「生涯で一番ぐらつき」、煩悶する。同年、共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。ひではその後石橋湛山東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実アグネス・スメドレーと親交した。
  • 1934年獄中で天皇主義者に転向。田中は後年つぎのように回想している。「幕末朱子学水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。毛沢東を絶対視した中国文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した[5]」。また、佐野たちを転向させた平田勲思想検事の「治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない」という姿勢にも感銘を受けていたという[6]

龍沢寺と終戦工作

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天皇への進言

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1945年10月、田中は朝日新聞高野信に頼み、「週刊朝日」に天皇制護持についての文を掲載。「諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは天皇制があったからだ」という主旨だった。当時は禁衛府長官だった菊池盛登がこれを読み、12月21日、田中清玄は生物学御研究所接見室に招かれ、昭和天皇に拝謁した。石渡荘太郎宮内大臣大金益次郎次官、入江相政侍従らも同席、小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという[8]。このことを聞いた安岡正篤が田中に会いたいと言ってきたが、田中は安岡や近衛文麿が嫌いだったので、断ったといわれる[5]

実業家時代

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戦後は横浜で神中組を興し[7]、三幸建設に組み替え、戦災地復興、福島県矢吹ケ原開拓岩手県釜石ロックフィルダム建設、沖縄では米軍土木建設の下請けなどを手がけた。神中造船、沼津酸素工業、三島木材、丸和産業、光祥建設、田中技術開発総合研究所など幾つかの会社を経営。当時は、産業の重点がセメント・肥料・農薬の「三白産業」が集中していた時期で、日本興業銀行中山素平のアドバイスでそれらに関する事業を手がけ、収益をあげる。なお、このような戦前右翼活動を行ったものが戦後、経済活動に転換したものには、東亜連盟山形県における西山農場、大東塾の大和公社、国粋大衆党の銀星デパートなどがある[7]。また、下山事件との関連が論じられている矢板玄亜細亜産業にも顔を出していた[9]。ほかにも、おなじ転向組である水野成夫とも親交があった。また検察官である吉河光貞とは新人会以来のつきあいもあったといわれる[10]

1949年、中曽根康弘反共運動の一環で、群馬の労働運動の主力になっていた日本電気産業労働組合(電産)の切り崩しを行う。9月には、700人の青年行動隊を偽名で各発電所に潜入させ、同年末から翌1950年10月まで、東京から田中、風間丈吉佐野学鍋山貞親らを呼んでスト破りをおこさせたという[11][12]

赤坂氷川勝海舟の屋敷跡を借りたり、朝日新聞の編集局長だった進藤次郎の屋敷で、日銀法王といわれていた一万田尚登民主党幹事長の苫米地義三大蔵大臣泉山三六などを招くなど社交にせいを出す。

三井の池田成彬からタイインドネシアの戦後復興協力を要求され、引き受けた。

全学連への資金提供

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1960年『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。このなかで田中は「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。」と呼びかけ、「甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。」と批判し、「政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである」と訴え、全学連安保闘争に共感を示しつつ、その限界を指摘した[5]。なお、このときの田中の原稿の担当者は、当時、文藝春秋の編集部にいた桐島洋子であった[13]

田中清玄の全学連擁護論が「文藝春秋」に発表された後、田中清玄に最初に接触したのは全学連財政部長の東原吉伸だった。東原は小島弘(全学連共闘部長)も伴って東京會舘で田中と面会、その後、上野の水月という料亭で会食を行った[14]

さらに、全学連書記長島成郎が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪い、田中は全学連の「反代々木・反モスクワ反アメリカ」が気に入り、これに応じる。田中は次のように回想している。「革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、偏ってるんじゃないか」と僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸篠原浩一郎もだ。」[15]。全学連の唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職する[16][17]。田中の秘書で日大空手部主将だった藤本勇をデモに派遣したりもした[18]

1963年2月26日、TBSラジオで『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)が放送され、東原吉伸が島や唐牛らが田中から資金援助をうけていたことを暴露する音声が流された[16][14]。日本共産党は『赤旗』で、「右翼と結びついていた」として全学連を連日批判した[19]。後輩の柄谷行人も同主旨で批判した[20]

島自身は田中との関係について、次のように回想している。「スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。(中略)その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、お、これは金になるかもしらんといって、出掛けていったわけです。(中略)会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまでオレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせたとしきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです」[21]

田中清玄銃撃事件

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背景

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田中は岸信介児玉誉士夫らとは敵対しており、当時反共体制を作ろうとしていた岸・児玉派(自民党福田篤泰や児玉誉士夫や河野一郎なども含まれる)への対抗も含め、全学連に加担していた。児玉は全国の右翼と博打打ちを大糾合する東亜同友会を組織し、山口組田岡一雄林房雄をつかって田中懐柔の手を打つが、失敗。

田中は三代目山口組組長の田岡一雄と仲がよかった。もとは田中の身元引受け人だった富田健治に、横浜で海運業をやっていた佐藤軍次を紹介され、その佐藤から義理の兄であり、京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった藤木幸太郎を紹介された。戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって、土建業松尾組の松尾嘉右衛門と、藤木が対抗していた。藤木はのちに、日本海運協会日本海運共同組合をつくる。藤木は日本海運協会会長に田岡を立てようとするが、田岡は固辞。このときに、田岡と田中は知り合い、田岡は政治は田中に任せ、自分はヤクザを取り仕切ると決めた[5]。 1963年3月のグランドパレス事件を経て、児玉と対立していた田岡は、反児玉派の田中とともに、児玉らの東亜同友会に対抗して、1963年4月、市川房枝福田恆存山岡荘八菅原通済らを立て、麻薬追放国土浄化同盟[22][23](後の全国国土浄化同盟)を作り、キャンペーンを行った。麻薬追放国土浄化同盟の総本部は、兵庫県神戸市中央区橘通の山口組本部に置かれた。当時マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てたが、田中は「これだけ麻薬がはびこったのは、警察ジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。竹下金丸小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ」として後に反論している[5]。結果、児玉誉士夫の東亜同友会構想は頓挫し、田岡一雄と稲川裕芳の対立は決定的となった。

事件発生

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同1963年11月9日午後4時から、東京丸の内東京會舘で、立教大学総長の松下正寿が発起人となって、評論家高谷覚蔵の出版記念祝賀会が開かれた。田中清玄は祝賀会に出席した。同日午後6時9分、出版記念祝賀会が終了し、田中が玄関前で、タクシーを待っていたところ、東声会組員・木下陸男に狙撃された(田中清玄銃撃事件[24]。3発の銃弾が腹部、右腕、右手首に命中して、田中は重傷を負い、聖路加病院に搬送。ウィスコンシン大学病院で銃撃された患者を6年間に数百人手術していたという医師牧野永城の手術を受け、一命を取り留める[25]

事件発生後

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木下は「町井久之会長が、田岡一雄組長の弟分になったが、10月ごろ『田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている』との風評がたったため、町井久之会長が非常に苦しい立場に追い込まれると思い、襲撃した」と供述した。丸の内警察署は背後関係を疑い、町井久之を銃砲刀剣類所持等取締法違反で別件逮捕したが、背後関係までは立件できず、町井は起訴されなかった。田中清玄は自伝で『木下陸男は、児玉誉士夫からの差し金で、金をもらってやった』と述べている。

オットー大公とハイエクとの親交

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田中は池田成彬の紹介で、汎ヨーロッパ主義者リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー汎アジア主義者鹿島守之助と親交をむすび、汎ヨーロッパ運動を推進していたハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。オットー大公は戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して[要出典]、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。ハイエクは社会主義ケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。1978年、田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れたり、ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画[注釈 3]。1991年12月4日にはオットーと宮澤喜一首相の会談を実現させた。

石油交渉

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インドネシア

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石油に含まれる硫黄による大気汚染で困っていた日本にとって、硫黄が少ないインドネシア産の石油は重要なものだった[注釈 4]。すでに岸信介・河野一郎らはスカルノと組んでいた。田中は反スカルノ派のスハルト将軍と組もうと考え、アラムシャ中将に、インドネシア国営石油会社のプルタミナの石油を日本に売ってくれと頼んだ。土光敏夫中山素平、トヨタ自動車販売の神谷正太郎らとともに「ジャパン・インドネシア・オイル」を設立した。通産大臣田中角栄には「あんたを支えているのは両角良彦事務次官(オイルショックを切り抜けた通産官僚)と小長啓一秘書官(のちの『日本列島改造論』の実質執筆者の一人)くらいで、まわりはこのままだと岸一派にやられるぞ」と説得したところ、事業を承諾した[5]

アブダビの海上油田開発

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アラムシャ中将の紹介で、アブダビザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン(シェイクザイード)首長に接触した。シェイクザイードはアブダビだけでなく同一種族のドバイアジマーンシャルジャウムアルカイワンフジャイララスアルハイマカタールバーレーンの湾岸一族を集結させた汎アラブ主義の共同体を考えており、そこに田中は惹かれたという(のちカタール、バーレーンは連邦結成協定に反して独立を選ぶも他はアラブ首長国連邦となる。カタールの国王とも田中は交流していた)[5]。のち日本はアブダビの海上油田開発に参加。1967年から1969年にかけてアブダビのシェイクザイード首長と何度も会見、その後アラブ諸国を十三回にわたり訪問するなど深い親交を築きあげ、中東石油を日本に持ち込む橋渡しを為し、オイルショック時の危機を救った(カタールとアラブ首長国連邦の最大の輸出相手国は日本である)[26]

北海油田

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田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発に関わり、日本が北海油田に参加して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカノーススロープ油田と、BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘削中の油田に日本も参加させろというスワップ方式の提案を行い、BPのアースキン卿も賛同したが、事前に情報が漏れたため破談に終わった。田中はその漏洩が日本精工今里広記によるものと考えていた。

アジア連盟

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1980年4月、50年ぶりに訪中、鄧小平と会見。1時間半にわたって話しあい、アジア連盟の構想を提起した。また天皇訪中を中国側にもちかけたのも田中だった(中日友好協会孫平化会長が1992年に証言している[27])。同年6月、インドネシア・スハルト大統領と会見。ASEANの盟主であるインドネシアと日本と中国によるアジア連盟の必要性を訴えた。その後、インドネシアと中国は大喪の礼での弔問外交を機に東京から国交正常化を始め[28]韓国も加えて日本と中国とASEANは東アジア共同体を目指すASEAN+3を結成した。

晩年

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晩年の田中が情熱を注いだものは、地球環境問題再生可能エネルギーであった。脱石油・太陽エネルギーへの切り替えを訴えつつ、原発には真っ向から反対していた[29]

発言

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以下、すべて『自伝』による。

  • 尊敬している右翼は橘孝三郎三上卓だけだといい、児玉誉士夫はもちろん、赤尾敏野村秋介は小物としてかたづけた。右翼で最も近しかったのは四元義隆で、のちに松永安左エ門の助言で、三幸建設を譲っている。
  • 「あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする」
  • 「政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ」
  • 「いま最も知りたいことはビッグバンがこの世に本当に存在したのかどうかということです。もうひとつは遺伝子工学に関すること」霊長類学者の河合雅雄の話を出して、「どうも人間だけが生物界と異なることをしているのが気になってしょうがない」
  • 「児玉誉士夫を最初につかったのは外務省河相達夫だろうが、それに鳩山一郎三木武吉広川弘禅大野伴睦がくっついたのはどうしようもない」
  • 岸信介がだめになったのは矢次一夫のような特務機関屋をつかったことだ」(矢次は国策研究会の中心人物で、岸の密使として李承晩と会談した)
  • 後藤田正晴にはとくに魅力を感じないが、応援演説ではアジアに関心があるかぎりは応援する」
  • 「日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ」
  • 靖国神社に政治家が大挙して参拝するのはとんでもないことだ。まして天皇陛下の参拝を要請するなんてのは愚の骨頂だ」(敗戦直後に、数珠を持って靖国神社に礼拝しようとした清玄に、神官が数珠は認められないと強要。清玄は一喝、二度と靖国へは行かなかったという)。

家族・親族

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田中家

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祖先には「田中正玄」や「田中玄宰」また「田中土佐」の名で知られる会津藩家老田中玄清。玄清は会津藩主松平容保が京都に赴いたときに従い、警備のための市中見廻り組をつくった(のちの新選組の母体となる)。家老田中玄清の下に蝦夷地常詰若年寄田中玄純(はるずみ)がおり、その子が田中源之進(玄直:はるなお)。おなじく会津藩若年寄だった田中源之進は会津戦争母成峠の戦い大鳥圭介とともに砲兵隊長として指揮を執る。廃藩置県後は、函館市相生町七飯(ななえ)村[要検証]に移り、開拓使の畑や実験農場をつくっていた。田中清玄の曾祖父にあたる。

著書

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  • 『世界を行動する』情報センター出版局、1983年4月。 
  • 『統治者の条件 日本人は何をなすべきか』情報センター出版局、1983年10月。 
  • 聞き手・大須賀端夫『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年9月。ISBN 978-4163475509 

弟子

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田中清玄関連の映画・オリジナルビデオ

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参考文献

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関連文献

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  • 大須賀瑞夫 著、倉重篤郎 編『評伝田中清玄 昭和を陰で動かした男』勉誠出版、2017年2月。ISBN 978-4585221685 
  • 徳本栄一郎『エンペラー・ファイル 天皇三代の情報戦争』文藝春秋、2020年2月。ISBN 978-4163911779 
  • 徳本栄一郎『田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児』文藝春秋、2022年8月。ISBN 978-4163915302 

脚注

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注釈

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  1. ^ 淡谷は淡谷のり子の叔父。[1]
  2. ^ 新人会は吉野作造の指導のもとに麻生久宮崎龍介がつくった運動団体
  3. ^ この対談は1981年、1983年にも引き続き実施された。のちNHKブックスに収む
  4. ^ 当時国際石油資本は日本に油田をもたせまいと画策していた。[2]

出典

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  1. ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
  2. ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店 
  3. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社 
  4. ^ 武装共産党委員長時代の足跡
  5. ^ a b c d e f g h 田中清玄自伝.
  6. ^ 清玄血風録・赤色太平記6
  7. ^ a b c d 右翼辞典.
  8. ^ 『入江日記』
  9. ^ 柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』
  10. ^ 衆議院第005回国会法務委員
  11. ^ 山本英典、内山偉雄『中曽根康弘研究』1976年、エール出版社岩川隆「日本の地下人脈」祥伝社 文庫(2007)
  12. ^ 共産党の発電所破壊工作を阻止した男.
  13. ^ 『唐牛伝』小学館、2016年、267頁。 
  14. ^ a b 『唐牛伝』小学館、2016年。 
  15. ^ 田中清玄自伝, pp. 171–175.
  16. ^ a b 時代に生きた新左翼・歴史群像~唐牛健太郎(4)
  17. ^ 篠原浩一郎『60年安保、6人の証言』同時代社より。吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」『吉本隆明全著作集 13』所収、pp.121-130。森田実『戦後左翼の秘密』潮文社、1980年、pp.281-284
  18. ^ 田中清玄と安保全学連
  19. ^ 森田実『戦後左翼の秘密』潮文社
  20. ^ 『吉本隆明が語る戦後五五年⑨ 天皇制と日本人』三交社、2002年、pp.85-87
  21. ^ 島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」(1984年5月)城山三郎編『「男の生き方」四〇選 下』文春文庫、一九九五年、所収」
  22. ^ 田中清玄自伝, p. 373.
  23. ^ 溝口敦笠井和弘ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5811-0 のP.158
  24. ^ 「国会会議録・第046回国会予算委員会第4分科会第2号」
  25. ^ 彼はなぜヤクザから狙撃されたのか.
  26. ^ 石油権益をもたらしたアブダビ首長との出会い.
  27. ^ 1112夜 『田中清玄自伝』 田中清玄・大須賀瑞夫 − 松岡正剛の千夜千冊
  28. ^ 「[社説]中国・インドネシア和解に道つけた東京会談」1989年2月27日読売新聞朝刊
  29. ^ 晩年は地球環境問題に目覚めた“革命家”.

外部リンク

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