オットー・フォン・ハプスブルク

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オットー・フォン・ハプスブルク
Otto von Habsburg
ハプスブルク=ロートリンゲン家
Otto Habsburg 001.jpg
オットー・フォン・ハプスブルク(2004年)
続柄 カール1世第1皇子
全名 Franz Joseph Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xavier Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius von Österreich
身位 大公皇太子→帝政廃止
敬称 殿下→帝政廃止
出生 1912年11月20日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ライヒェナウ・アン・デア・ラックス
死去 2011年7月4日(満98歳没)
ドイツの旗 ドイツバイエルン州ペッキング
埋葬

2011年7月16日(肉体) 2011年7月17日(心臓)
オーストリアの旗 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂(肉体)

ハンガリーの旗 ハンガリーパンノンハルマの大修道院(心臓)
配偶者 レギーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン(1951年 - 2010年、死別)
子女 アンドレア
モニカ
ミカエラ
ガブリエラ
ヴァルブルガ
カール
ゲオルク
父親 カール1世
母親 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
役職 欧州議会議員(ドイツ選出)
サイン Otto von Habsburg Signature.svg
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オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、オーストリア=ハンガリー帝国1918年に帝政廃止)の皇太子。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、第二次世界大戦中には「ドナウ連邦」計画を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した。欧州議会議員国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。

最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長子で、ドイツオーストリアハンガリークロアチアの市民権を持っていた。

生涯[編集]

誕生[編集]

老帝フランツ・ヨーゼフ1世、父カール大公とともに。(1915年)
ブカレストでの父帝の戴冠式にて。(1916年12月)

1912年11月20日、カール大公とツィタ大公妃の長子として、ライヒェナウ英語版ヴィラ・ヴァルトホルツ英語版で誕生した。生誕時の皇位継承順位は第3位。皇位継承権を有する者はごく限られていたことから、老齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は男児の誕生をことのほか喜んだ。とりわけブルボン家の血を引くツィタとの子であるがゆえに、随喜の涙を流したほどであったという。

11月25日、ウィーン大司教英語版であるフランツ・ザビエル・ナグル英語版枢機卿によって洗礼を受け、洗礼名を「フランツ・ヨーゼフ・オットー・ロベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・フェリックス・レトゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス」と定められた。彼の代父は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世であり、皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公がその代理を務めた。代母は祖母であるマリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロであった。

その名前からして本来は「フランツ・ヨーゼフ」と呼ばれるべきであったが、時の皇帝との区別などの理由によって、彼はもっぱら「オットー」と呼ばれるようになった。オットーとは祖父のオットー・フランツ大公の名から取られたものだった[1]

フランツ・ヨーゼフ1世からみてオットーは、弟カール・ルートヴィヒ大公の曾孫というやや遠い血縁であったが、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公はボヘミアの伯爵家出身(皇后・大公妃としては身分不相応)のゾフィー・ホテク貴賤結婚しており、その子孫には皇位継承権がなかった。よって、フランツ・フェルディナント大公の次には父カール大公が皇位を継ぐことが確実視されており、父に次いでオットーも将来のオーストリア皇帝(おそらくフランツ・ヨーゼフ2世)になると目されていた。

フランツ・フェルディナント大公夫妻は1914年サライェヴォ事件で暗殺され、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発するが、これによって父カール大公が新たに皇位継承者となった。大戦さなかの1916年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は崩御し、父が皇帝カール1世として即位、それに伴ってオットーは4歳で皇太子になった。

帝国の崩壊、亡命[編集]

父の死後、名目上の皇帝・王を称するようになった頃のオットー。1923年撮影。

1918年中央同盟国は敗北した。ドイツ帝国ヴィルヘルム2世が11月9日に退位した影響を受けて、オーストリアでもカール1世の退位を求める声が上がった[2]。カール1世は11月11日に「国事不関与」を宣言、旧来の帝国組織が崩壊していくのに並行してオーストリア共和国が樹立された[2]。時にオットーは6歳であった。カール1世は家族とともにウィーン郊外のエッカルトザウ城ドイツ語版へ移り、そして翌年3月23日にはスイスへ亡命した[2]。同年4月2日に議会は、ハプスブルク家の財産没収のための法案を可決した[2]

父カール1世は、国事不関与の宣言こそすれ、退位の宣言などしたつもりはなかった。カール1世は二度にわたって復権するための行動を起こしたが、しかしカール1世の復帰運動はいずれも失敗に終わり、1921年11月19日に一家そろってポルトガルマデイラ島に流された[3]

その後、母ツィタはオットーに多くの言語を学ばせた。それは、息子がいつの日か非常に多くの国(旧ハプスブルク君主国)を統治するかもしれないと期待してのことであった。その甲斐あってオットーは、ドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。マデイラ島に流されてからわずか4か月後の1922年4月1日、父カール1世は肺炎によって死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。「お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝および王となったのです。」と[4]。ツィタはオットーを皇帝・王として名目的に即位させた。1923年、一家はスペインへ渡り、さらにベルギーへ向かい、ツィタの弟フェリックスのもとに1929年から1940年まで身を寄せた[5]

青年期[編集]

1933年のオットー(左側の人物)。Graf von Degenfeldとともに。

1932年11月20日、オットーは成人年齢である20歳に達した。同年の暮れ、オットーはベルリンで博士論文のための研究をしており、そこでドイツ国の政治家たちの知遇を得ていた[6]。台頭しつつあった右翼の男、アドルフ・ヒトラーの注目を惹いてもいた。ヒトラーは、オーストリアをドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないとオットーを見ていたのであった[6]。オットーは20歳になるとパリを頻繁に訪れ、母方の伯父シクストゥス・フォン・ブルボン=パルマによって社交界に顔つなぎをしてもらった[6]。やがて政治学社会学博士号を得て、ルーヴェン・カトリック大学を卒業した。

父のカール1世がハンガリーの王位を取り戻そうとした二回の試みから十年そこそこしか経っておらず、その遺児であるオットーを期待を持って見守るハンガリー人たちもいた。ハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にした[6]

イタリアファシスト党の統領であるベニート・ムッソリーニは、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家のほうが良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を後押しした。ムッソリーニはツィタをローマに招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。このような縁談は1930年代初頭のヨーロッパの新聞では、仮に誤報であれ、定期的に流された。ムッソリーニの狙いは、ハプスブルク家とイタリア王家を合体させることによって、中南欧を貫いてイタリアに王朝の正統性を付与することであった[6]

オットーは、つねに自分が品行方正な紳士であることを示すことによって、一般人の抱く退廃や同性愛・戦争とハプスブルク家との連想を薄めようと努力した。ハプスブルク一門のヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ英語版は、パリで問題を起こして1936年3月に「金羊毛騎士団騎士の身分を自発的に放棄」しているが、これはオットーがヴィルヘルムに圧力をかけた結果だという見方もある[1]。騎士団長であるオットーが発する言葉は、騎士団内では戒律も同然であった[1]

この時期、オットーは自らを正当なオーストリア皇帝であると考え、多くの機会にこのことを述べてきた。1937年にオットーはこう書いている[7]

オーストリア人の大多数が以前にもまして私に、わが最愛の父、平和な皇帝の遺産を引き受けて欲しいと思っていることを私はよく知っている。(……)オーストリアの人々は、共和国に賛成の票をけっして投じなかった。彼らは、長い戦いに疲れきり、1918年と1919年の革命家の大胆さに驚愕している限り、沈黙したままだった。革命が彼らの生きる権利と自由を侵害したと理解した時、彼らはあきらめを振り払った。(……)そのような信頼は私に重荷を課すものである。私は喜んでそれを受け入れる。神が望めば、君主と人民の間の再結合の時がまもなくやってくるだろう。

第一共和国[編集]

1934年にオーストリア首相に就任したクルト・シュシュニックは先任首相の誰よりもハプスブルク家の主張に同情的であり、その在任中は絶えずオットーと協議し、オットーを政府の仕事について十分な消息通とした[8]。シュシュニック首相は「ハプスブルク家の復位はオーストリアの国内問題である」と主張して、その問題に関するオーストリアの決定権を一貫して擁護した[8]1935年7月には反ハプスブルク法が廃止され、皇室財産の多くがハプスブルク家のもとに戻った[8]。こうしてオットーは、オーストリアにおいて最も裕福な者のひとりとなった[9]。1,603以上のオーストリアの地方自治体が、当時ベルギーに住んでいたオットーを名誉市民とする[10][11]など、君主主義的感情が増大しつつあった[8]。この時期、フランスの新聞各紙はこう問いかけた。「ハプスブルク家がオーストリアに戻ってくるのだろうか?」と[12]

しかしユーゴスラビア政府が「ハプスブルクの復位を防ぐためには宣戦布告も辞さない」と明言していたり、ヒトラーが猛烈な反ハプスブルク論者であったりして、君主制の復活はほとんど不可能な状況だった。数年前にはハプスブルク家の復位を支持していたイタリアですら、この時期には反対を表明していた[8]

また、君主主義的感情が高まりをみせていたとはいえ、オーストリア国民の感情は君主制よりもドイツとの合同のほうにより強く向いていた。このような状況のなかでオットーは、ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)を阻もうとしていた[9]1937年の終わりから1938年の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた[9]。ドイツとの併合に反対するオーストリア国民にとっては、オットーのもとでの君主制の復活が、ドイツの侵略を防ぐための最も理にかなった方法であると思われた[11]。1937年11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた[9]。ジェラルド・ワーナーによると、オーストリア・ユダヤ人は、王朝国家は第三帝国に立ち向かうのに十分な決意を与えると信じていたので、ハプスブルク家の復活を最も強く支持するグループのひとつだった[13]。また、彼らはかつて「反ユダヤ主義の盾になって下さるわれらの庇護者」としてフランツ・ヨーゼフ1世を敬愛していた。

ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーは亡命地のベルギーからシュシュニック首相に書簡を送り、もし要請があればみずからが首相となって対処することを申し出た[14][15][9]。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった[9]。結局のところ、それとは関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきた。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、オットー作戦ドイツ語版と呼ばれていた[9]

第二次世界大戦[編集]

オットーは第二次世界大戦のはじめ、数千人のオーストリア・ユダヤ人を含む[16]約15,000人が国外に脱出するのを手伝うことに関与した[17]。大戦中、ナチス・ドイツ体制はオットーを死刑にすることを宣告した。ルドルフ・ヘスは、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。ヒトラーの指示によってハプスブルク家の財産はすべて国家に収用され、それは大戦が終わった後も戻ってきていない。オーストリア君主制復活運動の指導者たち、つまりオットー支持者のリーダーたちはナチスによって逮捕され、その大部分は処刑された。フランツ・フェルディナント大公の遺児であり、オットーの支持者として熱心に活動していたマクシミリアン・ホーエンベルク公爵とその弟エルンスト・ホーエンベルクも、ダッハウ強制収容所に送られている。

1940年、ナチスによるベルギー侵攻から逃れてパリに移るも、さらにフランスがドイツ軍によって占領されると、オットーは家族とともにパリから退去してボルドーポルトガル領事であるアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスの発行したビザを持ってポルトガルに逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸からカナダに発った。続いてアメリカに移り、1940年から1944年までワシントンDCに住んだ。1941年、ヒトラーによって母と弟たちともどもオーストリアの市民権を奪われ、無国籍となった。

アメリカへの戦時亡命中に、ツィタおよびオットーとその弟たちローベルトフェリックスフランクリン・ルーズベルト大統領と連邦政府に接触し、祖国解放のためにアメリカ軍の中から「オーストリア部隊」を創設しようと試みるが、この考えはアメリカの移民仲間から強い抗議を招き、実現することはなかった[18]。しかしながらオットーは、オーストリアの都市、特に首都ウィーンへの爆撃を、アメリカに中止あるいは制限させることに成功した[16]。また、少なからずナチスに加担したオーストリアを「ナチスに征服された国家」に含めてもらうこともできた。この時期オットーはオーストリア亡命政府の認知のために、南チロルのドイツ語を話す人々の権利のために、また、ボヘミアと東ヨーロッパのドイツ語を話す住民の強制退去に反対して、そして東ヨーロッパをソビエト連邦ヨシフ・スターリンの支配下に置くことに反対して、さまざまな働きかけをした[19]

また、戦時中には英国のウィンストン・チャーチル首相が「ドナウ連邦」計画(実質的にオーストリア=ハンガリー帝国の回復である)を提案しており[20]、これにオットーは賛意を表明した。しかし、旧ハプスブルク継承諸国のすべての亡命政府と政治的指導者が王政復古に激しく反対した[18]うえ、「ドナウ連邦」が反ソ的なものになると判断したスターリンによってこの計画は頓挫し、実現することはなかった。

大戦の終末期になるとオットーとその家族はヨーロッパに戻り、フランスとスペインに数年間住んだ。

第二共和国[編集]

1945年、帝政廃止後の初代首相であるカール・レンナーがオーストリア政府の再建に乗り出すと、オットーは彼をソビエト連邦の手先だと糾弾してその新政権樹立の妨害を試みた[要出典]。しかし、レンナーがソ連軍の妨害を阻止して自由選挙を成功させたため、かえってオットーの信用は低下した[要出典]

ナチスによって市民権を奪われたことによって、オットーは事実上の無国籍となっていたが、1946年シャルル・ド・ゴールの介入のおかげで、モナコ公国からパスポートを与えられた。また、マルタ騎士団もオットーをマルタの騎士として外交旅券を発行したし、のちにはスペインからも外交旅券を与えられた[21]

1955年5月、オーストリアと連合国との間で条約が結ばれた。オーストリアとドイツとの合邦を禁止する条項が主な内容であるが、その国家条約の中には再びハプスブルク家の復位を禁止する条項が盛り込まれていた[22]1960年代初期のオーストリアでは、オットーの帰還が政界を支配した問題であった[23]。国内に大きな騒ぎをもたらした論争は、オットーの帰還に関するもののただ一点だった。1956年、オットーは下オーストリア州政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた。1960年代のオーストリア警察は、「共和国の敵」が国内に侵入したのではないかと疑って、複数の機会にオットーを捜索している。

ハプスブルク家の構成員は、共和国への忠誠を宣言すれば帰国することができたが、オットーはそうしなかった。オットーは共和国への忠誠を宣言することはいとわなかったが、政治活動をやめることを約束しようとはしなかったのである[23]1961年7月、オットーは弁護士を通してオーストリア帝位請求権を放棄すると宣言した。これを受けての内閣評議会では79対78と賛成・反対意見がほぼ均等に分かれ、ただ単に合意形成には至らなかったことを記録するに留まり、結論は出さなかった[23]1963年5月に行政裁判所がオットーの宣言を認定した[23]にもかかわらず、オーストリア社会党オーストリア自由党はオットーの帰還を承認しないと表明した。これによって、王党派を支持層のひとつに抱えるオーストリア国民党とオーストリア社会党による大連立政権は崩壊した[23]。オットーは国民党にとってより楽な状況を作るべく、新しい選挙がおこなわれるまではその問題を強く推進しないことに国民党と同意した[24]。オットーは1967年にオーストリアへ入国したが、その時は国民党の単独政権であった[24]

なおオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他の多くの王位継承権は保持し続けたし、実際にその後もハンガリー王などを名乗り続けた。

欧州議会議員[編集]

演壇でスピーチするオットー。

1978年、オットーはドイツ連邦共和国の市民になり、公式の名前を「オットー・フォン・ハプスブルク」とした。オーストリアでは貴族の称号を「フォン」の名乗りに至るまで一切認めていないため、「オットー・ハプスブルク」または「オットー・ハプスブルク=ロートリンゲン」が法律上の名前であった。そして翌1979年から1999年までの20年間にわたり、ドイツ選出の欧州議会議員キリスト教社会同盟所属)を務めた[25]。初当選の時点でオットーはすでに67歳となっていた。

1989年3月14日、母ツィタが96歳で世を去った。同年8月、多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア国境を越えて西ドイツに亡命する汎ヨーロッパ・ピクニックが起こると、オットーは西側からこれを支援した[25]。また、東欧革命の後には欧州連合を東側に拡大することを唱えた[25]2004年、オットーは「ヨーロッパの将来はキエフリヴィウで決せられる」と発言した[26]。フランスと同程度の面積を持ち、人口5000万人を擁するウクライナを見て、共産主義体制だった諸国に民主政治を拡大できるかを試そうとしたのである[26]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が解体された時、オットーはヨーロッパ諸国に働きかけ、新しく独立したクロアチアを国家として承認するようにさせた[26]。この時セルビアの民兵組織アルカン・タイガーの指導者の一人が、バルカン半島の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナント大公夫妻に何が起きたかに触れてオットーを脅迫した[26]。この脅しに対してオットーは、みずからサライェヴォに乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サライェヴォに赴いたのだと語っている[26]

欧州議会におけるオットーは「古きよき保守派」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、中世的な帝国的思想であると非難されたこともあるが、欧州連合によるヨーロッパ統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目された。

晩年[編集]

オットーの葬儀当日のウィーン市街の様子。
オーストリア=ハンガリー帝国時代の装束に身を包み行進する人々。
カプツィーナー納骨堂に安置されたオットーの棺。

1922年から84年間務めていた家長の座を、高齢のため2006年いっぱいで長男に譲り、2007年からカールがハプスブルク家当主となった。高齢とはいえ、その後もしばらくは元気な姿を周囲に見せていた。オットーは自身の長寿の説明として、身体の鍛錬という現代的な考えと、次のようなハプスブルク家の循環的な時間の観念に触れている。「人生は自転車のようなものだ。ペダルを漕いでいるかぎり、進み続けるさ。」と[27]

2011年7月4日ドイツ南部ペッキング英語版の自宅にて98歳で死去した。2009年に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという[28]。オットー逝去の報が伝わったハンガリーでは、ただちに議会での黙祷がおこなわれた。ローマ教皇ベネディクト16世は、「オーストリア大公カール殿下」宛てに次の電報を送っている。

オットー・フォン・ハプスブルクは、平和、民族の共存、ヨーロッパの秩序のために休むことなく働いた、偉大なヨーロッパ人でした。この悲劇的な損失以上の悲しみの時のなかで、私はあなたと皇室全体のことを自分自身に重ね合わせて故人のために祈ります。長くて満たされた生涯のなかで、大公オットーは、ヨーロッパの波乱に富んだ歴史の証人でした[29]

葬儀は7月16日、故国オーストリア・ウィーンシュテファン大聖堂において、ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンの司式により営まれた。オットーは「最後の皇帝」「最後のハプスブルク」として扱われた。葬儀には、欧州議会議長イェジ・ブゼクや、ハインツ・フィッシャー大統領やヴェルナー・ファイマン首相らオーストリア共和国首脳、そしてスウェーデン国王カール16世グスタフルクセンブルク大公アンリリヒテンシュタインハンス・アダム2世ブルガリア元国王かつ元首相のシメオン・サクスコブルクゴツキルーマニアの元国王ミハイ1世などの各国君主・元君主、イギリススペインベルギーヨルダンバチカンなどからも国王やローマ教皇の代理が出席し、帝国時代の伝統衣装を身にまとった市民ら約1万人が参列した[30]。帝国時代の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の唱和をもって葬儀は締めくくられた。ミサと棺の行進は、公共放送局であるオーストリア放送協会中継放送をおこなった。ハプスブルク家の伝統に従い、オットーの遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリー北西部のパンノンハルマの大修道院に翌17日に納められた。

生前の老帝フランツ・ヨーゼフ1世のことを知る最後の人物であった。このことからウィーンでは、オットーの死をもって「オーストリア=ハンガリー帝国の真の最期」とする見方もあった。オーストリア市民の間では、帝国時代の栄華を懐かしむ声が出る一方で、もはや民間人になったハプスブルク家の葬儀をオーストリア政府が支援したことに批判的な声も聞かれた[31]。なお、葬儀の費用はハプスブルク家が全額負担しており、国庫からの支出は一切なかった。先述の批判とは、棺の行進などのためにウィーン中心の公共交通の大部分が封鎖されたことを指すものである。

オットー・フォン・ハプスブルクの死と葬儀英語版を参照。

家族[編集]

1951年ザクセン=マイニンゲン公家の当主ゲオルク公子の娘レギーナ1925年 - 2010年)と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、ハプスブルク家の多産の伝統を守ったとも見なせる。死ぬまでに、22人の孫および2人の曽孫がいた。

称号と栄典[編集]

ハプスブルク家・オーストリアの勲章[編集]

他の王朝の勲章[編集]

政府勲章と栄典[編集]

非政府の栄典[編集]

参考文献[編集]

出典[編集]

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  1. ^ a b c スナイダー(2014) p.267
  2. ^ a b c d ジェラヴィッチ(1994) p.131
  3. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.146
  4. ^ Habsburgs Erbe zerfiel und erlebte dennoch eine Renaissance”. Diepresse.com (2011年5月27日). 2011年7月8日閲覧。
  5. ^ リケット(1995) p.175
  6. ^ a b c d e スナイダー(2014) p.230
  7. ^ Gedächtnisjahrbuch 1937, 9. Jg.: Dem Andenken an Karls von Österreich Kaiser und König. Arbeitsgemeinschaft österreichischer Vereine – Wien, W. Hamburger 1937
  8. ^ a b c d e ジェラヴィッチ(1994) p.180
  9. ^ a b c d e f g スナイダー(2014) p.287
  10. ^ スナイダー(2014) p.233
  11. ^ a b スナイダー(2014) p.278
  12. ^ スナイダー(2014) p.254
  13. ^ Warner, Gerald (2008年11月20日). “Otto von Habsburg's 96th birthday telescopes European history”. The Daily Telegraph (London). http://blogs.telegraph.co.uk/news/geraldwarner/5774579/Otto_von_Habsburgs_96th_birthday_telescopes_European_history/ 2011年7月6日閲覧。 
  14. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.190-191
  15. ^ リケット(1995) p.153
  16. ^ a b Otto von Habsburg, oldest son of Austria-Hungary's last emperor, dies at age 98”. Newser. 2011年7月6日閲覧。
  17. ^ http://www.heraldscotland.com/mobile/comment/obituaries/otto-von-habsburg-1.1110433
  18. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.208
  19. ^ Sie nannten ihn 'Otto von Europa'”. Die-tagespost.de. 2011年7月8日閲覧。
  20. ^ ジェラヴィッチ(1004) p.206
  21. ^ http://www.kathweb.at/site/nachrichten/database/40510.html
  22. ^ ジェラヴィッチ(1994) p.230
  23. ^ a b c d e ジェラヴィッチ(1994) p.245
  24. ^ a b ジェラヴィッチ(1994) p.246
  25. ^ a b c スナイダー(2014) p.363
  26. ^ a b c d e スナイダー(2014) p.357-358
  27. ^ スナイダー(2014) p.382
  28. ^ 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去 日刊スポーツ 2011年7月4日付記事、Internet Archiveより
  29. ^ Benedikt XVI. würdigt Otto von Habsburg
  30. ^ さらば最後の皇太子=O・ハプスブルク氏葬儀に1万人―ウィーン 時事通信 2015年3月15日閲覧
  31. ^ ウィーン 最後の皇太子葬儀 NHKニュース 2011年7月17日付記事、Internet Archiveより
  32. ^ Décès d'Otto de Habsbourg” (French). 2011年7月7日閲覧。
  33. ^ Otto Habsbourg s'est éteint à 98 ans” (French). France 3. 2011年7月7日閲覧。
  34. ^ The Grand Master of the Order of Malta at the funeral of Otto von Habsburg

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

オットー・フォン・ハプスブルク
ハプスブルク=ロートリンゲン家

1912年11月20日 - 2011年7月4日

先代:
0000000カール1世0000000
ハプスブルク=ロートリンゲン家家長
1922年 - 2006年
次代:
0000000カール0000000
先代:
カール1世
金羊毛騎士団
1922年4月1日 - 2000年11月30日
次代:
カール
先代:
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
国際汎ヨーロッパ連合国際会長
1973年 - 2004年
次代:
アラン・テルノワール英語版