大ドイツ主義
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大ドイツ主義(だいドイツしゅぎ、独: Großdeutsche Lösung)は、1848年のフランクフルト国民議会で討議されたドイツ統一の一方針である。フランクフルト国民議会は最終的に頓挫し、後にプロイセン王国が主導権を握った小ドイツ主義によってドイツは統一された。
両派対立[編集]
フランクフルト国民議会で、ドイツ統一を巡る方針として、主に二つの選択肢があった。オーストリアを含めた「大ドイツ主義」、オーストリアを含めない「小ドイツ主義」である。当初のこの両主義に大差はなかった。ドイツ人あるいはドイツ系の居住地を含めて統一国家を建設するという考えでは、一致していたからである。国民議会では、この大ドイツ主義の統一方針が圧倒的に支持されていた。しかしオーストリア政府は、ハンガリー人をはじめとする非ドイツ系諸民族を包含する多民族国家であり、ドイツ人のみの統一国家を造ることは、非ドイツ人居住地との分断を招くとして、強く反対した。この方針が採用されれば、「オーストリア帝国」という概念が揺らぐことになる。それは帝国の解体を意味した。
結果的にフランクフルト国民議会では、オーストリアは脱落した。しかしドイツ統一を巡る問題は、むしろ高まり、それはドイツにおけるナショナリズムに結びついた。この問題については、プロイセン王国に後塵を帰したが、オーストリアにおける大ドイツ主義は消滅したわけではなかった。1860年代に再び活発化し、南ドイツのカトリック勢力と結び付きを深める。大ドイツ主義は、再びプロイセン主導の小ドイツ主義に並び立つ。カトリック教会は、政治的に多大な影響力を保ち、北ドイツのプロテスタント勢力に対する反発から、オーストリア主導の大ドイツ主義を支持した。
かかる背景の元、両主義は対立を深めていったものの、ドイツ統一と言う目標では一致していたため、当初のドイツ統一戦争では共同関係を保つことは可能であった。1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、共闘してデンマークからシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を割譲させることに成功した。
ドイツ帝国成立とその後[編集]
しかし統一戦争での成功は、両国に再びドイツ統一主導権争いを招来させる。プロイセンは、オーストリアを排除した統一を目論むようになった。直接の原因は、取得したシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の領有を巡る問題であったが、それはすぐにドイツ統一の主導権を巡る争いへと結びついた。1866年、両国は普墺戦争を起こし、プロイセン王国がわずか7週間でオーストリア帝国を屈服させた。
この結果、オーストリアを盟主としたドイツ連邦は解体され、翌1867年にプロイセンを盟主とした北ドイツ連邦が成立した。普墺戦争は、ドイツ統一を小ドイツ主義による統一国家「ドイツ帝国」へと導いた。しかし、大ドイツ主義であったオーストリアの一千万人のドイツ人は、ドイツ統一から排除され、国外へと取り残された。
その後、オーストリアはハンガリー人との妥協(アウスグライヒ)によってオーストリア=ハンガリー帝国となり、加えて産業革命で力をつけ始めたチェコ人や民族主義によってロシア帝国との結びつきを強め始めたスラヴ人などが勢力を伸張し始めると、ゲオルク・フォン・シェーネラーの汎ドイツ運動など大ドイツ主義が再び力を持ち始めた。決定的となったのは第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア・ハンガリーの解体で、帝国の解体はオーストリアのアイデンティティを喪失させると共に没落を意味していた。しかし彼らには、ドイツと共にオーストリアもまたドイツ人であると言うアイデンティティが残された。オーストリア単独の国家として独立したことは、再びドイツの統一の機運の高まりであった。しかし戦勝国である連合軍は、この統一運動を大ドイツ主義の再来として危惧し、ドイツ・オーストリアの統一の悲願は、列強によって阻止された(ヴェルサイユ条約などによるアンシュルス禁止)。両国の合併が列強によって阻止された事は、ドイツ・オーストリアの政情を悪化させ、混迷の渦中からナチス・ドイツの台頭を許す結果となった。特に最高指導者ヒトラーは、零落していく母国への帰属意識を持ちきれずにドイツ民族意識を肥大化させたオーストリア人の一人である。