オーストリア国民党

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オーストリアの旗 オーストリアの政党
オーストリア国民党
Österreichische Volkspartei
ÖVP election poster Sept 2006 004.jpg
2006年選挙でのポスター
党首(Vorsitzender) ヨーゼフ・プレル
成立年月日 1893年
(キリスト教社会党として)
本部所在地 ウィーン
国民議会議席数
51 / 183   (28%)
(2008年10月6日)
連邦議会議席数
26 / 62   (42%)
●年●月●日現在)
政治的思想・立場 中道右派
保守主義
キリスト教民主主義
公式サイト ÖPV
シンボル
国際組織 国際民主同盟
キリスト教民主主義インターナショナル
ヨーロッパ人民党
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オーストリア国民党(オーストリアこくみんとう、ドイツ語Österreichische Volkspartei、略称:ÖVP)は、オーストリア中道右派キリスト教民主主義保守主義政党。日本語では「オーストリア人民党」と訳される場合もある(こちらの方が原語の意味には近い)。オーストリア社会党(1991年にオーストリア社会民主党と改称)と共に、長らくオーストリアの二大政党制を担ってきた。

国際民主同盟に加盟している。現在の党首ヨーゼフ・プレル (Josef Pröll)。党のシンボルカラーは黒である。

歴史[編集]

結党[編集]

第一共和制時代のキリスト教社会党の後身として1945年に結党された。その指導者の多くが前身政党の活動で有名な人々であったが、オーストリア社会党が戦前の「オーストリア社会民主労働党」の復活を明言したのに対し、国民党はキリスト教社会党との連続性を強調しなかった。教会との公式な繋がりは持たないが、しかし以前のキリスト教社会党と同じく、実践的なカトリック教徒からの支持が厚い政党であった。さまざまな構成員を代表していたことから、党の綱領は伝統的な家族の価値、財産権、農民の利益を強調しており、また非常に多様な社会福祉立法を受け入れていた。

戦後しばらくは社会党との大連立が組まれていたが、大連合の基礎をなしていた力のひとつは、両党の指導者たちが戦争経験によって結ばれていたということである。そして世代交代が進むにつれて、社会党と妥協することを好まずに一党政府を好む勢力が伸張した。それは社会党においても同様であった。

1960年代初頭、かつての皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの帰国の是非をめぐって論争が起こった際には、王党派を支持層のひとつに抱える国民党としてはハプスブルク家寄りの対応を取った。それに対して社会党の立場は明確だった。オットーに財産を返還したり、入国を認めたりすることには断固反対の態度を示したのである。この問題で社会党との大連合は完全に壊れ、そして1966年3月の選挙の結果、国民党党首ヨーゼフ・クラウスが戦後初の一党政府を組織した。

近年[編集]

1996年、オットーの長男カール・ハプスブルク=ロートリンゲンを候補者に立てて欧州議会に送り込んだ。長らく社会民主党との大連立が続いていたが、2002年極右政党であるオーストリア自由党と連立を組んで政権を担当し、ヴォルフガング・シュッセル党首が連邦首相となった。

2006年に行われた国民議会(下院)選挙では社会民主党に敗れ、第2党としてアルフレート・グーゼンバウアー率いる社会民主党と連立政権を組んでいたが、健康保険や税金など基本政策をめぐり不協和音が絶えず、2008年6月、国民党党首で連邦政府では副首相兼財務相を務めていたヴィルヘルム・モルテラーは記者会見で「もう十分だ。指導力のない党と共通の目的には向かえない」と連立政権からの離脱を表明、国民議会の解散・総選挙を要求した。社民党も議会解散に応じ、同年9月26日に総選挙が実施された。その結果、国民党は15議席減らし、第二共和政のもとでは最低の獲得議席数・得票率を記録した。この結果を受けてモルテラーは党首辞任を表明、その後は農業相兼環境相のヨーゼフ・プレルが党首代行として社会民主党党首ヴェルナー・ファイマンとのあいだで2か月近くにわたって連立について協議し、再び社会民主党とともに政権を担当することで合意に達した。プレルは次期政権についての合意がなされたあとの11月28日に党の全国大会で正式に党首に選出された。

参考文献[編集]

バーバラ・ジェラヴィッチ著/矢田俊隆訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』(山川出版社、1994年)

外部リンク[編集]