ゲオルク・フォン・ザクセン=マイニンゲン

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ゲオルク3世
Georg III.
ザクセン=マイニンゲン家家長
在位 1941年 - 1946年

出生 (1892-10-11) 1892年10月11日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国カッセル
死去 (1946-01-06) 1946年1月6日(53歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ヴォログダ州チェレポヴェツ
配偶者 クララ=マリー
子女
家名 エルンスト系ヴェッティン家
父親 フリードリヒ
母親 アーデルハイト
宗教 キリスト教ルーテル教会
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ゲオルク・プリンツ・フォン・ザクセン=マイニンゲンドイツ語: Georg Prinz von Sachsen-Meiningen, 1892年10月11日 - 1946年1月6日)は、ザクセン=マイニンゲン公爵家の家長(1941年 - 1946年)。ゲオルク3世ドイツ語: Georg III.)とも呼ばれる。

生涯[編集]

ザクセン=マイニンゲン公子フリードリヒ(ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世の三男)と、その妻のリッペ=ビースターフェルト伯女アーデルハイト英語版リッペ侯国摂政エルンストの長女)の間の長男として、ヘッセン=ナッサウ県のカッセルに生まれた。ゲオルクはミュンヘン大学イェーナ大学で法学を学んだ[1]

第一次世界大戦が始まるとゲオルクは学業を中断し、ドイツ軍の騎兵大尉として従軍した。ドイツ革命に伴い諸侯国の君主制が廃止されていく中、ゲオルクの伯父ベルンハルト3世も1918年11月10日に退位した。戦後、ゲオルクは法学の勉強を再開し、一時はテューリンゲン州ヒルトブルクハウゼンドイツ語版で判事補を務めていた[1]。1933年5月1日、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAP)に入党した[2]

1941年12月29日に伯父のエルンストが死去すると、ゲオルクがザクセン=マイニンゲン家の家督を継承した。1946年、北ロシアチェレポヴェツにあった捕虜収容所で死去した。ただ一人生き残っていた男子フリードリヒ・アルフレートは1953年にカルトジオ会修道士となって公位継承権を放棄したため、ゲオルクの弟ベルンハルトが家長となった。

子女[編集]

1919年2月22日、フライブルクにおいて、シュミジンク=ケルッセンブロック・コルフ伯爵令嬢(Gräfin von Korff, genannt Schmising-Kerssenbrock)クララ=マリー(1895年 - 1992年)と結婚し、間に2男2女を儲けた。

脚注[編集]

  1. ^ a b “Kaiser's Nephew a Petty Judge”. ニューヨーク・タイムズ: p. 103. (1922年10月29日) 
  2. ^ Archduchess Regina von Habsburg, Royalty Obituaries, デイリー・テレグラフ, 2010年2月4日

関連項目[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ゲオルク・フォン・ザクセン=マイニンゲンに関するカテゴリがあります。

先代
エルンスト
ザクセン=マイニンゲン公家家長
1941年 - 1946年
次代
ベルンハルト4世