オーストリア自由党

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オーストリアの旗 オーストリアの政党
オーストリア自由党
Freiheitliche Partei Österreichs
FPÖ Logo.png
社会的郷土愛政党・オーストリア自由党
党首(Vorsitzender) ハインツ=クリスティアン・シュトラーヒェ
成立年月日 1956年
本部所在地 ウィーン
国民議会議席数
40 / 183   (22%)
(2013年9月29日)
連邦議会議席数
4 / 62   (6%)
2009年11月現在)
政治的思想・立場 極右
国民保守主義
ナショナリズム
公式サイト FPO
シンボル
国際組織 なし
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オーストリア自由党(オーストリアじゆうとう、Freiheitliche Partei Österreichs、略称:FPÖ)は、オーストリア極右政党。現在の党首はハインツ=クリスティアン・シュトラーヒェ w:Heinz-Christian Strache

自由党」を名乗るが、自由主義政党というよりも、極右ポピュリズム政党、ドイツ民族至上主義政党の性格が強い。これは、同党が第一共和国時代において「ドイツ民族主義派 」と呼ばれた「農民同盟」・「大ドイツ人党」・「護国団」などの大ドイツ主義的な小政党の連合体に由来するところが大きい。ドイツ民族主義派は、ナチスとは民族主義では共通するものの、その政治思想からむしろ競合関係にあったが、アンシュルスの過程においてある部分はナチスに合流し、ある部分は弾圧を受けた。戦後、大ドイツ主義派が合同して再建を目指す動きがあったものの、ドイツ民族主義そのものへの世論の反感や連合国側の警戒から合同に成功したのは1956年の事であり、旧ナチス関係者からオーストリア社会党連立政権を組むオーストリア国民党に反発する自由主義的な保守層までを内含した政党として発足した。現在の自由党の政策の中にも、出入国管理強化やより厳格な法の執行、家族を保護するための基金の創設などに右派政党としての性格が現れている。

1986年ケルンテン州代表であったイェルク・ハイダーが党首に就任する。ハイダーは党内の有力者や自由主義者を党から排除し、党の右傾化を促進した。2000年には国民議会選挙で躍進し、オーストリア国民党と連立政権を組み、ヴォルフガング・シュッセル内閣を組織した。

2005年4月、ハイダーが自由党を離党、新党「オーストリア未来同盟」(BZÖ)を結成した。このとき自由党に所属していた18人の国民議会議員のうち16人がハイダーと行動をともにしており、自由党は分裂によって国民議会での議席を大幅に失ったが、国民議会選挙において2006年に21議席、2008年は34議席、2013年9月では40議席と党勢を回復しつつある。

2015年以降、オーストリア自由党(FPÖ)はブルゲンラント州でハンス・ニースル州首相(SPÖ)の下でオーストリア社会民主党 (SPÖ)との連立州政府の一翼を担っている。オーバーエスターライヒ州において、ヨーゼフ・ピューリンガー州首相(ÖVP)の下でオーストリア自由党(FPÖ)と国民党 (ÖVP)の間で政治活動協定を結びプロポルツ州政府(国民党、社会民主党、自由党、緑の党が閣僚を出している)としての構造が存在している。

2016年4月24日、自由党のノルベルト・ホーファー国民議会第3議長が大統領選挙の第一回投票で35.1%の票を獲得し、首位で決選投票に進んだ[1]

5月22日、ホーファーは決選投票で49.7%の票を獲得したが、緑の党元党首のアレクサンダー・ファン・デア・ベレン元国民議会議員に約3000票差で敗れた[2]

党政策プロフィール[編集]

現在の党綱領「オーストリア第一」は2011年6月20日にグラーツで発表された。それ以前の1990年代末、当時自由党内にいたエワルド・シュタッドラー(2007年からオーストリア未来同盟BZÖに所属)によってまとめられた党の原則があった。そこではキリスト教に対する堅固な信頼が語られていた。副党首ノルベルト・ホーファーによって作成された2011年新綱領において、「我々の故郷オーストリア」への郷土愛が明白に語られ、ドイツ語を話す民族と文化共同体への帰属が読み取ることが出来る。オーストリア各地に歴史の中で定住したブルゲンラント・クロアチア人スロヴェニア人、ハンガリー人チェコ人ロマ等の少数民族をオーストリアに統合された構成要素と見なしている。加えて、オーストリア自由党(FPÖ)は自由な諸民族からなる欧州の擁護者であると言い表している。歴史の中でオーストリアに定住した諸民族と元来の民族(ドイツ人)集団によって形成されている祖国オーストリアの民も欧州の一員であるが、人為的均質化をおこなうことを拒否している[3][4]

欧州政策[編集]

オーストリア自由党(FPÖ)は欧州懐疑主義を支持していると見なされており、補完性原理も支持している。条約改正時における国民投票の実施に賛成し、欧州連合加盟国により大きな自己決定権を与えることを求めている。これに関連して、多文化主義グローバリゼーションの無理強いと移民の大規模流入によって、多様な欧州の言語と文化を人為的に均質化してしまうことをオーストリア自由党(FPÖ)は強く拒んでいる。欧州段階でトルコとの友好善隣条約を締結することに党は賛成しているが、トルコの欧州連合加盟には反対を表明している。その理由として、文化的にも地理的にもトルコを欧州の一部とは見なすことは出来ないとしている。欧州連合加盟の適格性を判断するコペンハーゲン基準をトルコが満たしていないことも反対理由としている。また、党はNATOのような軍事同盟に加盟することに反対している[3][5][6]

国内政策と治安政策[編集]

オーストリア自由党(FPÖ)は郷土であるオーストリアの守護者と自任しており、国家のアイデンティティと独立性の確立を約束している。オーストリアは元来、移民国家としての原理で形成されていないと理解した上で、ダブリン協定の組み換えと、移民流入の停止、並びに犯罪を行った外国人の無条件国外退去処分を求めている[3]

家族政策[編集]

子供たちと生活を共にする夫と妻の共同体が家族と見なされる。伴侶と共に生きる根源的な場が家族であると見なされている。オーストリア自由党(FPÖ)は同性婚を許容しない。オーストリアは移民国ではないという原則に照らし合わせると、受胎調節を伴う家族計画は許されない。女性クオータ制ジェンダー・メインストリーミングという考え方を、オーストリア自由党(FPÖ)は実際存在する、あるいは誤解された(男女の)差異を是正しようとする優遇措置であると捉えており、個々人において不公正なものであるとして拒絶している[3]

党内構造[編集]

支持者像と党員[編集]

オーストリア自由党(FPÖ)の支持者に関する社会学的分析関して、幾人かの政治学者たちや世論調査研究者たちの見解が明らかにされている。 政治学者アントン・ペリンカによると、オーストリア自由党(FPÖ)の支持者たちは国民保守主義思想に染まっている者たち、社会の現代化とグローバリゼーションの敗者たちから構成されている。現代化の敗者たちは他の者たちよりも極右思想に抵抗感を持たず、とりわけ移民流入に直面した場合は極右思想の影響を受けやすい。ただし、オーストリア未来同盟(BZÖ)との分裂以来、この支持層を獲得するために両党は争っている[7]

オーストリアの政治学者フリッツ・プラッサーはオーストリア自由党(FPÖ)を核となる部分は支持者の4割程であり、それもイデオロギー的に強固な支持者であるという見解を明らかにしている。支持者の多くは抗議票としてポピュリスト的政治を主張しているオーストリア自由党(FPÖ)に投じていると見なしている。

政治学者ペーター・フリッツマイヤーによると、オーストリア自由党(FPÖ)に投票した支持層において、義務教育学校卒業者の割合がとても高く、徒弟教育修了者と男性の割合も高さが指摘できる。さらに、以前はオーストリア社会民主党(SPÖ)を支持していた労働者階層の一部が支持政党を変更した可能性も考えられる。 オーストリア自由党(FPÖ)は党内において増大しているラディカル勢力とは距離を持っている若い有権者層に集中的に呼びかけをおこなっている[8]

同様に社会学者で世論調査の研究者であるエバ・ツェグロヴィツは以下の事実を確認した。有権者の教育レベルが高くなるに連れて、オーストリア自由党(FPÖ)への投票割合は少しずつ低下していく。加えて彼女は以下のことを指摘している。若い世代層においても、同じ世代の中で低いレベルの教育を受けた者、あるいは教育程度の低い両親の家庭出身者はオーストリア自由党(FPÖ)への投票する傾向が強い[9]

2千人を対象にした2010年の世論調査によれば、オーストリア自由党(FPÖ)は旧ユーゴスラビアからの移民が多かった地域で平均以上の27%の支持を得ていた。加えて、この層においてオーストリア社会民主党(SPÖ)に次ぐ支持を党は得ていた。これは党首ハインツ=クリスティアン・シュトラーヒェによるセルビア人に向けた選挙キャンペーンが狙い通りに成功した結果とも言える[10]。 2000年代中頃以降、彼はセルビア正教会において祈祷の際用いるコンボスキニオンを常に手に持ちながら、公式行事に参加し、選挙ポスターにも写っている[11][12][13][14]

党の歴史[編集]

オーストリア自由党(FPÖ)の結党[編集]

オーストリア自由党(FPÖ)の前身独立者連盟(VdU)は様々な利益集団の連合体であったが、1949年国民議会選挙に参加した。多くの旧ナチ系団体と同様に、1945年におこなわれた戦後最初のオーストリア国民議会選挙には加わることが出来なかった(参加したのは国民党、社会党、共産党のみ)。農民同盟や大ドイツ民族主義党等のかつてオーストリアに存在していた政党の支持者たちは、オーストリア社会民主党(SPÖ)と国民党(ÖVP)と並ぶ第3陣営を形成しようとした。しかし、党結成に関する陣営内対立が生じ、分裂を繰り返した。

内部混乱を経て、1955年11月3日にオーストリア自由党は設立準備会合を開催した[15]1956年4月7日にウィーンのヨーゼフシュタットで設立党大会を開催した。その際、最初の党首としてアントン・ライントハラーが選出されたが、ナチ党員という過去を持つだけでなく、ナチス親衛隊旅団指導者という党幹部経歴すら有していた。ナチ党幹部だった経歴のため、1950年から1953年まで彼は逮捕拘束されていた。党首ライントハラーは1938年オーストリア併合以前にナチ党に入党していた確信的国家社会主義者であり、アルトゥル・ザイス=インクヴァルト内閣の農業相にも就任し、1945年までドイツ第三帝国議会議員だった。「国家主義思想の本質において、ドイツ民族の帰属を告白すること以上に重要なことは存在していない」と彼は就任演説で語った。1966年、当時の党首フリードリヒ・ペーターが党内の国家主義者と自由主義者勢力間のバランスを計ろうとした後で、党内において対立が生じた。この党内調整が党内極右からの批判を招くことになり、とりわけ、ブルシェンシャフト(伝統的学生組合)勢力の離反し、その結果、オーストリア国家民主党(1967–1988)という極右政党が生まれた[16]。なお、このオーストリア国家民主党(NDP)は国家社会主義(ナチズム)の再興を図ったとして、1988年に解散を命じられた。

オーストリア自由党(FPÖ)は長い間、国民議会選挙で6%程度を得るにとどまり、前身の独立者連盟(VdU)時代よりも低迷していた。しかし、2大政党による勢力均衡状況を議会で維持出来るようにオーストリア社会民主党SPÖと国民党ÖVPにも取り入った中間派的存在であった。1970年武装親衛隊中尉の経歴を持つ党首フリードリヒ・ペーターの下で、オーストリア自由党(FPÖ)はオーストリア社会民主党(SPÖ)のブルーノ・クライスキー暫定少数派内閣を支持した。1971年の国民議会選挙でオーストリア社会民主党SPÖが単独過半数を確保し、ブルーノ・クライスキーの政権基盤が固まった。オーストリア社会民主党(SPÖ)への不自然な支持の代償として、自由党より規模の小さな政党を不利にする新選挙法を成立させた。 1980年の党大会において、ノベルト・シュテーガーが率いる党内自由主義勢力が僅差で勝利した。約5%という最低の投票率を記録した1983年の国民議会選挙の後で、社会民主党と自由党の連立内閣が成立した。党首ノベルト・シュテーガーは副首相としてフレート・ジノヴァツ連立政権に加わった。ノベルト・シュテーガーは自由主義勢力という印象を得ようと尽力し、新しい支持層の獲得に努めた。

オーストリア自由党(FPÖ)は1983年の政権参加以降も汎ゲルマン主義、オーストリア特有のドイツ民族主義という根源にこだわり続けた。国防相フリートヘルム・フリシェンシュラーガーも法務相ハラルド・オフナーもドイツ民族主義的発言を続けた。 1985年、戦犯としてイタリアで長年服役していたナチス親衛隊少佐のヴァルター・レーダーが釈放され、母国オーストリアへ帰国した際、自由党出身のフリシェンシュラーガー国防相は握手で歓迎した。オーストリア自由党(FPÖ)大学生組織の全国代表という経歴を持ち、1967年にオーストリア自由党から分裂して極右政党オーストリア国家民主党(NDP)を設立したメンバーの一人だったノベルト・ブルガーは、法務相ハラルド・オフナーを以下のように評した。「我々の世界観に関して法務相ハラルド・オフナーとは全く違いはない。なぜなら、彼は隠れオーストリア国家民主党(NDP)党員ではなく、真のドイツ人だからである」とブルガーは語った。

イェルク・ハイダーによる右傾化加速[編集]

イェルク・ハイダーFPÖ 党首(1986年‐2000年)

1986年チロル州の州都インスブルックで開催された党大会での決選投票において僅差で勝利し、イェルク・ハイダーはオーストリア自由党(FPÖ)の主導権を握った。その結果、フランツ・フラニツキー首相(オーストリア社会民主党)が率いるとオーストリア自由党との連立政権は終了することになった。 オーストリア自由党(FPÖ)には大学生組合を中心とする以前からの支持層が存在していたが、ハイダーは新たな支持層を加えようとした。とりわけ、伝統的に社会主義的な傾向を持つ労働者階級から、新たな支持層を得ようとした。多くの手段とスローガンを用いて、ハイダーは新たな支持層を加えることに成功したが、オーストリア内外において自由党はより厳しい批判にさらされた。直接民主主義的手法を彼は好んでおり、外国人敵視的、人種主義的スローガン、とりわけ、ナチス政権に関する彼の肯定的発言によって、ハイダーは右派ポピュリストデマゴーグという評判をもたらした。1991年、彼はナチス政権の相対化を行い、党を極右主義の方向にイデオロギー的に引っ張る中心的人物であると評価された。その経過において、党の中心を右派ラディカルからネオナチ系の人物で埋めていった[17]。 オーストリア自由党(FPÖ)の「オーストリア第一」を掲げた右傾化路線は、1993年になって最初の党分裂を招いた。 ハイデ・シュミットら5人の議員がイェルク・ハイダーとの論争後、党との関係を断ち、新党「自由フォーラム」を立ち上げた。党内自由主義派がマージナル化したことで、ドイツ民族主義派、右派ラディカル派の勢いが強められた[18]。 新党の自由フォーラムは1999年まで国民議会に議員を出していた。リベラル派の離党によって、オーストリア自由党(FPÖ)は1993年に自由主義(リベラリズム)政党の国際組織自由主義インターナショナルから離脱した。この自発的離脱によって、国際組織から除名される不名誉な事態から党を守った。

政権政党に飛躍[編集]

1993年の党分裂に関わらず、オーストリア自由党(FPÖ)は野党として驚くべき躍進を遂げ、1999年の国民議会選挙で26,9 %の得票率を得て第2党になった。2000年にはオーストリア国民党とオーストリア自由党(FPÖ)の連立政権が成立し、ヴォルフガング・シュッセル首相率いる内閣に加わった。オーストリア自由党(FPÖ)のスザンネ・ライス=パッサーが副首相として入閣した。 極右政党であると見られたオーストリア自由党(FPÖ)の政権参加は激しい批判を招いた。党内において批判が巻き起こっただけでなく、対外的にも批判が受け、EU諸国はオーストリア連立政権に対して制裁措置を発動するに及んだ。 さらに、オーストリア自由党(FPÖ)には閣僚としての適性を持つ人材が少ないことが明らかになり、エリザベート・シックル、ミヒャエル・クリューガー、ミヒャエル・シュミットら閣僚に就任した政治家たちが個人の能力不足で短時間で交代することになった[19]。 連立政府に入った中庸なグループと党内にいるイェルク・ハイダーの支持者たちの間で、調停不可能な深刻な対立が起きたために、2002年秋に、閣僚であったカール・ハインツ・グラッサーとペーター・ヴェステンターラーが辞職し、新たな政治家を閣僚に選任することになった。 2002年にはインターネットサービスプロバイダ企業が不祥事を起こし、オーストリア自由党(FPÖ)は一年間を通して経済スキャンダルに巻き込まれた[20][21]

選挙結果[編集]

1956年以降の国民議会選挙結果[編集]

1949年から2013年までの選挙結果,組閣形態
2013年国民議会選挙
選挙年 得票数 得票率 議席数
1956年 283.749 6,52 % 6
1959年 336.110 7,70 % 8
1962年 313.895 7,04 % 8
1966年 242.570 5,35 % 6
1970年 253.425 5,52 % 6
1971年 248.473 5,45 % 10
1975年 249.444 5,41 % 10
1979年 286.743 6,06 % 11
1983年 241.789 4,98 % 12
1986年 472.205 9,73 % 18
1990年 782.648 16,64 % 33
1994年 1.042.332 22,50 % 42
1995年 1.060.377 21,89 % 41
1999年 1.244.087 26,91 % 52
2002年 491.328 10,01 % 18
2006年 519.598 11,03 % 21
2008年 857.029 17,54 % 34
2013年 958.295 20,51 % 40


オーストリア州議会選挙における最新得票率[編集]

得票率 獲得議席 州大臣数
ブルゲンラント州(2015) 15,04 % 6 2
ケルンテン州(2013) 16,85 % 6 1
ニーダーエスターライヒ州(2013) 8,21 % 4
オーバーエスターライヒ州(2015) 30,36 % 18 3
ザルツブルク州(2013) 17,04 % 6
シュタイアーマルク州(2015) 26,76 % 14
チロル州(2013) 9,34 % 4
フォアアールベルク州(2014) 23,42 % 9
ウィーン(2015) 30,79 % 34 3
全議席数 101 9

1996年以降の欧州議会選挙得票率[編集]

選挙年 得票数 得票率 獲得議席数
1996年 1.044.604 27,53 % 6
1999年 655.519 23,40 % 5
2004年 157.722 6,31 % 1
2009年 364.207 12,70 % 2
2014年 556.835 19,72 % 4



靖国神社参拝[編集]

2010年8月14日、日本の右翼民族派団体である一水会の招きにより、オーストリア自由党は党員を日本に派遣、その他一水会に招かれたフランスの極右政党である国民戦線ジャン=マリー・ルペン党首ら、欧州8か国、9つの政党の代表などで構成された訪日団は合同で靖国神社に参拝した[22][23][24]

同日、中国国営通信の新華社は靖国神社を参拝した欧州各国の政党訪日団に対して批判する論評を配信した[25]

関連項目[編集]

  • 愛の嵐 (映画)(1973年製作) - オーストリア自由党(FPÖ)が結党された翌1957年のウィーンが舞台の映画である。強制収容所と戦後ウィーンの街を舞台にして、オーストリア人のナチス親衛隊員とユダヤ人との倒錯した愛が描かれている。ナチス親衛隊員たちと極右思想が戦後のオーストリア社会に深く浸透していることも、この映画を製作したイタリア人映画監督によって明らかにされている。主人公マクシミリアンはナチス親衛隊将校として強制収容所に勤務した過去を持ち、戦後はウィーンのホテル夜勤フロント係として暮らしていた。彼の勤務するホテルにはオペラや演奏会見物の外国人観光客だけでなく、元ナチス親衛隊員たちも出入りしていた。ナチズムの犠牲者だったという都合の良い論理がオーストリアでは通用し、社会の非ナチ化も中途半端で終わってしまったため、ナチス関係者たちが社会の隅々にまで復帰していた。加えて、オーストリアではナチスのエリートだった元親衛隊員たちが強い結束力を保ち、社会的地位の維持と極右復権を目指し、オーストリア自由党FPÖを結成し堂々と議会に進出していた。モーツァルトオペラ魔笛」の公演が終わり、ホテルに戻って来た観客や関係者たちをフロントで対応していた主人公マクシミリアンは、オペラ「魔笛」を指揮する米国人指揮者とその妻を見て驚く。指揮者の妻であった女性は、かつて強制収容所で性的虐待を加えた少女だった。主人公マクシミリアンの脳裏には強制収容所での性的虐待や倒錯行為が昨日のように甦った。指揮者である夫が帰国した後、主人公マクシミリアンと女性は、以前の様に親衛隊将校とユダヤ人女性という関係に戻り、倒錯した生活を左翼向け公共住宅カール=マルクス=ホーフにあるマクシミリアンの部屋で始めた。しかし、ホテルに出入りする元親衛隊員たちは、二人の生活を自分たちにとって危険なものと見なし、圧迫を加え始める。社会民主主義者カトリック保守派が多数派であっても、少数派の極右の行動に対して沈黙し、元親衛隊員たちが我が物顔でウィーンの街を闊歩する。極右による威圧がオーストリア社会に残り、その同調圧力に抵抗出来る者はいない。極右に同調し、どの商店も二人に食品を売らなくなる。そのため、食料の調達も出来なくなり、部屋の電気も止められ追い詰められた二人は、生きる場を失った運命を悟り、親衛隊将校の黒い制服とユダヤの花嫁服を着て、元親衛隊員たちが待ち構えているウィーンの街に出ていく。


脚注[編集]

  1. ^ “オーストリア大統領選、難民対策の厳格化訴えた右派がトップ”. ロイター. (2016年4月24日). http://jp.reuters.com/article/austria-election-president-idJPKCN0XM02F 
  2. ^ “オーストリア大統領選、リベラル派候補が僅差で当選”. ロイター. (2016年5月24日). http://jp.reuters.com/article/austria-election-idJPKCN0YE265 
  3. ^ a b c d Parteiprogramm der FPÖ vom Bundesparteitag am 18. Juni 2011, eingesehen am 21. September 2015
  4. ^ FPÖ-FPK Kooperation offiziell besiegelt - ウェイバックマシン(2010年6月24日アーカイブ分) In: kleinezeitung.at
  5. ^ Handbuch freiheitlicher Politik. 4. Auflage/2013. Abgerufen am 2015-10-06. (PDF, Seite 278–279)
  6. ^ Strache will "islamische Biotope austrocknen". In: DiePresse.com. 2013-10-24. Abgerufen am 2015-10-07.
  7. ^ Seite 3: Feuerredner und Königstiger. In: search.salzburg.com. 2006-09-04. Archiviert vom Original am 2008-04-09. Abgerufen am 2015-02-28.
  8. ^ Nachbarschaftskonflikte und Fremdenhass. In: derstandard.at. 2010-04-07. Abgerufen am 2015-02-28.
  9. ^ Zielina: Männlich, jung, ungebildet sucht Partei. In: derstandard.at. 2008-10-02. Abgerufen am 2015-02-28.
  10. ^ Freundschaft statt FPÖ, Profil, 7. Juni 2010.
  11. ^ Oliver Pink: „Outlaws“ unter sich: Der serbophile HC Strache. Die Presse, 19. Februar 2008.
  12. ^ Martina Powell: Reportage: „Wenn ich wählen könnte, würde ich Strache wählen“. derstandard.at, 19. September 2008.
  13. ^ Eva Linsinger: Freundschaft statt FPÖ. profil.at, 7. Juni 2010.
  14. ^ Clemens Neuhold: Liebe Deine Serben. wienerzeitung.at, 8. September 2013.
  15. ^ Klaus Berchtold: Österreichische Parteiprogramme 1868–1966. Verlag für Geschichte und Politik, Wien 1967, Seite 492.
  16. ^ Brigitte Bailer-Galanda: Partei statt Metapolitik. Neue Rechte und FPÖ in Österreich. In: Wolfgang Gessenharter, Thomas Pfeiffer (Hrsg.): Die neue Rechte: eine Gefahr für die Demokratie? VS-Verlag für Sozialwissenschaften: 2004, S. 168.
  17. ^ Cornelius Lehngut: Waldheim und die Folgen: Der parteipolitische Umgang mit dem Nationalsozialismus in Österreich. Campus Verlag: 2013, S. 223.
  18. ^ Brigitte Bailer-Galanda: Partei statt Metapolitik. Neue Rechte und FPÖ in Österreich. In: Wolfgang Gessenharter, Thomas Pfeiffer (Hrsg.): Die neue Rechte: eine Gefahr für die Demokratie? VS-Verlag für Sozialwissenschaften: 2004, S. 170.
  19. ^ Bestenliste der Kurzzeit-Politiker in Nationalrat: Ich bin dann mal weg. In: kurier.at. 2013-11-28. Abgerufen am 2015-02-28.
  20. ^ Jakob Zirm: Die unendliche Geschichte von Yline. In: diepresse.com. 2014-04-22. Abgerufen am 2015-02-28.
  21. ^ news networld Internetservice: YLine-Gründer Werner Böhm: „Die Nähe zur FPÖ war mein größter Fehler“ – PROFIL.at. In: profil.at. 2014-11-25. Abgerufen am 2015-02-28.
  22. ^ 欧州の極右政党代表団が靖国神社を参拝 - ウォール・ストリート・ジャーナル日本版
  23. ^ 仏・極右政党党首ら、靖国神社を参拝 - TBS News-i Youtube公式動画
  24. ^ 「世界平和をもたらす愛国者の集い」開催!! - 一水会活動最新情報!
  25. ^ 「ファシズムの宣伝」と批判=欧州極右政治家の靖国参拝に-新華社 - 時事通信

参考文献[編集]

  • Carina Klammer: Imaginationen des Untergangs. Zur Konstruktion antimuslimischer Fremdbilder im Rahmen der Identitätspolitik der FPÖ, LIT-Verlag 2013 (= Reihe: Soziologie, Band 81), ISBN 978-3-643-50520-0
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  • Oliver Minich: Die freiheitliche Partei Österreichs als Oppositionspartei in der Ära Haider. Strategie, Programmatik, innere Struktur. ISBN 3-935731-43-4.
  • Britta Obszerninks: Nachbarn am rechten Rand: Republikaner und Freiheitliche Partei Österreichs im Vergleich. Münster 1999.
  • Anton Pelinka: Die FPÖ in der vergleichenden Parteienforschung. Zur typologischen Einordnung der Freiheitlichen Partei Österreichs. In: Österreichische Zeitschrift für Politikwissenschaft 3/2002: 281-299.
  • Kurt Piringer: Die Geschichte der Freiheitlichen. Beitrag der Dritten Kraft zur österreichischen Politik. Wien 1982.
  • Viktor Reimann: Die Dritte Kraft in Österreich. Wien 1980.
  • Sebastian Reinfeldt: Nicht-wir und Die-da. Studien zum rechten Populismus, Braumüller: Wien 2000. ISBN 3-7003-1312-8.
  • Maria Rösslhumer: Die FPÖ und die Frauen, Döcker: Wien 1999. ISBN 3-85115-263-8.
  • Fritz Stüber: Ich war Abgeordneter. Die Entstehung der freiheitlichen Opposition in Österreich. Graz 1974.


外部リンク[編集]