ローベルト (オーストリア=エステ大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ローベルト
Robert
エスターライヒ=エステ家
Die Kinder von Kaiser Karl und Kaiserin Zita, Quinta Vigia, Funchal.jpg
カール1世の子供たち(右から3人目がローベルト)
称号 エスターライヒ=エステ大公
モデナ公
全名
出生 1915年2月8日
Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
死去 1996年2月7日(満80歳没)
スイスの旗 スイスバーゼル=シュタット準州バーゼル
埋葬 スイスの旗 スイスアールガウ州ムーリ、ムーリ修道院内ロレート礼拝堂
配偶者 マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタ
子女
父親 カール1世
母親 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

ローベルト・フォン・エスターライヒ=エステドイツ語: Robert von Österreich-Este, 1915年2月8日 - 1996年2月7日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇族。元皇太子オットーの弟にあたる。

生涯[編集]

皇位継承者だったカール大公(後の皇帝カール1世)とその妃ツィタの次男として生まれる。1917年に父帝によってエスターライヒ=エステ大公に叙せられた。

第一次世界大戦後に君主制が崩壊すると、スイスマデイラ島を経てスペインに移り住んだ。ルーヴァン・カトリック大学経済学政治学博士号を取得して卒業した。ローベルトはロンドンでオーストリア=ハンガリーの亡命者を糾合するのに腐心し、1945年ナチス・ドイツが崩壊するとオーストリアに戻って政治運動を行おうとしたが、共和国政府によって追放された。以降はブリュッセルで銀行員として働いた。その後、スイスのバーゼルにある老舗プライベートバンクのグッツウイラー銀行の頭取として天寿を全うした。

逸話[編集]

第二次世界大戦中、兄オットーとともにオーストリア解放に尽力した。英国のハロルド・アレグザンダー将軍の要請によって、通訳としてユーゴスラビア抵抗運動の指導者チトーとの会談に加わった。チトーは通訳の正体を知らないままその出身地を尋ねた。ローベルトは「シェーンブルンです」と答えた。次に名前を尋ねられ、ローベルトは自分の名前を言った。かつてオーストリア=ハンガリー帝国の下士官だったチトーは、椅子から飛びあがって軍隊式の姿勢をとって敬礼し、「大公殿下、参上いたしました」と言った[1]

子女[編集]

1953年に旧イタリア王族で第3代アオスタ公アメデーオの長女マルゲリータ(1930年 - )と結婚し、3男2女をもうけた。

  • マリア・ベアトリス(1954年 - )1980年にアルコ=ツィンネベルク伯爵リプラント(バイエルン国王ルートヴィヒ3世の曾孫)と結婚
  • ローレンツ(1955年 - )エスターライヒ=エステ大公 ベルギー王子
  • ゲルハルト(1957年 - )
  • マルティン(1959年 - )イーゼンブルク侯女カタリナ(イーゼンブルク侯家家長フランツ・アレクサンダーの長女で、プロイセン王家家長ゲオルク・フリードリヒの妃ゾフィーの姉)と結婚
  • イザベラ(1963年 - )チャルノツキ=ルケスキ伯爵アンドレアと結婚

出典[編集]

  1. ^ エーリッヒ・ファイグル 『ハプスブルク帝国、最後の皇太子――激動の20世紀欧州を生き抜いたオットー大公の生涯』(2016) p.280
先代:
カール
エスターライヒ=エステ大公
1917年 - 1996年
次代:
ローレンツ