松下正寿

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松下 正寿
まつした まさとし
『お茶の間の政治学』(本田書房、1967年)より
生年月日 1901年4月14日
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
没年月日 (1986-12-24) 1986年12月24日(85歳没)
出身校 立教大学商学部卒業
コロンビア大学
カールトン大学
前職 立教大学総長
所属政党 (民主社会党→)
民社党
称号 正四位
勲二等旭日重光章
Ph.Dコロンビア大学

選挙区 東京都選挙区
当選回数 1回
在任期間 1968年7月8日 - 1974年7月7日
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松下 正寿(松下 正壽[1]、まつした まさとし、1901年4月14日 - 1986年12月24日)は、日本政治家国際政治学者弁護士。第5代・6代・7代立教大学総長、参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長などを歴任。

強固な反共主義者として知られ[2][3][4][5]民社党系の核禁会議の結成に尽力した[6]。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ[7]世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主などを務めた[8][9][10]。立教大学初代学長の元田作之進は義父[11]

来歴[編集]

京都府京都市生まれ[12]。母方の祖父松下一郎は牧師で、松下家はキリスト教徒の家系であった。母は亀徳(きとく)しづ。兄は青山学院大学教授の亀徳正臣(1899-1954)。母方の姓を名乗る。青森県八戸市の八戸聖公会で育つ。旧制八戸中学校(現 青森県立八戸高等学校)を経て1922年立教大学商学部を卒業[12]コロンビア大学Ph.Dカールトン大学学士号を取得したほか、ミネソタ大学ジョンズ・ホプキンス大学にも留学した。1929年、28歳で母校である立教大学に教授として着任する。1943年5月、立教大学を辞職[13]。時期は不明だが、同大学初代学長の元田作之進の娘と結婚[11]

第二次世界大戦中は、高木惣吉の提唱により設置された大日本帝国海軍軍務局調査課のブレーンを務め、各種研究会に所属していた。1946年に始まる極東国際軍事裁判(東京裁判)では東条英機弁護人を務めた[14]1948年弁護士開業。戦後は自著『米洲広域国際法の基礎理念』がもとで公職追放された[12]

追放解除後に復職し[12]1955年6月30日、立教大学の理事会が開かれ、総長に選出された[11]。在任中は法学部の設立に尽力した。米国聖公会が決定したアジアへの原子炉寄贈に積極的に働きかけ、1957年に原子力研究所を設立して誘致[15]。同年、首相岸信介の特使として訪英し、核実験の実施に遺憾の意を示す岸首相の書簡を英国首相ハロルド・マクミランに渡している。

1960年、安保闘争のさなかにキリスト教系の慈善団体「ワールド・ビジョン」のロバート・ピアス会長の協力を得て、クリスチャン・クルセードという反共の音楽会、説教会を催した[4]

1961年11月15日、民社党全日本労働組合会議系労組は原水爆禁止日本協議会(原水協)から離脱し、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を新たに結成した。初代議長には松下が選出された[16][17]

1962年10月1日から5日にかけて、アジア太平洋反共連盟の国際大会「アジア人民自由擁護大会」が東京商工会議所ビルで開催。岸信介が議長を務めた同大会で、松下は主席委員に名を連ねた[5]

1966年7月11日、総理府の付属機関として建国記念日審議会が発足し、10人の委員のうちの一人に選ばれる。松下は「2月11日」案に賛成した。

松下と自民党幹事長福田赳夫(1967年3月21日)

1967年民社党都連会長で衆議院議員の麻生良方は、東京都知事選挙の候補者として松下に目を付け、直接打診した。松下は「核禁会議は僕が議長だが、民社党の機関じゃないよ」と言いつつも出馬の意向を示した[18]。2月15日、党委員長西尾末広は、共産党の都政進出を阻止することを目指し、松下の擁立を決定した[19]。同年2月24日、自由民主党は、佐藤栄作首相の判断により松下の推薦を決定[19]。3月13日、東京商工会議所足立正会頭、経済団体連合会の佐藤副会長、経済同友会木川田一隆代表幹事、日本経営者団体連盟の今里広記総理事らは大手町のパレスホテルに各業種団体の代表約60人を招き、松下の応援を依頼した[20]

同年3月21日、都知事選が告示され[21]、松下を含む10人が立候補した。3月27日、松下は立教大学総長を辞任した[22]。社会党・共産党両党と61項目にのぼる政策協定を結んだ美濃部亮吉とは対照的に、松下は「佐藤首相、西尾委員長とはツーカーの間柄だから、面倒な政策協定などは要らない」としばしば演説で述べた[23]。4月5日、遊説先の多摩地域で「急性肺炎と極度の心臓衰弱」との診断を受け、同日から10日朝まで東京都議会議員の東村山市の土方洋一の自宅で静養し、10日は赤坂プリンスホテルで静養した。「松下再起不能」との観測が流れ、11日から選挙戦最終日の14日まで微熱をおして街頭演説を続けた[24]。14日夜、銀座四丁目の選挙事務所で記者を前に、「男が大きなことに自分を賭ける。大変なスリルを感じる」「立教大学総長時代は立場上、共産主義の批判ができなかったが、選挙演説では堂々と自分の信念を述べることができた」と語った[25]。15日投票。16日に開票が行われ、松下は社共推薦美濃部亮吉に惜敗した。

1968年7月の第8回参議院議員通常選挙に民社党公認で東京都選挙区から出馬し、初当選を果たした。

1971年4月27日、富士社会教育センターを設立した民社党委員長の西村栄一が死去。松下は同センターの2代目理事長に就任[26]

任期中の1973年、民社党の有力者から衆議院議員選挙への転身を打診され、文鮮明に相談。文は「民社党の衆議院議員になっても大臣になれないからやめた方がいい」とアドバイスした[7]。参議院議員の仕事をつまらないと感じていた松下は1974年7月の第10回参議院議員通常選挙は出馬せず、1期で引退した[7]

1974年9月28日、統一教会の関連組織「世界平和教授アカデミー」の初代会長に就任[8][27]。松下は月々60万円の手当を教団本部会計から受け取り、その他にも統一教会の指令を実行する度に一時金が支払われたりもした[28]。文鮮明に対する崇敬の念は増した。同年11月、勲二等旭日重光章受章。

1975年2月28日、美濃部亮吉は定例記者会見で、同年4月の東京都知事選挙への3選出馬を強く否定した[29]。同年3月6日、自民党参議院議員の石原慎太郎が都知事選出馬を正式に表明。石原陣営は民社党に協力を要請した。民社党内部では、自動車労連(現・日産労連)、鉄道労働組合、国税労組などが石原支持に早くから傾いたが、党都連幹部は「石原を支持したのでは110人が立候補した区議選、市議選がむちゃくちゃになる」として激しく反発した。同盟内のゼンセンや全金同盟、電労連も都連幹部の考えに同調した。3月10日、美濃部は翻意し、公明党委員長の竹入義勝と会見を開催。事実上の出馬の意思を明らかにした[29]。混乱の中、民社党では一部が同盟顧問の滝田実を推したが、滝田は固辞した。そこで松下に打診したところ松下は快諾。3月12日、党は松下推薦を決定した[30]。統一教会ならびに国際勝共連合は松下ではなく、石原を支援した[31][32][33]。4月13日投票。松下は3位で落選。得票率5.14%により供託金(30万円)を没収された。当時の五大政党が正式推薦した候補者で供託金を没収されたのは都知事選では初めてのことであった[34]

1986年12月24日死去。85歳没。死没日をもって正四位に叙される[1]

人物[編集]

統一教会との関係[編集]

1969年、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)会長の久保木修己から依頼され市民大学講座の学長に就任。これが統一教会との出会いだった[35]。松下は開講提唱者である数学者岡潔を講師として招聘した。しかし岡は、統一教会の全体主義的な教義に従う松下を「松下 知的センスゼロ」と激しく非難した。また岡は、講演箇所が固定的にならないよう、市民大学という名称も都市大学に変更するよう要請した。松下はこうした岡潔の指摘を受け入れると同時に岡を信奉していた[要出典]

参議院議員時代の1973年民社党の有力者が衆議院議員選挙への出馬を松下に打診した。このときのことを松下は自著でこう書き記している[7]

私は過去六か年の参議院議員の生活にはうんざりしていた。重要な法案や予算案は全部衆議院で決定され、参議院はそれを追認するだけである。たった一つありがたいことは、「歳費」、「通信費」、「調査費」等いろいろな名称で沢山の収入が得られることであったが、仕事としてはつまらなかった。私は収入よりも実際の政治をしたかったのである。それで衆議院議員に出馬しないかという話に、私は大いに関心を持った。(中略)私は迷った末、決心して文鮮明先生に助言をお願いした。

文鮮明と面会するのは初めてであった。文から「民社党の衆議院議員になっても大臣になれないからやめた方がいい」との宣託を受けた松下は1974年7月の参院選には出馬せず、1期で退任した[7]

1974年9月28日、統一教会が中心になって世界平和教授アカデミーが設立され、初代会長に選出された[8][27]。松下は「ニセ学者への対抗」が団体創設の趣旨と説明している。ニセ学者とは松下によれば「左翼系の学者」のことであり、防衛問題を巡る議論の障害になると批判した[36]

1975年1月1日、「世界日報」が創刊[27]。同年、同紙の論説委員に就任[37][9]。1976年12月、任期満了による衆院選が行われるが、文の助言にしたがい立候補しなかった。

1976年12月17日、文を讃える第2回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催。名誉実行委員長は第1回(1974年5月7日)と同様、岸信介が務めた。松下は石原慎太郎船田中増田甲子七らと出席した[38]

1979年6月、世界日報社から、監訳を務めたフレデリック・ソンターク著『文鮮明と統一教会 その人と運動をさぐる』を刊行。同年7月、ソウルロッテホテルにおける国際学術会議で韓国語によるスピーチを行った[注 1]

同年、宗教新聞社の社主となる[10]

1983年5月24日、日韓トンネル研究会が設立。松下はホテルニューオータニで開かれた設立総会で呼びかけ人代表として挨拶を述べた[39][40]

1984年、文鮮明の人物像や理念を紹介した『文鮮明 人と思想』を上梓。

1985年、「国際ハイウェイ・日韓トンネルの構想は国際文化財団の創設者である文鮮明先生のものである。我々は先ずこの素晴らしい構想に対して感謝しよう」と書き記した[41]

1987年1月16日、統一教会本部において松下の昇華追悼式が挙行された。

親族[編集]

  • 母:亀徳しづ(1878-1966)。助産婦の先駆者の一人で、正寿と同じく八戸中学改め八戸高校の出身である三浦哲郎を取り上げた人である。三浦の小説「しづ女の生涯」はしづからの話で1967年に発表したもの。しづの実家である松下家は八戸にあり、しづの京都での助産行為の習得により故郷へ戻ることになった。父は宣教師。
  • 兄:亀徳正臣。亀徳の友人に、黒澤明を支えた脚本家小国英雄がいる。正臣は小国に武者小路実篤の作品などを紹介し、大きな影響を与えた。
  • 子:松下満雄東京大学名誉教授。
  • 義父:元田作之進[11]

主な役職[編集]

著書[編集]

単著[編集]

編著[編集]

  • フィリッピン文化 第4回日比学生会議 理想社出版部 1941
  • 芸術と政治:生への反逆 エク・ディエス選書 1 市民大学講座出版局 1977.12
  • 技術の思想 エク・ディエス選書 2 市民大学講座出版局 1978.3
  • 岡潔講演集 エク・ディエス選書 3 市民大学講座出版局 1978.10
  • 科学と自由文明 自由文明の課題part1 学陽書房 1982.5
  • 防衛と言論の責任 自由文明の課題part2 学陽書房 1982.5

監訳[編集]

  • Sontag Frederick, 松下正壽『文鮮明と統一教会 : その人と運動をさぐる』世界日報社、1979年。doi:10.11501/12280003NCID BN06415489全国書誌番号:80012888 

電子テキスト[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 4月から韓国延世大学校に短期留学し韓国語を習得している。

出典[編集]

  1. ^ a b 『官報』第17971号10-11頁 昭和62年1月14日号
  2. ^ 松下正寿 1967, pp. 164–166.
  3. ^ 松下正寿、桑原寿二ほか『独立日本の進路 現代への提言シリーズ(2)』松下国際政治研究所、1969年4月15日、49-67頁。 
  4. ^ a b 佐木秋夫「美濃部当選に傷ついた神さま仏さま」 『新評』1967年6月号、新評社、46-57頁。
  5. ^ a b 『アジア人民自由擁護大会会議録』アジア自由擁護連盟事務局、1962年12月、10-11頁。 
  6. ^ 松下正寿「核兵器禁止平和建設国民運動」 『大陸問題』1962年2月号、大陸問題研究所、38-43頁。
  7. ^ a b c d e 松下正寿 1984, pp. 5–6.
  8. ^ a b c 沿革”. 世界平和教授アカデミー. 2017年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月10日閲覧。
  9. ^ a b 元立教大学総長・松下正寿著『文鮮明 人と思想』”. 2023年10月10日閲覧。
  10. ^ a b 宗教新聞に期待します”. 宗教新聞. 2022年10月10日閲覧。
  11. ^ a b c d 『立教大学新聞』1955年9月5日、号外”. 立教大学図書館. 2022年10月10日閲覧。
  12. ^ a b c d 松下 正寿. コトバンクより2023年2月15日閲覧
  13. ^ 鈴木勇一郎「立教大学総長としての松下正寿」『立教学院史研究』第10巻、立教大学、2009年3月10日、2-25頁、doi:10.14992/00009145NAID 110009673645 
  14. ^ 松下正寿 1984, p. 106.
  15. ^ 鈴木 勇一郎、「立教大学原子力研究所の設立とウィリアム・G・ポラード」『立教学院史研究』2014年 11巻 p.2-26, doi:10.14992/00009278, ISSN 18841848
  16. ^ ヒロシマの記録1961 11月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2023年10月2日閲覧。
  17. ^ 年表”. 核兵器廃絶・平和建設国民会議. 2023年9月26日閲覧。
  18. ^ 宮村文雄「学者戦争の都知事選」 『経済往来』1967年4月号、経済往来社、155-167頁。
  19. ^ a b 村井良太「佐藤政権と革新自治体 :七〇年安保前後の東京と沖縄」『年報政治学』第68巻第2号、日本政治学会、2017年、2_122-2_148、doi:10.7218/nenpouseijigaku.68.2_1222022年12月10日閲覧 
  20. ^ 『朝日新聞』1967年3月13日付夕刊、10頁、「財界首脳 松下支援を要請」。
  21. ^ 『区のおしらせ』No.244”. 千代田区役所 (1967年3月20日). 2023年9月21日閲覧。
  22. ^ 『経済展望』1967年6月15日号、経済展望社、18頁。
  23. ^ 井出嘉憲「都市革新期の幕開け」 『朝日ジャーナル』1967年4月30日号、朝日新聞社、13-18頁。
  24. ^ 松下正寿 1984, pp. 172–175.
  25. ^ 『朝日新聞』1967年4月15日付朝刊、15頁、「松下正寿氏 軽いカゼに神慮思う」。
  26. ^ 早川行雄. “迷走する連合は出直し的再生をめざせ”. 現代の理論. 2023年11月4日閲覧。
  27. ^ a b c "真の父母様と統一運動の歴史 1970-1989". 光言社. 2022年10月12日閲覧
  28. ^ 第102回国会 衆議院 法務委員会 第8号 昭和60年3月27日”. 国会会議録検索システム. 2023年10月5日閲覧。
  29. ^ a b 太田欣三 編『東京は燃えた…』創世記、1975年7月10日、74-78頁。 
  30. ^ 『実業の世界』1975年5月号、実業之世界社、62-63頁。
  31. ^ 樋田毅 (2022年9月30日). “(5)訪韓を機に大きく活動転換 「勝共思想」を武器に都知事選で石原慎太郎を応援”. 日刊ゲンダイ. 2023年10月10日閲覧。
  32. ^ 赤旗社会部『仮面のKCIA 国際勝共連合=統一協会』新日本出版社、1980年5月15日、164頁。 
  33. ^ 『朝日新聞』1987年1月13日付朝刊、4頁、「国際勝共連合の足取り 『国家秘密法』制定に照準」。
  34. ^ 太田欣三 編『東京は燃えた…』創世記、1975年7月10日、8頁。 
  35. ^ 【異端・カルト110番】 統一協会の歴史にキリスト主義大学への浸透工作も 政界だけじゃない「反共」で癒着の実態”. 日刊キリスト新聞 (2022年8月22日). 2023年9月20日閲覧。
  36. ^ 福田信之『文鮮明師と金日成主席―開かれた南北統一の道』世界日報社、1992年6月、82-86頁。ISBN 978-4-88201-049-4 
  37. ^ a b “共産党アレルギー”連合・芳野会長と旧統一教会の怪しい関係…会見で突っ込まれタジタジ”. 日刊ゲンダイ (2022年9月6日). 2022年10月5日閲覧。
  38. ^ 『朝日新聞』1976年12月18日、「統一協会支持派が客を招き晩さん会」。
  39. ^ 『週刊新潮』1983年10月13日号、28-29頁。”. 日韓トンネル研究会. 2022年8月26日閲覧。
  40. ^ 『世界日報』1983年5月25日”. 日刊トンネル研究会. 2022年10月7日閲覧。
  41. ^ 松下正寿. “巻頭言”. 日韓トンネル研究会. 2022年8月26日閲覧。
  42. ^ 『しんぶん赤旗』2022年8月26日、「統一教会と研修センター関係 連合会長『調べない』」
  43. ^ 新編八戸市史通史編Ⅲ近現代(八戸市)

参考文献[編集]

  • 松下正寿『明日をひらく思考』東都書房、1967年9月20日。 
  • 松下正寿『文鮮明 人と思想』善本社、1984年5月31日。 

外部リンク[編集]

先代
鈴木泉
立教大学校友会会長
1957年 - 1959年
次代
松崎一雄