和泉覚

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いずみ さとる
和泉 覚
生誕 1912年5月18日
静岡県下田市
死没 2005年5月7日(満93没)
東京都
死因 老衰
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京外事専門学校(現東京外国語大学)
職業 宗教家政治家
団体 Sanshokuki2.svg 創価学会
政党 公明党
配偶者 和泉ミヨ(1984年没)
受賞 勲三等旭日中綬章

和泉 覚(いずみ さとる、1912年明治44年)5月18日 - 2005年平成17年)5月7日)は、創価学会理事長(第4代)、政治家。静岡県出身。

職業軍人として、1942年昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、理事長(第4代)、日蓮正宗法華講大講頭となる。参議院議員(1期)を歴任する。

経歴[編集]

  • 1912年明治44年)、宗吾、ちかの長男として、静岡県下田市に生まれる。代々、禅宗の檀家総代をしてきた家に生まれるが、祖父の代から家が没落。生後3年目に、母と死別。父は出奔、莫大な借金だけが残る。
  • 1940年昭和15年)7月27日、牧口常三郎に出会い、創価教育学会に入会。入会当時は、長男を生後4日目で亡くし、脳性小児麻痺の長女を抱え、懊悩する日々であった。[1]
  • 1942年(昭和17年)、東京外事専門学校(現・東京外国語大学)ロシア語専修科卒業(30歳)。1946年6月21日復員後、1946年11月、日本婦人新聞社に経理部長で入社後、専務を、その後、日刊工業新聞社総務局次長、大蔵商事代表取締役を歴任。

戦前の創価教育学会で[編集]

1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。1943年7月、創価教育学会会長牧口常三郎の秘書役となっていたミヨが牧口とともに下田の実家に帰り、親戚らとともに座談会を開こうとしたところ、東京から尾行してきた警視庁特別高等部の係官が牧口を不敬罪治安維持法違反の疑いで逮捕する。しかし、ミヨは難を逃れる。この時のみならずミヨが生涯にわたって付け続けた日記は、和泉がミヨの死後も大切に保存し、創価教育学会の歴史を紐解く上で貴重な資料となった。

戸田城聖とともに[編集]

牧口とともに逮捕され、終戦直前に出所した理事長戸田城聖が創価教育学会を再興して「創価学会」とすると、和泉も戸田の元に馳せ参じた。戸田が戦前から営んでいた出版社「日本正学館」、東京建設信用組合、大蔵商事と戸田に付いて働き、大蔵商事では代表取締役社長としてオーナーの戸田を支える一方で、ミヨとともに創価学会の最高幹部として活躍する。

1949年(昭和24年)1月3日、後に創価学会会長、名誉会長となる池田大作が日本正学館に入社し、和泉は池田の上司となった。創価学会では初代小岩支部長として東京都東部を中心に折伏を展開、折伏大行進初期の学会を引っ張った。1951年の戸田の会長就任にあたっては理事長の小泉隆に次ぐ「筆頭理事」に、1952年、江東総支部長(小岩、本郷、向島、城東を傘下)に就く。[2]1954年(昭和29年)の総会で一度退くものの、1958年(昭和33年)、戸田の死を受けて創価学会理事に再任された。

参議院議員を一期[編集]

1962年(昭和37年)7月1日に投票が行われた第6回参議院議員通常選挙に、東京選挙区から公明政治連盟公認で立候補し、当選する。

1964年(昭和39年)、公明政治連盟が公明党になると、その結党に参加。12月9日、初代公明党中央執行委員長原島宏治の急死に伴い、原島が兼務していた創価学会理事長(第4代)に就任。公明党中央執行委員長には辻武寿が就いた。

1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙では、公明党は11議席を獲得し委員長ポストを1つ得た。党の要職に就いていなかった和泉が参議院法務委員長に就任し、公明党初の国会委員長となった。

1967年(昭和42年)1月の第31回衆議院議員総選挙で公明党が25議席を獲得すると、党中央執行委員会委員長となった竹入義勝の下で副委員長を務める。しかし、翌1968年の第8回参議院議員通常選挙には立候補せず、創価学会理事長の職務に専念した。

宗教紛争解決に尽力[編集]

  • 妙信講学会本部襲撃事件

1970年頃から、大石寺正本堂の位置付けと国立戒壇に対する考え方の違いをめぐって悪化していた創価学会と妙信講の関係の中で、和泉は学会理事長として、多忙を極める池田会長に代わり学会側の最前線に立っていた。1974年(昭和49年)10月4日、妙信講青年部約70名が創価文化会館に突入し、創価学会牙城会のメンバーと衝突、機動隊も出動する騒ぎとなる。和泉は緊急声明を出し、その中で妙信講を「信仰人にあるまじき行為を働いた狂信的過激派」と非難する。その後、同月29日、和泉は理事長を辞任、後任には北条浩が就く。一方、昭衛は父で妙信講講頭の浅井甚兵衛や事件に関わった青年部員らとともに、11月4日付けで信徒除名処分となり、日蓮正宗と完全に袂を分かった[3]

  • 1977年(昭和52年)に勃発した宗門との教義をめぐる対立(同年1月の教学部大会における池田会長の本音発言に端を発する「52年路線問題」)では、和泉は指導部長として再び池田に代わって学会側の最前線に立ち、翌1978年(昭和53年)6月の創立48周年記念登山代表幹部会(「おわび登山」)の実現に大きな役割を果たした。

晩年[編集]

  • その後は北条会長時代に創価学会参議、北条の死後第5代会長となった秋谷栄之助の下では最高指導会議議長を務め、2005年平成17年)5月7日、東京都内の自宅で、老衰により死去。享年93。

人物[編集]

  • 公明党初の参議院法務委員長を務めた。以来、2017年(平成29年)現在まで、参議院法務委員長は公明党議員が就任している。
  • 趣味は剣道(段位は4段)、囲碁。
  • 池田大作の小説『人間革命』の登場人物・泉田弘(いずみだ・ひろし)のモデルであるとも言われている。[4]

役職歴[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 池田大作著『人間革命』第3巻 86~104頁
  2. ^ 池田大作著『人間革命』第5巻 246~247頁
  3. ^ 創価学会は1955年の「小樽問答」を境に法論を極力行わないという方針を決め、妙信講に対しても日蓮正宗管長細井日達の仲介で交渉の結果、1972年(昭和47年)の正本堂落慶直前に聖教新聞紙上に和泉名義の談話を掲載して一応の和解ができていたため、これ以上の討論は必要ないという態度を取っていた。しかし、妙信講は直前の8月12日、日達から講中解散処分を受けていて、これを当時日蓮正宗内で最大の講中だった創価学会の陰謀と決め付けた。このため、妙信講(後の冨士大石寺顕正会)は、池田を仏敵扱いし、日蓮正宗内から池田を追放するよう要求。青年部員は池田の口から謝罪がないなら殺害する覚悟まで持っていた。これに当時の妙信講理事長で現在冨士大石寺顕正会会長の浅井昭衛がゴーサインを出し、10月4日、街宣車に乗った妙信講青年部員ら70人が東京・信濃町の創価文化会館に乗り込むことになる。和泉は学会施設の警備を担当する会員組織である牙城会に対し、「責任者(和泉ないしは池田を指す)に御書講義をしたい」と来館理由を説明した妙信講側を拒否するよう指示した。しかし妙信講側は「それなら実力でも会ってやる」と池田に対するテロも示唆しつつ、街宣車を創価文化会館の表の扉に衝突させて破壊した。創価学会は警視庁に機動隊の出動を要請し、鎮圧に成功するが、妙信講側の1人が負傷、12人が逮捕された。後に、妙信講が乗り込んだのは学会顧問弁護士の山崎正友らを中心とした学会法医委員会の謀略にはまった形で、機動隊の出動についても事前に法医委員会との間で調整がついていたことが判明する。浅井昭衛は自派の機関誌「冨士」の中で「学会に公場対決(公開討論会)を求めてきたが応じないので青年部を抗議にやったところ、活動そのものを捏造された。(乱入事件で)見事に戦った我が方の青年部員だけが逮捕されるとは何事だ」と猛反論、両団体の関係は事実上修復不可能となった。
  4. ^ 『人間革命』第3巻 86-104頁
公職
先代:
原島宏治
Sanshokuki2.svg創価学会理事長
第4代:1964年 - 1974年
次代:
北条浩