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オズワルド・アルディレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オズワルド・アルディレス
(2006年)
名前
本名 オズワルド・セサル・アルディレス
Osvaldo César Ardiles
ラテン文字 Osvaldo Ardiles
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1952-08-02) 1952年8月2日(72歳)
出身地 コルドバ
身長 170cm
選手情報
ポジション MF (CMF)
ユース
アルゼンチンの旗 インスティトゥート・コルドバ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973 アルゼンチンの旗 インスティトゥート・コルドバ 14 (3)
1974 アルゼンチンの旗 ベルグラーノ 16 (2)
1975-1978 アルゼンチンの旗 ウラカン 113 (11)
1978-1988 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー 236 (16)
1982-1983 フランスの旗 パリ・サンジェルマン (loan) 14 (1)
1985 オーストラリアの旗 セントジョージFC (loan) 1 (0)
1988 イングランドの旗 ブラックバーン・ローヴァーズ 5 (0)
1989 イングランドの旗 クイーンズ・パーク・レンジャーズ 8 (0)
1989 アメリカ合衆国の旗 フォートローダーデール・ストライカーズ 5 (1)
1989-1991 イングランドの旗 スウィンドン・タウン 2 (0)
通算 414 (34)
代表歴
1975-1982 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 51 (8)
監督歴
1989-1991 イングランドの旗 スウィンドン・タウン
1991-1992 イングランドの旗 ニューカッスル・ユナイテッド
1992-1993 イングランドの旗 ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン
1993-1994 イングランドの旗 トッテナム・ホットスパー
1995 メキシコの旗 グアダラハラ
1996-1998 日本の旗 清水エスパルス
1999 クロアチアの旗 クロアチア・ザグレブ
2000-2001 日本の旗 横浜F・マリノス
2001 サウジアラビアの旗 アル・イテハド
2002-2003 アルゼンチンの旗 ラシン・クルブ
2003-2005 日本の旗 東京ヴェルディ
2006 イスラエルの旗 ベイタル・エルサレム
2007 アルゼンチンの旗 ウラカン
2008 パラグアイの旗 セロ・ポルテーニョ
2012 日本の旗 町田ゼルビア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

オズワルド・アルディレススペイン語: Osvaldo Cesar Ardiles, 1952年8月3日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。愛称は「オジー」。弁護士資格を持つ事でも知られる。

経歴

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選手時代

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アルゼンチン代表時代 (1981年)、左ダニエル・ベルトーニ、右マリオ・ケンペス

アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップで優勝したアルゼンチン代表の主力としてダニエル・パサレラマリオ・ケンペスらとともにチームを牽引、6試合に出場して、1次リーグのフランス戦、2次リーグのポーランド戦でアシストを決めるなど[1]、地元開催のワールドカップで同国の初優勝に貢献、大会最優秀MFに選出された[2]1982 FIFAワールドカップでも全5試合にフル出場、ハンガリー戦で1得点を挙げた[1]。また当時の代表は「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。

トッテナム時代 (1981年)

1978年のワールドカップ後に、リカルド・ビジャとともに、ふたり合わせて75万ポンドの大金でイングランドトッテナム・ホットスパーに移籍、トッテナムで約10シーズンプレーした 。1979年にジャパンカップ1979でトッテナムの一員として日本を訪れ、日本との対戦で1得点、決勝のダンディー・ユナイテッドとの対戦では決勝点を決めて優勝を果たした[3]。1980-81シーズンにはFAカップ獲得に貢献、1981-82シーズンのFAカップでも準決勝のレスターシティ戦で1ゴールを挙げるなど、決勝進出に貢献[4]。 同年、イングランドとアルゼンチンの間にフォークランド紛争が発生したため、混乱を避けるためにフランスパリ・サンジェルマンレンタル移籍した。トッテナムでは1984年にUEFAカップ優勝に貢献。その後クイーンズ・パーク・レンジャーズやアメリカで短期間プレーした後、現役を引退した。2008年トッテナムの殿堂入りを果たす[5]

監督時代

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1990年、イングランド2部のスウィンドン・タウンの監督に就任した。それまでのキック&ラッシュの攻撃スタイルを一新し、南米的なパスサッカーを試みた。[要出典]1部昇格を決めたものの、クラブの不正経理の疑いで昇格は取り消された。ニューカッスル・ユナイテッドの監督は1年も経たずに解雇されたが、ウェスト・ブロムウィッチでは1部昇格を果たした。そして1993年、混乱が続いていた古巣トッテナム・ホットスパーの監督に就任した。ドイツ代表のユルゲン・クリンスマンやルーマニア代表のゲオルゲ・ポペスクらを獲得したが、チーム状態は良くならなかった。成績は残せなかったが、ファンに愛された監督だった。

メキシコを経て、1996年には清水エスパルスの監督として来日。その年のナビスコカップでチーム初のタイトル獲得に貢献した。1998年は、ファーストステージでは、優勝争いに加わり2位に終わる。セカンドステージでは、5位に終わる。リーグ戦終了後、天皇杯を前に解任された。1999年は、クロアチアのNKディナモ・ザグレブの監督に就任したが、1999年の夏に成績不振を理由に解任される。

2000年には横浜F・マリノスの監督に就任し、その年の第1ステージで優勝。2ndステージでは、調子が上がらず5位に終わる。チャンピオンシップでは、鹿島アントラーズに敗北。翌2001年に成績不振に陥り、また外国人選手の補強を巡ってフロントと対立し解任された。

横浜F・マリノスを去ったあと、アル・イテハドの監督に就任したが、成績不振で解任された。

2002年には、ラシン・クルブの監督に就任。

2003年には東京ヴェルディ1969の監督に就任。2004年度天皇杯で、東京Vに8年ぶり(東京移転後は初めて)のタイトルをもたらした。しかし2005年シーズンに大量失点試合が響き、7月成績不振の責任を取って解任された。

2012年、J2・FC町田ゼルビアの監督に就任したが、2012シーズンのJ2で最下位となりJFLへの降格が決定。同年11月17日、監督を解任された[6]

エピソード

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  • トッテナム在籍中、イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が起こったが、この時トッテナムファンから「オジーが残ってくれるなら、フォークランドはアルゼンチンにくれてやらなくもない」といった意味の横断幕が出るほど、[要出典]トッテナムのサポーターから愛された存在だった。
  • 1981年に公開されたシルヴェスター・スタローン主演映画、『勝利への脱出』ペレボビー・ムーアマイク・サマビージョン・ウォークら当時のサッカー界のスター選手達と共に連合軍捕虜チームのプレーヤー役で出演、1ゴールを決めた。
  • 1999年のクロアチア・ザグレブの監督就任時には、当時、三浦知良が所属していたものの「カズのことは知っているが、戦力とは考えていない」とメディアを通して発言した。[要出典]結局、三浦は退団することとなった。
  • 2012年年の町田は、選手の入団が決まった後に、監督人事を行っていたこともあり[7]。東京ヴェルディ、清水エスパルスの時の教え子である戸田和幸に対して、2月のキャンプにて戦力外通告を言い渡し、ほぼ起用しなかった[7]
  • 趣味は読書、チェス、オペラ観賞である。[要出典]

所属クラブ

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個人成績

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年度 クラブ リーグ 背番号 リーグ戦 リーグカップ カップ戦
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1970 インスティトゥート プリメーラ
1971
1972
1973
1974 ベルグラーノ 16 2
1975 ウラカン
1976
1977
1978
1978-79 トッテナム FL1部 38 3
1979-80 40 3
1980-81 36 5
1981-82 26 2
1982-83 2 0
1982-83 パリSG ディヴィジョン・アン
1983-84 トッテナム FL1部 9 0
1984-85 11 2
1985-86 23 1
1986-87 25 0
1987-88 28 0
1987-88 ブラックバーン FL2部 5 0
1988-89 クイーンズ・パーク FL1部 8 0
1989-90 スウィンドン・タウン FL2部 2 0
1990-91 0 0
通算 プリメーラ
FL1部 248 16
FL2部 5 0
ディヴィジョン・アン

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 51試合 8得点(1975年-1982年)[8]


アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1975 8 4
1976 9 1
1977 11 0
1978 12 2
1979 1 0
1980 0 0
1981 2 0
1982 8 1
通算 51 8

指導歴

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タイトル

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選手時代

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トッテナム・ホットスパーFC
アルゼンチン代表
個人

指導者時代

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清水エスパルス
横浜F・マリノス
東京ヴェルディ1969
個人
  • Jリーグ年間最優秀監督賞:1回(1998)

脚注

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  1. ^ a b Ossie Ardiles Nationalteam”. 2023年9月12日閲覧。
  2. ^ Ardiles 2009, p. 6
  3. ^ キリンカップ1979”. KIRIN. 2024年9月22日閲覧。
  4. ^ ワールドカップ参加の為決勝には出場せず。
  5. ^ Hall of Fame”. Tottenhamhotspur.com. 29 June 2010閲覧。
  6. ^ “オズワルド・アルディレス監督 退任のお知らせ”. FC町田ゼルビアオフィシャルサイト. http://www.zelvia.co.jp/news/news-22586/ 2012年11月18日閲覧。 
  7. ^ a b 置かれた環境で悩むすべての人へ 干されてもがき、信念を貫いた元日本代表の言葉”. SOCCERKING. 2023年9月12日閲覧。
  8. ^ オズワルド・アルディレス - National-Football-Teams.com

関連項目

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外部リンク

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