松平忠喬

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松平忠喬
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 天和2年(1682年
死没 宝暦6年2月5日1756年3月5日
別名 勝千代、与七郎(幼名)
戒名 仁誉興徳道融霊台院
墓所 兵庫県尼崎市の深正院
官位 従五位下従四位下遠江守石見守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
信濃飯山藩主→遠江掛川藩主→摂津尼崎藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠継、母:本多康将
兄弟 忠敏忠喬永井直圓正室、菅沼定易正室
正室戸田忠真の娘
側室:岩崎氏、土屋氏
忠名忠義喜連川茂氏正室、雲鏡院、松平親純正室、秋江院、安部信平正室
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松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名信濃国飯山藩の第2代藩主、のち遠江国掛川藩主を経て、摂津国尼崎藩の初代藩主。尼崎藩桜井松平家4代。

略歴

天和2年(1682年)(異説として天和3年(1683年)1月9日)、飯山藩初代藩主・松平忠倶の長男・忠継の次男として誕生。父の忠継は病弱だったために廃嫡され、忠喬の兄・忠敏が祖父の世子に指名されていたが、その忠敏も早世したため、忠喬が祖父から世子として指名された。元禄9年(1696年)の祖父の死去により家督を継いだ。

宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川に移封される。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎に移封され、その初代藩主となった。幕命により朝鮮通信使の接待役、江戸城西の丸大手門番、日光東照宮の警護役などを務めている。寛延4年(1751年3月20日、家督を次男・忠名に譲って隠居する。宝暦6年(1756年)2月5日に死去した。享年75。

系譜

関連項目