松平昌安

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松平 昌安(まつだいら まさやす、? - 大永5年7月22日1525年8月10日))は、戦国時代武将。通称は弾正左衛門。彼のものとみられる文書の写し[1]には信貞とあり、そのように記す史書がある(『改正三河後風土記』『朝野旧聞裒藁』など)。

大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ[2]、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。

親貞の後を継いで同家の第3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[3]大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂(七郎右衛門忠茂)の調略によるものとする『三河物語』の記述がある[4]

岡崎の地を明け渡すとともに、娘「於波留」[5]を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。墓所は大林寺(岡崎市魚町1-6)。法名・泰叟昌安禅定門[6]

子は七郎「昌久」とされ(「干城録」巻2)、また娘は上記・清康の妻のほかに水野忠政の妻がいる(「寛政譜」新訂6巻33項)。

参照資料[編集]

  1. ^ 『新編岡崎市史6』691項「松平信定判物写」。岡崎・成就院の境界を定めた永正8年(1511年)の文書。
  2. ^ 『新編岡崎市史6』851および852項所収の「大林寺由緒」。
  3. ^ 「寛政譜」新訂1巻141項。「渥美郡大草」を額田郡と読み替えての類推(『新編岡崎市史2』563項)。
  4. ^ 昌安の降伏につき大永5年(1525年)8月説(「徳川幕府家譜」)、大永6年説(「家忠日記増補」など)もある。大永4年とするのは『朝野旧聞裒藁』に拠るもの(汲古書院刊本1巻384項)。彼の没年を大永5年7月とした上での推定である。
  5. ^ 前掲『朝野旧聞裒藁』1巻386項。「大林寺由緒書」にこの名があったという。ただし岡崎市史所載の「大林寺由緒」には於波留の名が記されていない。同1巻403項には天文17年(1548年)2月16日卒、法名・常光院殿芳月清春とする「龍海院過去帳」の記事が収められている。また「徳川実紀」巻1では「春姫」となっている。(参考:龍海院→愛知県岡崎市明大寺町西郷中34-1にある曹洞宗寺院。「龍海院過去帳」→国立公文書館所蔵。忌日16日の条に「清康公の室 道幹公母」と記されている。「大林寺由緒」も同旨。松平広忠(法名・道幹)を弾正左衛門信貞の実孫とする。)
  6. ^ 没年および法名は「大林寺由緒」および「柳営婦女伝系」(『徳川諸家系譜』1巻131項)に拠る。「三河国二葉松」碧海郡「大林寺」の項は大永4年7月23日卒と記し、『朝野旧聞裒藁』汲古書院刊1巻405項には、大永4年7月22日(「貞享書上」)、享禄4年(1531年)7月22日(「松源大譜系」)とする記事が紹介されている。また「岡崎領主古記」(国立公文書館他で所蔵)では大永5年7月23日卒となっており、同書ではこの説を採用している(参考:「松源大譜系」→国立公文書館所蔵)。