松平広忠

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松平広忠
時代 戦国時代
生誕 大永6年4月29日1526年6月9日
死没 天文18年3月6日1549年4月3日
改名 千松丸(幼名)→広忠
別名 竹千代、仙千代(幼名)
次郎三郎、三郎、岡崎三郎(通称
戒名 応政道幹大居士
墓所 愛知県岡崎市鴨田町大樹寺ほか
官位従二位大納言[1]
主君 今川義元
氏族 松平氏
父母 父:松平清康 母:青木氏の娘
兄弟 広忠信康俊継尼吉良義安室)
碓井姫(松平政忠室→酒井忠次室)
正室:於大の方水野忠政の娘)
継室:真喜姫戸田康光の娘)
忠政恵最家康
市場姫荒川義広の妻)
特記
事項
官位、墓所、妻子などには異説もあるので本文参照のこと
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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安城松平家8代当主。松平清康の子。母は青木氏青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。

出自など[編集]

生年[編集]

「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」(寛保3・1743年成立)は同年4月29日としている。「改正三河後風土記」(上巻151頁)「徳川実紀」(1巻22頁)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。また、「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。

このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。

生母[編集]

青木貞景の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。

兄弟[編集]

  • 松平信康(源次郎):天文9年(1540年)6月6日、安祥において討死(「御九族記」)、生年未詳。
  • 香樹院吉良義安室(「寛政譜」2巻217頁)。松平信忠の娘「瀬戸の大房」の養女となる(同前。また院号は「御九族記」による。
  • 碓井姫:松平政忠の妻(「寛政譜」1巻「長沢」211頁)。のち酒井忠次に再嫁(「同」2巻「酒井」47頁)。「碓井姫」の名は「御九族記」および「寛政譜」2巻「酒井」による。また「御九族記」によれば享禄2年(1529年)生まれ、慶長10年(1605年)10月17日卒、77歳、法名は光樹院窓月香心または大樹寺光誉窓月(ママ)とする。西尾市岩瀬文庫蔵「法蔵寺由緒書」では慶長17年10月17日卒、光樹院殿九心窓月大姉となっており「寛政譜」は「法蔵寺の記録に従う」としながら同年11月27日としている。
  • 成誉上人:大樹寺14世住持。天正3年(1575年)4月25日卒(「御九族記」)。

幼名[編集]

竹千代、千松丸、仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。

  • 「烈朝系譜」→竹千代または千松
  • 「松源大譜系」→千松丸
  • 「別本御系図」→仙千代

『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。

『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。

通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状)

経歴(一説に)[編集]

「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁)

天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は「虚に乗りて」岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領して譜代の衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。

ここから阿部大蔵定吉の働きに救われる。まず天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。1月11日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡。 長篠領民を頼んで暫く潜伏。吉良を見限り今川義元に執り成してもらうべく東へ奔り遠州「掛塚」に潜伏し、駿河へ渡って翌年秋まで保護される。

天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて同11年5月31日、松平信孝松平康孝の協力を得て岡崎城を占領した。

天文14年(1545年岩松八弥による傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破る。同年、織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。

天文17年(1548年)3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城をおとした。同月「三州冑山」にて信孝と対陣。「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。

天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。

  • 参考附記:「寛政譜」2巻217頁は吉良持広の養子として吉良義安と記す。

森山崩れと井田野合戦[編集]

「三河物語」は清康の死に関して「森山崩れ」と呼び、諸書はこの後に織田信秀による三河への進攻があったと記す。

  • 「松平記」:大樹寺付近に布陣した織田勢に対し、松平方は「松平十郎三郎」を大将として700余人で井田郷に陣をとった。味方は兵を二手に分けて合戦し、「随分の侍衆 悉討死」したが、信秀も「譜代衆骨をりて なかなか欺く事ならず」これと和睦し帰陣した。清康の死を天文4年12月5日とするが井田野合戦の年次は記されていない。
  • 「三河物語」:「森山崩れ」の「10日も過ぎざるに」として井田野合戦を記す。「三河にて伊田合戦と申しけるは是なり」と述べる。いずれも年次を欠く。味方800の雑兵にたいし信秀の兵8,000とし、双方が二手にわかれて戦ったと説く。「誰見たると云人はなけれ共 申伝えには」との文言がみえる。
  • 「家忠日記増補」:信秀が率いた兵は8,000余りと記し、これを二手にわけたとする。同じく年次なし。
  • 「岡崎領主古記」:天文4年12月27日「織田家より多勢にて三州に働き」と記す。
  • 「寛永所家系図伝」6巻77頁「高力」:天文4年10月清康死去の後、織田備後守三河に出張、伊田郷にて高力重長が討死したとする。
  • 「三州八代記古伝集」:清康の死を天文2年12月5日とし、ここから「100ヶ日も過ぎずに」織田方の進攻があったとする。

「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。

  • 参考附記:「松平記」の松平十郎三郎は清康、信孝の兄弟・松平康孝か(「寛政譜」1巻22頁)。「朝野旧聞裒藁」は「三河国古墳考」ほかを引いて天文11年3月18日卒としている(1巻616頁以下)。

伊勢への逃走と岡崎還住[編集]

広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。

  • 天文4年「極月5日」に清康が「御腹を召され」た。伊勢へ船をしたて「大蔵殿」に申しあわせて遠州への下向を決めた。「かけつか」で3月17日に「御若子」に会い、天文5年の夏のあいだ中「懸つか かぢか所」にいた。同8月5日から「今橋」「世喜」「形原」を経て、9月10日に「むろつか」についたが、閏10月7日にむろつかを「ぢやき」して「今橋」へ退いた。「大蔵殿」は再び駿河へ赴き、翌年6月1日に岡崎において本意をとげ、駿河へ迎えをおくって25日に「御若子」が入城した。

「三河物語」はこうである(45から56頁)。

  • 「伊田合戦」の後「内前」は広忠を「立出し」、そのため「阿部之大蔵」は13歳の広忠に供して伊勢へ逃れた。14歳まで滞在した後に駿河へ渡り、15歳の秋に義元の援軍を得て「茂呂の城」へ入った。「内前」は大久保新八郎に7枚の起請文を書かせ、茂呂を攻撃する。大久保は「有間」へ湯治に行くとの信孝の申し出を受け、この間に広忠を岡崎城へ入れた。その後「内膳殿も御詫事成されて」出仕した。

「松平記」は次のように記す(102から103頁)

  • 信秀と縁者であった「内膳」は「御隠居をだまし岡崎知行悉押領」し広忠を「内々にて」追出した。13歳の広忠は「伊勢国へ浪人」の身となり、阿部大蔵がこれに従った。越年後に元服し、吉良持広の「御肝煎」で今川義元へ助力の申し入れがなされた。広忠は駿河に赴き、義元の加勢を得て三河の「もろの城」に移る。譜代の家臣は内密に広忠の帰還をうながすが、これを聞いた信定は「大久保新八」を呼び「伊賀八幡」で7枚の起請文をかかせる。大久保らはこれを破って「松平蔵人」らに相談、「本城」(岡崎城)の留守居であった信孝を「有馬」へ湯治にやり、この間に広忠を城にいれた。広忠の三河帰国は天文6年6月1日で、岡崎入城は同25日、この時17歳。譜代衆「皆々来たり加勢申 中々手を出事ならず」6月8日「内膳」は和睦し、岡崎に出仕した。

「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。

  • 天文4年12月5日清康が「尾州守山」で死去、10歳の広忠は阿部大蔵らを従えて伊勢・神戸にいた。内膳正信定は「嫡家を奪う志ありて 長親君をたぶらかし」織田家へ内通した。広忠は大久保忠俊らの要請をうけ、翌年3月17日に伊勢神戸を出て遠州「懸塚」に上陸、「150日ばかり逗留」したのち「今橋」に居住、密かに「世喜」「形原」「室塚」などへ「通じて」信孝・「松平伝十郎」と連絡をとる。閏10月10日阿部は駿河で義元に会い、同年冬に広忠は「参州牟呂」に入る。信定は攻撃を加え、また大久保忠俊に7枚の起請文を書かせる。大久保ら譜代の衆と信孝は談合し、信孝は湯治と称して「有馬」へ行き、12歳の広忠は天文6年5月1日岡崎に帰還した。

「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、同年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。

「朝野旧聞裒藁」は天文6年(1537年)6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、八国甚六郎、大窪新八郎(ママ)、成瀬又太郎大原左近右衛門林藤助に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。

異説として「御年譜附尾」(正保3・1646年成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年(1538年)と記す。また義元への岡崎還住の要請を同8年暮とし、駿府行きを同9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年(1541年)と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。

なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が北畠氏の一門である星合氏の出とする『寛政重修諸家譜』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している[2]

  • 参考附記:「内前」「内膳」→松平信定(「寛政譜」1巻「桜井」31頁)、「松平蔵人」→松平信孝(同「三木」22頁)、「大蔵」「阿部之大蔵」→阿部定吉(10巻「阿部」348頁。今の呈譜「定吉」につくる、とする)、「大久保新八」→大久保忠俊(11巻「大久保」341頁)、「牟呂城」→諸書により表記が一定しないが『新編 岡崎市史2』は西尾市室町に比定している(685頁)。

織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い[編集]

広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。

安祥城をめぐる攻防[編集]

「岡崎領主古記」は次のように記す。

  • 天文9年(1540年)「尾州勢 安祥城へ取掛」け、6月6日に合戦となった。「安祥方討負城陥」して城代「松平左馬允長家」が切腹した。他に松平甚六、同・源次郎、林藤内内藤善左衛門近藤与市足立弥市高木入道が討死、「是より安祥 織田家に渡る」こととなった。翌10年8月10日、駿河勢が安祥に寄せ来て「安祥畷」において戦いとなった。

同書はこの後、天文12年(「本多吉左エ門討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。

「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。年次は天文9年6月6日)松平利長らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。また同1巻127頁は松平忠次が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。

同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。

  • 参考附記:「松平左馬允長家」→松平長家。「岡崎領主古記」が「親忠主御息」と記すほか「寛政譜」1巻21頁は松平親忠の子・安城左馬助「長家」とし、天文9年6月6日安城において死去と記す。

小豆坂の戦い[編集]

「信長公記」は「8月上旬」のこととして小豆坂での戦闘をつぎのように記す(下記刊行本22頁)。年次の記載はない

  • 駿河勢は三河「正田原」に七段に陣を構え「駿河の由原先懸けにて あずき坂へ人数をだし」安祥から矢作へ出た織田勢と戦いになった。織田備後守、舎弟「与二郎」「孫三郎」「四郎次郎」また「織田造酒丞」が奮戦し、槍傷を負った。「三度四度かかり合い 各手柄と云う事」限りなく、今川勢は兵を「打ち納れ」た。

これを小瀬甫庵「信長記」は天文11年1542年)のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。

  • 天文壬寅8月10日、今川義元は4万余騎を率いて「正田原」に出陣し、兵を二手に分けて小豆坂に押し寄せた。対する織田勢の兵力は4,000余騎で安城へ出向、織田「孫三郎」を大将として敵陣へ向かった。織田勢は坂の途中で防戦し、河尻与四郎が今川勢の足軽大将「由原」の首を取った。日暮れになって織田勢は坂の下へと追い詰められたが、織田造酒丞、下方左近岡田助右衛門佐々隼人正、同・孫助中野又兵衛らの活躍で今川勢を追い返し、勝どきをあげた。

同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「小豆坂の七本槍」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「那古野弥五郎」の首を討ち取ったとしている。

  • 参考附記:織田備後守→織田信秀、「孫三郎」→織田信光(「寛政譜」8巻「織田」167頁)

他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す(68から69頁)。年次はない。

  • 今川勢の進出を聞いた信秀は、安祥を経て上和田に着き「馬頭の原」へ陣をとるため進発した。今川勢は藤川から上和田をめざして進軍し、小豆坂を上ったところで両者が遭遇し、戦いとなった。織田勢は上和田から安祥へ退陣し、今川勢も藤川へ戻ったが、「対々とは申せ共 弾正之中之方は二度追帰され申 人も多打れたれば 駿河衆之勝」であったという。また「三河にて小豆坂之合戦と申つたえしは此の事」である。

「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。

  • 天文17年1548年3月19日、織田勢は岡崎をとらんとして安祥を進発、これをきいた駿河勢は臨済寺太原崇孚雪斎」を大将として上和田に陣をとり、小豆坂をのぼった。織田勢は「織田三郎五郎大将分にて」坂の途中でせりあいとなった。「朝比奈藤三郎」が岡崎衆に下知して「三郎五郎」を追い崩し、また織田勢も盛り返したため「林藤五郎」「小林源之助」ら「よき者あまた討死」した。「岡部五郎兵衛横槍を入」てもりかえし、「やり三位」を「小倉千之助」が組み討ち、織田勢は「悉く敗軍」した。

諸書の記述は次のとおり

  • 「岡崎領主古記」:天文17年3月19日、小豆坂において合戦があり「軍勢多数討死」、今川勢は「千種野」に、織田勢は安祥に退いた。
  • 「寛永諸家系図伝」:1巻「松平・泰親庶流」149頁。天文11年8月11日、小豆坂合戦において伝十郎「某」が戦死したとする。
  • 「同」:9巻「大久保」45頁。天文11年、臨済寺の長老雪斎が「今川義元にかわりて」安祥をせめたとし、大久保忠勝が「清縄手の合戦」において槍を合したと記す。
  • 「同」:3巻「高木」131頁。天文17年小豆坂において高木清秀が首級を挙げ、それを知った織田信秀が自らの旗下においたという。
  • 「同」:14巻「山口」254頁。おなじく天文17年山口盛政山口重政の実父)が首級を挙げ、これを織田信秀に献上したとする。
  • 「家忠日記増補」:天文17年3月19日「広忠君軍を岡崎の城より発し駿州の兵と合す」として戦いへの関与を示し、岡崎の兵が今川勢と「是と同く競い進て奮戦」、酒井正親が「鳴海大学助」を討ち取ったとする。内容は前半が「松平記」と同じであるが、後半に至って「織田造酒丞」、下方、佐々、中野らが織田信広と共に奮戦し「駿州の兵利を失て敗亡す」とする。また「七人をして三州小豆坂の七本槍と称す」とした上で、後に「岡崎勢五郎兵衛尉横槍を入れ」織田勢を追い崩したこと、「小倉千之助」が「鑓三位」を討ったことも併記している。
  • 「織田軍記」(総見記):天文17年3月、織田信秀は4,000の兵を率い安祥に入城、「正田原」に陣を構えた今川勢と3月12日に小豆坂で戦いとなった。織田勢は大将「孫三郎」信光を「織田造酒丞」が補佐し、河尻が今川勢の先陣「庵原安房守」を討ち取った。夕暮れになって「無勢故戦い疲れ」劣勢となったが、下方、岡田、佐々、中野らが取って返し、敵陣を切り崩した。今川勢は「庵原」をはじめ「三州」の「林」「小林」らが討ち取られ敗軍し「岡部五郎兵衛」が「横槍を入れ」後殿となって駿河へ退却したとする(下記刊行本11頁)。
  • 「三河記大全」:天文16年8月、織田勢の大将を孫三郎信光、今川勢を「林際寺雪斎長老」として小豆坂の戦いを記す。「家忠日記増補」とおなじく、織田造酒丞らが引き返したところを岡部が横槍を入れて突き返したとする。また「松平記」において「岡崎衆」とされた林・小林が岡部の横槍によって討ち取られたとするなど、内容に混乱がみられる。
  • 「武徳大成記」:天文11年(1巻89から90頁)、同17年(104頁)と2回にたって小豆坂の戦いを記す。

『新編 岡崎市史2』は17年3月11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、小和田哲男「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁)。後述の天文16年の岡崎城落城説を採る村岡幹生は「三河物語」がこの戦いにおける岡崎の松平軍についてほとんど触れていないことを指摘し、更に織田軍の撤退時に追撃を行っていない(今川氏から見たら背信行為である)ことから、天文17年当時の岡崎城は織田方で広忠は織田軍に加わっていた可能性があり、今川方に参加した松平家臣は謂わば「牢人」状態にあった可能性を指摘している[3]

  • 参考附記
    • 伝十郎「某」→「寛政譜」1巻206頁では「今の呈譜に勝吉あるいは信勝に作る」とされている。また「寛永諸家系図伝」には記述がないが「寛政譜」では父「信吉」も戦死したとしている。
    • 「織田三郎五郎」→織田信広(「寛政譜」8巻「織田」168頁)
    • 「岡部五郎兵衛」→岡部長教(「寛政譜」14巻「岡部」132頁)岡部正綱の兄弟とされている。同6巻「水野」64頁、「改正三河後風土記」上巻226頁も同じく「長教」と記す。「朝野旧聞裒藁」1巻697頁および2巻327頁綱文に五郎兵衛「真幸」とあるが、これは「武徳編年集成」上巻56頁の表記によったものと思われる。『新編岡崎市史6』は「三川古文書」所収文書20・天文21年8月25日付・岡部五郎兵衛宛て「今川義元感状写」の五郎兵衛の名に「元信」と注記して採録(1035頁)し『新編東浦町誌 資料編3』は国立公文書館蔵「古今消息集」所収文書2-88・永禄3年6月8日付の岡部五郎兵衛宛て「今川氏真判物」(245頁)の五郎兵衛を「岡部元信」のこととして解説(345頁)している。
    • 「朝比奈藤三郎」→「武徳大成記」1巻104頁は「朝比奈藤三郎泰能」と記している。

岡崎城をめぐる攻防[編集]

近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号[4])の発見[5]をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落[6]して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた[7]。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫[8]や糟谷幸裕[9]の意見が対立している[10]。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている[5][11]。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる[11]。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている[12]。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている[11]

いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた[13]」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。

婚姻と離別[編集]

「武徳大成記」は於大(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。

「岡崎領主古記」は於大との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。

なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている[注釈 1][15]

於大との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。

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愛知県岡崎市鴨田町の大樹寺内にある松平八代墓の松平広忠の墓
(2019年(令和元年)11月)
松平広忠と一族の墓(法蔵寺)
松平広忠公御廟所(松應寺

忌日と死因[編集]

広忠は天文18(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。

死因に関しても諸説がある

  • 病死とするもの→「三河物語」(69頁)「松平記」(107頁)など
  • 岩松八弥(片目八弥)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」
  • 一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを「尾州織田弾正忠の武略」としている。『岡崎市史別巻』上巻206頁に採録されている。

「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」「創業記考異」「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」「朝野旧聞裒藁」も同じ。『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下)

  • 「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳
  • 「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳
  • 「家忠日記増補」6日卒去、24歳
  • 「三岡記」:「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。

「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。

『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している[16]

これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している[17]

葬地と法名、贈官位[編集]

葬地は愛知県岡崎市大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。

現在大樹寺に加え、大林寺松應寺法蔵寺広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。

また死後、慶長16年3月22日従二位大納言官位を贈られている[18]。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。

松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)

天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、

(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、

妻子に関する伝承[編集]

妻に関して[編集]

「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。

子女とその生母[編集]

生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。

  • 参考附記
    • 「内藤家譜」→国立公文書館所蔵。請求番号157-0205。記事の下限は享保4年(1719年)であるが、これを内藤弌信村上藩移封とする誤りがある。また信成出生に関する記述は「別本 内藤家譜」の名で『大日本史料』12編ノ9に引用されている(1011から1015頁)。
    • 「松平系諸集参考」→『国書総目録』などに所見がなく焼失もしくは散逸したと思われる。
    • 「徳世系譜」→「徳世系譜実録」として国立公文書館に所蔵がある。請求番号149-0060
    • 内藤清長→「寛政譜」13巻「内藤」183頁「某・弥次衛門」。内藤信成→同185頁および197頁では、内藤弥次衛門の養子で、実は嶋田久右衛門景信の子、母は内藤右京進某の娘とする。同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている(35頁)。

その他[編集]

連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。

天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにも関わらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという[29]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ なお、関連する論考として、信孝追放の原因を信孝が今川氏の三河進出に対応するために長沢松平家の所領を今川方である牧野氏に譲って関係を結ぼうとし、水野信元もそれに加担していたとする小林輝久彦の説[14]がある。また、戸田氏は渥美半島の国衆であるが、三河湾を挟んだ対岸の知多半島の河和や師崎にも分家の拠点があり、水野信元は知多半島の戸田氏勢力との関係から牧野氏と結んだ可能性もある。

出典[編集]

  1. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
  2. ^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P128-131.
  3. ^ 村岡(大石)、2019年、P374-376.
  4. ^ 村岡幹生によれば、この文書は越後長久山本成寺の第九世の日覚が隠居後に越中井田菩提心院から本成寺送ったもので、日覚自身が尾張国出身で今川氏家臣の鵜殿氏の帰依を受けていたことから尾張・三河に一定の人脈を持つ人物と評価されている(村岡(大石)、2019年、P354-359.)。
  5. ^ a b 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P40-42.
  6. ^ 村岡は他にも織田信秀が北条氏康に今川氏の挟撃を誘った際の返答とみられる「天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状」(『神奈川県史資料編3古代・中世(3下)』6852号/愛知県史『中世3』1658号)においても、氏康が織田信秀が岡崎に、今川義元が今橋に進出したと認識していることが記されていると指摘する(村岡(大石)、2019年、P361-369.)。
  7. ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)
  8. ^ 平野明夫「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」(平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)
  9. ^ 大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年-永禄3年節
  10. ^ 糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-308-4 P145.
  11. ^ a b c 柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-322-0 P276-277.
  12. ^ 村岡(大石)、2019年、P372-377.
  13. ^ 村岡(大石)、2019年、P360.
  14. ^ 小林輝久彦「三河松平氏と駿河今川氏」大石泰史 編『今川氏年表』(高志書院、2017年)
  15. ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
  16. ^ 大河ドラマ「江」の歴史捜査45:家康の父・広忠の死因
  17. ^ 村岡(大石)、2019年、P377-379.
  18. ^ 村川前掲論文。なお、「徳川幕府家譜」19頁は「家康公 御執秦」に依るとする。
  19. ^ 「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。
  20. ^ 「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)は久松俊勝との間の子としている。
  21. ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。酒井家(雅楽頭家)家臣松平孫三郎「久典」所蔵の家譜、三河・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。
  22. ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて右京大夫「忠政」と称したという。松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は右京進」とされている。「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が於大を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、慶長4年(1599年)に没したという。また長子の孫三郎「康久」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子右京進長清」は彦太夫「忠明」(224頁)および分家・二郎右衛門「忠暁」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。
  23. ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。「忠政」の弟穎新(えいしん)または恵新(けいしん)。広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。また長沢松平分家「信強」(220頁)の祖・孫三郎信重」(219および210頁)の子・右京「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている右京進「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。
    • 参考附記
      • 「松平忠政遺状」→「朝野旧聞裒藁」9巻274から276に全文と思われる記事が採録されている。
      • 「法蔵寺由緒書」→西尾市岩瀬文庫に写本の所蔵があり(請求番号:98-76)、この影印複製本が岡崎市図書館にある。
      • 「広忠寺由緒書」→『岡崎市史研究』11号(岡崎市史編さん委員会刊、1989年)所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」には岡崎市史編さん事務局再訪史料によるとして「桑谷松平氏」「広忠寺之記」「古書写」「御由緒」の四点をあげている。岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。
  24. ^ 松平上野介康忠の室を平原助之丞正次の娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。「御九族記」同じ)。
  25. ^ 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。
  26. ^ 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝洄」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「弘綱」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。しかしその生母についての記述はない。「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。
  27. ^ 「徳川幕府家譜」35頁。広忠の死の前年、天文17年(1548年)の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。また多病のため生涯隠棲し、慶長8年(1603年)に亡くなったとされている。
  28. ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻657頁および658頁以下。「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(於大)に憚り、「島田久右衛門」平景信に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。一説に(「秘録」曰く、として)この女性は「小野次郎右衛門」の娘で、広忠の侍女であったといい(「松平系諸集参考」)、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、内藤清長が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。
  29. ^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P135.

参考文献[編集]

  • 『三河文献集成 中世編』所収「松平記」および松平記附載「阿部家夢物語」国書刊行会、1980年
  • 国立公文書館所蔵「松平記」請求番号:特042-0012および148-0012
  • 『徳川諸家系譜』1巻 所収「徳川幕府家譜」「柳営婦女伝系」 続群書類従完成会、1982年
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年
  • 東京大学史料編纂所所蔵「三河東泉記」請求番号:2041.55-11
  • 『新編岡崎市史6』新編岡崎市史編さん委員会、1983年
  • 新城図書館所蔵「御九族記」請求番号:こ119

  • 刈谷市中央図書館所蔵「家忠日記増補追加」請求番号:W3816
  • 愛知県図書館所蔵「岡崎領主古記」請求番号:請求番号:BWマ/A210/オ2
  • 『物語日本史大系第7巻』所収「織田軍記」早稲田大学出版部、1928年 ※内題は「総見記」。遠山信春著、貞享3・成立
  • 『改正三河後風土記』上巻 秋田書店、1976年
  • 西尾市岩瀬文庫所蔵「御年譜附尾」請求番号:109-23
  • 刈谷市中央図書館所蔵「三家考」請求番号:W4080 ※巻末の附記に「享保乙巳(注・1725年)門人 平元成識」とある
  • 国立公文書館所蔵「三州八代記古伝集」請求番号:148-0085
  • 東京大学総合図書館所蔵「参州本間氏覚書」請求番号:G27 625
  • 新城図書館所蔵「参松伝」請求番号:4/甲ロ/14 ※国立国会図書館所蔵本→内題「改正増補参松伝」国立公文書館所蔵本→内題「改撰増補参松伝」
  • 小瀬甫庵『信長記』上巻 現代思潮社、1981年
  • 桑原忠親校注『新訂 信長公記』新人物往来社、1997年
  • 名古屋市鶴舞中央図書館所蔵「創業記考異」請求番号:河サ-2
  • 国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年
  • 国立公文書館所蔵「内藤家譜」請求番号:157-0205
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊92『武徳大成記』1巻 汲古書院、1989年
  • 『武徳編年集成』上巻 名著出版、1976年
  • 国立公文書館所蔵「三河記大全」請求番号:169-0025 ※データベース登録名は内題「参河記大全」
  • 日本思想大系26 三河物語』 岩波書店、1974年
  • 国立国会図書館所蔵『鶴鳴館蔵版 烈祖成績』※徳川昭武による明治11年の板行本。請求番号:YDM7073→国立国会図書館 近代デジタルライブラリーから閲覧・印刷可

  • 『寛永諸家系図伝』1巻「松平」「久松」3巻「高木」6巻「高力」9巻「大久保」14巻「山口」続群書類従完成会、1985年 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』1巻「藤井」「桜井」「長沢」2巻「酒井」「吉良」6巻「水野」8巻「織田」10巻「阿部」11巻「大久保」13巻「内藤」14巻「戸田」17巻「久松」続群書類従完成会、1984年
  • 校訂復刻 名古屋叢書続編 第18巻『士林泝洄 2』巻37「吉良」愛知県郷土史料刊行会、1983年 ※名古屋市教育委員会、昭和42・1967年刊行本の復刻。図書館の所蔵データベース検索は「士林泝洄」もしくは「名古屋叢書続編」で行うこと。

  • 『岡崎市史 第1巻』名著出版、1972年 ※岡崎市役所、大正15・1926年刊行本の復刻
  • 『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』上巻 名著出版、1972年 ※岡崎市役所、昭和9・1934年刊行本の復刻
  • 『新編 岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年
  • 『新編東浦町誌 資料編3』愛知県知多郡東浦町、2003年
  • 小和田哲男『駿河 今川一族』新人物往来社、1983年
  • 『岡崎市史研究』11号所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」岡崎市史編さん委員会、1989年
  • 平野明夫著『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021
  • 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P353-383.

関連項目および外部リンク[編集]

  • 広忠寺 愛知県岡崎市桑谷町。広忠菩提寺であると共に「於久」と家康異母兄弟の所伝を残している。
徳川家康の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 松平長親
 
 
 
 
 
 
 
8. 松平信忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 松平近宗娘
 
 
 
 
 
 
 
4. 松平清康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 大河内満成
 
 
 
 
 
 
 
9. 大河内満成娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 松平広忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 青木教方
 
 
 
 
 
 
 
10. 青木貞景
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 青木貞景娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 江戸幕府初代将軍
徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 水野賢正
 
 
 
 
 
 
 
12. 水野清忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 水野忠政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 於大
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 華陽院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明正天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 誠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 万里小路房子
 
 
 
 
 
 
 
4. 後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 勧修寺晴秀
 
 
 
 
 
 
 
9. 勧修寺晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 粟屋元子
 
 
 
 
 
 
 
2. 後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 近衛稙家
 
 
 
 
 
 
 
10. 近衛前久
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 久我慶子
 
 
 
 
 
 
 
5. 近衛前子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. 宝樹院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 109代天皇
明正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 松平広忠
 
 
 
 
 
 
 
12. 徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 於大の方
 
 
 
 
 
 
 
6. 徳川秀忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 戸塚忠春
 
 
 
 
 
 
 
13. 西郷局
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. 西郷正勝
 
 
 
 
 
 
 
3. 徳川和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 浅井久政
 
 
 
 
 
 
 
14. 浅井長政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 小野殿
 
 
 
 
 
 
 
7. 小督
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 織田信秀
 
 
 
 
 
 
 
15. 於市の方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. 土田御前