森山崩れ

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森山崩れ(もりやまくずれ)とは、天文4年(1535年12月5日早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現在の愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊暗殺された事件をいう。「守山崩れ」と書かれることもある。『信長公記』では守山、『三河物語』では森山と記載されている。

背景[編集]

松平氏は伊勢氏の被官として勢力を伸ばしていた。 政所執事伊勢貞宗管領細川政元と協調して明応の政変を起こし11代将軍に足利義澄を擁立する。 足利義材が大内氏のもとに逃れ、細川政元と三河守護でもある細川成之が提携し、尾張と遠江の守護である斯波義達もこれに同調すると、斯波氏と長く敵対関係にあり、遠江の守護を狙う今川氏親は前将軍足利義材に接近する。このような背景から松平氏は吉良氏をはじめとした近隣の足利義材派と対立していた。

永正の錯乱により細川氏の援軍が期待できない中で松平氏が永正三河の乱今川氏親に敗れる。その後、松平信忠は父で先代当主の松平長忠と松平一門により隠居[1]させられることになる。

時を同じくして幕府では、永正の錯乱により細川家内部の抗争を上洛の好機と見た大内義興は足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)を伴って上洛する。これに細川澄元と対立する細川高国が呼応し、細川澄元は高国・義興らに圧迫され、足利義澄と共に逃走することになる。 大内氏の帰国後、細川澄元の抵抗が激しくなると足利義植(永正5年より義尹より改名)は、細川高国を見限って細川澄元に近づくも敗れ、高国は義澄の子・足利義晴を擁立し、その反対派は澄元の子・細川晴元を中心とした足利義維に近づくことになる。

この期間今川氏は足利義植、足利義維派として活動し、松平氏はそれに対抗する足利義澄、足利義晴派として活動することになる。

信忠から家督を継承したその子・松平清康は遠江、駿河の領国化に成功した今川氏に対抗するために三河一国を支配するために足利義植派の水野忠政に娘を嫁がせていた岡崎松平氏松平昌安を攻撃するなど積極的な拡大政策を行う。

斯波義達を隠居に追い込んだ織田達勝が足利義維派になると清康は、今川織田両家に敵を回すことになるが、今川氏が幼い当主である隙に尾張へ出兵を考えるようになる。この出兵は織田達勝と親しく織田信定の娘を正室に迎え、かつ宗家に従順ではない松平信定との関係が悪化する。 天文4年(1535年)に甲斐の武田信虎に今川氏を、織田信秀には美濃三人衆、内応してきた織田信光と連携して清康は守山に出兵する。[2]この出兵に対し老臣は諫めた。[3] 。 そして守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを阿部正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺したとされる。 正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退する。

動機[編集]

暗殺された松平清康

清康の家臣である阿部定吉が、親織田氏勢力に加わるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。[要出典]このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。

風説を流布したのは、後に織田信秀の妹を自分の長男・清定の妻に迎えさせてその縁戚となった松平信定(清康の叔父、桜井松平家)であったとされるが、このときは、出陣していなかった。[4][5] 朝野旧聞裒藁によると清康がまだ安城にいた頃、松平信定が清康の家臣・落合嘉兵衛を咎めたところ、落合の答弁が見事で清康は500貫文加増したという。[6]

天文6年(1537年)6月に、戦国大名・今川氏や、吉良氏の介入があったためか、信定は、岡崎城を退去して、桜井城に戻った。 後年、広忠に許しを乞うた(桜井松平家の直系子孫は、諸侯に一戸が列して、摂津尼崎藩主などとなる)。

事件後[編集]

守山崩れから間もなく織田信秀が攻め込む(時期には諸説ある。詳細は松平広忠)。この合戦後、松平信定の岡崎城入城と広忠の追放が行われている。 追放の翌年に今川氏では花倉の乱が起き、栴岳承芳はを還俗し、足利義晴から偏諱を賜って今川義元と名乗る。義元は武田と和睦するなど義晴派になるなど今川氏の外交方針(甲駿同盟の締結、駿相同盟の破棄)が変わる。

ここに以前から義晴派で東条吉良氏の吉良持広が同じ義晴派の松平広忠の支援に動き、広忠は今川、東条吉良両家の支援を受けながら岡崎城に復帰することになる。

翌年、足利義晴派の那古野城主今川氏豊が織田信秀に攻められると織田氏の脅威が増すことになる。 松平氏では広忠の岡崎入城に功があり、広忠にとって唯一の血縁の叔父松平信孝と宗家家臣団との権力争いが起き、松平信孝は織田を頼ることになる。 一度は信定に従った酒井左衛門尉、大原左近右衛門、今村伝次郎は広忠に石川清兼酒井正親の切腹を迫るも受け入れなかった。そこに松平忠倫、信定の子松平清定が織田に通じて敵対し酒井左衛門尉、大原左近右衛門、今村伝次郎も続いた。[7]渥美郡戸田氏宝飯郡牧野氏も織田氏の支援を受けながら再び自立傾向を見せ始める。 この状況に独力では対抗できず、竹千代を人質として今川氏に差し出すことで加勢を得ることになった。

松平氏が三河を再統一するのは永禄9年(1566年)に清康の孫・家康のときであり、清康の死後から30年後のことであった。

事件の謎[編集]

本事件にはいくつかの不審な点がある。

実行犯の父である阿部定吉の事後処遇であるが、何ら咎められる事もないばかりか、その後は暗殺された松平清康の息子である広忠の家臣として三河衆の統率を任されている。当時の慣行にしたがえば連座によって処刑。そうでなくとも何らかの咎めを受けるはずである。 ただし、一説では定吉は息子の凶行に対する責で自害を試みたが、それを広忠が止めたために定吉は広忠に従臣したと説明されている。 (阿部氏の直系子孫は、諸侯に二家が列して、備後福山藩主・陸奥棚倉藩主などとなる) 正豊をその場で成敗した植村氏明であるが、後年、広忠が同じように暗殺された時にも、実行犯である岩松八弥をその場で成敗している。 二代の主君が暗殺され、それを同一人物が成敗した事を単なる偶然ではないとする説もある。 (ただし、そもそも広忠の死因には諸説あり、また「岩松八弥が広忠を襲った」とする説もその顛末には諸説ある。)

脚注[編集]

  1. ^ 新行紀一は「松平由緒書にある親類、一門の遺跡を立てなかったに着目し、永正三河の乱で討ち死した岩津松平家家などの旧領を安城松平家が直領にしたと想定。それが中世武士の慣習に反する行為であり、一門・家臣の離反につながった」としている。」。平野、P233
  2. ^ 三河物語では1万余、松平記では雑兵1000余騎。
  3. ^ 朝野旧聞裒藁によると織田信光、大給松平親乗、長沢松平上野介、小河の水野信元は松平信定の婿であり長陣は危険とするのが理由としている
  4. ^ 平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする。 平野、P281 - P283
  5. ^ 平野明夫は松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする。 平野、P300
  6. ^ この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している。 平野、P294 - P295
  7. ^ 平野、P326

参考文献[編集]

  • 平野明夫著『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021

関連項目[編集]

以下同時代の一族同士の内紛