松平信義 (小島藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平信義
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年(1742年
死没 享和元年9月17日1801年10月24日
戒名 源隆院
墓所 東京都台東区下谷の英信寺
官位 従五位下丹波守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
駿河小島藩
氏族 堀氏(直寄流)滝脇松平家
父母 父:堀直堯、母:山田氏
養父:松平昌信
兄弟 堀直泰信義浅野長致堀直行本多成孝堀直教堀直堅正室
正室:松平昌信の娘
信圭大久保信遠坪内定辟高木守影
テンプレートを表示

松平 信義(まつだいら のぶのり)は、江戸時代中期の大名駿河国小島藩の第5代藩主滝脇松平家12代。官位従五位下丹波守

生涯[編集]

越後国村松藩主・堀直尭の次男として誕生。母は山田氏。先代藩主・松平昌信の娘と結婚して婿養子となる。明和8年(1771年)6月27日に昌信が没したため、同年8月29日に跡を継いだ。

治世中に用人年寄本役として仕えていた倉橋格(寿平)は、恋川春町の名で黄表紙を執筆していたが、その作品の一つに寛政の改革を批判するものがあったため、寛政元年(1789年)に倉橋が松平定信に呼び出され、出頭しないまま辞職するという事件が起こる。

寛政8年(1796年)普請奉行が小島藩の宮ケ崎役所の大畑雄作と共に巴川の検分の際、麻畑沼の新田開発賛成派が開発の是非を願い出た。検分の結果、不許可となり90年あまり続いた新川事件は幕を下ろした[1]

寛政12年(1800年)に隠居し、家督を長男・信圭に譲って隠居し、享和元年(1801年)に死去した。法号は源隆院。墓所は東京都台東区下谷の英信寺

系譜[編集]

父母

正室

子女

脚注[編集]

  1. ^ 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(P62)

参考文献[編集]

  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典4』(新人物往来社、1988年)