松平信孝 (戦国時代)

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松平信孝
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文17年4月15日1548年5月22日
別名 蔵人佐、通称:与十郎
戒名 道雲[1]
墓所 愛知県岡崎市浄珠院[1]
氏族 三木松平家
父母 父:松平信忠
兄弟 清康信孝康孝、久、東姫、矢作殿、瀬戸の大房
榊原正久[1]上田元俊[1]重忠[1]
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浄珠院にある松平信孝の墓

松平 信孝(まつだいら のぶたか)は、戦国時代武将三河国松平氏6代当主・松平信忠の子。官途名は蔵人佐。通称は与十郎。械(合歓木)松平家初代当主。三木松平家初代として扱う文献も多い。

略歴[編集]

兄・清康が家臣に殺害された(森山崩れ)後にその子松平広忠が家督を継ぐも、大叔父(信孝にとっては叔父)の松平信定によって岡崎城から追放された。信孝は広忠を援助して帰城させ後見役となったが、次第に弟・康孝の旧領・三木を押領するなど権勢を振るうようになり、広忠や家臣達と対立して失脚。天文12年(1543年)、広忠の代理で駿府今川義元に年賀の祝い述べに行っている間に、広忠の軍勢に居城・三木城を攻め取られた。この事に不満を持ち今川義元に直訴したが退けられている。

なお、小川雄は、松平氏と水野氏が同盟が結ばれた時期が信孝が後見をしていた時期であることを指摘し、広忠と於大の方水野忠政の娘)の婚姻も信孝が主導したもので、彼が追放された結果として信孝と結んでいた水野氏との同盟も終了して、広忠は於大の方と離縁したとする説を唱えている[2]

また、小林輝久彦は、信孝が追放された一因として、今川氏の三河進出への対応策として今川方である牧野氏に長沢を譲って手を結ぶことを画策していて、水野信元もそれに加担していたこと[注釈 1]、今川義元への挨拶の目的もその承認要請の意図があったとしている[3]

更に、茶園紘己は史料から天文12年(1543年)まで信孝が松平氏の「名代」であったことが確認できるとした上で、信孝と阿部定吉をはじめとする松平氏重臣層との間に対立があり、定吉らが広忠の同意を得て排除したとしている[4]

信孝は尾張国織田氏に寝返って山崎城に拠り、同じく織田方に寝返っていた上和田城松平忠倫上野城酒井忠尚らと共に広忠と対峙した。更に今川義元も味方に抱き込んだとする説もある。

小豆坂の戦いの後、天文17年(1548年)4月15日に岡崎城を攻撃しようと明大寺村(現在の岡崎市明大寺町)に出陣したが、菅生河原(耳取縄手)で広忠軍が射た矢に左の脇に当たり[1]、ついには上田元俊によって討ち取られた[1][5]安城合戦耳取縄手の戦い)。元俊もこの際に生涯歩行が困難になる傷を負った[5]。のちに家康の命によって次女が元俊に嫁ぐことになるが[1][5]、元俊が小禄であったために[5]彼女には化粧料[注釈 2]が与えられた[1][5]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 信孝の提案には松平長親時代から友好関係にある牧野氏が戸田康光に攻められていたためにこれを支援する意図もあったと考えられているが、結果的には長沢を本拠とする長沢松平家からの事実上の押領となり、広忠としては許容できなかった。一方、水野信元は知多半島を巡って戸田康光と対立しており、渥美半島を巡って康光と対立する牧野氏との同盟成立を望んでいた[2]
  2. ^ 矢作・向坂・蓮見(羽須見)の3か村で[1][5]150貫文[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.17
  2. ^ a b 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
  3. ^ 小林輝久彦「三河松平氏と駿河今川氏」大石泰史 編『今川氏年表』(高志書院、2017年)
  4. ^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P131-135.
  5. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第二百十五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.87

参考文献[編集]

  • 『寛政重修諸家譜』巻第三
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/18
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会)