永井直圓
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文11年(1671年) |
死没 | 元文元年5月8日(1736年6月16日) |
改名 | 万之丞(幼名)・大膳(通称)、直圓 |
別名 | 靭負(通称)、別名:直円、直員、直好、尚貞 |
戒名 | 花顔誼円法雲院 |
墓所 | 東京都中野区上高田の功運寺 |
官位 | 従五位下、能登守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 大和新庄藩主 |
氏族 | 永井氏 |
父母 | 父:永井尚征 |
兄弟 | 尚房、萬助、尚長、直種、傳勝、直圓[1] |
妻 | 正室:松平忠継の娘 |
子 |
直達、直亮、政之丞、千次郎、直期、 直度(六男)、直教(七男)、直次(八男)、 増山正邑(九男)、妻木頼紀(十男)、 娘(稲垣玄泉の養女)、娘(永井直賢正室)、娘(大沢定良室)、他5女[1] |
永井 直圓(ながい なおみつ)は、江戸時代前期から中期の大名。大和新庄藩の初代藩主[2]。永井家宗家5代。
寛文11年(1671年)、丹後宮津藩主永井尚征の六男として生まれる[1]。父の跡は兄の尚長が家督を継いだが、その尚長が延宝8年(1680年)6月26日[3]に志摩鳥羽藩主内藤忠勝に殺されたため、永井氏は改易となった[2]。しかし同年8月7日、弟の直圓が1万石で大和新庄藩主として家名を再興することを許された[1][4]。ただし、この頃はまだ桑山一尹が藩主として存続していたため、恐らくは名義だけの領主だったものと思われる[誰によって?]。
宝永7年(1710年)11月3日、病気を理由に家督を次男の直亮に譲って隠居し、元文元年(1736年)5月8日に死去した[5]。享年66。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 浜垣容二「増上寺で殺された文人大名」『大名廃絶読本』、読本シリーズ第3号、新人物往来社、254-257頁、1991年。