斉藤洋美

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さいとう ひろみ
斉藤 洋美
生年月日 (1959-07-09) 1959年7月9日(57歳)
出生地 東京都八王子市
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 ラジオパーソナリティタレント
ジャンル ラジオ番組ほか
活動期間 1980年
公式サイト 斉藤洋美の“ほぼ日記”
主な作品
ラジオ番組
ラジオはアメリカン
『斉藤洋美のハッピースタイル』他

斉藤 洋美(さいとう ひろみ、1959年7月9日 - )は、ラジオパーソナリティ司会女優東京都八王子市出身。血液型A型。桐朋学園大学短期大学部(現:桐朋学園芸術短期大学)欧米文化科卒業。

略歴[編集]

4歳年上の兄が居る[1]。幼い頃よりピアノを習う。中学から短大迄、女子校に学ぶ。学生時代にはラジオの深夜放送(野沢那智&白石冬美大村麻梨子などの『パックインミュージック』)等を聴き、番組にハガキを投稿していた。またテレビでは『デン助劇場』が好きだったという[2]。演劇にも興味を持つ。高校在学中、ラジオ好きが嵩じて自らラジオたんぱDJコンテストに応募し大橋照子賞を受賞[3]

1980年10月、ラジオたんぱ『ヤロウどもメロウどもOh!』でDJデビュー。大橋照子、小森まなみとの“たんぱ三人娘”として人気を博す。洋美のヤロメロは1983年9月30日(金)まで続いた。

テレビでは、1980年代初期頃に、テレビ神奈川の「おしゃべりトマト」月曜日の映画紹介コーナー、「ファンキートマト」内の映画紹介コーナー「洋美のムービルプラザ」、平成の初期に日テレ朝6時台の情報番組「ルンルンあさ6生情報」のコーナー内で出演する姿が見られた。フジテレビの「小川宏ショー」にも、頼近美津子の代役で出演した事が数回ある。(「小川宏ショー」に出演時には、「黒塗りの車が、家迄迎えに来た。」ということもあったと言う[2]。)

1985年4月より、AMラジオ放送での初仕事「ラジオはアメリカン(ラジアメ)」の、二代目パーソナリティとなる。(「斉藤洋美のラジオはアメリカン」) ノリの良いトークや、構成作家である鶴間政行との掛け合いが中高生を中心に支持され、8年以上も担当をつとめることとなった。後に、AIIでの有料のインターネットラジオでも「斉藤洋美のラジオはアメリカン」は復活している(2001年 - 2005年 出演は、斉藤洋美、鶴間政行)。

他にも、テレビ番組のワイドショーのレポーター、女優(テレビドラマでのチョイ役(エキストラ出演者とほぼ同等))、各種イベント司会など(一時期、「紳士服のコナカ」の新店舗オープニングイベント司会も担当)、ラジオパーソナリティ以外にも活動の場は広い。「踊る大捜査線」のスピンオフ映画、2005年公開の「容疑者 室井慎次」にも出演した(監督、脚本の君塚良一との繋がりで、ただし、ほんの一瞬のみ)。

その他、コミュニティ放送FM世田谷での、「タマリバ」や「斉藤洋美のCINEMADONNA」を担当。

2007年10月から2008年3月まで、自身の生まれた三多摩地域を放送エリアとする、コミュニティ放送・FMたちかわにおいて、日曜朝のワイド番組「斉藤洋美のハッピースタイル」を担当した。3時間の生放送の内、途中1時間は「ファンキートマト」時代からの盟友・シャーリー富岡が相方に登場していた。また同局では時報など至るところで斉藤洋美の声が聞こえる。

その後、映画関連分野(映画のイベント、試写会等)での、司会等もしていた時期もある。

又、アパレル関連の仕事にも従事している。

エピソード[編集]

  • 『ラジオはアメリカン』のパーソナリティを務めていた頃は、『ピンクナッツ』という愛称があった[4]。また小学6年生当時はやや太っていたことから『ドラムカン』と呼ばれていたこともあった[5]
  • 中学時代、「コーチがカッコ好い(水上先生)」と、ハンドボール部に所属し3年間活動する。部員が少ない為、即レギュラー選手になる[3]
  • 劇や映像作品の制作、演出をしたことがあり、小学生時代は学芸会で劇『トンデレラ』の作と演出を担当高校時代は学校の仲間と8mmフィルムで「天才、秀才、バカの一日」という映画を制作し、出演もした[3]。(後に、「ラジアメ」のイベントでも公開した。2009年11月に開催の映画関連のイベントで、数十年ぶりに公開をした。(イベントにはゲストとして鶴間政行も出演))
  • ラジオたんぱでの番組パーソナリティ担当時、担当番組内での企画の『一種の「罰ゲーム」』に於いて、ピンクのレオタード姿で番組を放送し、番組リスナーに公開での写真撮影会が行われた事もある。(レオタードは、「Please Look at My 愛」の売り上げで購入した チャコット製)[6]
  • 大橋照子の「ラジオはアメリカン(ラジアメ)」番組降板に伴い、当初、二代目パーソナリティには別の人(一説には、女性フォーク歌手。スポンサー等も了解済み)が決まっていたが連絡が取れず、早急に番組の次期パーソナリティを決めなければならず、大橋照子の助言により斉藤が推薦され、大橋のブレーンにより資料等が用意されて(斉藤が担当したラジオ番組のテープ録音等を手配)連絡された。連絡された当日、斉藤は友人と会う約束をしていたが、友人の都合で急遽キャンセルとなり、偶々、自宅に帰っていたところに連絡が入り詳細も判らぬまま了解をした結果、番組パーソナリティに決定した。(当時は、携帯電話等がない時代であり、斉藤はフリーで仕事をしていた)[3]
  • 「ラジアメ」のパーソナリティ担当初期には、収録時に番組ディレクターよりの駄目出しがあり(「愛の鞭」的に、物を投げられる様な事もあった)よく叱られた。30分番組であったが、1本分の番組収録に2時間も掛かる事もあり、家に帰り泣いたり、落ち込む事も度々あった。しかし、次回の番組収録を楽しみにしていた。
  • ピンと鼻筋の通った顔立ちをしているが、中高生の多かったラジアメリスナーより(愛情の裏返しで)「鼻が矢印」「顔がモアイ像」と呼ばれてしまう[7]。あげくに、ラジアメの番組ノベルティとして作られた顔写真入りの下敷も、「魔除け下敷」という呼称が付けられた[8]
  • 「ラジアメ」番組内で鶴間政行より「バカ」等と言われており[9]、「ラジアメ」のイベント時、見知らぬ子供より「バカ」と罵られたりした事も度々ある。又、「ラジアメ」担当終了後、しばらくしてから仕事上で知り合いになった担当者等が、当時番組リスナーだった事も多く、度々「ラジアメの斉藤洋美さんですよね? 番組リスナーでした」と声をかけられる事もある。又、失敗等すると「ラジアメ」での影響か「「バカ」等と言われる事もある」と本人が語った。
  • 「ラジアメ」担当時、他にもレポーターとしてテレビ出演をしており、出演番組を偶々、「ラジアメ」の構成作家の鶴間政行が見ており、「テレビを見ているとハラハラする」とのことで「毎回コーナー終了後に、家に電話して来い!」と言われ、公衆電話より電話をすると、毎回駄目出しをされていた。又、母親からもテレビ出演時には連絡があり、服装や髪型の事で駄目出しをされていた。
  • テレビ番組のレポーターとして、西城秀樹の密着レポートをしていた時、当時、無名であったとんねるずが、前座として、とあるパーティに出演時、斉藤に「俺達は、将来有名になるから、一緒に写真を撮っておいた方が良い」と言われて、一緒に写真撮影した事もあり、その写真は斉藤は持っている[10]
  • 「ラジアメ」の地方でのイベントから鉄道を使い東京に戻ってきたが、斉藤が切符を無くしてしまい、大急ぎで同行者全員で乗車してきた車両に戻り探すと、車内清掃中であり車両には入れなかったが、窓越しに座席の間に挟まっていたのを発見して難を逃れた。以後、斉藤には切符は渡さず、必要な時以外は同行するスタッフが預かっていた。
  • ラジアメがナムコの提供だったことからか、ナムコ製作の映像作品(オリジナルビデオ)『未来忍者 慶雲機忍外伝』に、チョイ役で出演を果たす。他にもナムコ・ワンダーエッグ内のサテライトスタジオから放送していた、エフエム世田谷の「たまリバ!」のパーソナリティをつとめたほか、ワンダーエッグの閉園セレモニーの司会も行うなど、ナムコとは縁が深い。
  • 自称・音痴。かつてファンの支援を受けレコードを録音したことがある(「Please Look at My 愛」A面は本人による歌、B面はピアノの弾き語りによるナレーション)が、後にラジアメで流されて絶句。鶴間政行も「ひどいなー」とコメントしていた[11]
  • 「ラジアメ」終了後、鶴間政行の引っ越しに駆り出された事もある。
  • 結婚はしている模様(詳細は不明、子供がいるのかは不明)[12][13]。自身のブログ上では、結婚相手と思われる人の事を「家族」と表現しているブログ記事は何回か掲載。(ポッドキャストの番組でも、「家族」と発言している事もある)
  • 若い頃よりのマイケル・ジャクソンのファン。マイケル・ジャクソン没後、自身のブログにはマイケル・ジャクソン関連のブログ記事が多く投稿されている[14]

ラジアメのイベント「全国ふれ愛キャンペーン」[編集]

ラジアメにおいては、全国各地でイベント「全国ふれ愛キャンペーン」を行ってきたが、そこでのエピソードには枚挙にいとまがない。

  • イベントで宮崎に行った翌日、ムーンビーチにて水着になるやいなや快晴の空が曇りだし、嵐になる(天の怒りと呼ばれている)[15]
  • 横須賀でのイベント中に強風によりスカートがめくれ、下着が何度か見えてしまった。鶴間曰く「3人失神、ステージ前の花が枯れた。」[16]
  • 浜松ではイベント開始初めの頃に鼻血を出してしまい、急遽ステージを降りて鼻血を止めるのに専念した。(その間、鶴間政行が司会を担当して時間を繋いだ)このエピソードが、後の番組本タイトル「モアイの鼻血」の由来となっている[16]

主な出演番組[編集]

  • 4時のふれあいスタジオ (ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI = 日経ラジオ社) 1977年3月 - 1980年3月)
  • ヤロウどもメロウどもOh! (ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI = 日経ラジオ社) 1980年3月 - 1983年3月)
  • 日本全国ヤロメロどん! (ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI = 日経ラジオ社) 1983年4月 - 1983年9月)
  • ラプソディ イン シネマ (ラジオNIKKEI第1放送、毎週金曜 20:00 - 20:30 2012年11月2日 - 2013年3月29日)
  • 斉藤洋美のラジオはアメリカン(TBSラジオ 1985年4月 - 1993年6月)
  • Cinema Street(ミュージックバード
  • ファンキートマト(テレビ神奈川)
  • たまリバ!(エフエム世田谷
  • 斉藤洋美のハッピースタイル(FMたちかわ)(2008年3月まで)
  • ポッドキャスト「斉藤洋美のVOICE de シネマ」
  • ポッドキャスト「斉藤洋美の“洋美だぜぃ!”」(不定期での更新)
  • ポッドキャスト「斉藤洋美・中野ダンキチの秘密基地トーク」(水野晴郎ドットコム内のコーナー)(不定期での更新)

外部リンク[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 『モアイの涙』(日音)70ページ
  2. ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1988年7月号 59-65ページ「斉藤洋美 ロングインタビュー」
  3. ^ a b c d 月刊ラジオパラダイス 1986年11月号 71-75ページ「斉藤洋美 DJ PRIVATE HISTORY」
  4. ^ 『モアイの涙』3ページ、70ページなど
  5. ^ 『モアイの涙』75ページ
  6. ^ 月刊ラジオパラダイス 1986年2月号『特集・ラジオたんぱ午後4時のプログラム』より。
  7. ^ 『モアイの涙』216ページなど
  8. ^ 『モアイの鼻血』(日音)184・185・187ページなど
  9. ^ 『モアイの鼻血』176ページなど
  10. ^ 『モアイの鼻血』21ページ
  11. ^ 『モアイの鼻血』58-59ページ、『モアイのスキップ』(日音)117-118ページなど
  12. ^ 『モアイの涙』187ページに1989年1月22日付の東京新聞の斉藤の記事が掲載。これによると、本名とされる名字が異なっている。
  13. ^ 月刊ラジオパラダイス 1988年4月号 69ページ「ラジパラタイムス」(結婚記事)
  14. ^ マイケル・ジャクソン 新曲リリース&アルバムリリース!”. 斉藤洋美の“ほぼ日記” (2009年9月24日). 2015年4月8日閲覧。など
  15. ^ 『モアイの鼻血』187ページなど
  16. ^ a b 『モアイの鼻血』188ページなど