吉祥寺 (西条市)
ナビゲーションに移動
検索に移動
本堂 | |
所在地 | 愛媛県西条市氷見乙1048 |
位置 |
北緯33度53分45.8秒 東経133度7分45秒座標: 北緯33度53分45.8秒 東経133度7分45秒 |
山号 | 密教山 |
宗派 | 真言宗東寺派 |
本尊 | 毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏) |
創建年 | (伝)弘仁年間(810年 - 823年) |
開基 | (伝)空海(弘法大師) |
正式名 | 密教山 胎蔵院 吉祥寺 |
札所等 | 四国八十八箇所63番 |
地図 | |
法人番号 | 6500005003982 |
吉祥寺(きちじょうじ)は、愛媛県西条市にある真言宗東寺派の寺院である。密教山(みっきょうざん)、胎蔵院(たいぞういん)と号し、四国八十八箇所霊場の第六十三番札所である。本尊は毘沙門天(当寺では「毘沙聞天」と表記)。毘沙門天を本尊とするのは、四国八十八箇所では本寺のみである。
本尊真言:おん べいしら まんだや そわか
ご詠歌:身のうちの 悪しき悲報を 打ち捨てて みな吉祥を 望み祈れよ
沿革[編集]
寺伝によれば弘仁年間(810年-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。
そのころの寺は、坂元山[1](現在地より南へ約2kmほど登った標高368m地点[1] )にあり、塔頭を21坊も有するようになっていたが、豊臣秀吉の四国征伐の際に全山焼失した。詳しくは1585年(天正13年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火された。本尊は助けだされ麓の大師堂のあったところに移されていたが、万治2年(1659年)に塔頭の檜木寺(かいぼくでら)[2]と合併して現在の地に再建された[3]。
なお、インドのVaiśravaṇaにあたる尊格は、日本では漢訳経典(不空訳『毘沙門天王経』など)に基づき「毘沙門天」と表記するのが普通だが、当寺では「毘沙聞天」の字をあてている[4]。
境内[編集]
- 山門
- 本堂:本尊・毘沙聞天坐像は60年に一度開帳の厳格な秘仏で次回は西暦2038年。
- 大師堂:暗くて遠いが大師像を拝観できる。
- 福聚閣:七福神のうち寺本尊の毘沙門天を除く六神を祀る。
- 鐘楼
- 庫裏
- 成就石:本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わる。
- くぐり吉祥天女:この像の下をくぐると、あらゆる貧困を取り除き、富貴財宝を授かると伝わる。
山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。
- 宿坊:なし
- 駐車場:なし。付近に民営駐車場あり 普通車:200円(1時間)。
寺宝[編集]
- マリア観音像 - 純白の高麗焼の像、高さ約30cm、長宗我部元親が救出したスペイン船長より託されたとされる。
- 黒漆塗梅唐草金銀蒔絵女乗物 - 江戸時代、高鍋藩主秋月種徳女照子(潤性院)が小松藩主一柳頼親へ輿入れの際に乗った女乗物(身分の高い女性用の駕籠)。2015年1月3日公開された。
交通案内[編集]
- 鉄道
- バス
- せとうちバス 新居浜行きほか「氷見」下車 (0.1km)
- 道路
奥の院[編集]
- 芝之井(御加持水)
空海(弘法大師)の御加持水と伝わる。
前後の札所[編集]
脚注[編集]
- ^ 五来重「四国遍路の寺 上」164ページより
- ^ 石鎚山登山道の檜王子を管理する寺で、大日如来を本尊とする。その本尊は現在の本堂の向かって右の部屋の厨子の中に鎮座していると云われている
- ^ 五来重「四国遍路の寺 上」162ページより
- ^ 先達教典 四国八十八ヶ霊場会 平成18年12月1日発行 275ページより
参考文献[編集]
- 四国八十八箇所霊場会編 『先達教典』 2006年
- 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』地図編 へんろみち保存協力会 2007年(第8版)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 第63番札所 密教山 胎蔵院 吉祥寺(四国八十八ヶ所霊場会公式)
|
|