ゾロアスター教
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ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardošt、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、英語: Zoroastrianism、中国語:祆教(けんきょう・シェンジャオ/xiān jiào))は、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。聖典は『アヴェスター』。
概要[編集]
イラン高原に住んでいた古代アーリア人はミスラやヴァーユなど様々な神を信仰する多神教(原イラン多神教[1])であった[2]。この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーのみを信仰の対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである[3]。
紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている[4]。これに対し、3世紀のササン朝ペルシア成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある[5]。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた[4]。サーサーン朝期には聖典『アヴェスター』が整備された。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジアや中国へも伝播していった。
7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配によりゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降、イギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を持つ[6]。
ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、アヴェスタ語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全寺院には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する[6]。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている[6]。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。
ゾロアスター教の教義は、善悪二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。一般に「世界最古の一神教」とも言われる。
教義[編集]
ゾロアスター教の教義。イスラム支配下の8世紀に登場したゾロアスター教神官ベフ・アーフリードは、呪文・最近親婚などをマゴス神官団の教えとしており、ザラスシュトラの教えにイラン西部発の民間風習が混入していると思われる[7]。
儀式[編集]
ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質的ないし精神的世界に平和と秩序をもたらすと考えられている[6]。ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる[6]。ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む[6]。ここでは清浄さが求められる。
7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する[6]。
守護霊[編集]
ゾロアスター教の守護霊は「フラワシ」である[6]。フラワシは善を表し、善のために働く。この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表すと考えられ、助けを求める人を救うであろうと信じられている[6]。
礼拝[編集]
ゾロアスター教の礼拝は、「火の寺院」と称される礼拝所で行われる。寺院は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる[6]。
葬送[編集]

ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬・風葬である[6]。この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある[6]。この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている[6]。ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている[6]。
最近親婚[編集]
ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』のウィーデーウ・ダート(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる[8]。また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。
善悪二元論とゾロアスター教の神々[編集]
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である[6]。聖典『アヴェスター』によれば、世界は至高神アフラ・マズダー、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と大魔王アンラ・マンユ(アフリマン)および悪神群の両勢力が互いに争う場で、生命・光と死・闇との闘争とされる[6][注釈 1]。
ザラスシュトラによれば、最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命・真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死・虚偽を選んだ[11]。アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された[11]。対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。このように、ザラスシュトラは歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。
アフラ・マズダーと善神群[編集]
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空・水・大地・植物・動物・人・火の順番で創成した、世界の創造者である[6]。
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。
- スプンタ・マンユ : 人類の守護神。「聖霊」を意味する。アフラ・マズダーと同一視されることもある[6]。
- ウォフ・マナフ : 動物界の統治者。「善なる意思」を意味し、アフラ・マズダーの言葉を人類に伝達する役割。常に人間の行為を記録し、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげるとされる[6]
- アシャ・ワヒシュタ(アシャ) : 「聖なる火」の守護神。「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の移り変わりを司る。虚偽の悪魔ドゥルジに対峙する[6]。
- スプンタ・アールマティ : 大地の守護神。代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立する[6]
- クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ) : 金属・鉱物の守護神。「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する。アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する[6]
- ハルワタート : 水の守護神。「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可分とされる[6]
- アムルタート : 植物の守護天使。主神アフラ・マズダーの子。名は「不死」に由る。ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす[6]また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている
アンラ・マンユと悪神群[編集]
悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。
- アンラ・マンユ(別名:アフリマン、アーリマン) : ゾロアスター教における大魔王。虚偽・狂気・凶暴・病気など、あらゆる悪や害毒を創造する[6]。
- アエーシュマ : 怒りと欲望を司り、人間を悪行にいざなう。天使スラオシャとは対立関係にある[6][注釈 2]
- アジ・ダハーカ : 3頭3口を有し、口からは毒を吐き出す。残忍でずる賢く、地上にあっては人間の姿をして善人をそそのかす悪魔である[6]
- ジャヒー : 女悪魔で売春婦の支配者。婦人に月経の苦しみをあたえたとされる[6]
- タローマティ : アヴェスター語で「背教」を意味する。女性天使アールマティと対立関係にある[6]
- ドゥルジ : 疫病をもたらす女の悪魔。天体運行をになうアシャとは対立関係にある[6]
- バリガー : 女悪魔の総称。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三大バリガー」として恐怖の対象となった[6]
終末論と三徳[編集]
ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えら、その後、新しい理想世界への転生が説かれる[6]。そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの徳(三徳)の実践を求められる。人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた[6]。世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる[6]。こうした、来世観や最後の審判などの教義もまた、数多くの宗教に引き継がれたのである[要出典]。
自然崇拝的要素[編集]
ゾロアスター教は自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる[12]。原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた[12]。ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている[12]
聖典[編集]
ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』である。ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分とによって構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存している[6][13]。サーサーン朝期に『アヴェスター』が編纂されたのは、明確な教義・聖典を持ったキリスト教・仏教・マニ教などの台頭に対抗する必要があったためである。また、この頃既にザラスシュトラ時代の呪術が知識人の知的好奇心を満たせるものではなくなっていたことも、聖典整備の一因とされている[14]。しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。『アヴェスター』が書かれたペルシア州から離れた地域では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある[7]。

『アヴェスター』は、
- 「ヤスナ」 : 大祭儀で読唱される神事書・祭儀書。全72章
- 「ウィスプ・ラト」 : ヤスナの補遺。小祭儀書
- 「ウィーデーウ・ダート」 : 除魔書
- 「ヤシュト」 : 神頒歌
- 「クワルタク・アパスターク」 : 小賛歌・小祈祷書
- その他逸文
のみが現存している[13]。
以上のうち「ヤスナ」72章のうち17章は「ガーサー」と呼ばれ、ザラスシュトラ自作の韻文と信じられており、現存する啓典のうち最古期の成立である[13]。
『アヴェスター』は、アケメネス朝期の古代ペルシア語とは異なる言語(ガーサー語・古代アヴェスター語)によって、牛皮1200枚のに筆録されていたという[12]。 大部分がアケメネス朝滅亡時に一旦失われ、後のパルティア・サーサーン朝期に補修・復元が試みられた。当時の中世ペルシア語(パフラヴィー語)への翻訳がなされ、正典として『ゼンダ・アヴェスタ』と称された[12]。古代アヴェスター語をパフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した[14]。
『アヴェスター』は、イスラム支配期にその約4分の3が失われたと伝えられ、教義・教団組織の全容解明は難事である[13]。ただし、「ガーサー」に示された「最後の審判」「天国と地獄」などの終末論的世界観は後期ユダヤ教やキリスト教に影響を与えたとされる。また、死者にとって最後の結界の場「チンワト橋」を教義上設定したことは、仏教にとって「転生」思想の形成プロセスを考慮する上で示唆に富むこととされる[13]。『アヴェスター』は「首尾一貫したゾロアスター教の書物ではなく、古代イランの様々な種族なり宗教観の相克を反映したいわば寄せ木細工」と評価され、その解釈には様々な学説が提示されている[1]。
メソポタミア神話・エジプト神話・ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる[12]。ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった[14]。
歴史[編集]
ゾロアスター教は古来からイラン人が信仰して来た多神教(以下、原イラン多神教と表記)を基に成立した。しかしゾロアスター教は時代によって大きな変化を遂げており、学者によっても何を以って「ゾロアスター教」と呼ぶのか異なるため注意が必要である[1]。ここでは原イラン多神教に連なる宗教について包括的に記述する。
分類[編集]
アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている[5][7][1]。ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。
名称 | 崇拝対象 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|
原イラン多神教 | アフラ・マズダー ミスラ ヴァルナなど |
古代アーリア人によって信仰された宗教 マズダー教・原ゾロアスター教などの源流として想定されている |
後述 |
マズダー教 | アフラ・マズダー | アーリア人の宗教のうち、特にアフラ・マズダーを崇拝した宗教 原ゾロアスター教の源流としても想定される アケメネス朝の国教とする説もある |
[1] |
ミスラ教 | ミスラ | アーリア人の宗教のうち、特にミスラを崇拝した宗教 パルティア・アルメニアなどの国教とする説もある |
後述 |
ズルワーン教 | ズルワーン | アーリア人の宗教のうち、特にズルワーンを崇拝した宗教 |
名称 | 崇拝対象 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|
原ゾロアスター教 | アフラ・マズダー | ザラスシュトラによって開かれたゾロアスター教のルーツ ナオラタ部族国家の国教 狭義のゾロアスター教はこの流れを汲む宗派のみを指す |
後述 |
アケメネス朝の国教 | アフラ・マズダー | アケメネス朝の王族達に信仰されたマズダー教 狭義のゾロアスター教であるかは議論がある |
後述 |
インドのイラン系宗教 | ミヒラ(ミスラ?)など | インドのイラン系アーリア人によって信仰された宗教 パールシー以前2、3の集団について記録が残っている |
後述 |
パルティアの国教 パルティア的ゾロアスター教 |
ミスラなど? | パルティアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教 アルメニアの国教と近縁とされる 狭義のゾロアスター教であるかは議論がある |
後述 |
アルメニアの国教 アルメニア的ゾロアスター教 |
ミスラなど | 前1世紀 - 後4世紀にアルメニアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教 ミスラの地位が高いため、ミスラ教ともされる アルメニアのキリスト教化に伴い衰退 | |
ミヒラ教 | ミヒラ(ミスラ?) | アーリア系遊牧国家エフタルの王ミヒラクラに信仰された宗教 太陽崇拝を伴うミスラ神への信仰と思われる インドに残った集団はガンダーラ・ブラーフマガと呼ばれた |
[15] |
サーサーン朝の国教 ペルシア的ゾロアスター教 |
アフラ・マズダー | サーサーン朝の王族達に信仰された狭義のゾロアスター教 ペルシアのイスラム化に伴い衰退 |
後述 |
メソポタミア的ゾロアスター教 | ズール(ズルワーン?) | サーサーン朝期にメソポタミアで信仰されたと思われるゾロアスター教(ズルワーン教?) ズールなる神に生贄を捧げる | |
ホラーサーン的ゾロアスター教 | イスラム統治時代初期にホラーサーンで信仰されたと思われるゾロアスター教 預言者も啓典もないとされるため、サーサーン朝の国教とは異なると思われる | ||
パールシー | アフラ・マズダー | イスラムの支配を逃れインドに移ったゾロアスター教徒のグループ 狭義のゾロアスター教の国教の流れを汲む |
後述 |
ソグド的ゾロアスター教 | ソグド人に信仰されたアーリア人の宗教 中国では祆教と呼ばれた 中央アジアから唐代の中国まで広がった 中央アジアのイスラム化により衰退 |
後述 | |
宋代漢民族的ゾロアスター教 | ソグド的ゾロアスター教が宋代までに漢化したもの 引き続き祆教と呼ばれた | ||
クルド人的ゾロアスター教 | クルド人に信仰されていたアーリア人の宗教 詳細不明 後にイスラム教と混濁してヤズィーディーに変化する |
後述 |
原イラン多神教[編集]

ザラスシュトラ全く新しい宗教を創設したわけではなく、何らかの宗教組織(原イラン多神教)の祭司であったことが『アヴェスター』で描かれている。この宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘されている[1]。そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた[注釈 3][注釈 4]
メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる[17]。そのため、単にアフラ・マズダーまたはミスラを信仰しているだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。
「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教の信仰告白であるフラワラーネにあらわれている。そこでは5条件が挙げられた[注釈 5]。すなわち、
- アフラ・マズダーを礼拝すること
- ゾロアスターの信奉者であること
- 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること
- アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在アムシャ・スプンタ(「聖なる不死者」)を礼拝すること
- すべての善をアフラ・マズダーに帰すること
である。
この5つに加え、アフラ・マズダーを創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる[注釈 6]。
原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。「2段階説」では、原イラン多神教がザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が存在した時期がある可能性もある[1]
原ゾロアスター教[編集]
ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマの活動やゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない[13]。誕生地については、アゼルバイジャン説・シスターン説・中央アジア説などがある。活動時期については言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。ザラスシュトラは、それまでのイランに存在した多神教を一神教的宗教に改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した[1]。
ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た[20]。彼は、アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた[11]。
ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相の息子)のジャマースパが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている[20]。ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。
ジャマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった[21]。
その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない[22]。
アーリア人の諸宗教の展開[編集]
他宗教への影響と同様、政治に対するゾロアスター教の影響力の大きさについても、研究者によって意見が分かれる。一般に古代の政治・宗教は密接な関連性を有していたため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。歴代王朝の下にあってゾロアスター教は常に「国教」のような役割をになったと考える研究者もいるが、見解は統一されていない。青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立までは、そのどちらとも受け取れるような諸宗教が人びとに幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している[23]。
マズダー崇拝の台頭[編集]
アケメネス朝ペルシア(紀元前550年-紀元前330年)は史上初めてイラン高原とメソポタミア平原の両方を支配し、政治的な中央集権体制と文化的な地方分権を敷いた。アケメネス朝シャーハンシャー(皇帝、諸王の王)たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。
アケメネス朝の歴代シャーハンシャーたちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
- アケメネス朝第3代の王ダレイオス1世は多くの碑文を残したが、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と記し、神権授受を意味する告知がなされた[13][11][24]。
- ペルセポリスのダレイオスの宮殿には有翼のプラヴァシの姿やアフラ・マズダーのシンボルを刻んだ浮彫彫刻(レリーフ)が施された[13][24]。
- 「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在する[13]。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
- アケメネス朝の遺構・遺物は、ダレイオス1世がアフラ・マズダーを信仰する「マズダー教徒」であった証拠にはなっても、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない[13][注釈 7]。
- 火の祭壇は、ザラスシュトラ以前から原イラン多神教で用いられる[注釈 8]。
- アケメネス朝の古代ペルシア語の碑文にはザラスシュトラの名が1度も現れない[28]
このようなことから、ゾロアスター教をアケメネス朝の「国教」と断定することには慎重でなくてはならない。ただ、初代キュロス大王が「ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放者」と見なされるように、アケメネス朝は異民族の宗教に寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝の「国教」であっても「支配者の宗教」という意味に限定される。アケメネス朝は帝国内の多様な民族・宗教に対して一定の自治を保障し、支配下のユダヤ人は独自の「シンクレティズム」的宗教思想を育んだとも考えられている。この流れはユダヤ教エッセネ派の隆盛につながり、ユダヤ教を母体としたキリスト教もこれらを継承したと言われる[注釈 9]。アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団・オルフェウス教、さらに、ペルシャ高原東部では大乗仏教の伝播にともない弥勒菩薩への信仰と結びつき、マニ教もゾロアスター教の影響を強く受けたとされる[注釈 10]。イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。
なお、同時代のギリシアの歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している[11]。しかし、古代メソポタミアのイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのも、アケメネス朝期である。この頃、アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである。
ミスラ崇拝の台頭[編集]
アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)によって滅ぼされた。大王のディアドコイ(後継者)・セレウコス1世が建てたギリシア人王朝、セレウコス朝シリア(紀元前312年-紀元前63年)によって小アジアからメソポタミア、ペルシアが支配された。セレウコス朝の領域にかけて「ヘレニズム」の影響がおよび、グノーシス主義や洗礼教団の起源となる「救済者」(メシア)の教理が流布された。ゾロアスター教は寺院・偶像崇拝を認めなかったが、ギリシア文明・インド文明の影響で受容するようになったとされる[31]。
紀元前3世紀、セレウコス朝は大きく後退し、イラン高原北東部にイラン系帝国、アルサケス朝パルティア(紀元前247年-紀元後226年)が台頭した。パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる[32]。
青木健は、パルティアの宗教が隣国アルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。アルメニア人はアーリア系で、アルメニアの宗教にはパルティアからの借用語が多用されており、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている[32]。
アルメニアでは神々の一族関係が重視され、、「すべての父」と称されてたアラマズド(アフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロと謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグン(ウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった[32]。
青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしながらも、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっているとした。特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている[32]。
4世紀にアルメニアはキリスト教単性論派を国教化して、アルメニア的ゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている[32]。
この頃、ペルシア州でザラスシュトラの教えとイラン高原北西部のマゴス神官団の宗教思想が融合し、「ペルシア的ゾロアスター教」が成立した[23]。
ゾロアスター教の国教化[編集]
ベルシア州エスタフルのゾロアスター教神官の家系と伝わるサーサーン家がパルティアを倒し、サーサーン朝ペルシア(226年-651年)を建国した[33]。サーサーン朝はゾロアスター教を正式に「国教」と定め、それ以外のアーリア人の諸宗教を邪教として弾圧した[34]。そして従来の宗教政策を一変させ、ゾロアスター教の儀礼・教義を統一させた。その時、「異端」資料は破棄され、他宗教も公式には禁止された。サーサーン朝は、その支配の正統性をアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に求めた。そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したのだと主張した。実際にはパルティアの大貴族の多くがサーサーン朝でも大きな力を持ち続け、サーサーン朝の政治機構・文化・社会は多くの点でパルティアを継承していたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代には使用される言語は「中世ペルシア語」に変質し、「古代ペルシア語」で記述された『アヴェスター』の「ガーサー」部分は当時すでに解読困難になっていたと考えられる。この時代、東方に対しては隊商などペルシア商人の活発な活動により、中央アジア・中国へゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争によって教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。
サーサーン朝の建国者アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、聖典と統一的な教会組織が形成されたといわれている。サーサーン朝において、諸王が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配のうえでも重要な役割をになうようになったものと推測される[13]。サーサーン朝シャーハンジャーたちは皇帝叙任式の際に先祖伝来の地ベルシア州に磨崖レリーフを造り、帝権授与の儀式を行っていた[33]。
ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。メソポタミアから小アジアにかけてズルワーン主義が台頭した。ジャーヒリーヤ時代に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアのゾロアスター教神官の姿が描写されている。ズーンとはアラビアで信仰された魚の神、またはズルワーンがアラビア語で省略された形であるとみられている。いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり「メソポタミア的ゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。また少し後の時代になるが、イスラム統治時代初期のホラーサーンでは、イスラム教との比較で「我々には理性的に語る啓典も神から遣わされた預者者もない」と語るゾロアスター教徒のヘラート貴族の記述が残されている(パフレヴィー語文献ではザラスシュトラが預言者とされている)。そしてホラーサーンから原ゾロアスター教とイラン高原北西部のマゴス神官団の教えを峻別し、後者を禁止したベフ・アーフリードが登場する。さらに彼は『アヴェスター』の存在を無視して、それとは別の聖典を独自に書こうとしていた。これらのことから、『アヴェスター』を軸とした国教たるペルシア的ゾロアスター教はイラン高原南部でのみでしか浸透しておらず、ホラーサーンには独自の「ホラーサーン的ゾロアスター教」が存在していた可能性が指摘されている。その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある[7]。
3世紀前葉に活躍した第2代シャープール1世は衰退期に入ったローマ帝国としばしば闘争し、サーサーン朝優位のもとで王権を盤石なものにした。シャープール1世以降3代の王の元で権勢を振るった祭司長カルティール(キルディール)は、ゾロアスター教国教化に貢献し、諸州に多くの聖火をともした。同時に新興のマニ教を異端として退け、シャープール1世時代に重用された教祖マニを処刑、仏教・ユダヤ教・キリスト教を弾圧した[13]。『アヴェスター』の文書化はサーサーン朝成立後、半世紀以上経過した3世紀半ばに完成したと見られる。ただし、サーサーン朝シャーハンジャーたちは、自らの信仰を「マズダー信仰」ないし「よき信仰(ベフ・ディン)」と称し、少なくとも王碑文においてはザラスシュトラの名は記されない[13]。このようにゾロアスター教は国家権力に支えられていたものの、セム人の多い東部シリア平原や首都クテシフォンがあるメソポタミアではセム系発祥のユダヤ教・キリスト教・マニ教が優勢で、しかもシリア教会やマ二教がイラン高原まで勢力を拡大していった[33]
西部イランを本拠地とするサーサーン朝の支配が安定した5世紀になると、帝国の宗教的中心地が地理的に西遷した。神官団によってザラスシュトラがアゼルバイジャン出身とされたため、帝国の聖地も次々とイラン東部からアゼルバイジャンに移された。教祖生誕の地アゼルパイジャンが王朝発祥の地ベルシアの聖性を上回り、バハラーム5世時代(位421-439)からは先祖伝来のベルシア州で儀式を行うのを止め、クテスィフォンでの戴冠後はアゼルパイジャン州シーズの大聖火へ参詣するようになった。また、このころ偶像破壊運動があったと考えられており、パピロニアやヘレニズムの影響で導入されたゾロアスター教の偶像が除去されたと考えてられている[33]。
帝国の税制改革・軍制改革に成功したホスロー1世の孫・ホスロー2世は余裕のある状態でシャーハンジャーになることができた。しかし、即位当初から部下の反逆に遭い、求心力を高めるために新たな皇帝イデオロギーを創出する必要牲に迫られた。そこで彼はキリスト教国家東ローマ帝国と戦争(602年-628年)を開始し、エルサレム攻略によってイエス・キリストが磔刑に処せられたとされる「ゴルゴタの聖十字架」を奪取し、穀倉地帯エジプトを占領。首都コンスタンティノープル対岸のカルケドンまで進軍して東ローマ帝国を滅亡寸前に追いやった。この大勝利によってシャーハンジャーの威信は絶頂を向かえ、ホスロー2世がアフラ・マズダーよりも一段上位の台座に立つリリーフが新たに建造された[33]。
東ローマ皇帝に即位したヘラクレイオスは反転攻勢に出たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面に向かうことはせず、623年にタウルス山脈沿いに進軍してシーズを急襲。拝火壇は破壊され、「シーズの聖火」のみ辛うじてクテシフォン近郊に避難された。これによりサーサーン朝の威信は大いに揺らいだ[33]。この戦争により両大国の力は消耗し周辺国では自立の動きが活性化した。国力を浪費させたホスロー2世は皇太子によって暗殺され、サーサーン朝は混乱に陥った[35]。
東方への拡大[編集]

5世紀・6世紀頃、交易活動のために多数のペルシア人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へ渡り、華北の北周・北斉にゾロアスター教が広まったという[36]。信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された[36]。「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細不明)を指導者とする教団も存在した[36]。隋・唐の時代、薩宝(薩甫、薩保)は官職と認められ、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)に官位が授けられ、祆教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された[36]。首都長安や洛陽・敦煌・涼州といった都市に寺院・祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったと言われている。しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったらしい[4]。
唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有した。西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰された。
吐火羅や舎衛などのペルシア人が古代日本にも訪れており、なんらかの形での伝来が考えられている。松本清張は古代史ミステリーの代表的長編『火の路』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。イラン学者伊藤義教は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している[37]。
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者だったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちには唐に亡命政府を樹立したサーサーン朝からの難民などが加わったものと思われる[36]。
武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西域では11世紀 - 13世紀に西域のイスラム化が進行した。
宋の時代になると担い手の漢化が進み、「宋代漢民族的ゾロアスター教」ともいえる形態に変化した[5]。
祆教は、14世紀ころまで開封・鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息は掴めていない[36]。なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市郊外に波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。彼らは現在、言語・形質面では漢族に同化しているが、イスラム教を奉じており回族と認定されている。彼らの宗教儀式にはゾロアスター教の名残がみられるともいわれる[要出典]。
イスラム勢力の支配による衰退[編集]
アラビア半島で興ったイスラム教国家は、633年よりサーサーン朝への攻撃を繰り返した。サーサーン朝側ではアラブ人部隊や親衛隊の裏切りが起こり、最後の皇帝ヤズデギルド3世はクテシフォンから撤退した。メソポタミア平原にはアラム人やアラブ人が多く、アラブ人イスラム軍への反発は少なかった。アーリア人たちは貢納によって信仰を維持した。クテシフォン一帯を制圧したイスラム軍はイラン高原に進軍し、ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を打ち破った。これによりサーサーン朝は事実上崩壊し、アラブ人たちは権力の空白地帯となったイラン高原に侵攻した[38]。
アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を選ばされた。改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰は放任された。権力基盤を失ったゾロアスター教神官団はカリフ政権に接近し、非ゾロアスター系アーリア人の宗教の信者を追討するよう依頼までした。このような態度から、ゾロアスター教団はイスラム支配の中でも存続を許されたが、一方で信者の中からはイスラム教への改宗者が相次いだ。この時期にペルシア州のゾロアスター教徒は重要な伝承を記録し「パフレヴィー語文学ルネッサンス」と呼ばれる文化活動に精を出した[39]。
ウマイヤ朝からアッバース朝の転換期(アッバース革命)、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した[40]。
イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブの一族と結婚したという説話を流布させた。ゴムではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された(イラン・イスラーム文化)[41]。
近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。
パールシー[編集]
イラン高原の政治勢力はインド亜大陸に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視しクシャトリヤから格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた[15]
- マガ・ブラーフマガ - 前1世紀頃、イラン高原東部からインドに移住。原イラン多神教の流れを汲むミスラ崇拝者と思われる
- ボージャカ - 6世紀前半-7世紀末にインド移住。原ゾロアスター教の流れを汲む。マガ・ブラーフマガと融合
- ガンダーラ・ブラーフマガ - 5世紀半ば-567年に北インドを支配したエフタルの「ミヒラ教」祭司集団の残党。マガ・ブラーフマガと同一集団?
サーサーン朝滅亡を機にイランのゾロアスター教徒にはインド西海岸グジャラートへ退避する集団があった。彼らをパールシー(「ペルシア人」の意)という。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーンから、4、5隻の船に乗りグジャラート南部のサンジャーンにたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる[42]。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたと言われている[43]。
パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。彼らはイランでは多く農業を営んでいたと言われるが、移住を契機に商工業に進出し、土地の風習を採り入れてインド化していった[31]。インド化に伴いグジャラート語を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教の資料を読むことができなくなった。二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった[43]。
パールシーはカースト制に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた[43]。
ヤズィーディー教[編集]
ヤズィーディー教は原イラン多神教と12世紀にスーフィーの指導者アディー・イブン・ムサーフィルが作ったアダウィーア教団の教えが融合したクルド人の宗教である。クルド人は言語学的に古代アーリア人の分派であり、ザラスシュトラ以前の教えを保存していると考えられている。ヤズィーディー教の聖典には原イラン多神教とよく似た教義や物語が多く登場するが、固有名詞がイスラム風のものに入れ替わっているものが少なくない。インドにおいては口伝の中にいくつも神々の名前を登場させ、改竄ができないよう注意を払われていたが、同じアーリア系でもイランではそのような注意を欠いていたことが原因であるとされている[44]。
現代のゾロアスター教[編集]
信者の分布[編集]
近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。
- イラン:かつてゾロアスター教を国教としたサーサーン朝ペルシア帝国の中心地。ヤズドを中心に信徒数3万~6万人[45]。
- インド:10世紀頃にイランを脱出したゾロアスター教徒がグジャラート州に移住。ペルシア人を意味するパールシー(教徒)と呼ばれる。現在はパールシーの経済的中心地・ボンベイ(ムンバイ)を主たる拠点として、信徒数7万5千人[45]。
- パキスタン:英領インドがインド共和国とパキスタンに分離して独立国となった際、2,500人から6,000人のパールシーがパキスタンの領域に住んでおり、パキスタン国民となった。中心地はカラチである[45]。
- アゼルバイジャン・ジョージア国・イラク:若干名
近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった[45]。
イラン[編集]
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イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落した。今日、小規模の信徒共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれる。イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在する。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒とされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火寺院は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在は活用されず、観光施設として残されるにとどまる。
ゾロアスター教徒は近代化の進展によりムスリムと同等の法的権利を獲得したが、イランイスラーム革命により再び隷属的地位におかれてしまう。
かつての世界宗教・ゾロアスター教はイスラーム教徒による宗教的迫害によって信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと後退した。現在、ゾロアスター教では信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
インドとパキスタン[編集]
現在、インドはゾロアスター教徒数の最も多い国である。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。ゾロアスター教は、インドではペルシア人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している[12]。少数ながら商業・貿易・知的職業に就く人が多く、裕福層や政治力をもった人々の割合が多い[12]。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似し、インド2大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないと言われる[12]。
寺院はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教共同体を作っている。寺院にはゾロアスター教徒のみが入ることができ、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての寺院にあり、ペルシアから運ばれた炎から分けられたものである。寺院内には偶像はなく、炎に礼拝する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも寺院があり、周辺に住む信者により運営されている。
一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
東アジア[編集]
19世紀後半から20世紀前半にかけては上海・広州などにインド亜大陸から渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火寺院が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる[要出典]。
近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している[47]。
1990年代後半にプロの霊感占い師幹野秀樹[48]によって日本ゾロアスター教団[49]が設立されたが、2017年現在その活動は確認することが出来なくなっている。
欧米[編集]
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。
1990年、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルスにおいてゾロアスター教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された[50]。ガーサーのみを聖典とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされている[51]。
パールシー出身の著名人[編集]
- カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(イギリスの作曲家)
- フレディ・マーキュリー(ザンジバル生まれのイギリスの歌手)
- ズービン・メータ(インド人の指揮者)
- ジャムシェトジー・タタ(タタ・グループの創始者)
- ラタン・タタ(タタ・グループの会長)
逸話[編集]
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- 日本では東芝が過去に電球や真空管などのブランド名として使用していた(ライセンス元のゼネラル・エレクトリックのブランド名でもある)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する
- 日本の自動車メーカーであるマツダは、創業者の姓(松田)を冠していると共に、その Mazda の綴りはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来している。
- フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』のツァラトゥストラは、ザラスシュトラのドイツ語読み。リヒャルト・シュトラウス作曲の同名の交響詩も同様
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ なお、ゾロアスター教の影響を受けたマニ教も徹底した二元論的教義を有し、宇宙は光・善・精神と闇・悪・肉体の2つの原理の対立に基づき、それぞれ画然と分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心とする[9][10]。
- ^ アエーシュマは、『旧約聖書』に登場するアスモデウスの前身とも考えられる[要出典]。
- ^ ゾロアスター教の至高神アフラ・マズダーは、バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』で「アスラ(Asura)=主」と記された神で、『リグ・ヴェーダ』の詩句では、このミスラとヴァルナの下位の「主」は、次のような言葉で語りかけている。「あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7)
- ^ 青木健は、アフラ・マズダーをザラスシュトラが創案した神格であると述べている[16]。
- ^ ヤスナに記されたフラワラーネは「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワを拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタを礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」というものである[18]。
- ^ メアリー・ボイスによれば、ゾロアスター教徒の信仰告白において、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、異教時代のイラン人にとって創造主とみなされていたとは考えられない、という。もし異教時代のイラン人が、どれか1つの神に創造的な活動を担わせようとするならば、その神は、アフラ・マズダー、ミスラ、ヴァルナの3大アフラのなかでむしろ下位のアフラで、おそらくは最も遠く離れてある「叡智の主」の命令を実行する神ヴァルナであったろうというのがボイスの見解である。さらに、このことがゾロアスターの教義のなかでも際立った特徴のひとつであったとも指摘している[19]。
- ^ ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある[25]。アフラ・マズダーはザラスシュトラ以前からインド・イランのアーリア人に信仰されていた神で、マズダーを信じるだけではゾロアスター教徒と断定はできない。またP・R.ハーツは、著書『ゾロアスター教』で、ダレイオス1世をゾロアスター教徒とみなしている。しかし、訳者の奥西俊介は「訳者あとがき」で次のように指摘している。現ゾロアスター教徒がプラヴァシ像とし、自分たちの守護霊としている有翼円盤人物像は、アケメネス朝の遺跡で多く確認される。しかし、多くの研究者は有翼円盤人物像をアフラ・マズダー像とみなしており、ダレイオス1世がマズダー信者だったとしても、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない[26]。
- ^ メアリー・ボイスは、ザラスシュトラ以前よりイラン人祭司は神々にむけて礼拝式を捧げたが、火と水に対しきまった供物を捧げる儀礼そのものは変わらなかったのではないかとしている[27]。
- ^ メアリー・ボイスによれば、キュロス2世がユダヤ教など他宗教に寛容な政策を採ったことで、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という[29]。ただし、ボイスが自著でその前提条件として、次の点を挙げている。ザラスシュトラ出生が紀元前1500年 - 1200年の間であること、紀元前536年にユダヤ人を解放したキュロスがゾロアスター教信仰を有していたこと、そしてこの時点で既に救済主思想がゾロアスター教の中で成立していたことである[30]。ただし、こうしたボイスの掲げる前提条件は、見解の相違するところでもある。
- ^ こうした影響に関する最新の論文として Werner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。
- ^ 19世紀から続く神官一族ジャーマースプ・アーサー家の第6代カイ・ホスロウによる入信式[46]。
出典[編集]
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参考文献[編集]
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- 伊藤義教『ゾロアスター研究』岩波書店、1979年4月。ISBN 978-4-00-001219-5。
- ミルチア・エリアーデ「第13章 ザラスシュトラとイラン宗教」『世界宗教史 2』松村一男訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年4月。ISBN 978-4-480-08562-7。
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- 岡田明憲『ゾロアスター教 - 神々への賛歌』平河出版社、1982年10月。ISBN 978-4-89203-053-6。
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- 前田耕作『宗祖ゾロアスター』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年7月。ISBN 978-4-480-08777-5。
- 旧版 『宗祖ゾロアスター』 筑摩書房〈ちくま新書〉、1997年5月、ISBN 978-4-480-05708-2。
関連書籍[編集]
- 青木健 「ゾロアスター教書籍パフラヴィー語文献『デーンカルド』第3巻訳注・その2」『東洋文化研究所紀要』 東京大学東洋文化研究所、第146号、2004年12月、pp. 72-41、NAID 120000872491。2011年1月6日閲覧。
- 青木健 『ゾロアスター教の興亡 - サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』 刀水書房、2007年1月。ISBN 978-4-88708-357-8。
- 青木健 『ゾロアスター教史 - 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』 刀水書房〈刀水歴史全書 79〉、2008年10月
- 『新ゾロアスター教史』刀水書房〈刀水歴史全書 99〉、2019年3月。ISBN 978-4-88708-450-6。
- 伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 平河出版社、2001年10月。ISBN 978-4-89203-315-5。
- 『ヴェーダ アヴェスタ』 伊藤義教訳、筑摩書房〈世界古典文学全集 3〉、1972年。ISBN 978-4-480-20303-8。::※原典の抄訳版
- 『原典訳 アヴェスター』伊藤義教訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2012年6月、ISBN 978-4-480-09460-5。
- ※1972年刊行の『ヴェーダ アヴェスター』から「アヴェスター」部分を抜粋
- 妹尾河童 『河童が覗いたインド』 新潮社〈新潮文庫〉、1991年3月。ISBN 978-4-10-131103-6。
- 堀尾幸司『キリスト殺しの真相 - ユダヤ・イエス・聖書』文芸社、2007年5月。ISBN 978-4-286-02838-5。
- タルデュー, ミシェル 『マニ教』 大貫隆・中野千恵美訳、白水社〈文庫クセジュ 848〉、2002年3月。ISBN 978-4-560-05848-0。
- 山本由美子 『マニ教とゾロアスター教』 山川出版社〈世界史リブレット 4〉、1998年4月。ISBN 978-4-634-34040-4。
- 山本由美子 「パルティアとゾロアスター教」『ヘレニズムと仏教 NHKスペシャル 文明の道 2』 NHK「文明の道」プロジェクト編、NHK出版、2003年7月。ISBN 978-4-14-080776-7。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- PersianDNA-世界各地のゾロアスター教コミュニティへのリンク集 (英語)
- マズダ・ヤスナの会 (日本語)