アルタクセルクセス2世
| アルタクセルクセス2世 𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠 | |
|---|---|
| ペルシア王 | |
|
ペルセポリスの王墓に刻まれたアルタクセルクセス2世の浮き彫り | |
| 在位 | 紀元前404年 - 紀元前358年頃 |
| 別号 |
大王 王の王 諸邦の王 この地界の王 |
| 出生 |
紀元前453/445年 |
| 死去 |
紀元前358年頃(94歳/86歳没) |
| 埋葬 | ペルセポリス |
| 配偶者 | スタテイラ |
| 子女 |
ダレイオス アリアスペス アルタクセルクセス3世 ロドグネ アトッサ シシュガンビス? アルサメスなど |
| 王朝 | アケメネス朝 |
| 父親 | ダレイオス2世 |
| 母親 | パリュサティス |
| 宗教 | イラン宗教(ゾロアスター教?) |
アルタクセルクセス2世(古代ペルシア語: 𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠 a-r-t-x-š-ç-a(R̥taxšaçā) アルタフシャサー、紀元前453/445年 - 紀元前358年頃)は、アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位: 紀元前404年 - 紀元前358年頃)。
その治世はペルシア王の中で最も長く、エジプトを失い弟と争うなど戦乱に見舞われたものであったが、ギリシア情勢に介入して帝国西部に対する支配を固めることに成功した。
名前
[編集]本名はアルサケス(アルシカスともいう、古代ペルシア語ではおそらくアルシャカ)とされているが、コロポンのディノンはそれをオアルセス(ギリシア語: Ὀάρσης Oársēs オアルセース)としている[1]。即位に際し、アルサケスはアルタクセルクセス(アルタフシャサー)を名乗った。ギリシアの著述家によってアルタクセルクセス2世に付けられた添え名は「記憶力よき(ムネモン、ギリシア語: Μνήμων Mnḗmōn ムネーモーン、古代ペルシア語: Abiataka アビアタカ)」である。
生涯
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即位まで
[編集]アルサケスはオコス(後のペルシア王ダレイオス2世)の長男として生まれた。母はオコスの異母姉妹にして後の王妃パリュサティスである。アルサケスが生まれたとき父はまだ王ではなかった。ダレイオス2世が王に即位した後、王妃パリュサティスはアルサケスの弟キュロス(小キュロス)を産んだ。クニドスの歴史家クテシアスによればダレイオス2世とパリュサティスには13人の子が生まれたというが、アルサケスの兄弟姉妹はキュロスと他数人しか知られていない。
プルタルコスの『対比列伝』によると、キュロスの気性が荒くせっかちな性格とは対照的に、アルサケスは温和で穏やかな人物であった。両親の希望でヒュダルネスの娘スタテイラと結婚した。後にダレイオス2世がスタテイラの兄弟を処刑し、更にスタテイラも処刑せんとしたとき、アルサケスは母パリュサティスを説得してスタテイラを処刑から救った。紀元前404年、ダレイオス2世の臨終に際し、パリュサティスはアルサケスが生まれたときダレイオス2世はまだ王ではなかったとして、溺愛するキュロスを後継者にするよう主張した。しかし、ダレイオス2世はこの主張を退け、長男のアルサケスを後継者に指名し、キュロスはリュディア総督に留められた。そして父王が崩御すると、アルサケスはアルタクセルクセス2世として王位を継いだ。
弟との争い
[編集]パサルガダエでアルタクセルクセス2世の即位式が行われていたとき、キュロスは兄の暗殺を企てた。この計画はティッサフェルネスによって密告で露見したが、パリュサティスの介入によりキュロスは恩赦を受け、リュディアに戻った。紀元前401年、キュロスはギリシア人傭兵を多数集め、王位を奪うべく反乱を起こした。ペロポネソス戦争でキュロスが支援していたスパルタは反乱への支援を約束した。その年の秋、兄弟はクナクサの戦いで激突し、アルタクセルクセス2世は敗北寸前となったが、功を焦って突出したキュロスが戦死したためその王位は守られた。しかし、キュロスが率いていた1万人のギリシア人傭兵を降伏させることはできず、傭兵たちは逃亡した。クセノポンの『アナバシス』は、自らもその一人であったギリシア人傭兵たちの帰還までの旅を描いている。
対ギリシア
[編集]その後総督ティッサフェルネスは、キュロスに味方した小アジアのギリシア諸都市を攻撃した。スパルタの将軍ティブロン、デルキュリダス、そしてスパルタ王アゲシラオス2世はこれに介入して小アジアに侵攻し、総督たちを相手に優勢に戦った。しかし、ギリシア本土でペルシアの資金援助を受けた諸都市がコリントス戦争を引き起こしたため、アゲシラオス2世は軍事的な成功を収めたもにもかかわらず帰国を余儀なくされた。
アルタクセルクセス2世はギリシア情勢に深く関わり、コリントス戦争ではアテナイなどの反スパルタ側と同盟を結んでスパルタに対抗した。しかし、この戦争におけるアテナイの成功を警戒したペルシアは後にスパルタ側に寝返った。それによって紀元前387年にすべてのギリシア諸都市の独立を認め、小アジアやキプロスにおけるペルシアの支配を確固たるものにするペルシアに有利な「大王の和約(アンタルキダスの和約)」という和平条約が締結された。スパルタは和約の守護者としてギリシアで覇権を握ったが、その後テーバイに取って代わられた。紀元前385年、アルタクセルクセス2世はカドゥーシオイに対する遠征を行った。
対エジプト
[編集]アルタクセルクセス2世は積年の問題であったギリシアとの関係を安定させたが、即位直後に独立したエジプトを再征服することはできなかった。紀元前375年頃、カッパドキア総督ダタメスをエジプト遠征軍の総司令官に任命したが、ダタメスが自らの勢力を拡大することを懸念して解任した。代わりにファルナバゾスとアテナイ人イフィクラテスがエジプトに侵攻したが、ギリシアの援軍を含むエジプトの激しい抵抗により、遠征は失敗に終わった。
総督の反乱
[編集]紀元前370年以降、ダタメスら数人の総督が帝国西部で反乱を起こした(サトラップ大反乱)。この反乱はエジプト、アテナイ、スパルタなどに支援されたが、最終的に反乱側同士の対立などにより鎮圧された。従来、この反乱はペルシアの支配体制を著しく弱体化させたと考えられてきたが、近年の研究ではその証拠は見つからないという。ペルシアは各地の総督に大きな権限を与えており、例えばカリア総督マウソロスは事実上独立していた。アテナイやテーバイの観点から見ると、この状況はペルシアの支配体制の弱体化と捉えられ、ギリシア内における自己の影響力拡大に有利に働いた。前者の説は、この影響を受けた歴史解釈に基づくものとされる。
建築と宗教
[編集]アルタクセルクセス2世は高祖父ダレイオス1世に匹敵する建築への情熱を持つ王であった。アルタクセルクセス2世はスーサのアパダーナ宮殿を再建し、エクバタナのアパダーナ宮殿などを築いた。その碑文の多くはスーサとエクバタナに現存している。アルタクセルクセス2世以降の碑文は、ダレイオス1世時代の代名詞や名詞の曲用が崩壊し、当時の古代ペルシア語が中期ペルシア語に向かって大きく変化していたことを示唆している。
宗教的には、以前の王がアフラ・マズダーへの信仰のみを主張していたのに対し、アルタクセルクセス2世以降はアナーヒターやミスラへの信仰を認めた。例えば、アルタクセルクセス2世がスーサに立てた碑文には、ダレイオス1世によって築かれ、アルタクセルクセス1世の時代に焼失したアパダーナ宮殿の再建は、アフラ・マズダーだけでなく、アナーヒターとミスラの恩寵によるものでもあったと記されている。
後継者問題と崩御
[編集]アルタクセルクセス2世には嫡出の3人の息子と庶出の115人の息子がいたとされる。アルタクセルクセス2世は長男ダレイオスを王太子としていたが、ダレイオスは後に父の暗殺を企てたため処刑された。その後、別の息子オコスは兄アリアスペスを自殺に追い込み、さらに父の寵愛を受けていた異母兄弟アルサメスを殺害した。最終的にオコスは父の後継者となり、アルタクセルクセス2世が在位46年目の紀元前358年頃に崩御すると、オコスはアルタクセルクセス3世として王位を継いだ。アルタクセルクセス2世の王墓はダレイオス1世以降の王墓があるナクシェ・ロスタムではなく、ペルセポリスにある。
史料
[編集]ギリシアの歴史家たちの著作において、アルタクセルクセス2世は穏やかで臣民を愛すると評されている[2]が、同時に残酷な一面を持ち宮廷内の争いに悩まされた王としても描かれている。ギリシアの文献において、アルタクセルクセス2世はペルシア戦争の当事者クセルクセス1世とともに頻繁に言及されている。同時代の史料としては、小キュロスの反乱の当事者クセノポンの『アナバシス』や『ギリシア史(ヘレニカ)』、アルタクセルクセス2世の侍医を17年間務めたギリシア人医師クテシアスの『ペルシア史』、そしてアルタクセルクセス2世が残した碑文やバビロンで発掘された粘土板文書などがある。また、プルタルコスの『対比列伝』にアルタクセルクセス2世の伝記が存在するなど、後の時代の記録にも現れる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Carsten Binder: Plutarchs Vita des Artaxerxes. Ein historischer Kommentar. Berlin 2008.
- Pierre Briant: From Cyrus to Alexander: A History of the Persian Empire. Winona Lake 2002, S. 612ff.
- Josef Wiesehöfer: Das antike Persien. Von 550 v. Chr. bis 650 n. Chr. Aktual. Neuauflage, Düsseldorf 2005.
- 伊藤義教 『古代ペルシア』 (岩波書店 1974年)
外部リンク
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