アルタクセルクセス1世
| アルタクセルクセス1世 𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠 | |
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| ペルシア王 | |
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ナクシェ・ロスタムの王墓に刻まれたアルタクセルクセス1世の浮き彫り | |
| 在位 | 紀元前465年8月 - 紀元前424年12月頃 |
| 別号 |
大王 王の王 諸邦の王 この地界の王 バビロン王 古代エジプト王 |
| 死去 |
紀元前424年12月頃 |
| 埋葬 | ナクシェ・ロスタム |
| 配偶者 | ダマスピア |
| アロギュネ | |
| コスマルテュデネ | |
| アンディア | |
| 子女 |
クセルクセス2世 ソグディアノス ダレイオス2世 パリュサティス |
| 王朝 | アケメネス朝 |
| 父親 | クセルクセス1世 |
| 母親 | アメストリス |
| 宗教 | イラン宗教(ゾロアスター教?) |
| 古代エジプト ファラオ | |||||||||||||||||||||
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ファラオ名 (五重称号)
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アルタクセルクセス1世(古代ペルシア語: 𐎠𐎼𐎫𐎧𐏁𐏂𐎠 a-r-t-x-š-ç-a(R̥taxšaçā) アルタフシャサー[1]、? - 紀元前424年12月頃)は、アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位: 紀元前465年8月 - 紀元前424年12月頃[2][3])。ギリシアの著述家によってアルタクセルクセス1世に付けられた添え名は「長き手(ギリシア語: Μακρόχειρ Makrókheir マクロケイル、ラテン語: Longimanus ロンギマヌス)」である。
温和さと寛大さにおいて最も優れていたペルシア王とされている[4]。
生涯
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即位
[編集]アルタクセルクセスはペルシア王クセルクセス1世と王妃アメストリスの間に生まれた。紀元前465年8月、父王が宦官の協力を得た近衛隊長アルタバノスによって暗殺され、これに関連して王太子の兄ダレイオスも死ぬと、若きアルタクセルクセスは王位を継ぎ、アルタバノスらを処刑した。
反乱
[編集]治世初期、バクトリア総督が反乱を起こしたが鎮圧された。この総督はアルタパノスまたはヒュスタスペス(アルタクセルクセスの兄弟)であったとされている。
紀元前460年頃、リビア人の首長であったリビア人イナロス(おそらくエジプト第26王朝の末裔)がアテナイの支援を受けてエジプトで反乱を起こした。反乱軍とアテナイ軍はパプレミスの戦いでエジプト総督アケメネス(アルタクセルクセスのおじまたは兄弟)率いるペルシア軍に勝利し、カリティミデスはアテナイ艦隊を率いてペルシア艦隊50隻を破った[5]。そして、反乱軍とアテナイ軍はメンフィスの「白き城壁」でペルシア軍を包囲した。スパルタの買収に失敗したアルタクセルクセスはシリア総督メガビュゾスを派遣し、この包囲を破らせた。イナロスはビュブロスに撤退したが、その後ペルシア軍に捕らえられた。こうしてエジプトの反乱は紀元前454年頃に鎮圧された。
クテシアスによれば、捕虜になったイナロスとギリシア兵が約束に反して処刑されたことが原因でメガビュゾスは反乱を起こした。ウシリスとメノスタネス(アルタクセルクセスの甥)が率いるペルシア軍がメガビュゾスに敗れた後、アルタクセルクセスはメガビュゾスと和解した。その後両者の間でもう一度対立が生じたものの再び和解した。
ギリシアとの和平
[編集]治世初期、アルタクセルクセスは父王の最大の敵とされるテミストクレスの亡命を受け入れ、マグネシア、ランプサコス、ミュウースの支配権を与えたとされる。
第一次ペロポネソス戦争が休戦した後の紀元前450年、キモンはデロス同盟の200隻の艦隊を率いてキプロスへの遠征を行った。エジプトに向かった船を除く140隻の艦隊はキティオンを包囲したが、その最中にキモンは死んだ。デロス同盟軍はサラミスに撤退し、そこで行われた海戦で勝利して帰還した[6]。そして紀元前449年頃、カリアスの和約が結ばれたことによって、ダレイオス1世の時代以来続いてきたペルシア戦争は正式に終結したとされている。カリアスの和約によってペルシアは小アジアのギリシア諸都市の自治を認め、エーゲ海から引き上げることになったが、アテナイはペルシア領内に干渉しないことになった[7]。ただし、カリアスの和約が存在していたかについては議論がある。
ペロポネソス戦争が始まると、アテナイとスパルタは共にペルシアとの同盟を試みたがアルタクセルクセスの時代のペルシアは中立を貫いた。
その他の事績と崩御
[編集]アルタクセルクセスは父王が建設に着手した首都ペルセポリスの玉座の間(百柱の間)を完成させた。また、この時代にスーサのアパダーナ宮殿が焼失したほか、この時代の古代ペルシア語の文字が刻まれた銀の皿が見つかっている。
在位41年目の紀元前424年12月頃、アルタクセルクセスは崩御した。その王墓はナクシェ・ロスタムにある。アルタクセルクセス1世の死後、嫡出の息子クセルクセス2世と庶出の17人の息子のうちの2人、すなわちソグディアノスとオコス(ダレイオス2世)が王位を争った。
タナハ/旧約聖書において
[編集]タナハ/旧約聖書の『エズラ記』、『ネヘミヤ記』には、ペルシア王アルタクセルクセスが登場する。この王は一般的にアルタクセルクセス1世を指すとされている。アルタクセルクセス王はアルタシャスタ王とも呼ばれる。
アルタクセルクセス王は祭司にして書記官のエズラに対して祭司やレビ人などの一団とともにバビロンからエルサレムに行く許可を出した。そしてエズラに神の律法に従ってユダとエルサレムの事情を調べ、金銀などをエルサレムの神殿に献げ、行政官や裁判官を任命して神の律法を知る者を裁き、神の律法を知らない者にそれを教え、神の律法と王の法律に違反した者を罰するよう命じた。さらにそのために多くの支援を行い、神殿に仕える祭司などに対する税を免除した。これはエズラに送られた文書で示されている。そして治世7年目、エズラは第1の月にバビロンを発ち、第5の月にエルサレムに到着した(エズラ記7)。
アルタクセルクセス王は役人たちと諸民族による文書を受け取り、調査の末ユダヤ人によるエルサレムとその城壁の再建工事を中止させた(エズラ記4)。治世20年目、アルタクセルクセス王は献酌官ネヘミヤに暗い表情をしているがどうしたのかと尋ねた。ネヘミヤはエルサレムが荒廃し、城門が焼かれたままであることを王に伝えた。傍らに王妃が座っていた王はネヘミヤの要望に応え、ネヘミヤを総督としてユダのエルサレムに遣わし、エルサレムとその城壁の再建を許可し、ユダに向かうための通過をユーフラテス川西方の総督たちに許可させるための書状と王の森林管理者アサフに木材を与えさせるための書状を与え、将校と騎兵を派遣した(ネヘミヤ記2)。エルサレムに着いたネヘミヤはエルサレムとその城壁の再建を成し遂げた。ネヘミヤがエルサレムに着いてから12年後の治世32年目、ネヘミヤは王のもとへ行ったが、しばらくして王の許しを得てエルサレムに戻った(ネヘミヤ記13)。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ↑ Ghias Abadi, R. M. (2004) (Persian). Achaemenid Inscriptions (کتیبههای هخامنشی) (2nd edition ed.). Tehran: Shiraz Navid Publications. pp. 129. ISBN 964-358-015-6
- ↑ 「アルタクセルクセス1世」-『世界大百科事典 第2版』平凡社
- ↑ 「アルタクセルクセス1世」奥西峻介 -『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
- ↑ プルタルコス『対比列伝』アルタクセルクセス 1.1
- ↑ クテシアス『ペルシア史』36
- ↑ トゥキュディデス『戦史』1.112
- ↑ ディオドロス『歴史叢書』12.4.5
外部リンク
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