ズルワーン教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ズルワーン教(ずるわーんきょう)とはゾロアスター教の滅びた分派で、ズルワーンを第一原理たる神(原初の創造者たる神)として奉ずる。ズルヴァーン主義、拝時教、ゾロアスター教ズルワーン派などと呼ばれることもある[1]

ズルワーン教においては、ズルワーンは無限なる時間(と空間)の神であり、アカ(一つの、唯一の)物質の神である。ズルワーンは互いに相反する、善の神アフラ・マズダと悪の神アンラ・マンユとの親である。ズルワーンは中立的な神とみなされる、というのは、性を持たず(中性で)、感情を持たず、善と悪のどちらにも傾いていない神だからである。ズルワーンは運命や光と闇の神でもある。ズルワーンは「Zurvan」とラテン文字表記されるがこれは標準化された発音を表記したものであって、中世ペルシア語でのこの語の発音をラテン文字表記すれば「Zurvān」、「Zruvān」あるいは「Zarvān」などとなる。中世ペルシア語での名称は「時間」や「老年」を意味するアヴェスター語「zruvan-」に由来する。

ズルワーン教徒あるいはズルヴァーン主義者はアフラ・マズダーあるいはスプンタ・マンユを、ズルワーンの卓越の下で二等分された神の一方だとみなしている。ズルワーン教の中枢的な教義においては、アフラ・マズダは中位の神に、アンラ・マンユは双子の兄弟のうちの堕落した方ということになってしまう。

マズダ主義者はアフラ・マズダを超越的な創造神とみなしていた。彼らの中枢的な教義ではアフラ・マズダが至高神であり、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの二柱が双子なのである。

起源と背景[編集]

ズルワーン教の起源と発展の詳細は未だはっきりしないが(三つの相反する意見が存在するため。以下の勃興と受容の説を参照)、ズルワーン教は大ゾロアスター教の分枝であること[2]、ズルワーン教の教義は聖典に認められる矛盾を解消するための聖職者たちの応答であったこと(以下の「双子の兄弟」の教義の発展を参照)[3]、その教義はおそらくハカーマニシュ朝期後半に導入されたものであること[4]に関しては広く受け入れられている。

ズルワーン教はサーサーン朝期(226年-651年)には国家の承認を受けたが、10世紀には滅亡していた。サーサーン朝期のズルワーン教は間違いなくヘレニズム哲学から影響を受けていたが、ゾロアスター教のズルワーンが、それ以前のペルシア人の宗教に存在した神を採用したものなのか、それとも異国の時間の神(ギリシアのクロノス)を採用したものなのかは、決定的に確証されてはいない。

ゾロアスター教が西方に到達した最初の痕跡として、ヨーロッパの学者がゾロアスター教は一元論的宗教だと断定している。これは学者たちの間でも、現代のゾロアスター教徒からも異論の多い言明ではあるが、ゾロアスター教の他のどの教派でもなくズルワーン教に対して非ゾロアスター教徒が評価を加えたのはこれが初めてである。

イランのズルワーンはサンスクリット単語の「サルヴァ」(sarva)と関係していて、どちらも一元論的な神を記述する上で同様の意味領域を持つ。

宗旨の史料[編集]

ズルワーン派の存在を示す最も古い証拠はロドスのエウデモス(370年頃-300年頃)に帰される『神学の歴史』に見いだされる。ダマスキオスの『第一の諸始原についてのアポリアと解』(6世紀頃)に引用されているが、空間・時間を、敵対関係にある光のオロマスデスと闇のアリマニウスの『父』とみなすペルシアのある教派についてエウデモスは記述している[5]

サーサーン朝時代のズルワーン教について知られていることの大部分は、同時代のキリスト教アルメニア語およびシリア語の史料から得られている。「ゾロアスターのカアバ」にみられるカルティールによる碑文やミフル・ナルセの布告書だけがズルワーン教を詳らかにする同時代のペルシア語史料であり、特に後者は明らかにズルワーン主義者によるものとしては、唯一の同時代の史料である。他にはサーサーン朝時代の宗教に関する批評書はごくわずかしかなく、全てサーサーン朝滅亡後に書かれたものである。

アルメニア語およびシリア語の史料ではサーサーン朝期ペルシアの宗教を明らかにズルワーン主義的なものとして描いているが、後世のペルシア語の批評書では主にマズダ主義的なものが記述されており、一つの例外(10世紀の『デーンカルド』、9.30)を除けばズルワーン主義に関しては全く触れられていない。いわゆるパフラヴィー語史料のうち、『メーノーグ・イ・フラド』と『「ザートスプラム」選集』(どちらも9世紀頃)の二つだけがズルワーン派の傾向を詳らかにしている。この二つのうち後者はズルワーン派の存在を証言する最後のゾロアスター教文書とされる。ズルワーン派の双子の父の教義に関して外国人がする話はペルシア語文献の『ウラマー・イェ・イスラーム』(イスラームの博士、13世紀頃)のみによってその内容が実証される。『ウラマー・イェ・イスラーム』はこのような書名ではあるものの、明らかにゾロアスター教徒の手になるものである。

アヴェスター語文献からは、(その今日現存するものは)サーサーン朝期に編集を受けているにもかかわらず、ズルワーンに対する「信仰」についての何らの示唆も見いだせない。これは、個々のサーサーン朝の君主が必ずしもズルワーン派ではなく、聖典が最終的に編纂された決定的な時期にはちょうどマズダ派ゾロアスター教が優位に立っていたからだとゼーナーが主張している[6]。サーサーン朝期以前に記された文献には、「ズルワーン」は二度登場するが、どちらも抽象概念としておよび目立たない神としての登場であって、教派を形成していたという証拠はない。『ヤスナ』(72.10)では大気と風(ワータ・ワユ)に対してとともにズルワーンに対して祈りがささげられている。『ヤシュト』(13.56)では時間がアフラ・マズダとアンラ・マンユの意思によって定まるのと同様にして植物が成長すると記されている。ズルワーンに対する二種類の異なる言及は『ヴェンディダード』にも現れるが、これらの記述は後から正典に付け足されたものであるのにやはりズルワーン派の存在を証言していない。ズルワーンがヤザタの一覧で名を挙げられることはない[7]

歴史と発展[編集]

勃興と受容[編集]

ズルワーン派の起源に関してはいまだ論争が続いている。ある考えでは[8]、ズルワーン派はハカーマニシュ朝後期の信仰形式の自由化に対する応答としてゾロアスター教から分かれてきたとされる。他の説[9]として、ズルワーンは、後にゾロアスター教に統合されるゾロアスター教以前の神の一柱であったと主張されている。第三の説[10]では、ズルワーン主義はゾロアスター教とバビロニア・東ローマの宗教との接触の産物とみなされる[11]

しかしながら、サーサーン朝(226年-651年)までに「無限なる時間」の神がよく確立され、王室の保護を受けたということは確かである。ズルワーン主義が教派として発展したと考えられる時期はサーサーン朝皇帝シャープール1世(241年-272年)の治世であり、おそらくこの時期にギリシアインドの思想がズルワーン派ゾロアスター教に導入された。

だが、サーサーン朝期のズルワーン主義とマズダ主義がそれぞれ独自の聖職者・組織を擁する別個の教派であったのか、それとも単に一つの統一体の中に二つの傾向があっただけなのかは知られていない。マズダ主義とズルワーン主義が教勢拡大のため競い合ったという話はキリスト教やマニ教の論述家の著作にみられるが、教義上の齟齬がさほど極端ではなかったので「帝国教会の幅広い後援の下で調停されることは不可能であった[12]

衰退と滅亡[編集]

サーサーン朝の最大版図(610年頃)

7世紀のサーサーン朝滅亡に伴って、ゾロアスター教は徐々に[要出典]イスラームに取って代わられていった。それでもゾロアスター教は存続したが、ゾロアスター教徒やますます減少していく国々はザラスシュトラガーサーに定めたマズダ派の教義へ回帰していった(以下の影響を参照)。10世紀までに、ズルワーン主義は消滅し、マズダ主義だけが残った。

ズルワーン派が消滅した(のにマズダ主義は生き残った)理由も学者たちが論じる問題として残っている。ズルワーン主義がサーサーン朝の国家宗教だったという理論の主張者の一人アルトゥール・クリステンセンは、被征服後にズルワーン主義が否定されたのはイスラームの一神論という新しい権威に対する応答・反応だったと主張している。イスラームの一神論の侵入が引き金となって、正統派を強固なものにするべくゾロアスター教の計画的な改革が起こった。[13]。対してゼーナーは、ズルワーン派の聖職者は「極端に厳密な正統派的慣行を有しており、ほとんどの人には耐え難い。さらに、彼らは預言者の言葉を二元論的に解釈するので彼らの考える神は全知全能からは程遠いものになってしまう。まったくの二元論が純粋に知的な考え方から生じるの同じだけ論理的に、それは真の一神論に対する訴求力を持たないし、その内的性を育成する神秘的要素も持たない[14]

もう一つの受け入れられる説明はメアリー・ボイスが提起したもので、それによれば、マズダ主義とズルワーン主義は地域によって分けられる、つまり、マズダ教は北部と東部(バクトリアマルギアナ、その他のザラスシュトラの生地に近い州)で優勢で、一方ズルワーン主義は南部と西部(バビロニア付近やギリシアの影響力が強い地域)で顕著であるという。これはマニ教徒たちの史料に支持されており、それによれば、3世紀のマズダ派ゾロアスター教は根拠地を北東部のパルティアにおいていたという。ペルシア帝国の滅亡後、南部や西部は比較的早くイスラームの旗の下に同化され、対して北部や東部は吸収されるまでにしばらく時間がかかった[15]。Boyceの提起によって、アルメニア語・シリア語の史料にみられるゾロアスター教が明らかにズルワーン派である理由も説明できるし、ギリシアバビロニアがズルワーン主義に強い影響を与えたことも説明がつく(以下のズルワーン主義の種類を参照)。

「双子の兄弟」の教義[編集]

「古典的ズルワーン主義」(:Classical Zurvanism)はZaehner (1955, intro)が作った術語で、ザラスシュトラが『アヴェスター』(30.3-5、『ヤスナ』) に記した「双子の魂」の矛盾を解消しようとする運動を指す。ゼーナーによれば、この「本来のズルワーン主義」は「ゾロアスターが解決せずに残した双子の魂の謎を解明しようとしている点で真にイラン的・ゾロアスター的[16]であった。

聖職者たちがそれを説明しようとしたように、悪しき霊(「アンラ・マンユ」)と善なる霊(スプンタ・マンユ、後にアフラ・マズダと同一視される)が双子ならば、彼らには「父」がいてその「父」が彼らより先だっていなければならない。聖職者たちは「ズルワーン」―(無限なる)時間の実体―を「そこから双子が生まれてくるありうる唯一の『絶対者』」に同定した[17]

ズルワーン派の「双子の兄弟」の教義はズルワーン主義の宇宙進化論的な創造神話からも知ることができる。その神話は「古典的な」形では、マズダ派による宇宙の起源・進化のモデルと矛盾しない。マズダ派のモデルはズルワーン派のモデルが終わるところで始まる。(キュモンとシュレーダーによれば)ズルワーン派宇宙進化論は先行するヘレニズムのクロノスの宇宙進化論を改造したものである。クロノスは「時間の父」としての無限なる時間として描かれる(ティターン神族の一人でゼウスの父のクロノスと混同しないよう注意)。ギリシア人を時間の神クロノスを「オロマスデス」つまりオフルムズド、アフラ・マズダと同一視した。

「古典的」ズルワーン派の創造のモデルは非ゾロアスター教徒による史料からのみ知られるものだが、次のようなものである:初めに、偉大なる神ズルワーンのみが存在していた。「その間に天国と地獄、全て」を創造する子供を望んで、ズルワーンは1000年を費やした。この期間が終わると、両性具有なるズルワーンは費やした時間が無駄だったのではないかと疑いはじめ、この疑っている間にオフルムズドとアーリマンが創造された。時間を費やすことでオフルムズドが、疑うことでアーリマンが創造されたのである。双子の誕生にあたって、ズルワーンは先に生まれたものに被造物の統治を認めることにした。オフルムズドはズルワーンの決定を受け、兄弟とコミュニケーションをとった。それに対してアーリマンは子宮を切り裂き先に生まれることでオフルムズドが統治権を得るのを阻止しようとした。アーリマンの統治を認めることをズルワーンはしぶしぶ認めたが、アーリマンの統治は9000年に限られ、その後は永遠にオフルムズドが統治することになった[18]

こういった神話が典型的なゾロアスター教だとキリスト教マニ教宣教師が思いなし、西洋に初めて紹介されたのもこれらやこれらに類似の文書であった。アブラアム・ヤサント・アンクティル・デュペロンによる『ヴェンディダード』(19.9)の「誤った翻訳」に確証され、こういった思いなしは18世紀後半に、無限なる時間がゾロアスター教の第一原理であり、オフルムズドは「派生的・二次的な存在」にすぎないという結論をもたらすことになった。皮肉にも、ズルワーンの誕生に関する教義を示唆するゾロアスター教神話がないことは本来の原理が後の時代に崩壊したことの証拠とみなされた。ゾロアスター教は強く二元論的であるから実際は二神論だとか、あるいは三神論であるという意見すら19世紀後半まで考えられていた[19]

ズルワーンの親類(他の神話において)[編集]

ほとんどの神話ではズルワーンの母にして炎の女神アン・ナールの存在が信じられている。彼はヒンドゥー教の女神パルヴァティをも愛していた。ズルワーンの誕生後、アン・ナールは子供を生んだことが原因で死んだ。

ズルワーン主義の種類[編集]

ゼーナーによれば、ズルワーン派の教義は三つの学派に分かれていたようで、異教哲学に影響されている度合いはそれぞれ異なっていた。その三学派、「唯物論的」ズルワーン主義、「美学的」ズルワーン主義、「運命論的」ズルワーン主義はいずれも「古典的」ズルワーン主義を基礎としていた。

美学的ズルワーン主義[編集]

「美学的」ズルワーン主義は「唯物論的」ズルワーン主義に比して明らかに人気がなかった。ズルワーンは未分離な時間であり、欲望の影響下で理性(男性原理)と情欲(女性原理)に分けられると考えていた。

デュシェーヌ=ギユマンによれば、この分離は「グノーシス主義か―よりありそうなこととして―インド宇宙論のにおいがする」という。『リグ・ヴェーダ』(10.129)のプラジャパティとズルワーンとの類似は原インド・イランのズルワーンにまで遡るとヴィデングレンが証言しているが、こういった主張は後に放逐された[20]。それにもかかわらず、ヴェーダの聖句の中にはズルワーン派の要素に類似したものがあり、ゼーナーが提起したように「インド人にとって時間は素材、あらゆる偶然的存在の「第一質料」である」。

唯物論的ズルワーン主義[編集]

唯物論的ズルワーン主義はアリストテレス及びエンペドクレスの「物質」観に影響を受けており、「非常に奇妙な形式」をとっている[21]

ザラスシュトラの言うオルムズドは自身の意志をもって宇宙を創世したが、唯物論的ズルワーン主義は、万物が無から創造されたという思想に挑戦する。これは明らかに異教的思想であり、(天国と地獄、賞罰を含む)霊的世界など存在しないという立場の方を好んでゾロアスター教の教理を放棄している。

物質的なものと霊的なものとの基本的な区別は『アヴェスター』と無関係というわけでは全くないが(「ゲティ」と「マンユ」、中世ペルシア語の「メーノーグ」はマズダ派で使われた術語であり、アフラ・マズダは世界を創造する際先に霊的な、後に物質的なものを作ったとされる)、唯物論的ズルワーン主義では「メーノーグ」が再定義され、(まだ)物質を持たないもの、あるいはまだ形を成していない原初の物質を指すようになり、アリストテレスの質料の概念と一致するようになった。ただ、これも必ずしも正統派ゾロアスター教に悖るというわけではない、というのは、「ワユ」神はオルムズドとアーリマンの中間に存在し、虚無が光と闇の両王国を分け隔てているからである。

運命論的ズルワーン主義[編集]

(ズルワーンがアーリマンに割り当てた)有限な時間の教義は、物質的世界におけるこの定められた行程を変えることはできないこと、そして「天球」の星状体の運行はこの定められた行程を表していることを示している。これに伴って、人間の運命は、善(黄道十二星座)と悪(惑星)に分けられる星座恒星・惑星によって決まらなければいけないことになる。「オフルマズドは幸福を人間に割り当てたが、人間がそれを受け取らなければ、これらの惑星の強奪に遭うことになる」[22]。運命論的ズルワーン主義は明らかにカルデア人の占星術から、おそらくアリストテレスの偶然と幸運の理論から影響を受けている。アルメニアとシリアの註釈家が「ズルワーン」を「運命」と訳したのは非常に示唆に富んでいる。

誤解された特徴[編集]

R・C・ゼーナーは著書『ズルワーン』の初版で、ミトラ教の獅子面の神をズルワーンのヴァリエーションとみなしているがこれは不正確である。後に彼は論証段階でこれは「疑いなく間違いだ」と認めている。獅子面の神は悪しき神アフレイマニウスつまりアーリマンのヴァリエーションである[23]。しかし、それでもゼーナーがフランツ・キュモンに帰した、様々なウェブサイトで増殖している誤謬を止めることはできなかった。

ズルワーン教の影響[編集]

ズルワーン派特有の儀式や慣習があった証拠は発見されておらず、この宗派の信者はマズダ派ゾロアスター教徒と同様の儀式・慣習を有していたと信じられている。同じ儀式・慣習が両教派に受け入れられる理由として、ズルワーン派にとって基本的な双子の教義は(ズルワーンとアーリマンを除く万物の)創造主としてのオフルムズドへの信仰を排除しないということがある。逆に、明らかにズルワーン派であるような要素は昨今のゾロアスター教に残存していない。

近年のゾロアスター教(これは今日ではマズダ主義と同じものを指す)から見れば、ズルワーン派は多くの人が存在してほしくないと思っているだろうディレンマである。ズルワーン派は他の手段では近年のゾロアスター教にまで伝わる影響を残さなかったが、ズルワーン主義の明確な二元論の強い力の残響は西洋の学問に見出せる。ズルワーン派の二元論と強く一神論的な近年のゾロアスター教徒の両立し難さは今日のゾロアスター教徒に、ズルワーン主義が未だ残存していることを無視するかそれともその教説が明らかに異端的であることを無視するかという選択の余地を残した。

ズルワーン派の『ヤスナ』(30.3-5)解釈によってズルワーン主義の(ズルワーンから生まれた)「双子」の教義がもたらされていることはそういった冒涜の一つである。この解釈によって、アフラ・マズダは自身は創造されることのない神(『ヤスナ』 45.2)であり、全知にして万物の創造主(『ヤスナ』 44.7)だという本来ザラスシュトラが行った特徴づけを廃することになる。創造されたのでない神というザラスシュトラの教義は『ヤスナ』(30.3)からも確かめられる。同じ部分が「双子の兄弟」の原理の外因説が示されてもいる。

ズルワーン派運命論にみられる明らかな悲観主義は本質的に楽天主義的なマズダ派と明らかに相容れず、また、ザラスシュトラが成したなかでも最大の宗教哲学的功績と思われているもの、自由意思の概念に反している。『ヤスナ』(45.9)において、アフラ・マズダは善行を成すか悪行を成すか選択することを「人間の意志に委ねた」 。運命の手に定めを委ねることで、ズルワーン派はゾロアスター教の教理で最も尊重されるべき部分、つまり善い思考、善い言葉、善い行いの効力という教理から距離を置くことになった。

ズルワーン派の創造論が中世のゾロアスター教徒にとっても背信であったということは10世紀の『デーンカルド』からも明らかである。『ヤスナ』(30.3-5)に対する注釈のなかで『デーンカルド』はズルワーン派が預言者の言葉とみなしたものから、「オフルムズドとアーリマンが両方とも一つの子宮の中にいたと嫉妬の悪魔が人間に宣言したこと」をゾロアスターが思い出していることへと転じている。[24]。ゼーナーは『デーンカルド』のこの一節を『ヤスナ』(30)に対する独創的な誤解とみなしている。

だが、ズルワーン主義が専ら異端の最たるものだとみなされていることは注目すべきである、というのは、この教派にみられる厳密な二元論は、ハカーマニシュ朝末期にゾロアスター教がほぼ到達していた自然現象の多神論的合理化よりも、ザラスシュトラ自身のガーサーで言及されている二元論と一致する。他のやり方で理解されるものと一致するゾロアスター教の「双子の魂」の教義をもたらす「古典的ズルワーン主義」の根本的な目的は、極端なものであったが、(ゼーナーによれば)それは見当違いのものというわけでは全くなかった。サーサーン朝期に明らかに二元論的な教義が発生したわけではないことの中で、Zaehner(1961)は以下の主張を行っている。ゾロアスター教社会には、真と偽、聖なる霊と破壊的な霊という厳格な二元論を預言者の言葉の本質であるとみなす集団が存在した(に違いない)。他の方法では、ハカーマニシュ朝滅亡後6世紀ごろに厳密に二元論的な形のゾロアスター教が再生したことは簡単には説明できない。自分たちが預言者の真の言葉だとみなすものを定義することに専心する熱狂的なマイノリティーがいたに違いない(一方「教会」には正統派の集団がいたに違いない)。このマイノリティーは儀礼様式だけでなく神学も有していたと今日考えられており、マギの間に見いだされる。また、実際には、マギに対して、アリストテレスその他の初期のギリシアの著述家がオロマスデスアレイマニオスという二つの独立した原理の完全に二元論的な教義を帰していた。さらに、今日では、マギの組織を創設したのはザラスシュトラ自身だとされている。だが、ハカーマニシュ朝の崩壊はゾロアスター教にとって破滅的なものであった。また、崩壊後600年程の間預言者の元々の言葉から極端には異ならない形式をマギ達が実践し、復興し、それと同じだけ保持した事実は、ザラスシュトラの記憶に彼らが傾倒していたことを示している。実際、サーサーン朝期の正統派ゾロアスター教は、大きく変容している『ヤシュト』の多神論よりも、ザラスシュトラの精神に近い。

そのため、―ゼーナーによれば―サーサーン朝がとった方針はガーサーの精神と全く異なるところがないが、遠く離れていて近づきがたい神に伴う極端な二元論は信仰にいざなうよりもむしろ信仰をもたらす。ズルワーン主義はゾロアスター教の訴求力を弱めたという意味でのみ本当に異端的である。

それにもかかわらず、帝国滅亡直前の激変期にズルワーン主義が有力な種類のゾロアスター教であったことは、デュシェーヌ=ギユマンによれば、(マズダ主義ではなく)ズルワーン主義がイランに根付いたシーア派イスラームに及ぼした影響の度合いから明らかであるという。史的現在を書き込んで、彼は「ホスロー2世(590年-628年)や彼の後継者の治下にはあらゆる種類の迷信がマズダ主義を席巻する勢いであり、マズダ主義は徐々に崩壊し、イスラームの大勝利の準備となった」と言及している。そのため、「ムスリムの支配下の一般的な道徳として生き残ったのはマズダ主義ではなかった。それがズルワーン派運命論だったことはペルシア語の史料がよく証言している[25]」。これはゼーナーが表明した説でもある。彼は、フェルドウスィーが『シャー・ナーメ』で「一般的なズルワーン派の教義の縮図とみられるものを詳説した[26]」ことに着目している。そのため、ゼーナーとDuchesne-Guilleminによれば、ズルワーン主義の悲観主義的運命論はペルシア人の精神を形成したと言っていいほどの影響を与え、いわばサファヴィー朝期のシーア派哲学への迅速な順応へと至る道を舗装したのであるという。

ゼーナーとシャーキーによれば、9世紀の中世ペルシア語文献の中で、「ダーリ」(from Ar.-Persian dahr, time, eternity)は世界が無限なる時間から生まれたというズルワーン派の教義の信奉者に対する呼称である。後代にはこの言葉は「無神論者」や「唯物論者」に対する蔑称となった。この言葉はさらに―懐疑主義者を指す他の言葉とともに―『デーンカルド』(3.225)や『Skand-gumanig wizar』に現れ、そのなかで「神などいないと言う者は『ダハリ』と呼ばれ、自身を宗教的鍛錬と有益な行いをするという労働に由来するものだとみなしていた[27]

脚注[編集]

  1. ^ ズルヴァーン主義および拝時教という訳語が見られるのは:青木、2007年
  2. ^ Boyce 1957:157-304
  3. ^ Zaehner, 1955, intro
  4. ^ Henning, 1951; loc. Cit. Boyce 1957:157-304
  5. ^ Dhalla, 1932:331-332
  6. ^ Zaehner, 1955:48; Duchesne-Guillemin, 1956:108
  7. ^ Dhalla, 1932
  8. ^ Zaehner, 1939; Duchesne-Guillemin, 1956; Zaehner 1955, intro
  9. ^ Nyberg, 1931; Zaehner 1955, conclusion
  10. ^ Cumont and Schaeder; reiterated by Henning, 1951; Boyce 1957
  11. ^ これら対立する意見の総評としては Boyce, 1957:304を参照。
  12. ^ Boyce, 1957:308
  13. ^ Boyce, 1957:305
  14. ^ Zaehner, 1961
  15. ^ Boyce, 1957:308-309
  16. ^ Zaehner, 1961
  17. ^ Zaehner, 1961
  18. ^ Zaehner, 1955:419-428
  19. ^ Dhalla, 1932:490-492; cf. Boyce, 2002:687
  20. ^ Duchesne-Guillemin, 1956
  21. ^ Zaehner, 1961
  22. ^ 『Menog-i Khirad』 38.4-5
  23. ^ Zaehner, 1972
  24. ^ 『デーンカルド』, 9.30.4
  25. ^ Duchesne-Guillemin, 1956:109
  26. ^ Zaehner, 1955:241
  27. ^ Shaki, 2002:587-588

参考文献[編集]

  • Boyce, Mary (1957). “Some reflections on Zurvanism”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies (London: SOAS) 19/2: 304–316. 
  • Duchesne-Guillemin, Jacques (1956). “Notes on Zurvanism”. Journal of Near Eastern Studies (Chicago: UCP) 15/2 (2): 108–112. doi:10.1086/371319. 
  • Frye, Richard (1959). “Zurvanism Again”. The Harvard Theological Review (London: Cambridge) 52/2: 63–73. 
  • Shaki, Mansour (2002). “Dahri”. Encyclopaedia Iranica. New York: Mazda Pub. pp. 35–44. 
  • Zaehner, Richard Charles (1940). “A Zervanite Apocalypse”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies (London: SOAS) 10/2: 377–398. 
  • Zaehner, Richard Charles (1955). Zurvan, a Zoroastrian dilemma. Oxford: Clarendon. ISBN 0-8196-0280-9 (1972 Biblo-Moser ed). 
  • Zaehner, Richard Charles (1961). The Dawn and Twilight of Zoroastrianism. New York: Putnam. ISBN 1-84212-165-0 (2003 Phoenix ed).  A section of the book is available online. Several other websites have duplicated this text, but include an "Introduction" that is very obviously not by Zaehner.
  • Zaehner, Richard Charles (1975). Teachings of the Magi: Compendium of Zoroastrian Beliefs. New York: Sheldon. ISBN 0-85969-041-5. 
  • 青木健『ゾロアスター教の興亡 ―サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ―』刀水書房、2007年1月10日、ISBN:978-4887083578

参考Webサイト[編集]