カン丘倹

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本来の表記は「毌丘倹」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

毌丘 倹[1](かんきゅう けん、? - 255年)は、中国三国時代の武将。仲恭司隷河東郡聞喜県の人。父は毌丘興。妻は荀氏。弟は毌丘秀。子は毌丘甸・毌丘宗ら。娘は毌丘芝。孫は毌丘重・毌丘奥。

経歴[編集]

若き日[編集]

父は曹操に仕えた人物で、曹丕(文帝)の時代に武威太守として活躍した。蘇則郝昭と共に雍州涼州の平定に功績があり、将作大匠となった。毌丘倹は父の死後爵位を継いだ。

毌丘倹は父の功績もあって曹叡(平原王、後の明帝)に即位前から仕え、厚遇された。曹叡が即位すると尚書郎となり、羽林監に昇進した。

その後、洛陽の典農となった。曹叡が何度か土木工事を行なったことを諌めたが、その後まもなく荊州刺史に転じた。以後、幽州豫州揚州の刺史を歴任することになる。

高句麗遠征[編集]

遼東公孫淵は年々傲慢になり、孫権の調略の手を受けつつ、不審な行動を続けていた。このため毌丘倹は曹叡の命令により幽州刺史に転じた。237年高句麗烏桓に援軍を求め、北方の余剰戦力を動員して公孫淵征伐を図ったが、衛臻から兵数に任せ用兵を軽視していると批判された。結局公孫淵を攻めきれず撤退したため、かえって公孫淵の勢いを増幅させることになってしまい、公孫淵が燕王を自称することにつながった。翌年、司馬懿の指揮下でようやく公孫淵を破ることに成功した(遼隧の戦い)。この功績により安邑に昇進している。

呉の調略が朝鮮半島の諸勢力にも及んでいたため、魏が楽浪郡帯方郡を設置して整備すると、朝鮮半島の諸勢力と関係が緊張したという。高句麗の東川王(憂位居)は公孫淵討伐には協力的であったものの、242年以降には再び魏と険悪な関係になった。このため毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、244年には更に東へと進んで高句麗の軍勢を大破し、都の丸都を蹂躙した。しかし東川王(憂位居)に逃られてしまったため、高句麗を滅ぼすことはできなかった。この功績により恩賞を受け、侯となった者は百余人もいたといわれる。隧道を掘り灌漑を行なったので、住民は恩恵を受けた。

後に司馬師が実権を握ると、胡遵王昶諸葛誕陳泰と共に、四方の都督の一人として名が挙がる存在となった。252年、鎮南将軍・豫州刺史であった毌丘倹は孫権の死に乗じて、王昶・胡遵と共に呉征伐を計画し上奏した。傅嘏の反対があったものの出征は許可された(東関の役)。毌丘倹は王昶と共に荊州方面で陽動軍を率いて呉を牽制したが、本隊を率いた揚州方面の胡遵・諸葛誕が、呉の諸葛恪に敗れたため失敗した(東興の戦い)。このため毌丘倹は鎮東将軍に転じた上で、敗北した諸葛誕に代わり、文欽(揚州刺史)と共に呉への備えとして、揚州に鎮すことになった。

253年、諸葛恪が大軍を率いて魏に侵攻したが、毌丘倹は文欽や司馬孚、さらに合肥新城の張特と共にこれを防ぎ、撤退する諸葛恪を司馬師の指示に従い文欽と共に追撃した(合肥新城の戦い[2]。毌丘倹は戦死した兵士の功績を上奏し、家族のために便宜を図っている。(三少帝紀)。

毌丘倹と文欽の反乱[編集]

254年、司馬師が夏侯玄李豊等のクーデターを鎮圧し、曹芳(斉王)を廃位すると、夏侯玄や李豊と親しかった毌丘倹の地位も不安定となった。毌丘倹は、元曹爽の寵臣で将来に不安を持っていた文欽を取り込み、反乱の準備を進めた上で、255年に起きた天変を瑞祥と確信し、文欽と共に6万の兵を率いて挙兵した。司馬師の非を鳴らし、その排斥を上奏したものの容れられず、討伐を受けた。司馬師は、毌丘倹が反乱の準備を整えていないことを見抜いた王基の意見を容れ、迅速に十数万の討伐軍を送った。司馬師は毌丘倹がジリ貧に陥ったのを見定めると、直接戦わず敵軍の自壊を待つと共に、諸葛誕や胡遵に毌丘倹の本拠である寿春を脅かさせ、毌丘倹軍の将兵を次々に投降させた。鄧艾が一万余の兵を率いて楽嘉に駐屯していたため、文欽と子の文鴦は楽嘉を攻めようと画策した。しかし夜が明けてみると、司馬師らが大軍を率いて楽嘉に駐屯していたため、文欽・文鴦らは恐れをなして戦線を東に下げた(楽嘉の戦い)。文鴦が魏軍相手に善戦したが、司馬師は近衛騎兵隊を放って追撃し、文欽を破った。その後、文欽・文鴦らは数万の軍勢と共に呉へ亡命した。毌丘倹は文欽が負けたと聞くと、軍勢を捨てて逃走した。弟の毌丘秀と孫の毌丘重は呉への亡命に成功したものの、毌丘倹自身は逃走中に、安風津の都尉配下の民である張属なる者に討たれた(毌丘倹の反乱)。その首級は都で晒された。

子の毌丘甸は在京していたため、逃走を図ったが捕らえられ誅殺された。妻の荀氏も捕らえられたが、縁戚の荀顗や荀虞の嘆願もあり助命された。身重であった娘も連座で誅殺の対象となったが、母の荀氏が何曾に助命を嘆願したため許された。毌丘倹の子(おそらく毌丘甸の弟)で呉への使者となった毌丘宗はそのまま呉に仕えた。西晋が呉を討伐すると、毌丘宗とその子の毌丘奥は許され西晋に出仕した。

小説『三国志演義』では、子の毌丘甸は毌丘倹の元にいたことになっている。また毌丘倹は逃走の途中、宋白なる人物に酒で酔いつぶされ、討たれたことになっている。

評価[編集]

陳寿は、毌丘倹のことを「ずばぬけた才能と識見を有していた」と評している。

毌丘倹の遺跡[編集]

1906年、輯安北方で「毌丘倹紀功碑」が発見された。242年(魏の正始3年)の建立と見られ、高句麗征伐の功績を称えたものである[3]

また、2005年3月5日、本籍地である山西省運城市聞喜県で、毌丘倹とその一族を祀った碑が発見された。碑には毌丘一族18名の姓名と、背面の下方に“難主毌丘儉”と刻まれていた。「難」とは、司馬師に敗死する難に遇ったことを意味する。両側には、建立主と見られる毌丘元顯、その子の世威、その子の毌丘孝忠、比丘(男僧)などの姓名が刻まれていた。『平陽府志』によると、毌丘元顯が399年頃に毌丘寺で修行をしており、碑はこの前後に建立されたと見られている[4]

脚註[編集]

  1. ^ 中華書局本発行の『晋書』にある「校勘記」によると、姓の『毌』の字は貫くの意で、毋(ブ)・母(ボウ)と混同し易いが、別字である。また、『晋書』の注釈書の一つである『晋書音義』によると、毌の字は毋であり、音は「ブ(無)」で「ぶきゅうけん」と読むべきだと記されているが、後の研究により「かんきゅうけん」が正しいことが判明している。
  2. ^ 裴松之によれば、毌丘倹は「司馬孚と我々は計略を立て、要害の地を遮り、戦闘を避け、引き返して合肥新城を守りました。死者が泥にまみれたものの、魏の将兵は昼も夜も守り続け、100日間頑張りました。魏が軍隊を持って以来、これほどの苦難は存在しなかったでしょう」と上奏している。
  3. ^ 京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料 文字拓本  魏晋  魏毌丘倹紀功碑
  4. ^ 新華社 譚博文山西發現三國人物遇難紀念碑