蜂須賀茂韶
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
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生誕 | 弘化3年8月8日(1846年9月28日) |
死没 | 大正7年(1918年)2月10日 |
改名 | 氏太郎、茂韶 |
戒名 | 大源院殿 |
墓所 | 万年山(徳島県徳島市) |
官位 | 従四位上、阿波守、侍従、侯爵、勲一等 |
藩 | 阿波国徳島藩主 |
氏族 | 蜂須賀氏 |
父母 | 父:蜂須賀斉裕、母:鷹司標子 |
兄弟 | 賀代姫(松平茂昭正室) |
妻 |
正室:蜂須賀隆芳の娘・斐姫 継室:徳川慶篤の娘・随子 |
子 | 正韶 |
蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。
経歴
第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の22男)の次男。母は鷹司標子。幼名は氏太郎。のちに従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を賜り、茂韶と名乗る。慶応4年(1868年)1月、父の急死により家督を継ぐ。しかし斉裕の死が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたとまで言われている。
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。帰国後、第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 - 1896年)、文部大臣等を務め、麝香間祗候の待遇を受ける。
また、黒田長成と懇意であり京都東山の豊国神社の豊臣秀吉廟が豊国会により修築された折には燈籠を寄進している(先祖の蜂須賀正勝は秀吉の恩によって大名になった)。
年譜
- 1860年(万延元年)3月、従四位上に叙位。侍従に任官し、淡路守を兼任。
- 1864年(元治元年)4月、左近衛権少将に転任。淡路守如元。
- 1868年(明治元年)1月17日、家督を相続する。3月4日、朝廷の議定に補任。刑法官事務局輔を兼帯。同月、左近衛権中将に転任。阿波守を兼任。淡路守の任替。同月、従二位に昇叙し、権中納言に転任。4月21日、刑法官事務局輔の兼帯を止む。
- 1869年(明治2年)4月8日、明治政府の民部官知事を兼帯。5月15日、議定・民武官知事を止め、麝香間祗候に異動。6月24日、徳島藩知事に異動。
- 1871年(明治4年)7月14日、廃藩。8月20日、左院少議官に仕官。10月18日、左院少議官辞任。
- 1872年(明治5年)、イギリス・オックスフォード大学にて留学。
- 1879年(明治12年)1月、大学卒業に伴い、帰国。8月、外務省御用掛に任官。
- 1880年(明治13年)4月10日、大蔵省関税局長(三等出仕)に異動。
- 1882年(明治15年)5月24日、参事院議官に異動。この段階で勲三等に叙勲をしている。5月25日、法制部勤務。12月20日、駐フランス国特命全権公使として異動し赴任。
- 1884年(明治17年)7月7日、侯爵を授爵。
- 1886年(明治19年)9月、駐フランス国特命全権公使の任を終え、帰国。
- 1887年(明治20年)6月7日、元老院議官(勅任官一等)に任官。
- 1888年(明治21年)7月12日、高等法院予備裁判官を兼帯。
- 1890年(明治23年)2月、侯爵議員を終身兼帯。5月19日、東京府知事並びに東京市長を兼帯。
- 1891年(明治24年)7月21日、貴族院議長に異動。
- 1895年(明治28年)12月20日、正二位に昇叙。
- 1896年(明治29年)3月14日、勲一等瑞宝章を受章[1]。9月28日、第二次松方正義内閣の文部大臣を兼帯。10月3日、貴族院議長辞任。
- 1897年(明治30年)11月6日、枢密顧問官に異動(終身)。
- 1899年(明治32年)4月13日、文官高等懲戒委員長を兼帯。
- 1900年(明治33年)7月4日、会計検査官懲戒裁判所長官を兼帯。
- 1906年(明治39年)10月10日、会計検査官懲戒裁判所長官を再度兼帯。
- 1908年(明治41年)2月8日、議定官を兼帯。
- 1916年(大正5年)7月6日、教育調査会総裁を兼帯。
栄典
- 明治元年閏4月21日 - 従二位
- 1881年(明治14年)7月16日 - 勲三等旭日中綬章
- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[2]
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
- 1894年(明治27年)3月9日 - 大婚二十五年祝典之章
- 1895年(明治28年)12月20日 - 正二位[6]
- 1896年(明治29年)3月14日 - 勲一等瑞宝章[7]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 旭日大綬章[8]
- 1914年(大正3年)6月18日 - 金杯一組
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)4月1日 - 金杯一組
- 1918年(大正7年)2月10日 - 従一位・旭日桐花大綬章[11]
- 外国勲章佩用允許
- 1881年(明治14年)
- 1884年(明治17年)3月11日 - スペイン王国イザベラカトレキ第一等勲章
- 1887年(明治20年)10月19日 - ポルトガル王国ノートルダムドラコンセプションドヴォウィシヲサ勲章グランクロワー
- 1888年(明治21年)
- 3月24日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエ
- 9月11日 - オスマン帝国グランコルドンドロルドルドレオポール勲章
系譜
- 父:蜂須賀斉裕
- 母:鷹司標子 - 鷹司政通の娘。
- 正室:斐姫 - 蜂須賀隆芳の娘。
- 継室:蜂須賀随子 - 徳川慶篤の娘。
- 養女:吉井貞子 - 徳川篤守の娘、吉井信照に嫁ぐ。
- 側室:某氏
- 長男:蜂須賀正韶
盗賊伝説について
司馬遼太郎の『街道をゆく43 濃尾参州記』に、こんな記述がある。茂韶が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを一本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、諧謔を以って「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに茂韶をながめられたという。これは明治天皇が『太閤記』の記述に基づき阿波の徳島藩主蜂須賀氏の初代蜂須賀正勝が盗賊あがり(土豪あがり)だと思っていたためだろう。これがきっかけとなり、蜂須賀家では歴史学者の渡辺世祐に依頼して、正勝が盗賊ではないことを立証してもらったという。
また、司馬の著書に先立つ河盛好蔵の『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家でイニシャルがHになるのは他に細川氏しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、喜田貞吉に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。
ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍家斉と皆春院の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・仁孝天皇の生母・東京極院の母は池田仲庸の娘であり、池田仲庸の曽祖父池田光仲の母は蜂須賀至鎮(正勝の孫)の娘・三保姫であるため、逆に明治天皇が正勝の血を引いている。
蜂須賀正勝━家政━至鎮━三保姫━池田光仲━仲澄━仲央━仲庸━数計子━勧修寺婧子━仁孝天皇━孝明天皇━明治天皇
脚注
- ^ 『官報』第3811号「叙任及辞令」1896年3月16日。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
- ^ 『官報』第3811号「叙任及辞令」1896年3月16日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『ref>『官報』第1657号「叙任及辞令」1918年2月13日。