蜂須賀光隆

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蜂須賀 光隆
時代 江戸時代
生誕 寛永7年10月13日1630年11月17日
死没 寛文6年5月27日1666年6月29日
改名 千松丸(幼名)→至政(初名)→光隆
戒名 南崇院乾徳剛漢
墓所 徳島県徳島市下助任町 興源寺
官位 従四位下、阿波守
主君 徳川家光
阿波徳島藩第3代藩主
氏族 蜂須賀氏
父母 父:蜂須賀忠英、母:齢昭院
兄弟 光隆隆重隆矩隆喜、清姫(稲田稙儀室)
小笠原長次の娘・金姫
綱通、幸姫(丹羽長次正室)
養子:娘(井伊直興婚約者、実父は蜂須賀隆重で光隆の姪)

蜂須賀 光隆(はちすか みつたか、寛永7年10月13日1630年11月17日) - 寛文6年5月27日1666年6月29日))は、阿波徳島藩の第3代藩主。

2代藩主蜂須賀忠英の長男。母は小笠原忠真の養女(小笠原忠脩の娘)・齢昭院。正室は小笠原長次の娘・金姫(従姉妹にあたる)。子に蜂須賀綱通(長男)、娘(丹羽長次正室)。官位は従四位下侍従、阿波守。幼名は千松丸。初名は至政(よしまさ)。

経歴[編集]

興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)

寛永19年(1642年)、13歳のときに徳川将軍家に初御目見、将軍徳川家光から偏諱を賜って光隆に改名。承応元年(1652年)、父の死去に伴い徳島藩第3代藩主となる。

幕命で縁者である旗本奴水野十郎左衛門成之を預かったこと、非常に盛大な鷹狩を行ったこと、四国八十八ヵ所の常楽寺を再興したこと、万治3年(1660年)に刀工氏吉を招いたこと、翌万治4年(1661年)には井戸寺の本堂が再建されたことなどが事跡として残り、先祖小六正勝の血を確かに受け継いだ幕府の信頼篤い武人の姿が垣間見える。

1666年(寛文6年)に死去し、跡を長男・綱通が継いだ。享年37。戒名は南崇院乾徳剛漢。

墓所は徳島県徳島市助任の興源寺

官職位階履歴[編集]

  • 1648年慶安元年)12月22日、従四位下因幡守。
  • 1652年(承応元年)5月27日、阿波蜂須賀家の家督相続。
  • 1653年(承応2年)12月26日、侍従兼任。阿波守に任替。

系譜[編集]

偏諱を与えた人物[編集]

光隆時代