和泉国

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和泉国(いずみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に位置する。別称は泉州(せんしゅう)。領域は現在の大阪府南西部(大和川以南)にあたる。『延喜式』での格は下国

北部を泉北(せんぼく)、南部を泉南(せんなん)と呼ぶ。

「和泉」の名称と表記

713年和銅6年)の詔により2字にしたもので、「和泉」の「和」は読まない。現在の大阪府和泉市府中町に和泉国の国府があった事から、和泉市では、市名として採用されている。

沿革

続日本紀』によれば716年霊亀2年)3月27日に河内国から和泉郡、日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が建てられた。この地に離宮として茅渟宮(珍努宮、和泉宮)が置かれたことが、という特別な位置づけに関係していたと見られる。国と異なる特別な機関だが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、地理的にはこの時期から和泉国と呼ばれることがあったようである[1]

その後、740年天平12年)8月20日に和泉監は廃止され河内国に合わさったが、757年天平宝字元年)5月8日に和泉国として再び設置された。『日本紀略』によれば、825年天長2年)3月30日、摂津国の東生西生百済住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。

江戸時代には、岸和田藩(小出家(外様)、松平〔松井〕家(譜代)、岡部家(譜代)3万-6万石)と伯太藩(渡辺家(譜代)1万3,000石)が置かれた。1870年(明治3年)には吉見藩が置かれた。

1871年明治4年)に摂津国との境界が大小路長尾街道大津道)から大和川に変更された(ただし、長尾街道以北でも、旧 北庄村と西万屋新田村は以前から和泉国)。

近代以降の沿革

国内の施設

国府

国府は、和泉郡にあって現在の和泉市府中町にあたる[3]。建物跡が発掘されている。

国分寺・国分尼寺

国分僧寺護国山福徳寺(和泉市国分町)で、僧寺だけで尼寺は設置されなかった。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社61座52社の計62座53社が記載されている。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下

守護所

国府のそばにあったが、室町時代に移った。

安国寺利生塔

  • 安国寺 - 大阪府堺市家原寺町にあった。
  • 利生塔 - 久米田寺 (大阪府岸和田市池尻町久米田寺)。

地域

明治以降の改廃

  • 摂津国住吉郡の大和川以南地域の大鳥郡への編入
  • 泉北郡 1896年明治29年)4月1日に大鳥郡、和泉郡を統合して設けられた郡
  • 泉南郡 1896年(明治29年)4月1日に南郡、日根郡を統合して設けられた郡

江戸時代の藩

  • 豊臣家直轄領(摂津・河内・和泉65万7千石、1600年-1615年)→天領
  • 岸和田藩:小出家(3万石→5万石、1600年-1619年)→松平〔松井〕家(5万石→6万石→5万石、1619年-1640年)→岡部家(6万石→5万3千石、1640年~1871年)
  • 伯太藩(大庭寺藩):渡辺家(13,500石、1698年-1871年)
  • 陶器藩:小出家(1万石、1604年-1696年)→廃藩(断絶)
  • 谷川藩:桑山家(1万石、1606年-1609年)→廃藩・所領は御所藩に編入

現在の行政区分

※注意

泉北

泉北地域には、仁徳天皇陵がある。

大鳥郡

和泉郡


泉南

泉南地域には、日本の主要空港のひとつである関西国際空港がある。

南郡

日根郡


※現在では、山滝地区も含めた岸和田市以南を泉南と称することが多い。

人物

国司

和泉守

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国大名

武家官位としての和泉守

和泉国の合戦

参考文献

外部リンク

脚注

  1. ^ 独立行政法人文化財研究所・奈良文化財研究所『平城宮木簡 六 解説』、2004年、346頁、木簡番号10520
  2. ^ 「角川日本地名大辞典」では堺県に移管とあるが、「旧領旧高取調帳」では岸和田県と記載されている。
  3. ^ 『和名類聚抄』大阪府和泉市府中町(和泉国府跡・府中遺跡