荒巻三之
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荒巻三之 九段 | |
---|---|
名前 | 荒巻三之 |
生年月日 | 1915年3月28日 |
没年月日 | 1993年10月27日(78歳没) |
プロ入り年月日 | 1937年(21歳) |
引退年月日 | 1959年(44歳) |
棋士番号 | 20 |
出身地 | 東京府(現:東京都) |
所属 |
日本将棋連盟(関東)[1] →日本将棋革新協会[1] →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 花田長太郎九段 |
弟子 | 剱持松二、高田丈資、高田尚平 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 荒巻三之 |
戦績 | |
通算成績 | 123勝157敗(0.4393) |
順位戦最高クラス | A級(1期) |
2017年8月21日現在 |
荒巻 三之(あらまき みつゆき、1915年3月28日 - 1993年10月27日)は、将棋棋士、九段。花田長太郎九段門下。棋士番号は20。東京府(現:東京都)の生まれ。
経歴
[編集]1937年、プロ入り。順位戦には第1期(1946年度)から参加。当時六段であったため暫定B級からスタートするが、5勝9敗でC級に降級。つづく第2期(年度)も3勝9敗で振るわなかった。
しかし、第3期(1948年度)の予選(C級2組第1組)で3戦全勝し、C級でも7勝2敗で1位の成績を収め、B級に昇級。段位は七段となる。つづく第4期(1949年度)B級順位戦では2勝6敗に終わるが、この期に限ってはB級順位戦で2勝を挙げれば降級を免れる決まりであったため、B級に残留した。
そして、第5期(1950年度)B級順位戦はA級昇級枠が3名であったが、荒巻と加藤博二、斎藤銀次郎の3名が8勝4敗の3位タイで終える。プレーオフは、加藤と斎藤で1回戦を行い、その勝者と荒巻とで決勝を行うこととなった。荒巻は加藤に勝った斎藤との決戦を制し、A級八段となる。
かくして第6期(1951年度)に初のA級順位戦を戦う。名人経験者の塚田正夫に勝利する健闘を見せたものの、升田幸三・大山康晴ら強豪の壁は厚く2勝6敗の成績に終わり、残留はできずに1期でB級に陥落することとなった。
第13期(1958年度)B級2組順位戦を終えたところで引退。将棋連盟からの「贈九段」の申し出を断り続けたという[2]。
1993年、呼吸不全のため[3]死去。享年78。九段の段位を追贈された。
エピソード
[編集]- 主に居飛車を指し、力戦調の将棋が多い棋風である。
- ニックネームは海坊主[4]。
- 日本将棋連盟総務部に長く在籍。達筆であることから免状・賞状の仕事を多くこなした[3]。
- 荒巻死後の1998年、加藤一二三は師匠を南口繁一から剱持松二に変更した。剱持に師匠になってもらった理由は、加藤が剱持と懇意であったこともあるが、剱持の師匠である荒巻が、加藤と家族ぐるみの付き合いをしていた縁があったからだという[5]。
弟子
[編集]棋士
[編集]名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
剱持松二 | 1956年10月1日 | 九段、一般棋戦優勝1回 |
高田丈資 | 1979年6月1日 | 七段 |
高田尚平 | 1989年4月1日 | 七段 |
昇段履歴
[編集]→昇段規定については「将棋の段級」を参照
- 1932年 : 入門
- 1935年 : 初段
- 1937年1月1日四段 = プロ入り
- 1939年 4月 1日 : 五段
- 1941年 4月 1日 : 六段
- 1949年 4月 1日 : 七段(順位戦B級昇級)
- 1951年 4月 1日 : 八段(順位戦A級昇級)
- 1959年 4月30日 : 引退
- 1993年10月27日 : 死去
- 1993年10月29日 : 追贈九段
主な成績
[編集]将棋大賞
[編集]- 第11回(1983年度) 東京記者会賞
在籍クラス
[編集]→竜王戦と順位戦のクラスについては「将棋棋士の在籍クラス」を参照
開始 年度 |
順位戦 出典[6]
|
竜王戦 出典[7]
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1946 | 1 | B101 | 5-9 | |||||||||||||||
1947 | 2 | C106 | 3-9 | |||||||||||||||
1948 | 3 | C2 | 11-2 | |||||||||||||||
1949 | 4 | B1 | 2-6 | 第1期九段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1950 | 5 | B1 | 10-5 | 第2期九段戦 予選敗退 | ||||||||||||||
1951 | 6 | A 10 | 2-6 | 第3期九段戦 本戦敗退 | ||||||||||||||
1952 | 7 | B101 | 5-6 | 第4期九段戦 休場 | ||||||||||||||
1953 | 8 | B110 | 7-5 | 第5期九段戦 二次予選敗退 | ||||||||||||||
1954 | 9 | B104 | 6-7 | 第6期九段戦 二次予選敗退 | ||||||||||||||
1955 | 10 | B107 | 3-8 | 第7期九段戦 三次予選敗退 | ||||||||||||||
1956 | 11 | B111 | 3-10 | 第8期九段戦 二次予選敗退 | ||||||||||||||
1957 | 12 | B203 | 8-5 | 第9期九段戦 三次予選敗退 | ||||||||||||||
1958 | 13 | B204 | 4-8 | 第10期九段戦 三次予選敗退 | ||||||||||||||
1959年4月30日引退 | 1959年4月30日引退 | |||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
年度別成績
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
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1945 | 0. | [8] | |||
1946 | 0. | [9] | |||
1947 | 0. | [10] | |||
1948 | 0. | [11] | |||
1949 | 0. | [12] | |||
1950 | 0. | [13] | |||
1945-1950 (小計) |
|||||
年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
1951 | 0. | [14] | |||
1952 | 0. | [15] | |||
1953 | 0. | [16] | |||
1954 | 0. | [17] | |||
1955 | 0. | [18] | |||
1956 | 0. | [19] | |||
1957 | 0. | [20] | |||
1958 | 0. | [21] | |||
1959 | 0. | [22] | |||
1951-1959 (小計) |
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通算 | 281 | 123 | 157 | 0.4393 | |
1959年4月30日引退 |
表彰
[編集]- 免状執筆30年表彰(1982年11月)
脚注
[編集]- ^ a b 当時三段
- ^ 越智信義編『将棋随筆名作集』(三一書房)P.56 河口俊彦「やせ我慢の美学」
- ^ a b 平成10年版『将棋年鑑』参照
- ^ 越智信義編『将棋随筆名作集』(三一書房)P.55 河口俊彦「やせ我慢の美学」
- ^ 『将棋世界』1998年11月号参照
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。
- ^ [1][名無しリンク]
- ^ [2][名無しリンク]
- ^ [3][名無しリンク]
- ^ [4][名無しリンク]
- ^ [5][名無しリンク]
- ^ [6][名無しリンク]
- ^ [7][名無しリンク]
- ^ [8][名無しリンク]
- ^ [9][名無しリンク]
- ^ [10][名無しリンク]
- ^ [11][名無しリンク]
- ^ [12][名無しリンク]
- ^ [13][名無しリンク]
- ^ [14][名無しリンク]
- ^ [15][名無しリンク]