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=== パ・リーグの最少観客動員記録 ===
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[[1966年]][[10月13日]]に開かれた藤井寺での[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦は日本シリーズの[[読売ジャイアンツ]]対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦が同日に行われた影響もあり、観客動員はパ・リーグ最少の150人しか入らなかった。(プロ野球最少記録は1966年[[10月12日]]に[[川崎球場]]で行われた[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]対[[中日ドラゴンズ]]戦ダブルヘッダーで記録された100人。)


=== 巨人はロッテより弱い ===
=== 巨人はロッテより弱い ===

2009年7月3日 (金) 12:38時点における版

大阪近鉄バファローズ
会社名 株式会社大阪バファローズ
創設 1949年
解散 2004年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名

本拠地
大阪ドーム
収容人員 36,477人(大阪ドーム)

永久欠番
1
獲得タイトル
日本一(0回)
なし
リーグ優勝(4回)
1979,1980,1989,2001
成績(タイトル以外)
プレーオフ(前後期制)出場(3回)
太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
2勝1敗(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1975,1979,1980
球団組織
オーナー 田代和(解散時)
運営母体 近畿日本鉄道(解散時)
球団社長 小林哲也(解散時)
監督 梨田昌孝(解散時)
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株式会社大阪バファローズ
Osaka Buffaloes
種類 株式会社
本社所在地 大阪府大阪市天王寺区上本町6-1-55(登記上本店)
大阪府大阪市中央区難波2―2―3 御堂筋グランドビル7階
(球団解散時の事務所)
設立 1999年9月
(株式会社大阪近鉄バファローズとして設立)
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行事業など
代表者 オーナー 田代和
代表取締役社長 小林哲也
主要株主 近畿日本鉄道 100%
関係する人物 佐伯勇(創設者)
特記事項:2005年3月31日解散。
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大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、Osaka Kintetsu Buffaloes)は、1949年から2004年まで存在した日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに加盟していた。

2004年オフ、オリックス・ブルーウェーブと合併し、オリックス・バファローズとなった。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照。

概要

大阪府保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム専用球場(本拠地)としていた。また、二軍ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は、かつて府内藤井寺市にあった近鉄藤井寺球場であった。

球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。

1999年3月までの球団名は近鉄バファローズで、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)であった。

2004年、球団及び近鉄グループの経営難から、オリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、大阪バファローズは2005年3月末をもって解散。職員の大半はオリックス野球クラブに、一部は楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトによりオリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。オリックス・バファローズの球団史においては、大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれない。

合併までの経緯、詳細についてはプロ野球再編問題を参照

球団消滅となる2004年まで現存していた12球団中で唯一日本一がない球団であった。2004年に消滅したことで、半世紀以上存続した日本のプロ野球チームとしては唯一日本シリーズ優勝を果たせぬまま、55年の歴史に幕を閉じた。

球団の歴史

黎明期

設立当初より低迷が続き、万年Bクラス・最下位の近鉄は「チカ鉄(近をチカと読ませ、地下鉄に掛けたもの。つまり地下に潜りっぱなしの低迷という意味)」「パ・リーグのお荷物」などと揶揄された。

  • 1949年近畿日本鉄道を運営母体とする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社近鉄興業が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電気鉄道)合併当時の1944年-1947年(近畿日本軍→グレートリング、現福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現 近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐に依れば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を伸ばしたという。
    • 11月26日にパ・リーグに加盟。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かった為、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は、黒尾重明東急)、森下重好田川豊(いずれも大陽)ら数えるほどで、選手層が薄く設立より4年連続最下位となる。
  • 1950年3月12日、藤井寺球場の毎日オリオンズ戦でチ-ム開幕戦を行うが、2-6で敗戦。翌13日の南海戦で沢藤光郎が粘投し4-3でチーム初勝利をおさめる。この年沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるものの、首位から37.5ゲーム離された最下位に終わる。
  • 1951年、シーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位と0.5ゲーム差の最下位に終わる。この年のオフ、大下弘の獲得に乗り出すが失敗に終わる。
  • 1952年、8月に13連敗を喫し、3割に満たない勝率で最下位に終わる。シーズン終了後、藤田省三が監督辞任、芥田武夫が監督就任。
  • 1953年、開幕から連敗連勝を重ね、5月8日、一時期ながら首位に立つ。夏場以降失速し、最下位に終わるが勝率は初めて4割を超える。
  • 1954年8月7日高橋ユニオンズ戦で山下登が近鉄選手で初めてノーヒットノーランを達成(スコアは4-0)。近鉄選手初のタイトルとして武智文雄(当時は田中文雄)が最多勝鈴木武盗塁王を獲得する。この年初めて最下位を脱出する(8球団中4位)。
  • 1955年6月19日、武智文雄が大阪球場での大映ユニオンズ戦でパ・リーグ初となる完全試合を達成する。
  • 1957年6月22日芥田武夫がシーズン途中で休養。加藤春雄(後、久幸に改名)が代行を務め、オフに監督就任。
  • 1958年、この年は不振が続き、開幕序盤6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、球団史上ワースト記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤久幸が監督辞任 、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。岡本太郎による球団マークが制作される。
  • 1959年、5月に最下位になるとそのまま浮上できずにシーズンを終える。前年と合わせ8人の選手が巨人から移籍するなど、チームの大幅な入れ替えをはかる。
  • 1961年、シーズン最多記録となる103敗を喫した(2008年現在でも、その記録は更新されていない)。シーズン終了後、千葉茂が監督辞任、別当薫が監督就任。
  • 1962年、チーム名を近鉄バファローズに改名。ブルームが.374の高打率で首位打者を、久保征弘最多勝を獲得するも5年連続最下位。土井正博が18歳で四番に抜擢される。
  • 1963年、5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、惜しくも1ゲーム差の4位に終わる。なおこの年の球宴には7人が選ばれる。
  • 1964年、この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。シーズン終了後、別当薫が監督辞任、岩本義行が監督就任。
  • 1965年、このオフ鈴木啓示が入団する。
  • 1966年、シーズン終了後、岩本義行が監督辞任、小玉明利が監督就任。
  • 1967年4月1日、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社を設立。近鉄興業から経営を移管。シーズン終了後、小玉明利が監督辞任、三原脩が監督就任。
  • 1969年、10月まで首位を保つ。そして10月19日・20日の藤井寺決戦に連勝すれば優勝達成という状況だった。しかし10月19日、近鉄は阪急に破れ2位に終わった(魔術師三原の10.19)。この年のドラフトで甲子園のアイドル太田幸司を獲得する。
  • 1970年10月6日南海戦で佐々木宏一郎が完全試合を達成。シーズン終了後、三原脩が監督辞任、岩本尭が監督就任。
  • 1973年、この年2軍がウエスタンリーグ初制覇。シーズン終了後、岩本尭が監督辞任、西本幸雄が監督就任。

初優勝、熱パ

藤井寺球場(1軍は当初1983年までは準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。2軍は創設当初から本拠地だった)
ファイル:Nissei Stadium2.jpg
1958-1983年のメイン本拠地・日生球場
ファイル:大阪ドーム050906.jpg
1997-2004年の本拠・大阪ドーム

西本幸雄監督の元、リーグ初優勝をとげ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬監督の就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり、野茂ブームもあいまって熱パの象徴と呼ばれるようになった。

  • 1974年、チームの主砲であった土井正博を太平洋クラブライオンズにトレードする。
  • 1975年、初めて優勝(ペナント2期制度での後期優勝)となる。プレーオフで阪急に敗れる。
  • 1977年4月26日、ロッテ戦で鈴木啓示が200勝達成、近鉄入団の生え抜き選手としては唯一の名球会入り選手となった。
  • 1978年、後期シーズン最終戦は、阪急との半期優勝をかけた直接対決となった。先発投手は鈴木啓示-山田久志というエース対決。しかし、近鉄は破れ、阪急ブレーブスが前期に続き後期も優勝を決めた(藤井寺決戦)。
  • 1979年、前期シーズンの最終戦で引き分けて、半期優勝。選手育成が実を結び、プレーオフでも優勝。西本幸雄監督の下で初のリーグ優勝を遂げる。広島東洋カープとの日本シリーズでは、第7戦に9回裏の近鉄の攻撃が江夏の21球と呼ばれ、球史に残る名勝負となるが、3勝4敗で敗退する。
  • 1980年、飛ぶボールの効果もあり、日本記録(当時)となるシーズンチーム本塁打239本を記録(但し被本塁打は251本)し、リーグ2連覇を成し遂げた。なお、プレーオフは3勝無敗であっさりと決めたが、シーズン優勝は後期シーズンで日本ハムにM1が点灯した所を最終戦で逆転優勝するという苦しいものであった。日本シリーズは前年に引き続き広島と対戦するが、この年も3勝4敗で日本一に輝くことは出来なかった。
  • 1981年、シーズン終了後、西本幸雄が監督辞任、関口清治が監督就任。
  • 1983年、シーズン終了後、関口清治が監督辞任、岡本伊三美が監督就任。
  • 1984年5月5日鈴木啓示通算300勝を達成。
  • 1985年7月10日鈴木啓示がに現役引退を表明する。
  • 1986年、後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点滅する壮絶な展開に。しかし最後に力尽き、129試合目(残り1試合)で優勝を逃す。
  • 1987年、前年ドラフト1位で獲得した阿波野秀幸が15勝を挙げ、新人王を獲得する活躍をみせるもののチームは最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督辞任、仰木彬が監督就任。
  • 1988年、前年までリーグ3連覇中の西武と最後まで優勝争いを繰り広げる。
  • 1989年、この年西武、オリックスとの三つ巴による、前年を上回る優勝争いの末9年ぶりの優勝を果たす。
    • 10月12日、西武の優勝がかかった試合(ダブルヘッダー)でブライアントが2試合で4打数連続本塁打の活躍をするなど連勝、この年のパ・リーグを象徴する試合となった。
    • 10月14日、藤井寺球場でのダイエー戦に勝利、129試合目で優勝決定する。
    • 日本シリーズでは巨人に3連勝後4連敗を喫し、日本一ならず。
    • ドラフトでは8球団競合の抽選の上、野茂英雄を獲得する。
  • 1990年、野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得するなどの活躍を見せMVP、沢村賞を獲得、以降4年連続で最多勝を獲得するなど、野茂(ドクターK)ブームを巻き起こす。しかしチーム1992年まで当時黄金時代と言われた西武と優勝争いはするもの、優勝できなかった。
  • 1991年、前半戦最終戦を西武との直接対決で勝利し首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。
  • 1992年7月8日新井宏昌が2000本安打を達成(近鉄在籍時代の打者としては唯一)。シーズン終了後、仰木彬監督辞任。
  • 1993年、鈴木啓示が監督に就任。しかし、野茂や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。
  • 1994年、開幕の西武戦で赤堀元之が逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤チームは低迷。一時、首位に16.0ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線の爆発により夏場から調子を上げたチームは球団新記録となる13連勝をして一時首位に立つ。この年は最終的に同率2位に終わる。しかしこのオフ、野茂が契約のこじれから退団、大リーグロサンゼルスドジャースに移籍(詳しい経緯は「野茂英雄の近鉄退団」を参照)。吉井も鈴木との確執によりトレードでヤクルトスワローズに移籍。
  • 1995年は投手陣と監督との確執からチームは空中分解。ブライアント、石井の故障離脱もあり、チームは低迷。鈴木監督も途中休養する状況で、9年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフトでは福留孝介を1位指名するものの入団拒否される。
  • 1996年は勝率5割付近をいったりきたりする展開となる。本拠地移転の関係で何としてもAクラス入りし開幕戦を新本拠地で迎えたかったが、Aクラス決定戦となった最終戦で西武に破れ、4位でシーズンを終える(なお西武はこのシーズン3位以上になったのが最終戦のみである)。

大阪ドーム時代・終焉

大阪ドーム移転するも、選手の年俸が高騰、1998年以降は観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が年々膨れ上がっていった。

  • 1997年、本拠地を大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)に移転。夏場までロッテと最下位争いをしていたが、10点差逆転勝利を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。
  • 1998年、8月半ばまで日ハムと優勝争いを繰り広げるが、先発投手陣が安定せずチームは失速。最終的には借金1の5位に終わる。
  • 1999年4月、地元企業との提携、地元密着を目指し、チーム名を大阪近鉄バファローズに改称。また法人名も従来の近鉄野球株式会社から株式会社大阪近鉄バファローズに改称(その後、1999年9月に新会社設立)。チームも4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど低迷、チームは最下位に終わる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督辞任。
  • 2000年、近鉄最後の監督となる梨田昌孝が就任、チームは2年連続最下位に終わる。
  • 2001年、圧倒的破壊力を誇る「いてまえ打線」で、4度目のリーグ優勝を達成する。
  • 2002年、西武と優勝争いを繰り広げ、2位で追う展開となる。途中、8年ぶりの10連勝を遂げるが、同時期に首位西武も9連勝し、差がほとんど縮まらず。8月の直接対決で9点差を逆転負けし、西武にマジック点灯。最終的に大差をつけられての2位に終わる。
    • シーズン終了後、中村紀洋がFA宣言、海外を含めて1ヶ月あまりの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び残留。
    • 大塚晶則大リーグへのポスティングシステムによる移籍を希望するが、入札球団が現れず、大塚は中日に金銭トレードされる。
  • 2003年1月、会社の商号を株式会社大阪バファローズに変更。シーズン終了後、長年主砲として活躍してきたタフィ・ローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。
  • 2004年、この年が近鉄としての最後の年となった。これらの詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)も参照。
    • 1月31日、ネーミングライツ問題発覚(後述)。
    • 6月13日山口昌紀社長(当時)によりチームをオリックスブルーウェーブと合併する方向で準備を進めていることを発表する。
    • 8月10日、合併に関する基本合意書への調印が行われた。
    • 9月8日、オーナー会議でこの合併が正式に認められた。
    • 9月18日、19日、この問題によるプロ野球選手会のストライキが行われる。
    • 9月24日、大阪ドームでの近鉄最終戦(対西武)が行われ、3-2でサヨナラ勝ちする。
    • 9月27日Yahoo! BBスタジアムの対オリックス戦が近鉄としての一軍の最後の試合となった(2-7で敗れる)。
    • 9月30日藤井寺球場で最後のNPB(二軍)公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われた。
    • 11月8日、オリックスと楽天の間で選手分配ドラフトが行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。
    • 上記の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。
  • 2005年1月15日、御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村紀洋のポスティング申請など残務処理を引き続き行う。
    • 3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズ解散。

球団愛称

  • 創設時の愛称・パールス(Pearls)は、近鉄沿線の伊勢志摩の特産品である真珠にちなんだもの。現在でも「プロ野球史上最も弱々しい球団愛称」などという声が少なくない。
  • パールスに代わる新しい球団愛称を公募したところ、1番多かったのが「猛牛」と呼ばれた新監督・千葉茂にちなんだバッファローズだった。ところが当時の球団幹部が「『バッファローズ』では表記が長すぎる」と言ったため、2文字減らしてバファロー(Buffalo)になった。千葉辞任後に「これからは監督だけが猛牛になるのではなく、チーム全員が猛牛にならなければならない」という理由でバファローズ(Buffaloes)となった。

シンボルマーク・マスコット

ファイル:Falulu Capelot.jpg
ファルルとカペロ(2000年撮影)
  • 球団のシンボルマーク「猛牛マーク」(なお球団広報物では「ツノマーク」と表記)は千葉茂が監督に就任した1959年に、「バファロー」の新チーム名称に合わせて千葉の親友であった岡本太郎がデザイン。千葉の述懐に依ると銀座のバーで、デザイン料10万円で依頼したと言う。以降球団が解散する2004年まで、球団旗やユニフォームなどで使われ続けた。日本一に輝いた時に姿を公開することとなっていた「猛牛マーク」を横から見たような「サブマーク」が有ったが、公開されず球団と共に消えた。西武グループ系のようにグループのバスタクシーなどに猛牛マークを入れる例は少なく、運送会社である近鉄物流の車両や伝票に見られた程度であった。近鉄物流も球団解散の直前にグループを離れたため間もなく同社のトラックからも猛牛マークは消滅した。
  • 大阪ドーム移転前(1976年1996年)のマスコットはユニフォームを着た少年「バッファくん」(近鉄の野球帽・ユニフォームを着、バットとグラブを持ち片足を上げた少年)。初期のデザインではバットを握った右手の指本数が1本足りなかったが、後に改作された。着ぐるみも作成され、ファン感謝デーなどでも登場していた。このマスコットに似ているということで、中村紀洋の愛称になったこともある。なお、バッファくん登場前には鼻息をふかして突進する姿の猛牛のマスコットを使用しており( - 1975年)、1975年後期優勝の近鉄電車の記念乗車券券面には西本幸雄監督の顔と伴に印刷されている。
  • 球団マスコットがモチーフ。大阪ドームへの本拠地移転後、以下のキャラクターが登場。キャラクターデザインはアニメトムとジェリー」などを手掛けたアメリカハンナ・バーベラ・プロダクションによるものである。なお、バフィリードだけは公募に依り命名された。
  • キャラクター着ぐるみ作成及び担当は明石家まんま朝おき太等を手がけた株式会社リップ
    • バフィリード(バフィ) - 背番号100、主人公。
    • ファルルリーナ(ファルル) - 背番号200、女の子のキャラクター。2000年以降ユニフォーム姿(ワンピースにベルト)に変更。
    • 他にバルバロック(バル)(男性)とカペロット(カペロ)(子供)の2人がいたが、いずれも2000年シーズンをもって登場が打ち切られた。
    • 球団合併により、各キャラクターも引退したが、バフィリードだけはオリックス本社に商標権が譲渡された。他キャラに尽いては近鉄本社が更新期限まで所有する状態となっている。

ユニフォームの変遷

  • 1950年1952年 球団創設期のユニフォームはホーム用が「Pearls」でビジター用はブルーで「KINTETU」(1952年限り)。ゴシック体の「KINTETU」は1957年まで使用される。
  • 1953年 左胸に「Pearls」と書かれた、サンフランシスコ・シールズを参考にしたユニフォームが登場。同時に縦縞となり、球団名がバファローとなった1959年まで使用。
  • 1954年1958年 左胸に「P」1文字の、フィラデルフィア・フィリーズを参考にしたデザイン。1958年には帽子のツバ、アンダーシャツ、ストッキングが赤くなる(途中から従来の物も使用)。1958年からビジター用ロゴが飾り文字に変更。
  • 1959年 千葉監督就任と同時に球団名をバファローに変更。ホーム用は「Buffalo」に変更されたが基本デザインは従来どおり。ビジター用は背番号の書体を変更。
  • 1960年1961年 縦縞を廃止。チームカラーを黒と黄色に変更。ビジター用の左袖が近鉄の社章から猛牛マークに変更される。
  • 1962年1965年 球団名がバファローズとなり、ロゴが「BUFFALOES」に変更。袖番号が付けられる。1965年からラインを黒に変更し、番号が胸に移動。
  • 1966年1973年 ロサンゼルス・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。同時にロゴも筆記体の「Buffaloes」に変更(藤井寺時代最後の1996年まで)。
    • 1968年より、三原脩監督就任時より、ホーム用の背番号、胸番号の角が取れ、丸型となる。
    • 1969年1971年 ヘルメットが紺地に猛牛マークが入ったものになる。
    • 1972年より、帽子のツバがオレンジ色となる。
    • 1973年後期より、ラインが入るなどのマイナーチェンジが繰り返された。
  • 1974年1996年 西本幸雄監督就任時より、ニット式のベルトレスユニフォームが登場。袖部分のラグランスリーブが赤となり、首と袖に白ラインが入り、丸首プルオーバースタイルとなる。左袖には、炎と猛牛を組み合わせたマークが入る。
    • 1977年より 左袖のマークが猛牛マークになり、デサント社が開発した快適性、軽量化を図ったメッシュ素材の上着を、野球のユニフォームとしては世界で初めて採用する。
    • 1978年より 番号の上に選手名が入り、ベルトレスからベルト式になる。
    • 1978年後期より、帽子の地色が赤、前面が白、白部分のサイドに紺のラインが入り、紺色の「KINTETSU BUFFALOES」のロゴ、猛牛マークが入る三色帽に変わる。
      • 1979年1980年1989年の3度のリーグ優勝を果たしたゲンのいいユニフォームで、マイナーチェンジを繰り返しながら、23年の長きに渡り使用された。
  • 1997年2004年 大阪ドーム移転を機にフルモデルチェンジ。デザインはコシノヒロコが手掛ける。同時に球団カラーを「バファローズホワイト」、「バファローズオレンジ」、「バファローズネイビー」、「バファローズレッド」の4色と設定。デザインはそれに基づかれた。
    • 1999年より、球団名が大阪近鉄バファローズとなり、ビジター用が「Kintetsu」から「Osaka」に変更。これが近鉄最後のユニフォームとなった。また左袖には50周年記念のバフィーワッペンが入っていた。
      • ビジター用は当初紺と赤の2種類があり、金曜日から月曜日は紺、火曜日から木曜日では赤と使い分けられていたが、2000年以降は紺のみとなった(使い分けに関しては当初「ナイトゲームは赤、デーゲームは紺」とされたが、使用頻度の偏りを避けるために上記のようになった)。
      • ビジター用上着のデザインは当初、赤だけであった(これはデザインを担当したコシノヒロコが、事前にバファローズのイメージカラーを調査したところ、「赤」という意見が大半を占めたため)。しかし、いざ完成してみると、当時の佐々木監督や選手たちから「東芝のユニフォームみたい」「プロが着るユニフォームじゃない」などと異論が続出し、選手たちがユニフォーム変更を拒絶しかける事態となった。その沈静化を図るため急遽紺が追加された。その後もファン感謝デーでこのユニフォームが初お披露目された際、ファンから「台湾プロ野球(のユニフォーム)だ」などと酷評され、優勝するまではこのユニフォームの評判は良くなかった。

チームの特徴

  • 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示佐々木恭介梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。
  • 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督・野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団であった。
  • 野茂英雄吉井理人大塚晶則、中村紀洋など、多くの大リーガーを輩出している。
  • 1970年前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われていたが、これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年にずれこんだ。
  • 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。
  • 2004年9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに、「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督・梨田昌孝がプジョーを愛車としていたことが縁であった。
  • 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年の2リーグ分立以降では19回と、消滅したチームも含めて両リーグトップである。
  • 伝統的に速球派投手に強く、技巧派投手に弱い傾向にある。代表例の一人が松坂大輔で、松坂は日本での8年間で近鉄に対し11勝15敗で防御率も最も悪く、球団別の成績で唯一近鉄にのみ負け越している。逆に、近鉄が苦手としていた投手に星野伸之星野順治などの変化球投手が多く見られる。1989年の日本シリーズでも3連勝で迎えた第4戦で香田勲男に完封をされてシリーズの流れが変わってしまった。
  • 近鉄在籍経験選手による日本シリーズのMVP獲得は、近鉄が日本一を経験しなかったので、長い間輩出されなかったが、2007年の日本シリーズで中村紀洋が中日で初めて達成した。
  • プロ野球に理解のないフロントの体質に関しては、不満を持つ選手も多かった。野茂英雄は、先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われたこともある。佐々木恭介は、入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では当時の二等車(後の普通車)のみ(西鉄ライオンズ等は一等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。

応援スタイル

  • 打者に対する基本的な応援コールは「かっとばせー、○○(選手名)!××(対戦相手チーム)倒せー、オー!」だった。このスタイルは1980年代までは近鉄のみならず大半のチームで採り入れられていたが、1990年代以降は年々少なくなっていき、遂には近鉄でしか使用されなくなった。その一方、近鉄は球団解散時までこのスタイルを通した。
  • 球団解散時には「暴れん坊将軍」のオープニングテーマを原曲とするI(1995年~)、タオルマフラーを持って踊るII(2000年~)、2種類の歌詞があるIII(2001年~)、ビハインドの場面で使われるIV(2002年~)、ビッグイニングの時に使われるV(2003年~)と5種類のチャンステーマが存在。III以降は「踊る牛」「笑う牛」(以上III)「紅の丑」(IV)「パニ牛」(V)とタイトルもついていた(代打のテーマにも「働く牛」というタイトルがついている)。IIはオリックスファンからも「ぜひ残して欲しい」という声が多かったため、球団合併後も引き続き使われており、「紅の丑」と合わせて高校野球の応援歌として耳にすることもある。
  • チャンス時のテーマ、三三七に長らく8時だョ!全員集合のオープニングテーマを使用していた。
  • ジェット風船はチームカラーの赤色に統一していた。
  • 藤井寺球場は住宅地と隣接していたため、鳴り物入りの応援が禁止されており、メガホンと声だけの応援スタイルを取った。
  • 1985年の日本シリーズ(阪神VS西武)では、甲子園での西武側の応援団が少ないだろうということで近鉄の応援団が協力を申し出て共に応援を行なった。

球団名変遷と年度別成績

※銀地はリーグ優勝、順位の欄は左の数字が順位、右の数字はリーグ所属球団数。

年度 監督 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 打率 防御率 本塁打
近鉄パールス
1950年 藤田省三 7/7 120 44 72 4 .379 37.5 .242 3.85 86
1951年 藤田省三 7/7 98 37 56 5 .398 33.5 .223 3.13 37
1952年 藤田省三
芥田武夫(注1)
7/7 108 30 78 0 .278 40.0 .243 4.06 37
1953年 芥田武夫 7/7 120 48 69 3 .410 22.0 .246 2.93 31
1954年 芥田武夫 4/8 140 74 63 3 .540 16.0 .247 2.66 23
1955年 芥田武夫 5/8 142 60 80 2 .429 39.0 .252 3.45 35
1956年 芥田武夫 5/8 154 68 82 4 .455(注2) 29.5 .226 3.17 48
1957年 芥田武夫
加藤春雄(注3)
6/7 132 44 82 6 .356(注2) 38.5 .225 3.22 35
1958年 加藤久幸(注4) 6/6 130 29 97 4 .238(注2) 49.5 .215 4.04 41
近鉄バファロー
1959年 千葉茂
林義一(注5)
6/6 133 39 91 3 .300 49.0 .229 3.68 48
1960年 千葉茂 6/6 131 43 87 1 .331 39.0 .236 3.61 69
1961年 千葉茂 6/6 140 36 103 1 .261(注2) 51.5 .229 3.96 68
近鉄バファローズ
1962年 別当薫 6/6 131 57 73 1 .438 21.0 .252 3.40 70
1963年 別当薫 4/6 150 74 73 3 .503 12.5 .256 3.44 98
1964年 別当薫 6/6 150 55 91 4 .377 28.5 .254 3.63 112
1965年 岩本義行 6/6 140 46 92 2 .333 42.5 .235 3.61 91
1966年 岩本義行 6/6 133 48 82 3 .369 31.0 .228 3.60 100
1967年 小玉明利 6/6 132 59 71 2 .454 16.0 .251 3.83 104
1968年 三原脩 4/6 135 57 73 5 .438 23.0 .234 3.28 84
1969年 三原脩 2/6 130 73 51 6 .589 2.0 .243 2.78 118
1970年 三原脩 3/6 130 65 59 6 .524 13.5 .233 2.98 108
1971年 岩本堯 3/6 130 65 60 5 .520 18.0 .241 3.21 151
1972年 岩本堯 2/6 130 64 60 6 .516 14.0 .248 3.07 123
1973年 岩本堯
島田光二(注6)
6/6 130 42 83 5 .336 6・6(注7) .237 3.83 113
1974年 西本幸雄 5/6 130 56 66 8 .459 5・4(注7) .230 3.63 131
1975年 西本幸雄 2/6(注8) 130 71 50 9 .587 3・1(注7) .246 3.09 115
1976年 西本幸雄 4/6 130 57 66 7 .463 5・4(注7) .245 3.04 102
1977年 西本幸雄 4/6 130 59 61 10 .492 3・6(注7) .245 3.31 92
1978年 西本幸雄 2/6 130 71 46 13 .607 2・2(注7) .266 3.21 115
1979年 西本幸雄 1/6(注8) 130 74 45 11 .622 1・2(注7) .285 3.70 195
1980年 西本幸雄 1/6(注8) 130 68 54 8 .557 2・1(注7) .290 4.96 239
1981年 西本幸雄 6/6 130 54 72 4 .429 6・4(注7) .253 4.10 149
1982年 関口清治 3/6 130 63 57 10 .525 3・2(注7) .258 4.11 151
1983年 関口清治 4/6 130 52 65 13 .444 29.5 .262 4.49 134
1984年 岡本伊三美 4/6 130 58 61 11 .487 16.5 .257 4.36 174
1985年 岡本伊三美 3/6 130 63 60 7 .512 15.5 .272 5.10 212
1986年 岡本伊三美 2/6 130 66 52 12 .559 2.5 .271 4.34 183
1987年 岡本伊三美 6/6 130 52 69 9 .430 21.5 .270 4.22 135
1988年 仰木彬 2/6 130 74 52 4 .587 0.0 .253 3.23 154
1989年 仰木彬 1/6 130 71 54 5 .568 0.0(注9) .261 3.86 157
1990年 仰木彬 3/6 130 67 60 3 .528 14.5 .275 4.34 181
1991年 仰木彬 2/6 130 77 48 5 .616 4.5 .265 3.46 157
1992年 仰木彬 2/6 130 74 50 6 .597 4.5 .247 3.69 155
1993年 鈴木啓示 4/6 130 66 59 5 .528 7.0 .258 3.62 145
1994年 鈴木啓示 2/6 130 68 59 3 .535 7.5 .274 4.24 169
1995年 鈴木啓示
水谷実雄(注10)
6/6 130 49 78 3 .386 32.0 .234 3.97 105
1996年 佐々木恭介 4/6 130 62 67 1 .481 14.5 .255 4.01 146
1997年 佐々木恭介 3/6 135 68 63 4 .519 7.5 .274 3.79 112
1998年 佐々木恭介 5/6 135 66 67 2 .496 5.0 .267 4.28 126
大阪近鉄バファローズ
1999年 佐々木恭介 6/6 135 54 77 4 .412 23.5 .257 4.54 151
2000年 梨田昌孝 6/6 135 58 75 2 .436 15.0 .262 4.66 125
2001年 梨田昌孝 1/6 140 78 60 2 .565 2.5(注9) .280 4.98 211
2002年 梨田昌孝
真弓明信(注11)
2/6 140 73 65 2 .529 16.5 .258 3.93 177
2003年 梨田昌孝 3/6 140 74 64 2 .536 8.5 .274 4.30 187
2004年 梨田昌孝 5/6 133 61 70 2 .466 17.0(注12) .269 4.46 121
1950年から2004年までの順位のグラフ
  • 注1 開幕から9月16日まで藤田、9月24日から閉幕まで芥田
  • 注2 引分は0.5勝0.5敗で計算
  • 注3 開幕から6月20日まで芥田、6月22日から閉幕まで加藤(代行)
  • 注4 加藤春雄から改名
  • 注5 開幕から6月18日まで千葉、6月20日から閉幕まで林(代行)
  • 注6 開幕から9月26日まで岩本、9月28日から閉幕まで島田(代行)
  • 注7 前後期制のため、前期順位・後期順位の順で表示
  • 注8 ポストシーズン成績を参照
  • 注9 2位とのゲーム差
  • 注10 開幕から8月8日まで鈴木、8月9日から閉幕まで水谷(代行)
  • 注11 開幕から8月14日まで・8月17日から閉幕まで梨田、8月16日のみ真弓(代行)
  • 注12 レギュラーシーズン1位とのゲーム差

ポストシーズン成績

年度 試合名 成績 対戦相手
1975年 プレーオフ ○●●● 阪急
1979年 プレーオフ ○○○ 阪急
日本シリーズ ○○●●●○● 広島
1980年 プレーオフ ○○○ ロッテ
日本シリーズ ○○●●○●● 広島
1989年 日本シリーズ ○○○●●●● 巨人
2001年 日本シリーズ ●○●●● ヤクルト

タイトルホルダー

最優秀選手

最優秀新人

首位打者

本塁打王

打点王

盗塁王

最多安打

タイトル制定(1994年)以後の該当者無し。 タイトル制定以前のリーグ最多安打打者は以下の通り。

  • 土井正博(1964、1967)
  • 永淵洋三(1969)
  • 新井宏昌(1987)
  • ジム・トレーバー(1990)
  • 石井浩郎(1993)

最高出塁率

最多勝利打点

※1981年制定、1989年から廃止

最多勝利

最優秀防御率

  • 久保征弘(1963)
  • 清俊彦(1972)
  • 鈴木啓示(1978)
  • 山口哲治(1979)
  • 野茂英雄(1990)
  • 赤堀元之(1992)

最多奪三振

タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。

  • 阿波野秀幸(1989)
  • 野茂英雄(1990-1993)
  • ジェレミー・パウエル(2002)

タイトル制定以前の該当者は以下の通り。

  • 鈴木啓示(1967-1972、1974、1978)
  • 阿波野秀幸(1987)

最優秀勝率

※2001年をもって廃止され、翌年からは最優秀投手となった。

最優秀投手

  • ジェレミー・パウエル(2002)
  • 岩隈久志(2004)

最優秀救援投手

※1974年に最多セーブとして制定、1977年よりセーブポイントで表彰する最優秀救援投手に変更。球団消滅後の2005年より最多セーブ投手に。

なお、表彰タイトルではなかったので参考だが1974年以降リーグ最多セーブ投手になったのは以下の選手。

  • 鈴木康二朗(1984-1985)
  • 石本貴昭(1986)
  • 赤堀元之(1992-1994)
  • 大塚晶文(1998)

最多ホールド(現最優秀中継ぎ投手

※1996年に中継ぎ投手の評価法としてホールドを導入、タイトルとして制定。2002年より最優秀中継ぎ投手に変更。

タイトル制定以後の該当者無し。

沢村賞

  • 野茂英雄(1990)

正力松太郎賞

完全試合

無安打無得点試合

ベストナイン

  • 小玉明利三塁手:1960、1962-1965)
  • ジャック・ブルーム(二塁手:1962-1963)
  • 高木喬一塁手:1965)
  • 土井正博(外野手:1967-1968)
  • 鈴木啓示(投手:1969、1975、1978)
  • 永淵洋三(外野手:1969)
  • クラレンス・ジョーンズ(一塁手:1974)
  • 佐々木恭介(外野手:1975、1978)
  • 石渡茂遊撃手:1977、1979)
  • 梨田昌孝捕手:1979-1981)
  • 栗橋茂(外野手:1979-1980、1982)
  • チャーリー・マニエル(指名打者:1979-1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1983-1984、1990)
  • リチャード・デービス(一塁手:1985)
  • 新井宏昌(外野手:1986-1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • 山下和彦(捕手:1989)
  • ラルフ・ブライアント(外野手:1989、指名打者:1993-1994)
  • 野茂英雄(投手:1990)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 石井浩郎(一塁手:1993-1994)
  • 中村紀洋(三塁手:1996、1999-2002)
  • フィル・クラーク(一塁手:1997-1998、指名打者:1999)
  • タフィ・ローズ(外野手:1997、1999、2001-2003)
  • 大村直之(外野手:1998)
  • 礒部公一(外野手:2001)
  • ジェレミー・パウエル(投手:2002)
  • 岩隈久志(投手:2004)

ゴールデングラブ賞

※1972-1985年はダイヤモンドグラブ賞

  • 有田修三(捕手:1975-1976)
  • 梨田昌孝(捕手:1979-1981、1983)
  • 平野光泰(外野手:1979-1980)
  • 小川亨(一塁手:1980)
  • 羽田耕一(三塁手:1980)
  • 大石大二郎(二塁手:1982-1984)
  • 新井宏昌(外野手:1987)
  • 阿波野秀幸(投手:1989)
  • ジム・トレーバー(一塁手:1991)
  • 大村直之(外野手:1998、2003)
  • 中村紀洋(三塁手:1999-2002、2004)

サイクル安打

その他のチーム記録

  • 初試合 1950年3月12日・藤井寺球場(対毎日、2-6)
  • 初勝利 1950年3月13日・藤井寺球場(対南海、4-3)
  • シーズン最多勝利 78(2001)
  • シーズン最少敗戦 45(1979)
  • シーズン最高勝率 .622(1979)
  • シーズン最少勝利 29(1958)
  • シーズン最多敗戦 103(1961)
  • シーズン最低勝率 .238(1958 ※当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230)
  • シーズン最高打率 .290(1980)
  • シーズン最多得点 791(1980)
  • シーズン最多安打 1332(2001)
  • シーズン最多二塁打 249(2002)
  • シーズン最多三塁打 40(1953・1954)
  • シーズン最多本塁打 239(1980・当時の日本新記録。現在はパ・リーグ記録)
  • シーズン最多四球 581(2001・日本記録)
  • シーズン最多四死球 644(2001・日本記録)
  • シーズン最多盗塁 223(1954)
  • シーズン最多犠飛 52(1978・日本記録)
  • シーズン最高防御率 2.66(1954)
  • シーズン最低防御率 5.10(1985)
  • シーズン本塁打数200本以上3回(日本記録。1980・1985・2001)
  • 最大連勝 13(1994年7月26日・対ロッテ~8月10日・対ロッテ)
  • 最大連敗 13(1952年5月25日・対毎日第1試合~6月15日・対西鉄第1試合)
  • 1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス)
  • 1試合最多失点 25(1985年9月18日・対南海)
  • 1試合最多安打 26(2003年8月18日・対日本ハム)
  • 1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急)
  • 1試合最多三塁打 3(1984年5月24日・対南海 他4度)
  • 1試合最多本塁打 8(2003年7月12日・対日本ハム)
  • 1試合最多犠打 7(1987年・対南海、日本記録)
  • 1試合最多盗塁 9(1954年7月27日・対毎日)

歴代オーナー

歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。

歴代本拠地

  • 1950年 藤井寺球場
  • 1950年-1957年 大阪球場
    • 1950年9月より使用
  • 1958年-1983年 日本生命球場
    • 収容人員が日本野球機構主催によるオールスターや日本シリーズを開催する時の最低下限である3万人よりも少なかったので、近鉄主催で行われる場合(1979、80年のプレーオフも)大阪球場を使用した。但し、1975年のプレーオフは藤井寺で開催しており、仮に日本シリーズ出場が決まった場合も藤井寺を使う予定だった
  • 1984年-1996年 藤井寺球場
    • 形式上は藤井寺、日生のダブルフランチャイズだったが(専用球場の届出もこの2ヶ所で登録された)、1983年までは日生をメインに日曜・祝日などのデーゲーム時に藤井寺を使用。1984年以後は藤井寺をメインに年10-20試合程度を日生で開催した。1997年にメインを大阪ドームに移した後も1999年までは藤井寺とのダブルフランチャイズで登録された。なおこの他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を開いた。
    • また1989年と1990年度は大阪球場で10試合前後の主催ゲームがあった。
  • 1997年-2004年 大阪ドーム

永久欠番

#1 鈴木啓示

2004年当時パ・リーグ唯一の永久欠番だったが、吸収合併先のオリックスでは当時1番をつけていた後藤光尊が引き続き着用を希望したため、引き継がれず消滅(オリックス側は念のため鈴木本人に確認したが、「自分の永久欠番はあくまで近鉄での記録によるもの」とし、後藤の継続着用を承諾)。

大阪近鉄バファローズ最後の監督である梨田昌孝によって、以下のような名言が残されている。

「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」

主な歴代球団歌

  • 大阪近鉄バファローズの歌(旧題:近鉄バファローズの歌)(作詞:竹中郁、作曲:米山正夫、歌:クールボナール)
  • 炎えろ!近鉄バファローズ(作詞:西沢爽、作曲:城賀イサム)
    • 上記2曲はCD「大阪近鉄バファローズオフィシャル球団歌・応援歌」では高橋元太郎が歌っている。「近鉄バファローズの歌」のクールボナールが歌うバージョンでは、キダ・タローが編曲を担当している。
  • ドリーム&パワー(作詞・作曲:岡田誠司、歌:イエスマン・ブギー・バンド フィーチャリング JUN)
  • RED de HUSTLE(作詞:キユサマ☆ワカルフ、作曲:パパ・ダイスケ、歌:大西ユカリと新世界

エピソード

ロンゲストゲーム

1953年、近鉄はいずれも後楽園球場で開かれた2試合でロンゲストゲームを戦った。6月25日の対大映スターズ戦は19:13試合開始から当時のナイターの時限であった23:45での打ち切りまで4時間33分・延長22回を戦った(スコアは4-4の引き分け)。

それからわずか1ヵ月半も満たない8月9日には東急フライヤーズ戦のダブルヘッダー第1戦(当時は同一カードダブルヘッダーの第1試合はイニング制限なしで決着が付くまで行った)で今度は4時間46分・延長20回(5-4で近鉄勝ち)を戦い、その後引き続いて開催の第2試合は22:11試合開始。時限の23:45までプレーした(7回時間切れコールドゲームで3-3の引き分け)ため、2試合で合計6時間20分も戦った。

1954年10月10日には東映フライヤーズ戦(大阪)でパ・リーグの最長イニングレコードを記録した。この試合は0-0で迎えた延長23回に武智修の2塁打でチャンスを広げた近鉄が日下隆のスクイズでサヨナラ勝ちした。

1969年10月10日、日生球場でのロッテオリオンズ戦では第2試合で延長13回、22:20の時限オーバー、4-4の引き分けで打ち切られるまで、実に5時間15分の当時の史上最長試合時間記録を達成した。

サスペンデッドゲーム

通常サスペンデッドゲームは日没(現在は適用できない)や照明設備の故障など特殊な例以外考えられないことだが、1954年6月16日中日スタジアムで開かれた東映フライヤーズ戦で1-4で敗れて試合終了したものの、7回表のインフィールドフライをめぐって近鉄側が猛抗議。結局問題のフライ以後の攻撃を一度無効として同年8月10日に同球場で7回以後の攻撃を続行するという変則的なサスペンデッドゲームが行われた。サスペンデッド後の試合は両チームとも得点が入らず、結局1-4で敗戦した。

大逆転でチーム消滅回避

これは、大映のオーナー永田雅一が上記の提案をした人物である。1957年シーズン中に、パ・リーグオーナー会議で「今シーズン最下位となったチームは、解散するか合併する」ことが決定した。これは当時パ・リーグが7球団だったために非常にカードが組みにくかったことが原因であり(奇数であるため必ず対戦できないチームが一つできる)、当時最下位を独走していた近鉄パールスのオーナー・佐伯勇はやむを得ず了承した(解散か合併する基準が最下位である案がシーズン中に承認される、と言うのは現在では到底考えられないような話である)。

8月上旬に近鉄は6位チームと10ゲーム差をつけられ、状況は絶望的と言えた。しかし、ここから近鉄の選手は発奮し、以降の6位チームとの直接対決を大きく勝ち越したこともあって奇跡的に最下位を脱出し、消滅の危機を免れた。

結局最下位となったのは大映ユニオンズで、大映ユニオンズは毎日オリオンズと合併し、大毎オリオンズとなった。

ミケンズ・ルール

1960年5月24日駒澤野球場での東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のグレン・ミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は1塁ゴロに打ち取ったものの、これを1塁手が悪送球したために1・3塁となる。張本勲の2塁ゴロで吉田を2塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。しかしこれに納得のいかないミケンズは翌25日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の1塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の2塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振-三振-遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振-遊ゴロ失-三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年から行われた。

シーズン100敗

日本プロ野球史で100敗という屈辱的な経験を味わっているのは1961年の近鉄のみ。140試合戦って36勝103敗1分け(勝率.261)で、優勝した南海ホークスから51.5ゲーム差の大差を付けられている。それまでのワーストは1955年大洋ホエールズと1955・1956年トンボユニオンズ→高橋ユニオンズの98敗だった。

この年の近鉄は10連敗を6月に1回、7月には1ヶ月で2回喫しており、他の参加5チームとの対戦成績も最高成績が東映フライヤーズ阪急ブレーブスに9勝。他の3チームには20敗以上を喫した。

シーズン最低勝率.238(130試合で29勝97敗4分)を1958年に記録している。ただしこの年は引き分けを0.5勝0.5敗として計算していたため、現在の勝率に換算すると.230となる。

パ・リーグの最少観客動員記録

1966年10月13日に開かれた藤井寺での西鉄ライオンズ戦は日本シリーズの読売ジャイアンツ南海ホークス戦が同日に行われた影響もあり、観客動員はパ・リーグ最少の150人しか入らなかった。(プロ野球最少記録は1966年10月12日川崎球場で行われたサンケイアトムズ中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーで記録された100人。)

巨人はロッテより弱い

1989年10月24日東京ドームでの巨人との日本シリーズ第3戦、近鉄が3勝目をあげた試合後のヒーローインタビュー時の加藤哲郎の発言と言われているが、この通りに発言したわけではない。ヒーローインタビューでは加藤はふてぶてしい口調ながら、「ペナントレース(勝率1厘差、残り1試合で優勝決定)の方がずっときつかった」といった程度の発言しかしていない。その後、選手がドームを後にするまでの取材の過程で新聞記者の誘導により「今の巨人よりディアズ1人をマークしなければならないロッテの方が怖い」「こんなチームに負けたら、(ペナントレースで死闘を繰り広げた)西武オリックスに申し訳ない」という発言が飛び出したが、前年最終戦で近鉄がロッテの粘りに苦汁を舐めた記憶と、加藤がその年個人的にロッテに苦手意識があった(後に加藤本人が述懐している)ことを受けてのものであり、加藤本人がハッキリと「巨人はロッテより弱い」と言ったわけではなかった。その後、近鉄は4連敗を喫し、日本一を逃している。

逆転の近鉄

2001年9月26日、オリックス戦(大阪ドーム)での北川の代打逆転サヨナラ満塁本塁打による優勝決定に象徴されるように、近鉄はしばしば型破りな逆転劇を演じた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
オリックス 0 0 0 3 1 0 0 0 1 5
近鉄 1 0 0 0 0 0 1 0 4x 6

[審判](球)佐藤(塁)丹波 永見 前田


2001年7月17日ロッテ戦(千葉マリン)では5点リードされた9回表にクローザーの小林雅英から一挙に8点を取って逆転勝利し、前半最終戦で首位折り返しを決めた。大村の逆転3ランで5点差をひっくり返し、さらにタフィ・ローズの2ランでとどめを刺している。後半戦近鉄はロッテに10戦全勝し、優勝への大きな足がかりとなった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
近鉄 0 0 1 0 1 0 2 0 8 12
ロッテ 2 4 0 0 0 0 1 2 0 9


1993年6月5日ダイエー戦(藤井寺)では2-8とリードされた9回裏に7点を取ってサヨナラ勝ち。9回裏の6点差逆転は日本記録。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
ダイエー 0 1 0 0 3 1 0 0 3 8
近鉄 0 0 2 0 0 0 0 0 7x 9


1997年8月24日のロッテ戦(大阪ドーム)では2回表までに0-10とリードされながら9回裏に追いつき、12回裏にフィル・クラークの適時打でサヨナラ勝ち。10点差逆転勝利は過去にこの試合を含めて3例あるが、パ・リーグではこの試合だけである(なお他の2試合はいずれも松竹ロビンスが記録している)。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
ロッテ 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 10
近鉄 0 0 1 1 4 0 3 0 1 0 0 1x 11

先発投手陣の頭数が足りない近鉄はこの日、本来は中継ぎで活躍する佐野重樹が先発したものの打ちこまれ、代わった南真一郎も打たれ、2回までにロッテに10点を奪われた。近鉄応援団は横断幕を裏返し、応援をボイコットすることで近鉄ナインに奮起を促した。
近鉄は2回途中からマウンドに上がった3番手・柴田佳主也が3回からの3イニング、6回からはルーキー・大塚晶文が2イニングをそれぞれ無失点に抑える。打線も3回に村上嵩幸、4回にクラークがソロ本塁打、集中打で5回に4点、7回に3点を返す。9回2アウトから2塁ランナー武藤孝司が3塁盗塁すると、ロッテ捕手・吉鶴憲治の悪送球を誘い、近鉄が土壇場で追いついた。
8回から投げ続けた赤堀は、12回までの5イニングを2安打無失点に抑えた。延長最終回となる12回、2アウト・ランナーなしから代打に立った山本和範が四球を選び、水口栄二タフィ・ローズが続き、でクラークがタイムリーを放ちサヨナラ勝ちした。
試合終了後、当時の監督・佐々木恭介は「8回裏の時点で『追い付きはしなかったが、この追い上げは賞賛に値する』というコメントを考えていた」と告白、「こんな選手たちと野球ができて嬉しい。この勝利は必ずいい方向につながる」ともコメントした。近鉄はこの試合に負ければ最下位転落の可能性もあったが、この試合以降は佐々木の言葉どおり勢いを見せつけ、閉幕までを21勝7敗2分けで乗り切り、最終的に3年ぶりのAクラス復帰(3位)を果たした。

2ヶ月足らずで16ゲーム差を逆転

1994年の近鉄は開幕戦で守護神赤堀が逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて負けるという波乱のスタートを切り、チームは低迷。6月17日には首位西武に16.0ゲーム差をつけられ、19勝34敗、借金15の最下位に沈む。
しかし、この日を境に近鉄は調子を上げ、連日のようにいてまえ打線が爆発。1969年に記録した12連勝を越える13連勝の球団新記録を打ち立てて、8月10日に首位に立った。この54日間で、近鉄は32勝6敗、勝率.842という驚異的な成績を残した。最終的には首位西武に7.5ゲーム差で同率の2位に終わったが、一時的にとはいえ、わずか2ヶ月足らずで16ゲーム差をひっくり返した近鉄の勢いは、当時のファンに強い印象を残した。
また、当時プレーしていた選手にとっても非常に印象に残る出来事だったようで、近鉄退団後の石井浩郎は、週刊ベースボールから受けたインタビューの中で、「確か33試合で4回しか負けなかったんですよ。どんな時でも諦めなければ何とかなるんだ、ということで移籍した先では必ずこの話をしました。」と語ったことがある。

王貞治との奇妙な縁

2001年にタフィ・ローズがシーズン本塁打日本記録更新を賭けて挑んだダイエー戦で、ダイエーの選手が王貞治監督のシーズン本塁打記録を守るために勝負を避けるという事件が発生した。この事件に関し、近鉄フリーク作家として活動、今はパ・リーグサイドのスポーツ作家である元近鉄応援団長・佐野正幸は著書「プロ野球の世界に生きるということ(長崎出版)」で、タブーといわれた「世界の王批判」と取れる一文を発表している。

王貞治にハンク・アーロンの通算本塁打記録を破る756号を打たれた投手が、後に近鉄で抑え投手として活躍し二年連続リーグ最多セーブを記録した鈴木康二朗であり、更に王貞治の現役最後の本塁打となった通算868号を打たれたのが、マニエルとのトレードでヤクルトに放出されたかつての左腕二枚看板の一角・神部年男である。

助っ人外国人選手

近鉄は助っ人外国人選手の打者が活躍するチームとして有名であり、一時期の阪神ファンやロッテファンなど他球団ファンからは「近鉄は良い外国人選手を取ってくるのがうまい」とうらやましがられる事も多かった。近鉄の優勝と外国人選手の活躍は切っても切り離せないものがあり、1979年にはマニエル、1989年にはブライアント、2001年にはタフィ・ローズがチームのリーグ優勝と共にMVPに輝いている。外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他にヤクルトスワローズのみであり、外国人選手がMVPを受賞した回数が2006年現在11回であるため、極めて多い。

他にもタイトルホルダーになった選手も多く、タイトルをとれなくても打率.280、20本塁打クラスの打者が多くいる。それら外国人選手を4パターンに分けられる。

  1. 日本の他球団から移籍してきたケース(代表例:ジョーンズ、マニエル、ブライアント)
  2. ブルワーズルート(代表例:オグリビー)
  3. レッドソックスルート(代表例:ローズ、クラーク)
  4. ドジャースルート(代表例:ギルバートバーグマン、パウエル)

1.に関して、マニエルは守備の悪さがヤクルト広岡達朗監督のチーム編成方針上問題となり、大砲を欲していた近鉄との間で神部年男とのトレードとなった。ブライアントはデービスの大麻事件による解雇により、急遽補強が必要となった結果の中日からの金銭トレードである。1のパターンは他にも1993年のレイノルズなども挙げられる(.298 18本 50打点と活躍したがその年限りで解雇された)。

2.は、1980年代の近鉄の主な外国人選手獲得ルートである。当時近鉄の友好球団がブルワーズであったことに起因している。

3.は、1990年代である。このルートで獲得してきた選手が、「毎年のように新外国人選手が活躍する」イメージを植えつける要因の一つとなったと言える。他にも1994-1995年在籍のスチーブンス、1996年在籍のC・D(ドネルス)などがいる。なぜレッドソックスルートと言うかというと、近鉄の外国人選手のスカウト市原稔がアメリカで懸命にスカウト活動をするうちに、独自にレッドソックスとのパイプを築きあげたことにある。レッドソックスルートで獲得してきた最後の選手は2001年在籍のフレッディ・ガルシアウィル・フリントである。

4.は2001年開幕時に、近鉄が野茂つながりでラソーダをアドバイザーに迎え、ドジャースとのパイプができたことで選手が来るようになったルートである。これにより3の長らく優良外国人打者を獲得してきたレッドソックスとのつながりは絶たれた。ギルバートは、当時近鉄の遊撃手で打撃を期待できる選手がいなかったため、ラソーダに良い選手がいないか意見を求めた結果獲得できた選手であり、当時3A通算1700安打を記録していた。バーグマンもシーズン途中からの入団であったが、オリックス戦を中心に活躍し、1年目は10勝を挙げた。パウエルも2001年に途中入団してきたが4勝5敗、防御率は4点台半ばとあまり良い成績とはいえなかったが、2年目に投手タイトルを総なめするほどの活躍を見せ、二桁勝利の常連として息の長い活躍を見せている。

選手を取ってくる先のチームカラーを反映してか、レッドソックスルートで獲得してきた選手は打者が活躍し、ドジャーズルートは投手が活躍する傾向にあった。ドジャースルートで獲得してきた打者はギルバートを除いて成功したと言える選手はいない。

近鉄で活躍する投手はアキーノマットソン、パウエルなど技巧派投手ばかりで、デラクルーズツイドリーバルデスロドリゲスカラスコなどMAX150kmを越えるという触れ込みの速球派投手は、活躍しなかったどころか全く成績を残せなかった。

ネーミングライツ

2004年キャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案であったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。

ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季-1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)、ロッテオリオンズ(1969年-1970年。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融アコムであったため、青少年への影響面から認められなかった理由の1つに挙げられていた。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。

過去の合併計画

2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。
1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では

  1. 近鉄と広島が合併
  2. 本拠地を広島県広島市に置き、セ・リーグ所属とする
  3. 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選
  4. 資本は近鉄・広島で半々[1]
  5. 球団愛称は公募する

と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。

前述のように、親会社である近鉄(当時関西急行鉄道)は、戦中に国策で南海と合併しており、そのときには既にホークスの前身である南海軍が存在していた(合併後に近畿日本軍、戦後はグレートリングと改称している)。この合併が解消されてなければ、近鉄バファローズという球団は誕生すらしていなかった可能性があった(同一会社による複数球団の所有は禁止されている)。ただし当時としても無理があった合併で、戦時体制下での国からの命令でなければ両社は合併などしておらず、この合併は戦後すぐに解消されている。

幻の移転計画

本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。

  • 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている中日ドラゴンズの反対で実現しなかった。ナゴヤ球場及びナゴヤドームでは1990年代後半まで、年数試合の主催試合を開催していた。
  • 1970年代に西本幸雄佐伯勇に、近鉄沿線の花園ラグビー場周辺を整備して野球場を建設し、本拠地を移転することを進言したところ、「(お金が)幾らかかると思っているんだ」と返されたという。
  • 1980年代初頭の藤井寺ナイター問題時には、東大阪市が受け入れに名乗りを上げたことが新聞報道されたが、藤井寺のナイター設備設置計画がまとまったことで立ち消えとなった。

近鉄バファローズに在籍したことのある現役プロ野球選手

NPB所属の選手、及び海外でプレーしている日本人選手で、近鉄バファローズに在籍経験のある現役選手を記す。

  • ()内選手は他球団から近鉄に移籍してきた選手。
  • 太字は2004年シーズン終了時に近鉄に在籍していた選手。
球団 選手
オリックス

投手

香月良太 近藤一樹 高木康成 宮本大輔 山本省吾
野手 横山徹也 阿部真宏 山崎浩司 大村直之 坂口智隆 下山真二 (北川博敏) (鈴木郁洋 タフィ・ローズ
楽天 投手 岩隈久志 朝井秀樹 有銘兼久 愛敬尚史 (山村宏樹) (福盛和男
野手 藤井彰人 高須洋介 中村紀洋 礒部公一 牧田明久 憲史
ロッテ 新里賢

ソフトバンク||colspan="2"|吉川元浩 

ヤクルト 田中祐貴
横浜 大西宏明
阪神 阿部健太 坂克彦 前田忠節
海外 大塚晶則 前川勝彦 (門倉健

脚注

  1. ^ 余談だが、広島県福山通運株式会社は近鉄と資本関係がある。

関連項目

外部リンク