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佐藤純一 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 純一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県大曲市(現:大仙市[1]
生年月日 (1960-07-18) 1960年7月18日(64歳)
身長
体重
184 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1982年 ドラフト3位
初出場 1984年3月31日
最終出場 1990年7月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

佐藤 純一(さとう じゅんいち、1960年7月18日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手外野手)、審判員。審判員袖番号は211991年採用から)。

来歴・人物

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選手時代

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大曲高を卒業後、社会人野球秋田相互銀行では都市対抗野球に補強選手また自チームでは4番として出場[2]1982年プロ野球ドラフト会議近鉄バファローズから3位指名を受け入団[1]

主に外野手代走として起用され、プロ2年目の1984年から一軍出場を果たす。

1988年10月19日川崎球場での対ロッテとのダブルヘッダー(10.19)では、第一試合9回表に淡口憲治の代走として起用され、鈴木貴久の右前安打でホームを伺おうとした際に三塁ベースをオーバーラン、タッチアウトとなった[3]

当時の監督だった仰木彬から「審判になれ」と勧められたこともあり[4]、現役晩年は審判員就任を見越し、現役選手でありながら二軍で一塁ベースコーチを務めることもあった。

1990年限りで現役を引退した[1]

審判時代

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引退後すぐ、パ・リーグ審判部に入局[1]。審判に就任した年齢は遅いが、2005年にはオールスター日本シリーズにダブル出場を果たすなど、パ・リーグでは出場の多い審判の一人である。 

2018年シーズン終了時点で、公式戦2018試合。オールスター4回(1998年、1999年、2005年、2014年。内1998年第1戦で球審)、日本シリーズ6回出場(2000年、2005年、2006年、2008年、2012年、2015年。内2005年第3戦、2008年第6戦、2012年第1戦でそれぞれ球審)している。また、2001年9月26日大阪ドームでの近鉄対オリックス戦(北川博敏大久保勝信から代打逆転満塁サヨナラリーグ優勝決定弾を放った試合)では球審を務めていた。

2009年8月6日京セラドーム大阪で行われたオリックス楽天戦の12回表、2死一塁の場面で打者の内村賢介はボテボテの一塁ゴロを打つが、投手と一塁手が緩慢な守備をし、ボールが一塁に到達する前に打者走者の内村は一塁ベースを駆け抜けた。しかし、このプレーをアウトと判定。監督の野村克也、一塁ベースコーチの佐竹学、内村が猛抗議したが判定は覆らなかった。

2009年8月12日Kスタ宮城で行われた楽天ソフトバンク戦の初回、2死満塁から多村仁の遊ゴロで一塁走者の小久保裕紀が二塁へ滑り込んだプレーをアウトと判定。監督の秋山幸二は制限時間の5分間抗議したが判定は覆らなかった。なお当時楽天監督だった野村は「あれはだれが見てもセーフだ」と発言した。ソフトバンクは13日、この判定を不服として日本プロ野球組織の加藤良三コミッショナーへ意見書を郵送とファクスで提出した。

現役末期は眼鏡をかけてプレイしていたが、現在は眼鏡をかけておらず、コンタクトを使用している。

フォアボールの際には、一塁方向へ軽く突き出した両手を胸の前に引き寄せて握るジャッジに特徴がある。

2007年にパ・リーグ関西審判部主任に就任した。役職名変更により2011年からクルーチーフ、2016年からはクルーチーフを解かれ一般審判員となる。2018年にかつての審判部の最高定年年齢となる58歳を迎えたが、同年シーズンから導入されていた定年延長制度の恩恵に預かる形になり、翌シーズン以降も審判員を継続している。この制度が導入されてからの実際の実施例は佐藤が初めてである。体力と技術面が維持されれば、65歳まで審判員を続けることが可能であるという。

2012年7月18日には、ヤフードームで行われたソフトバンク対オリックス戦で球審を務め、現役の審判員としては13人目となる通算1500試合出場を達成した[5]

2016年5月17日のイーグルス対バファローズ戦で一塁塁審を務めていたが、6回裏のイーグルスの攻撃中の判定を巡って近鉄時代の同僚だった梨田昌孝(当時イーグルス監督)を抗議による遅延行為で退場にしている[6]

2018年8月17日、京セラドーム大阪で行われたオリックス対ソフトバンク第16回戦で一塁塁審を務め、通算2000試合出場を達成した[7]

2020年シーズンを最後に審判を引退。最終出場試合は同年11月6日に京セラドーム大阪で行われたオリックス対北海道日本ハム第24回戦の一塁塁審。30年間の一軍出場試合数は通算2148試合だった[4]

2021年シーズンより、台湾プロ野球で審判員と指導員を務める[8]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1984 近鉄 78 39 35 16 5 0 0 1 8 2 5 2 1 0 3 0 0 7 3 .143 .211 .229 .439
1985 88 51 47 24 12 0 0 2 18 4 7 2 3 0 1 0 0 10 2 .255 .271 .383 .654
1986 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1987 84 62 58 14 18 2 0 1 23 5 5 4 3 0 1 0 0 13 1 .310 .322 .397 .719
1988 34 11 9 6 0 0 0 0 0 0 1 1 1 0 1 0 0 6 0 .000 .100 .000 .100
1990 2 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:6年 290 166 152 60 35 2 0 4 49 11 20 9 8 0 6 0 0 37 6 .230 .259 .322 .582

記録

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背番号

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  • 51 (1983年 - 1988年)
  • 35 (1989年 - 1990年)

審判出場記録

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(記録は2020年シーズン終了時)

表彰

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  • パシフィック・リーグ審判員奨励賞:1回 (2005年)

(記録は2019年シーズン終了時)

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、253ページ
  2. ^ 都市対抗野球大会60年史 日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 佐藤純一氏が明かした仰木監督との思い出/パ伝説 - プロ野球 : 日刊スポーツ
  4. ^ a b "さらば「10・19」の近鉄戦士 佐藤純一審判員がラストゲーム". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 6 November 2020. 2020年11月7日閲覧
  5. ^ 日本野球機構公式サイト「NPBニュース」2012年7月18日発表(2012年9月30日閲覧)
  6. ^ 梨田監督と退場を宣告した佐藤審判員の縁 「10・19」も共闘
  7. ^ 一般社団法人日本野球機構. “佐藤純一審判員 通算2000試合出場達成のお知らせ”. NPB.jp 日本野球機構. 2019年1月9日閲覧。
  8. ^ 昨季NPB審判員引退の佐藤純一氏台湾プロ野球審判員&指導員に

関連項目

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外部リンク

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