厳シュン

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本来の表記は「厳畯」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

厳 畯(げん しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の学者、政治家。字は曼才徐州彭城郡(現在の江蘇省徐州市)の人。子は厳凱・厳爽。従甥(いとこのこ)は厳武八絶「江南八絶」の一人)[1]。『三国志』の呉書に列伝が立てられている。

略歴[編集]

若年より学問に励み、『詩経』『書経』・三礼(『儀礼』『周礼』『礼記』)に通じた。戦乱を避けて江東に移住した。同じく徐州より疎開してきた諸葛瑾歩騭と親交を結び、共に呉の名士と交友して評判を得た。実直で純朴な人柄であり、他者に対しては真心をもって教え導き、その至らぬ点を補い助ける事を心掛けていた。

張昭の推挙により孫権に仕え、騎都尉・従事中郎となった。後に魯粛が死去すると、その後任として一万の兵を率いて陸口に駐屯するよう命じられた。だが厳畯が「自分は書生に過ぎず、軍事にも疎い。非才の者を起用すれば、後に悔いても及びません」と涙ながらに訴えたため、孫権も辞退を聞き入れ、魯粛の後任に呂蒙を起用した。世間では、よく己の器量を弁え謙譲した者であると褒め称えられた。またこの時、孫権は試しに厳畯を馬に乗せてみた所、すぐに落馬してしまったという(厳畯伝注引『志林』)。

孫権が即位した時、衛尉を務めていた厳畯は即位説明の使者として蜀漢へ赴き、よく任務を果たしたため、諸葛亮からも即位を容認された。友人が罪を犯したのを庇ったため、孫権の怒りを買い一時免職となったが、後に復職し尚書令になった。78歳で没した(『呉書』)。

学者として優れ、『孝教伝』・『潮水論』を著した。また裴玄や張承達と、管仲子路について議論した。

陳寿は、程秉闞沢と並んで「一代の学者であった」と評し、特に厳畯が自らの栄達を犠牲にして友人を救った事を評価している。

小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となり集めた人材の一人として名が挙がる。赤壁の戦いの時に降伏論を唱えた文官の一人として、諸葛亮に論戦を挑むが敗れている。

脚注[編集]

  1. ^ 厳武は厳畯の再従子(いとこのこ)にあたる