藪恵壹
阪神タイガース コーチ #80 | |
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![]() 藪恵壹(2008年) | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 三重県南牟婁郡御浜町 |
生年月日 | 1968年9月28日(55歳) |
身長 体重 |
185 cm 98 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト1位(逆指名) |
初出場 |
NPB / 1994年4月13日 MLB / 2005年4月9日 |
最終出場 |
NPB / 2010年9月4日 MLB / 2008年9月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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藪 恵壹(やぶ けいいち、本名:藪 恵一(読み同じ)、1968年9月28日 - )は、元プロ野球選手(投手)。三重県南牟婁郡御浜町出身。1994年の登録名は藪 恵市(読み同じ)。愛称は「恵ちゃん」。
経歴
プロ入り前
小学校時代、野球の試合中に右腕を故障したが、病院にも行かずプレーした。治癒したが、その影響で雨が降ると痛みが出るのか、雨の日の登板では実力を出せないことが目立った。
高校時代は、同じ県内に杉浦正則がいたこともあり、注目されなかった。一年間の浪人生活を経て、一般入試で東京経済大学に進学、首都大学リーグでプレーした。卒業後は朝日生命硬式野球部でプレー。在職時は営業としても勤務し、成績は全社的にもトップクラスに入っていたという。
1993年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。背番号はエースナンバー「18」を与えられる。このとき姓名判断で登録名を「恵市」とした。初の東京経済大学出身のプロ野球選手である。
阪神時代
ルーキーイヤーの1994年に9勝(9敗)を挙げ、新人王を獲得。ファン投票でオールスターゲームにも出場した。低迷していた阪神にあって孤軍奮闘、1996年から1998年まで3年連続二桁勝利を挙げるなど、チームのエースとして活躍した。当初は毎週火曜日にローテーションを組んでおり、「火曜日の男」と呼ばれていた。
阪神時代には前半好投していても、6回あたりから四球、連打などで途端に崩れて自滅することがあり、ファンや評論家の間では「勝負弱いピッチャー」のイメージがつきまとい、「藪病」と揶揄されることもあった。また春先は好投するものの、夏場に調子を落とすことも多かった。
入団1年目から7年連続で規定投球回に到達。
2001年は右肩のケガで未勝利に終わるものの、2002年は星野仙一の監督就任と共に再開花。読売テレビの番組「週刊トラトラタイガース」の生放送中、阪神タイガースOB川藤幸三との電話会談で背番号4を薦められ、投手としては珍しい背番号「4」[1](阪神では過去にジーン・バッキー、マット・キーオが着けていた)に変更し10勝を挙げた。2003年も怪我がありながらも8勝(3敗)を挙げ、18年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、同年の日本シリーズでは登板することがなかった。2004年にFA資格を取得。この時に阪神とは決別すると示唆する報道がされていた。
MLB時代
2004年オフ、メジャー挑戦を理由にFA宣言。2005年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。アスレチックスでの背番号は、自身が野球を始めて最初に貰った「13」。
メジャー1年目で4勝を挙げたが、同年オフにチームがオプションを行使しなかったため自由契約となる。
2006年はコロラド・ロッキーズと契約したが、同年3月31日付で退団しフリーエージェントとなった。同年6月29日にマイナーリーグAAA級に相当するメキシカンリーグのティファナ・ポトロスと契約した。翌2007年は、どこの球団にも所属せず、トレーニングに費やした。この年は練習相手もいないのでネットや壁にボールを投げて投球練習をすることもあったという。アマチュア時代はあまり設備など野球環境が恵まれていなかったが、さすがに練習相手がいないのは堪えたという。そのため2008年度は、もしメジャーに上がれなくても喜んでマイナーでプレーすることを決めていた。
2008年、メジャー昇格を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングトレーニングから、トレーニングに励みオープン戦に登板していた。キャンプ・オープン戦での背番号は「72」。同年3月30日に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は「22」[2]。
4月14日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した(ジャイアンツで日本人が勝ち投手となるのは1965年9月30日の村上雅則以来)。39歳と199日での白星は、日本人メジャーリーガーの最年長記録。また同年の5月30日の対サンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った。[1]
2009年はメジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。そしてメジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受けるも、翌21日に傘下のAAA級フレズノと再契約を結んだ。しかし、7月11日に解雇された[3]。
楽天時代
2010年7月26日に千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けたが、獲得は見送られた。7月29日・30日に東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受け、7月31日に楽天が獲得を発表した。背番号は「64」[4]。中継ぎ投手として11試合に登板したが、シーズン終了後戦力外通告を受けた[5]。
引退後
戦力外通告後、古巣である阪神から、投手コーチ就任の打診があったものの、本人は現役にこだわり態度を保留していた。12月15日に、球団事務所で同球団の南信男社長と会談し、12月17日に正式にコーチとして契約し現役を引退した。2011年より阪神の二軍投手コーチに就任。背番号は、岡田彰布前監督退団後、空き番号となっていた80になった。2012年からは和田豊の監督就任に伴い一軍投手コーチに昇格した。
プレースタイル
持ち球:ストレート、カーブ、スライダー、高速スライダー、フォーク、シュート、チェンジアップ、ナックル
決め球:スライダー、高速スライダー
投球スタイルは切れ味鋭いスライダーとフォークを主体に、後にシュートを習得しゴロを打たせるというものだった。150km/h以上のストレートも持つが、スタミナを温存するためか常時140km/h前後にとどめることが多い。
阪神時代、広島東洋カープにめっぽう強く(通算27勝17敗、プロ初勝利も対広島戦)、「鯉キラー」とも呼ばれていた。藪がメジャー移籍した際に広島の首脳陣が「(藪がメジャーに移籍してくれて)正直、ほっとした」とまで語っている。
人物
阪神入団当時は、周囲から「織田裕二に似ている」と話題になった。
阪神時代に幾度となく死球を与えた清原和博に対し、シーズン3個目の死球を与え、清原が指を3本突き出しながら「3回目やぞ」とすごんできたことを受けて、「俺の年俸は3億やという意味だと思いましたよ」、「一流の打者ならあれぐらいのボールは避けられるはず」と全く動じなかった。
公式ブログには尊敬する人はスティーブ・ジョブズと書かれている。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1994 | 阪神 | 26 | 25 | 8 | 1 | 0 | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 743 | 181.1 | 174 | 12 | 42 | 3 | 2 | 110 | 2 | 1 | 67 | 64 | 3.18 | 1.19 |
1995 | 27 | 27 | 7 | 2 | 2 | 7 | 13 | 0 | -- | .350 | 713 | 196.0 | 185 | 19 | 50 | 1 | 10 | 118 | 4 | 1 | 73 | 65 | 2.98 | 1.20 | |
1996 | 30 | 30 | 6 | 1 | 0 | 11 | 14 | 0 | -- | .440 | 834 | 195.1 | 204 | 14 | 51 | 1 | 11 | 145 | 1 | 1 | 97 | 87 | 4.01 | 1.31 | |
1997 | 29 | 26 | 4 | 1 | 0 | 10 | 12 | 0 | -- | .455 | 768 | 183.0 | 172 | 23 | 62 | 6 | 10 | 111 | 9 | 0 | 79 | 73 | 3.59 | 1.28 | |
1998 | 24 | 24 | 3 | 2 | 1 | 11 | 10 | 0 | -- | .524 | 692 | 164.0 | 159 | 11 | 51 | 0 | 8 | 90 | 4 | 2 | 74 | 64 | 3.51 | 1.28 | |
1999 | 28 | 27 | 4 | 2 | 1 | 6 | 16 | 0 | -- | .273 | 737 | 173.1 | 175 | 16 | 57 | 8 | 11 | 95 | 4 | 0 | 80 | 76 | 3.95 | 1.34 | |
2000 | 25 | 24 | 1 | 1 | 0 | 6 | 10 | 0 | -- | .375 | 638 | 151.0 | 162 | 19 | 30 | 4 | 4 | 95 | 7 | 0 | 76 | 70 | 4.17 | 1.27 | |
2001 | 17 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 250 | 55.0 | 55 | 2 | 33 | 4 | 5 | 26 | 5 | 0 | 32 | 25 | 4.09 | 1.60 | |
2002 | 20 | 20 | 5 | 2 | 2 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 532 | 131.2 | 118 | 14 | 30 | 1 | 6 | 97 | 3 | 0 | 48 | 46 | 3.14 | 1.12 | |
2003 | 23 | 15 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 405 | 97.2 | 97 | 13 | 27 | 0 | 2 | 67 | 4 | 0 | 50 | 43 | 3.96 | 1.27 | |
2004 | 19 | 19 | 1 | 1 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 480 | 116.1 | 108 | 8 | 36 | 0 | 6 | 75 | 5 | 0 | 44 | 39 | 3.02 | 1.24 | |
2005 | OAK | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | 1.000 | 262 | 58.0 | 64 | 6 | 26 | 3 | 8 | 44 | 2 | 0 | 34 | 29 | 4.50 | 1.55 |
2008 | SF | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 0 | 9 | .333 | 302 | 68.0 | 63 | 3 | 32 | 4 | 8 | 48 | 5 | 1 | 33 | 27 | 3.57 | 1.40 |
2010 | 楽天 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | ---- | 48 | 11.0 | 9 | 2 | 6 | 0 | 2 | 6 | 0 | 0 | 6 | 6 | 4.91 | 1.36 |
NPB:12年 | 279 | 245 | 39 | 13 | 6 | 84 | 106 | 0 | 2 | .442 | 6940 | 1655.2 | 1618 | 153 | 475 | 28 | 77 | 1035 | 48 | 5 | 726 | 658 | 3.58 | 1.26 | |
MLB:2年 | 100 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 1 | 10 | .538 | 564 | 126.0 | 127 | 9 | 58 | 7 | 16 | 92 | 7 | 1 | 67 | 56 | 4.00 | 1.47 |
- 2010年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 初記録(NPB)
- 初登板・初先発:1994年4月13日、対中日ドラゴンズ1回戦(阪神甲子園球場)、6回0/3を3失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に松井達徳から
- 初勝利・初完投勝利:1994年4月19日、対広島東洋カープ1回戦(岡山県営球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1994年5月24日、対読売ジャイアンツ7回戦(阪神甲子園球場)
- 初ホールド:2010年8月19日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、6回裏2死に2番手で救援登板、1回無失点
- 節目の記録(NPB)
- 1000投球回数:1999年6月5日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、4回裏3死目にロベルト・ペタジーニを遊撃ゴロ併殺打で達成 ※史上278人目
- 1500投球回数:2003年7月11日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、1回表1死目に二岡智宏を遊撃ゴロで達成 ※史上151人目
- 1000奪三振:2004年8月11日、対横浜ベイスターズ16回戦(札幌ドーム)、5回裏に佐伯貴弘から ※史上112人目
- その他の記録(NPB)
- オールスターゲーム出場:6回 (1994年 - 1997年、1999年 - 2000年)
背番号
- 18 (1994年 - 2001年)
- 4 (2002年 - 2004年)
- 13 (2005年)
- 22 (2008年)
- 64 (2010年)
- 80 (2011年 -)
脚注
- ^ 野球を始めた小学校時代はセカンドの控えで終わり、それ以降も着けることのなかったレギュラー番号である4を一度は背負ってみたいという憧れをプロ入り後も持ち続けていたという。
- ^ “藪39歳最終カット突破、開幕メジャー”. 日刊スポーツ. (2008年8月31日) 2011年2月15日閲覧。
- ^ “藪 ジャイアンツ傘下3Aを解雇に”. デイリースポーツ. (2009年7月14日) 2011年2月15日閲覧。
- ^ 藪恵壹選手との契約合意について
- ^ 来季の選手契約について
関連項目
外部リンク
- 藪恵壹オフィシャルブログ
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)