茶漬け

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.144.38.62 (会話) による 2012年5月28日 (月) 10:54個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎茶漬けにまつわる儀礼)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

煎茶をかけたお茶漬け。お新香を添えて。
具をたっぷり乗せたお茶漬け。
納豆を入れたお茶漬け。

茶漬け(ちゃづけ)は、米飯をかけたもののこと[1]だが、出汁もしくは白湯をかけたもののこともそう呼ぶ。通常はお茶漬けと呼ばれる。なお、白湯をかけたものは一般に、湯漬けという。

この料理・もしくは食べ方は一般に、お好みでご飯の上から熱い茶や出汁をかける。茶をかける場合は煎茶緑茶)やほうじ茶であることが多い。味の濃い食材を副菜として食を進めることもあれば、好みで梅干漬物海苔佃煮塩辛山葵たらこ辛子明太子)・イクラマグロ等の刺身などの具を載せることもある。ひつまぶしのようなものや東京新宿「すずや」の「とんかつ茶漬け」など、特異なものも存在する。

茶漬けの文化

一般的には茶漬けには熱い液体(熱い茶や出汁)を使用するが、盛夏などには冷えた緑茶や麦茶などを使用し、冷たい食感を楽しみながら食べる人もいる。この食べ方は昭和期からTVなどで紹介され、平成期に入っても冷やし茶漬けとして紹介された。

古くから食べられていたのは、名の由来の通り、熱い白湯や茶を掛けたものである。その手軽さから軽食としては元より、豪勢なご馳走を食べた後の後口をさっぱりさせるため、宴会などの締めの料理として、また山岳食としても長らく親しまれている。これらでは、冷えて固くなった飯を急いで食べるために、飯だけを詰めた弁当箱に茶を掛ける人も見られる。

若い世代

若い世代には市販のインスタント茶漬けのみを小さい頃から食べ慣れていることから、ご飯にインスタント食品の同製品でなく塩気のない「お茶」をかけるのを好まない者、知らない者もいる。ただ1990年代以降に日本で発生した朝粥ブームもあって、の類似料理である茶漬けに凝る人も見られた。

中国

日本と同じく米飯を主食とし、茶を嗜む中国においては、飯に茶をかけて食べるという食習慣はなく、一般的な中国人は、茶漬けという食習慣を知ったときかなり驚くようである[2]

歴史

湯漬けと水飯

飯に水や湯、汁を掛けるという供食方法が、日本への稲作、米食文化伝来とともに始まったことは確実である。乙巳の変の折、最初に蘇我入鹿の暗殺を命じられた者が宮中に赴く前、水をかけた飯を飲み込んだ、という逸話からも伺うことができる。時代が下った平安時代、『枕草子』や『源氏物語』などの文学作品にも湯漬けが登場する。冷や飯に水をかけたものは「水飯」(すいはん)と言い、源氏物語でも光源氏が食べたという記述がある。また、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』には、肥満に悩む貴族・三条中納言と湯漬け飯の逸話が登場する。医師にダイエット方法を尋ねた中納言は、湯漬けと水漬けを食べてカロリーを制限する方法を勧められる。しかし熟れ鮨ウリの干物で水漬けを食べたところ、あまりの美味さに食べ過ぎて余計に太ってしまったという。

当時は炊いた飯は、お櫃に移してから食すのが一般的だった。当時は白飯を保温する技術はなく、炊き立ての飯も時間の経過ともに冷える一方であった。冷や飯は温度も下がり、水分も減少して食感が失われる。このため、冷や飯を美味しく食べる手段としても、熱い湯を掛けて飯を暖めたり水分を補う湯漬けは非常に有用であった。

足利義政も、こんぶや椎茸でだしを取った湯を、水で洗った飯にかける湯漬けを特に好んだという[3]織田信長なども出陣の前に湯漬けを食べたという話がある。

茶漬けの歴史

お茶漬けの始まりは、煎茶番茶が普及し、茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代中期以降と言われている。煎茶は若干のグルタミン酸ナトリウムうまみ成分)が含まれており、独特の芳香と相まって白湯を掛けるより美味である。今日の茶漬けの直接の始祖は、当時商家に奉公していた使用人(奉公人)らがその仕事の合間に食事を極めて迅速に済ませる為にとった食事法であるといわれている。当時の奉公人らは一日の殆どを労働に充てており、また食事時間も上役に管理されていたため、自然とこのような食事形態が発生した。奉公先の質素な食事の中で漬け物は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、巨大なサイズの大鉢などに山のように盛られることが多かった。そのこともお茶漬という食形態の定着に大いに関係したと推測される。また、元禄時代頃より茶漬けを出す店として「茶漬屋」も出現し、庶民のファストフードとして親しまれた。このためお茶漬けは下層階級の食事形態とされ、支配階級以上の家庭では大っぴらには食べず、やむを得ない場合の軽食とされた[要出典]。しかし実利を尊ぶ庶民には、お茶漬けはその利便性から非常に重宝され普及した。

江戸時代の高級料亭八百善では一杯一両二分という高額なお茶漬けを客に出したことがある。茶漬けに合う水を飛脚でわざわざ取り寄せたためこの値段になったという。

また森鴎外は、饅頭茶漬けが好物だった。理由は大の甘党の上に、ドイツ留学中に細菌顕微鏡で見て以来、潔癖症になったためで、饅頭を四つにわけてご飯の上に載せ、煮えたぎった煎茶を掛けて食べたという。

昭和初期の風俗を描いた永井荷風の『濹東綺譚』においては、玉の井私娼が配達されたお櫃入りの冷や飯とアルミ鍋に盛られた薩摩芋の煮付けを食べるにあたり、火鉢に掛けたアルミ鍋の薩摩芋、山盛りの沢庵とともに茶漬けをさらさら掻きこむ描写が描かれている。

インスタント茶漬け

インスタント茶漬け

1952年には、画期的な商品であるインスタントのお茶漬け、永谷園の「お茶づけ海苔」が考案、発売された(ただし永谷園の会社設立は翌年である)。これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、ご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。元より茶漬けが気取らない喫食方法であるがために、それらも含めてコンビニエンスストアスーパーマーケットの定番商品の一つになっている。

永谷園は1990年代末より、お茶漬けを豪快に食べるコマーシャルを展開、美男の広告代理店社員や公募された一般の消費者等による「フーフー、ジュルジュル、ハフハフ、モシャモシャ」と音を強調したシリーズをテレビ放映、ラジオでも音のみの広告を展開した。同シリーズは、音が汚らしいという不評も聞かれはしたが、それ以上に視聴者に食欲をそそらせることに成功した(シズル)とも言われる。

茶漬けにまつわる儀礼

茶漬けは京都弁ぶぶづけとも呼ばれるが、京都で他人の家を訪問したときに「ぶぶづけでもいかがどすか」と勧められたり出されたりした場合、たいていは暗に帰宅を催促しているという都市伝説がある。なお、これは、食事のしめの一つである茶漬けを出すことで、終わり(長居の終わりや会話の終わり)を指しているとされている。小噺としては[4]江戸時代の「一のもり」(安永4年、1775年)に収録された『会津』が元々の噺のようで、十返舎一九の「江戸前噺鰻」(文化5年、1808年)には『茶漬』として紹介されている。大阪では天保年間(1830-44年)のネタ帳に『京の茶漬』として記載がある。原本は江戸のものであるが題目としてはシミッタレた噺のためか演目記録は少なく、戦前期の新聞雑誌等での紹介も少ない。桂米朝が同演目を復興させたことにより、そのような文化とともに「京の茶漬け」「京のぶぶづけ」が広く知られるようになった。

またお茶漬けを忌み嫌う習俗も存在する。かつての日本では、、牛方、馬方マタギ鉱山掘りなど、山中で危険な肉体労働に従事する者は「汁かけ飯」を極端に忌み嫌った。仕事に「味噌をつける」ことになり、縁起が悪いからという。牛方が連れ立って朝食をとる際、一人でも飯に汁をかけた者がいるとその日の旅程は中止になり、滞在費はその汁かけ飯を作ったものが負担した。ただ、「汁かけ飯」ではなく、「飯を入れた汁」は問題が無かった。

トンネル掘削工事の作業員や職員、炭坑の坑夫なども、ご飯に茶や汁をかける「茶漬け」や「汁かけ飯」は縁起が悪いとして避けており、家族にも食べさせることを禁じている。茶や汁をかけたときにご飯が崩れる様が、切羽の崩落や山の落盤を想像させるからである[5]。トンネル掘削の作業員が「茶漬け」「汁かけ飯」を忌み嫌う有様は、『黒部の太陽』でも描写されている。

茶漬けに類似した料理

奄美大島の鶏飯

室町時代末期頃には芳飯(法飯とも書く)という料理が出現した。これは白飯もしくは混ぜご飯に七種類の具(野菜類が多い)を乗せ、その上から湯桶に入ったお焦げ出汁を加えたものを掛けた料理である。正式な本膳料理精進料理にも供され、おかわりする事も可能な料理であった。現在でも長野県善光寺等で精進料理の一種として供されたり、鹿児島県奄美大島には鶏飯(けいはん)、沖縄県には菜飯(セーファン)という芳飯に類似した料理が残されている。

脚注・出典

  1. ^ 広辞苑「飯に熱い茶をかけたもの。茶漬飯」
  2. ^ 語学春秋社『かがやく受験生たちの物語(望月光)』第5章 著者が北京の食堂で中国の友人に茶漬けを実演し、大変驚かれるエピソードが紹介されている。
  3. ^ NHK教育『歴史に好奇心 あの人は何を食べてきたか(2)足利義政の湯漬け』
  4. ^ 以下はつぎのサイトを参考に記述している。「名作落語大全集」[1]
  5. ^ 野瀬泰申 (2009年9月4日). “「食べ物新日本奇行」汁かけご飯(その2) ご飯入れる?・汁かける?トンネルのこだわり”. 2010年5月17日閲覧。

文献情報

  • 「日本の米と食文化」香西みどり(比較日本学教育研究センター研究年報)[2]

関連項目