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李明博

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李明博(イ・ミョンバク)
이명박
ファイル:Lee Myung-bak cropped Sebastián Piñera - Lee Myung-bak.jpg

大韓民国の旗 大韓民国
第17代 [[[大統領 (大韓民国)|大統領]]
任期 2008年2月25日

任期 2002年7月1日2006年6月30日

出生 (1941-12-19) 1941年12月19日(82歳)
日本の旗 日本 大阪府 中河内郡 加美村(現大阪府大阪市平野区
政党 セヌリ党 
配偶者 金潤玉
署名
李明博
各種表記
ハングル 이명박
漢字 李明博 南朝鮮
発音: イ・ミョンバク
日本語読み: り めいはく
ローマ字 I Myeongbak
英語表記: Lee Myung-bak
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李 明博(イ・ミョンバク、이명박1941年12月19日 - )は、韓国政治家。現第17代大統領、元ソウル市長。日本大阪府大阪市平野区出身。1945年までの日本での通名は月山 明博(つきやま あきひろ)[1]本貫慶州李氏は「一松(イルソン、일송)」。B型[要出典]

概要

現代建設社長、国会議員(ハンナラ党)などの要職を歴任した。

2002年ソウル特別市市長に就任し、都市改造政策等を行った。

2007年12月19日施行の大韓民国大統領選挙に出馬し、対立候補を圧倒的大差で破り、悲願の当選を果たした。

2008年2月25日、第17代大韓民国大統領に就任し、5年間の政権を正式に発足させた。

来歴

成長過程および教育

1941年慶尚北道浦項出身の李忠雨(イ・チュンウ、이충우)を父親、蔡太元(チェ・テウォン、채태원)を母親とし、四男三女の三男(第五子)として大阪府中河内郡加美村(現:大阪市平野区加美南3丁目)の「島田牧場」の社宅に生まれる[2][3]。李忠雨は1929年から島田牧場で働いていたが、終戦直後の1945年10月に一家は密航船に乗って[3]、父親の故郷である浦項へ引き揚げた。

その当時、高等学校への入学は限られた少数の特権であった。彼のような大家族の場合、一般的に長男が家族の希望のような存在であった。この場合、下の兄弟たちは、兄や姉の教育費を賄うために自分の進学を諦めるのが普通で、彼も高等学校への進学を諦め、兄の教育費を稼ぐために母親の食品売りを手伝うつもりであった。しかし、中学校の教師が母親を説得し定時制の同志(ドンジ)商業高等学校に進学することになった。高校で彼は奨学金の給付を受けながら昼間は仕事、夜は勉学に励んだ。

高校卒業後、ソウル梨泰院に家族全員で移った。そこで李は「金がなくて中退したとしても、高卒よりは大学中退のほうがましだ」として、大学受験を決意、清渓川の古本屋で参考書を買い受験勉強を始めた。市場で家業を手伝いながら、夜は当時学生の間で流行した眠気覚まし(アンナポン)を呑んで勉強した結果、高麗大学校商学部経営学科に合格。肉体労働のアルバイトをして学費を貯め、1961年に進学した。大学在学中に兵役を務めたが、気管支拡張症により除隊となった。

1963年に高麗大学校商学部学生会長になった翌年、同大学校総学生会長代行となる。その当時学生による民主化運動はピークに達し、日韓会談に対する抗議活動も非常に活発であった。彼は1964年6月、約1万2千人が参加した朴正煕政権下、日韓基本条約締結に向けての日韓会談反対闘争を主導、第6次日韓会談を中止させる(6・3事態)。これにより国家内乱扇動の容疑で逮捕され、最高裁で懲役3年・執行猶予5年(西大門刑務所서대문형무소)に3ヶ月服役)の判決を受けた。このような経緯で彼は「民主化の一世代」とも言われるようになった。

ビジネス経歴

1965年に大学を卒業した後は、学生運動の経歴が祟って就職難に陥る。社員が数十人という零細企業だった現代建設の面接まで辿り着いたが、そこでも経歴に難色を示されると、朴大統領に手紙を送るなど紆余曲折を経て、なんとか入社を勝ち取った。赴任先のタイで強盗から金庫を命がけで守ったことで鄭周永に気に入られ、彼の薫陶の下、ビジネス界で辣腕を奮っていく。

1965年、現代建設はタイのパタニ・ナラティワート (Pattani-Narathiwat) 高速道路の契約を受注した。520万ドル規模のこのプロジェクトは韓国初の海外建設事業である。李は新入社員であったにもかかわらず、プロジェクトチームの一員としてタイに派遣された。同プロジェクト1968年3月に成功裏に完了し、李は帰国してソウルの現代建設重機事業所に配属される。現代建設におけるパタニ・ナラティワート高速道路の成功的完成は、韓国の建設産業がベトナムや中東のような新しい海外市場の開拓の効果を促進させるようになる。

1960年代のベトナム建設需要の停滞により現代建設は中東地域へ目を向けることになる。アラブ造船・修理所、バーレーンのディプロマットホテルや「20世紀の偉大な歴史」とも言われるサウジアラビアのジュベイル (Jubail) 工業港プロジェクトなど積極的に国際的なプロジェクトを手がけることになる。当時韓国の建設企業は100億ドル以上のプロジェクトを受注し、石油危機による国家的危機を克服することに大きく貢献した。李が入社した1965年には90人位しかいなかった現代建設の従業員は、彼が会長職を離れた27年後には16万人規模の大企業として成長した。

現代建設在職中である1970年金潤玉と結婚して、1男3女をもうけている。

李は当時の韓国とソ連間の国交正常化過程においても一定の役割を果たした。さらに李はリー・クアンユーシンガポール首相、カンボジアフン・セン首相、マハティール・モハマドマレーシア首相、江沢民中国国家主席ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領など、海外の指導者らと交流を行った。彼は27年間勤めた現代グループを離れた後、政界に進出することを決めた。

サラリーマン神話

こうして29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を驀進し、現代建設を韓国のトップ企業に押し上げた経歴から、政界入り以前より既に経済人として伝説的な存在であり、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされている。

極貧から身を起こし、高校時代より5時間以上寝たことはなく、1日18時間働くと言われる猛烈人生は既に何度もドラマ化された他(「野望の歳月」(1990年、KBS)、「火の鳥」(2004年、MBC))、現代建設を退職し政界入りする際に出版した自叙伝『強者は迂回しない』(日本語訳は2008年10月に『李明博自伝』として新潮文庫より刊行)は95年の出版以来、韓国内で200版近く版を重ねるベストセラーとなっている[4]

政界入門とソウル市長時代

1992年現代建設を退社。第14代総選挙で与党民主自由党(民自党)から立候補して当選し、国会議員として政界入りした。選挙期間中、李は「ミハイル・ゴルバチョフという一人の人間がもたらした世界的な変革を見て、私も何かしなければと考えました」と言及している。続く第15代総選挙では新韓国党(民自党が1995年に党名改称した政党)から出馬し、この時盧武鉉を破って当選している。しかし、彼の選挙参謀による不明朗な選挙資金の処理が明らかになり、選挙法の違反で700万ウォンの罰金が科される前の1998年に議員を辞職し、失意の中で渡米。ジョージ・ワシントン大学客員研究員として1年間を過ごした。大学で参加した演習で「環境」の重要性に気付き、知人に誘われて訪れたボストンでの都市再生工事(ビッグ・ディッグ)から、後の清渓川復元工事をはじめとする、一連の都市プロジェクトのヒントを得たという。

帰国後一時は金融界への進出を試みたが、恩赦によって政界復帰が可能となり、2002年のソウル特別市市長選で当選した。しかし、選挙活動を早期に開始したことで罰金を科される。ソウル市長在任中は、公共交通システムの再編、ソウルの森の造成といったインフラ整備を大々的に進めた。中でも特筆されるのが、ソウルの中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除くことで、市民の大切な憩いの場「清渓川」を復元したことである。彼の強力なプロジェクト推進によって、ソウルの中心部を流れる小川をみることができた。さらに、清渓川は市民の憩いの場だけではなく、生態系の宝庫となった。

これをタイムズ誌アジア版は、2006年5月に清渓川に素足を入れた李の写真とともに、「ソウル、かつてのコンクリートジャングルのシンボルは緑のオアシスにその姿を変貌させた。そして、現在それは他のアジア都市に環境に対する愛情を教え込んでいる」と紹介した。[5]

2007年10月、アメリカのアル・ゴア元副大統領とともにアメリカタイム誌により「環境の英雄 (Hero of the Environment) 」に選定された[6]。また、英経済専門誌フィナンシャルタイムズの姉妹誌「fDi」により「2005年世界の人物大賞 (personality of the year) 」を授与された[7]

李のもう一つの野心的なプロジェクトは「ソウルの森」である。これはニューヨークのセントラルパークやロンドンのハイドパークのような市民の憩いの場を目指すことであった。ここはソウル市民に40万本の木々や、鹿を始めとする100種以上の動物が生息している広大な自然空間を提供している。「ソウルの森」はわずか1年間の工事を経て、2005年6月にオープンした。 これによりソウル市庁前のロータリーは2002年のサッカーW杯大会の際に文化空間「ソウルプラザ」として整備され、2004年5月のテープカット以来、市民の憩いや文化行事に参加する場として利用されている。

2005年11月8日には2007年大統領選で左派政権継続阻止を掲げている新保守運動のニューライト全国連合創立大会に参加している[8]

大統領選挙

2007年5月10日、李は公式にハンナラ党 (Grand National Party) の大統領候補選の出馬を表明した。2007年末の韓国大統領選挙の前哨戦であるハンナラ党予備選挙(2007年8月20日)で、朴槿恵候補に勝利し、大統領選の党公認候補となった。李は予備選挙期間にソウル道谷洞の土地投機絡みで告訴される。

2007年8月、検察は中間発表で「我々は道谷洞土地について李の兄の主張を疑うが、土地の本当の所有者が誰であるかは確かめることができなかった」と述べた。2007年9月28日に検察当局は、道谷洞土地の借名保有の疑いについて「我々は土地の売却代金の追跡や通話内容の照会などすべての調査をして真相が究明された」と公式に事件を終結させた。2007年12月、大統領選挙の数日前に李は自分の資産全てを社会に寄付すると発表した。

李は大統領選挙を前にした各種世論調査でも人気は軒並み1、2位となり、その勢いをそのまま本番に持ち込み、同年12月19日施行の大統領選挙で与党系の大統合民主新党の候補である鄭東泳を圧倒的大差で下して当選を果たした。在日韓国・朝鮮人出身としては初の大統領である。

大統領として

2008年8月、第3回韓米首脳会談において訪韓したブッシュ大統領夫妻との記念写真。右から2番目が李明博で一番左は金潤玉夫人

李は2007年12月大統領選挙で48.7%の得票で大統領に当選した。しかし、投票率は韓国の大統領選挙史上最も低いものであった。2008年2月25日に、第17代大韓民国大統領に就任。就任式には、外国からの招待客や一般市民ら約6万人が参加。日本からは福田康夫首相のほか、中曽根康弘元首相、森喜朗元首相、重村智計早大教授らも出席した。彼は大統領就任式で、経済の回復を始めとして韓米関係の強化や北朝鮮との交渉を誓った。彼は特に「グローバル外交」を目指すと共に隣国である日本、中国、ロシアとの更なる協調を追求すると断言した。さらには、韓米関係を強化した上で北朝鮮に関してより厳しい政策を実行する、いわゆるMBドクトリンの促進を誓った。大統領の名前である明博 (Mb) のイニシャルと経済学 (economics) を結合したMbノミクスは、李大統領のマクロ経済政策を示している。

2008年4月に大統領就任後初の訪米・訪日を行い、日本のTBS系番組『筑紫哲也 NEWS23』に出演しタウンミーティング形式で日本市民と会話した。

李明博の経済回復の核心は「韓国747」計画。その計画は毎年平均7%の経済成長、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界7大経済大国にするものである。李政権は「国民が豊かで、温かい社会、そして強い」新しい韓国を目指し、政策において、進んだ市場経済、経験則に基づいた実用主義、民主的な行動主義など市場にやさしい政策を追求している。最近、李政権は新しい国家ビジョンとして「低炭素・グリーン成長」を掲げた。韓国政府は2020年の温室効果ガス排出目標を巡って繰り広げられている先進国と開発途上国間の激しい攻防のかけ橋になることを願っている。

「経済大統領」として大きな期待を背負ってスタートした政権だが、4月に米国産牛肉の全面的な輸入再開方針を決定したことで国民の猛反発を受け支持率も2割前後に急落、連日に渡って大規模なデモ隊の抗議運動を受けるなどして出鼻をくじかれることになった。韓米首脳は両国で一部議員らの反対に直面している両国間の自由貿易協定 (FTA) の批准を議論した。米国産牛肉輸入の部分的な解禁という首脳間の合意が米国における韓米FTA承認の障害を取り除くと予想されるなか、大勢の韓国人は米国産牛肉の輸入再開に強い反対を表明した。反対された理由としては出荷して30ヶ月以上経った牛肉は安全性に問題があるということ、そしてそのことを政府側が誤魔化していたということが挙げられる。

韓国政府は暴力的な集会は罰されると警告し、警察と集会参加者との衝突を防ぐための処置を取った。抗議集会への国民の支持は必ずしも高くなかったが集会は2ヵ月以上も続き、徹夜のローソク集会は本来の目的とは別に、反対勢力の激しい抗議に取り替えられた。集会場周辺に引き起こされた経済的な損害は大きく、そして社会的な損失は少なくとも約3兆7513億ウォンに達した[9]。しかし、集会に参加した市民達が暴力的な行為に走ることはあまりなかったことや、集会参加者と警察の衝突は主に警察側の過剰な規制などから引き起こされたことはマスコミに公正に報道されていなかった。これは韓国で有力な新聞社3社〔朝鮮日報、中央日報、東亜日報〕とも保守的傾向が強く右翼路線の大統領と結びの強いことに由来する。また政府側は、ローソク集会に参加した若い主婦達を無罪であるにもかかわらず取り調べたり、ローソク集会の背後に過激な左翼団体が関わっていると信憑性の薄い話を拡散したりした。

しかし米国産牛肉の輸入再開以来、米国産牛肉を買い求める人々はますます増え始め、現在韓国国内ではオーストラリア産牛肉に次いで2番目の市場占有率を確保している[10]

秋にはリーマン・ショックによる世界同時不況とそれに伴う景気悪化、株価下落や急激なウォン安に苦慮するなど、頼みの経済でも活路を見いだせず、綱渡りの政権運営が続いた。

金融危機による傷は深かったが、2009年以降、OECD諸国の中では最も早くプラス成長に転ずるなど、堅実な経済運営で評価を回復した。日米との連携を強化しながらのぞむ対北政策も概ね支持されるなど外交も軌道に乗り、就任2年を迎えた2010年2月までには支持率も概ね4~5割台で推移、安定した政権運営が可能になっている。

国内外政策

李政権はニーズに合わせた教育制度を導入し、学費の融資や相談サービスを提供する奨学財団を設立した。さらに、政府は授業料の支払いに苦労している人々を援助するための所得水準別奨学金計画などを進めている[11]。一方、政府は農山漁村地域に82の寮制公立高校を指定した。指定校には総額3173億ウォン、平均38億ウォンの資金援助が行われる[12]

「MBノミクス」とは、李大統領のマクロ経済政策を示す言葉である。李大統領の名前、明博 (Myung-bak) のイニシャル「MB」と経済学 (economics) を組み合わせた造語で、姜万洙企画財政部長官は、「MBノミクス」の創案に一定の役割を果たしたとされる。

経済回復の目玉は「韓国747」計画。それは、平均7%の経済成長を成し遂げ、一人当たり4万ドルの国民所得、そして韓国を世界の7大経済大国にする計画である。李政権は「国民が豊かで、暖かい社会、そして強い」新しい国を作るため委任され、その実現のために、進んだ市場経済、経験的な実用主義、民主的な行動主義など実用的で市場にやさしい戦略を追求する。

彼は最近の米国発金融ショックと関連して、政治およびビジネスにおける強固な協力関係の重要性を強調した。彼は信用危機に対処するための政策調整を目指す韓国、日本、中国の金融担当大臣会議を提案した。

韓国政府の目指す外交は、朝鮮半島の非核化の重要性の強調による4強(米日中露)外交の回復として要約される。北朝鮮の核問題の解決には、6カ国協議のメンバー国との緊密な協力が絶対に必要である。普遍的な価値と相互利益に基づく韓米同盟の発展は、北朝鮮と北東アジア情勢のような問題における対応策や影響に最も重要である。

南北関係の究極の目的は、経済発展の達成や朝鮮半島に住む人々の幸福をもたらし、南北間で相互利益を伴う「非核・開放・3000」計画に基づく。現在、南北の情勢は大転換の過渡期である。韓国は、北朝鮮が核の野心を捨て心を開いたアプローチの採択による、一層生産的な政策の追求が平和的な統一に貢献することを明らかにしている。

年譜

人物

主な政治的主張

  • 747公約 (年7%成長、10年以内に1人当たり国民所得4万ドル、10年以内に世界7大国入り)。 大統領選において公約で挙げた基本主張であり、また、大統領任期中の国家指針でもある。
  • 中央省庁を18省から15省体制に統廃合するなど「小さな政府」を目指す。
  • 「人類普遍の価値を具体化する」として、国連平和維持活動(PKO)や政府開発援助(ODA)への取り組みを強化する。

対日姿勢

李明博は日本出身にも関わらず韓国人一般と同様に日本への併合統治などに関して批判的な見解を持っており、それらに関して日本の右派・保守派を批判することもある。しかし、当初は歴史認識問題に関してあまり積極的でなかった盧武鉉政権がその後期に、小泉首相の靖国神社参拝などを契機として歴史問題での批判的姿勢を強めたのに対し、李は2006年11月に訪日、安倍晋三総理(当時)と会談した際には、「韓国国民の三大懸案を未来志向的な解決に向け、積極的な努力をお願いしたい」と直接表現を避ける(この場合の三大懸案=歴史認識竹島靖国神社を指す。)日本に配慮した姿勢を見せるなど、硬軟織り交ぜた態度をとっている。なおしばしば「日本はドイツを見習うべき」という趣旨の発言を行うが、その内容には疑問がある(ドイツの歴史認識を参照)。

李は北朝鮮に対し、核放棄の見返りに一人当たり平均所得を3000ドルに向上させる事を大統領選公約としている。この実現に向け、経済支援の一部を日朝国交化に伴う日本の資金で充当するという案を提唱した。2008年1月7日に韓国統一部は同構想を受け、日朝関係改善による賠償資金として100億ドル(約1.1兆円)を日本に支払わせ、大韓民国政府による北朝鮮支援基金に充当する計画を明らかにした[18][19]。ただし、李東官報道官は現実的ではないと批判している。[20]
  • 「わたし自身は新しい成熟した韓日関係のために、『謝罪しろ』『反省しろ』とは言いたくない」「日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている」[21]「(韓国側が)要求しなくても、日本が(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう」 - 2008年1月17日のソウルで外国メディアと会見にて未来志向の関係構築に向け、歴史認識問題で日本に謝罪を求める考えはないことを明らかにした一方、日本側の自発的取り組みを促す姿勢を示したとみられる発言を行った[22][23][24][25]が、当時まだ与党だった統合民主党や、左派政党民主労働党などから批判された[26]
  • ただし彼の言う『未来志向』とは、『日韓貿易赤字の政治的介入による解消』、並びに『経済的・技術的援助の要求』を意味すると思われ、そうした発言を繰り返している。『両国間で自由貿易協定(FTA)を1対1の条件で結ぼうとすればバランスが取れないため、日本に多くの譲歩をするよう求めた』『日本は世界の平和と繁栄に寄与する責任があり、また被害国の繁栄と平和に向けてもさらに大きな譲歩が必要だとの点を明示した』」[27]。また、李明博大統領就任後すぐに駐日韓国大使として任命された権哲賢大使は、この言葉を補足する形で以下のように述べている。「過去に韓国が日本から受けた被害は『耐えられない』『忘れられない』内容だが、これに縛られず未来に進むということだ」 「その結果が良ければ過去の傷や恨みは和らぐだろうが、日韓の貿易不均衡が改善されず、日本側から歴史認識を巡る『妄言』が続くようなら『痛みはもっと大きくなる』」また、北朝鮮に対する姿勢としては(李大統領が福田康夫首相との2008年4月21日の首脳会談で『拉致問題解決への協力』を述べたことについて)「日本が掲げる『拉致、核、ミサイルの包括的解決』を支持したわけではない」「日本がその路線に固執するなら自縄自縛に陥るだろう」と述べている。[28]
  • 2008年2月25日の就任式での演説で言及した順番は米・日・中・露・中央アジアだった。
  • 就任すると、それまで滞っていた日韓間のシャトル外交を復活させた。
  • 就任後初来日して今上天皇と会見を行なった際、頭を下げたことが韓国メディアから批判された。
  • 世界中のサイトで竹島や日本海を韓国の主張に書き換える運動などを行っているVANKに対する予算削減案を大統領みずから撤回させた[29]
  • 2010年9月10日にロシアのヤロスラブリ鳩山由紀夫と会談した時に「日韓両国は地球上で最も良好な2国間関係を築ける」と発言している[30]

北朝鮮に対する姿勢

  • 南北首脳会談にいつでも応じる考えを示したが、太陽政策を基礎に南北関係を最重視した盧武鉉前政権よりも、支援の透明性を重視する姿勢をとる。
  • 「非核・開放・3000」(北朝鮮が非核化と改革・開放を実現することにより、一人当たりの年間所得を3000米ドルにするための経済支援を行う政策)を掲げている[31]

朝鮮半島大運河構想

2007年の大統領選挙に際し、李明博は韓国北部を流れる漢江と、韓国南部を流れる洛東江を運河で連結し、ソウル釜山を水路で結ぶという構想を公約に掲げた。元々は李明博が国会議員時代から持っていた構想であり、国会で提案したこともあるが、当時は「現実的ではない」として却下された。韓国では、このソウル~釜山間の運河を「京釜運河」と名付けるようである。最終的には、全羅道朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)にも運河を掘り、一つの運河として連結することを目標にしている。

2007年6月4日の韓国水資源公社、国土研究院、韓国建設技術研究院が行なった調査の結果も「収益性がない」としており、この構想自体に疑問を投げかけている[32]

2008年6月19日、李明博は特別記者会見で「国民が反対すれば大運河事業を推進しない」と事実上の撤回を表明し、国土海洋部も大運河事業準備団の解体を決定した。2009年6月29日、「現政権ではそれを連結する計画ももっておらず、わたしの任期内には推進しない」と大運河建設を凍結することを明らかにした[33]

4大河川再生事業

韓国の4大河川(漢江洛東江錦江栄山江)再生事業は最近地球温暖化などで洪水および日照り被害が頻発するによって根源的対策用意が必要な実情だ。従来の洪水対策中心の水政策とは異なり、水不足解決、洪水防衛、地域発展の3つを柱にした利水治水の多目的プロジェクトだ。総事業費は13兆9000億ウオンを予定で2012年完工をめざす。

基本方向は、当面した経済危機克服と未来成長エンジンの創出だ。李大統領は、この事業の意義について、「国家100年の大計と気候変動という人類の共通課題に対する備えになるということを認識しなければならない」と述べ、「これはわれわれに与えられた大きな義務」と強調した。大運河計画が頓挫したこともあるが、李大統領の今事業にかける意気込みは並々ならぬものがある。

今事業で最も力を入れているのは、将来の水不足に備えての用水確保と水質改善。そして、「文化が流れる4大河川」というコンセプトも加味している。地域発展および文化振興などを総合的に盛り込もうというもので、主要河川を生活・余暇・観光・文化・グリーン成長を組み合わせた多機能複合空間に作り変える。経済効果も大きい。新たに19万人分の雇用が創出され、23兆ウォンにのぼる生産誘発効果があると試算されている。

韓国の韓昇洙(ハン・スンス)国務総理は「4大河川整備事業は単なる建設工事ではなく、経済を回復させ、環境を復元し、文化の花を咲かせる韓国型ニューディール事業」だと言った。 また、李大統領は「4大河川再生事業は選択的な事業ではなく気候変化と水の管理観点とともにさまざまな側面で必須的な事業だ」と発言した。[34]

英語教育

李明博は英語教育にも非常な熱意を持っており、選挙期間中から英語教育の強化を訴えていた。当選後は一時、公教育の一部を英語で行うべきだとする意見を出した[35]が、国民の反対にあい撤回した[36]。また、高卒でも英語を使えるようにするべきだという主張も行った[37]

宗教政策

閣僚にキリスト教徒が多く、過去にキリスト教を持ち上げるような発言を行ったり(「ソウル市を神に捧げる」)、国家公務員の宗教調査を行なうなどしているため、自身のキリスト教信仰からキリスト教を優遇しているのではという批判もある。2008年8月には李に宗教差別をやめるよう訴える仏教徒のデモが勃発した。

これに対して李大統領は2008年9月に閣議で公務員の宗教差別を禁止する条項の新設を柱とする公務員服務規程改正案が緊急案件として上程され、審議した結果、服務規程に「公務員は職務の遂行において宗教差別行為をしてはならない」という条項が明記された。また、2009年1月に初めて公職者の宗教差別禁止を明示した国家公務員法と地方公務原法が国会本会議を通過した。これによって、今後、公務員による宗教への差別的言動は懲戒の対象となる。[38]

語録等

盧武鉉政権(当時)を批判する発言をして、政権与党であるウリ党から「親日発言」だと批判された。
  • 「現在、南北の考えで共通しているのは竹島問題(韓国名・独島)だけであり、竹島(独島)は韓国の領土となっている以上、(日本も)そう考えて欲しい」[40]
  • 「(ナチス党政権下のドイツの被害国に真心のこもった謝罪をした)西ドイツアデナウアー首相を見習う必要がある。歴史的事実を率直に認めるべきだ」[41] - 安倍晋三首相(当時)に対して
  • 「経済大国の日本の戦後処理は、ドイツのそれと比べてケチ臭い」[42]

エピソード

李明博を扱った作品

脚注

  1. ^ (韓国語)『李明博先親の姓は「ツキヤマ(月山)」だった』、韓国日報、2007年1月9日。
  2. ^ 島田牧場は現在の京阪牛乳。社屋は1955年いかるが乳業に売却され、今も同じ場所にいかるが乳業の本社がある。
  3. ^ a b 日本の牧場で生まれた李明博大統領 …その2 中央日報 2008.02.26
  4. ^ 重村智計『韓国の品格』三笠書房刊、2008年5月10日発行(122-123ページ)ISBN 978-4-8379-2272-8
  5. ^ http://www.time.com/time/asia/covers/501060515/story.html
  6. ^ http://www.chosunonline.com/article/20071017000068 『李明博氏、タイム誌が選ぶ「環境の英雄」に』 2007年10月17日付朝鮮日報
  7. ^ 2005年世界の人物大賞」受賞した李明博・ソウル市長2005年6月7日付朝鮮日報
  8. ^ 「ニューライト」本分を見失わず使命を果たせ 朝鮮日報 2005/11/08
  9. ^ [ローソク集会の損失費用、少なくとも3兆7513億ウォン] DAILIAN 2008年9月26日
  10. ^ [今月初め、占有率オーストラリア産を抜く…大型スーパーも販売模索中] 朝鮮日報 2008年9月23日
  11. ^ [李明博政権、大学奨学金及び学費貸出支援を拡大] 大韓民国政策ポータル 2008年10月1日
  12. ^ [農漁村寮制公立高82校を選定] ヘラルド経済 2008年8月26日
  13. ^ この後行なわれた鐘路区の補欠選挙で盧武鉉(新政治国民会議)が返り咲きを果たしている。
  14. ^ 黒田勝弘産経新聞ソウル支局長のコメントから。
  15. ^ ソウル市庁舎、一面の太極旗 光復60周年を記念し』、朝鮮日報、2005年8月10日。
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  36. ^ 「英語没入教育」、論議の渦中に引継委が撤回
  37. ^ 李次期大統領「高卒でも英語が使えるような教育を」
  38. ^ 李明博大統領 仏教界に遺憾の意を表明」』KBS 2008年9月9日
  39. ^ 日糾弾' 李明博ソウル市長』聯合ニュース2005年4月5日
  40. ^ 李明博氏「独島は韓国の領土、日本もそう考えてほしい」』朝鮮日報 2006年11月10日
  41. ^ 慰安婦:李明博氏「安倍首相はアデナウアー首相見習え」』朝鮮日報2007年4月5日
  42. ^ 李明博候補「日本、経済大国らしい歴史清算すべき」』、ノーカットニュース、2007年9月10日
  43. ^ [http://www.chosunonline.com/article/20070803000000 『今やDNA鑑定まで必要な韓国の 大統領候補選び]』
  44. ^ 「ソウルにもディズニーランドが」 来年はじめ公式発表 朝鮮日報 2005年9月27日
  45. ^ SAPIO2007年1月4日号『世界の「反日首魁vs親日巨人」』より。
  46. ^ ビル・ゲイツが魅せられた韓国の伝統工芸(上) 朝鮮日報 2008年5月19日

関連項目

外部リンク


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