小林雅英

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小林 雅英
千葉ロッテマリーンズ 投手コーチ #79
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山梨県大月市
生年月日 (1974-05-24) 1974年5月24日(49歳)
身長
体重
182 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1999年4月7日
MLB / 2008年4月2日
最終出場 NPB / 2011年4月30日
MLB / 2009年5月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • オリックス・バファローズ (2012 - 2014)
  • 千葉ロッテマリーンズ (2015 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

小林 雅英(こばやし まさひで、1974年5月24日 - )は、元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ山梨県大月市出身。

愛称は「コバマサ」。千葉ロッテマリーンズ時代は「幕張の防波堤」の異名を取った[1]2013年からオリックス・バファローズの二軍投手コーチを務め、2015年からはロッテの一軍投手コーチとなった。

経歴

プロ入り前

山梨県立都留高等学校から将来は高校野球の指導者になろうと日本体育大学へ進学。首都大学リーグ通算29試合登板し16勝7敗、防御率2.40。最優秀投手1回、ベストナイン2回受賞。卒業時にプロへ進む同級生を見て、自分も目指そうと東京ガスへ入社。2年のうちに声がかからなければ野球をやめるつもりだったが、2年目にスカウトの水谷則博に見出されて1998年度のドラフト会議千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けた[2]

ロッテ時代

1999年の後半戦から先発として起用され、5勝5敗の成績を残した。前半戦などでのリリーフ起用を含めれば46試合に登板している。

2000年も序盤で3試合に先発したがいずれも敗戦投手になったため、山本功児によって中継ぎに配置転換され、4月25日の対日本ハムファイターズ戦に無死満塁で登板し、そこを無失点で抑え自信をつけた[2]。シーズンでは不調のブライアン・ウォーレンと入れ替わりで抑えに固定され11勝6敗14セーブの好成績を挙げる。7月2日の対オリックス・ブルーウェーブ14回戦で、小林の2球目が暴投となり、三塁を狙った一塁走者のイチローがアウトになった。その直後にチームが勝ち越したため、プロ野球史上初となる「打者0人」での勝利投手となった[3][4]

2001年5月25日の対日本ハムファイターズ戦から、5月30日の対福岡ダイエーホークス戦にかけて、プロ野球新記録となる6日間連続セーブをあげて月間MVPに選出された。しかし、6月までは0勝0敗21S・防御率0.78だった成績も、7月以降は0勝4敗12S・防御率11.42と打ち込まれ、最終的には防御率4.33に終わる。この年はリーグ2位の33セーブを挙げ、オフにはニュース番組のゲストに招かれることや、6日連続セーブのエピソードが寒川一之の「小林雅英物語」として漫画化されるなど、知名度を上げた。

2002年5月21日の対日本ハムファイターズ戦から、8月5日の福岡ダイエーホークス戦まで17試合連続セーブのパシフィック・リーグ新記録、さらに10月17日の対大阪近鉄バファローズ戦まで、33試合連続セーブポイントのプロ野球新記録を樹立する[5]など、44試合で37セーブ・防御率0.83の好成績を残した。

2003年も好調を維持し、44試合で33セーブの好成績を残す。

2004年からボビー・バレンタインが監督に就任すると投球回数が増加。西武中島裕之に勝ち越しの満塁ホームランを浴びる等、救援失敗も目立ったが、アテネオリンピック野球日本代表に選出されたのを機に、変則モーションの矯正に取り組むと、日本代表の守護神として銅メダル獲得に貢献した。だがシーズンでの成績は序盤に安定感を欠いたこともあり、8勝5敗20セーブ防御率3.90の成績で終わった。

2005年5月18日の対広島東洋カープ戦において、プロ野球史上4人目の通算150セーブを達成(通算312試合登板)した。同年は安定感を取り戻し、2勝2敗29セーブ防御率2.58の成績を残し、最多セーブ投手を獲得。第4戦で4点リードを追いつかれるが、10月16日のプレーオフ第2ステージ第5戦・対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!ドーム)で胴上げ投手となる[2]。そのまま日本シリーズ(対阪神タイガース戦)でも第4戦に登板し、胴上げ投手となった。11月13日のアジアシリーズ(対三星ライオンズ戦)でも最後の打者を三振に打ち取って3度目の胴上げ投手となった。

2006年6月7日の対中日ドラゴンズ戦で登板し、日本プロ野球初の6年連続20セーブを達成。セ・パ交流戦でも3勝0敗13Sの成績で交流戦MVPを獲得。8月18日の対北海道日本ハムファイターズ戦では史上3人目の通算200セーブを達成するが、この試合以降は一度もセーブを挙げられなかった。最終成績は6勝2敗34セーブとセーブ数は前年を上回った。

2007年8月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦でセーブを記録し、自己記録を更新する7年連続20セーブを達成。しかし、8度の救援失敗から守護神転向後初となる降格を経験した。同年11月2日、周囲から動向を聞かれるわずらわしさを避けようとFA権行使を宣言し[2]、11月20日にクリーブランド・インディアンスと2年契約を交わす。契約内容は2008年と2009年各300万ドル、契約破棄の場合は25万ドルの、2年計625万ドルで、3年目については球団側が325万ドルの選択権を持つものだった。

インディアンス時代

2008年4月26日の対ニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たし、チームのサヨナラ勝ちによってメジャー初登板・初勝利を挙げた。1年間を通じて降格することなく在籍し、主に中継ぎとして57試合に登板して4勝5敗6セーブ・防御率4.53を記録。

2009年は前年の活躍から一転して10試合の登板・防御率8.38と不振に陥り、5月16日に降格した。その後、インディアンス傘下3Aのコロンバス・クリッパーズに合流してメジャー復帰に向けて調整していたが、7月18日にインディアンスから契約を解除された[6]。メジャーの他球団からのオファーを待つが、動きがなかったため帰国している。

12月1日、年俸5000万円プラス出来高1億円の1年契約で読売ジャイアンツへの入団が決定。背番号も30となった。スコアボードの表記は「雅」のない「小林」となった[7]

巨人時代

2010年は経験豊富なリリーフとして期待され、3月28日東京ヤクルトスワローズ戦で7回に日本復帰後初登板するも2失点とほろ苦い復帰登板となった。4月3日広島東洋カープ戦では9回途中にマーク・クルーンの後を受け登板し、ピンチを脱し復帰後初セーブを挙げた。だがこれが現役最後のセーブとなった。しかし、その後は抑えのクルーンが故障離脱しても不安定な投球が目立ち、抑えで起用されることはなかった。5月2日に2軍落ちした。7月7日に再び1軍登録されるも不調で4日後の11日に登録抹消されると中盤以降の優勝争いが熾烈になっても1軍に昇格することができず、最終的に12試合の登板で1セーブ・防御率5.14と期待を大きく裏切る成績となってしまった。10月29日戦力外通告を受けた。その後、11月10日12球団合同トライアウトを受験した[2]。ここで最速145km/hを計測し、打者5人を無安打に抑える好内容を見せたことからオリックス・バファローズが獲得に動き、11月19日に契約した。背番号は34[8]

オリックス時代

2011年は、開幕1軍入りを果たしたが前年以上に安定感を欠き、5月2日に2軍落ちすると一度も1軍に昇格できなかった。最終的に6試合の登板に留まり、防御率13.50と結果を残せず、10月に戦力外通告を受けた。11月1日に現役引退が発表された。

引退後

2012年シーズンからオリックスの二軍育成コーチに就任し[9]2013年より二軍投手コーチに就任。松葉貴大佐藤達也の育成に貢献した[10]2014年10月1日に球団から退団が発表された[11]10月16日に古巣であるロッテの一軍投手コーチ就任が決まった[12]

エピソード

  • 2011年4月27日の対ロッテ戦(QVCマリン)で、7回の裏2死満塁、オリックスの先発寺原隼人に代わってリリーフとして小林の名がコールされるが、実際にリリーフカーに乗って登場したのは吉野誠であった。原因はブルペンで福間納投手コーチが指名を間違えたためであり、吉野は車を降りてそのままベンチへ帰って行ったため、外野ポール際から小林が走ってマウンドへ出てくる事態となった[13]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1999 ロッテ 46 10 3 0 0 5 5 0 -- .500 507 124.1 93 8 55 3 4 107 6 4 42 37 2.68 1.19
2000 65 3 0 0 0 11 6 14 -- .647 441 109.2 87 4 37 4 1 72 4 0 34 26 2.13 1.13
2001 48 0 0 0 0 0 4 33 -- .000 218 52.0 54 7 13 2 1 47 1 0 25 25 4.33 1.29
2002 43 0 0 0 0 2 1 37 -- .667 158 43.1 26 1 6 1 0 41 1 0 4 4 0.83 0.74
2003 44 0 0 0 0 0 2 33 -- .000 192 47.0 45 2 11 2 1 30 1 0 18 15 2.87 1.19
2004 51 0 0 0 0 8 5 20 -- .615 235 57.2 51 4 19 6 2 50 3 0 25 25 3.90 1.21
2005 46 0 0 0 0 2 2 29 0 .500 186 45.1 49 6 9 1 1 33 0 0 14 13 2.58 1.28
2006 53 0 0 0 0 6 2 34 3 .750 214 53.2 49 4 8 0 2 48 0 0 16 16 2.68 1.06
2007 49 0 0 0 0 2 7 27 0 .222 207 47.1 53 4 12 4 2 35 0 0 24 19 3.61 1.37
2008 CLE 57 0 0 0 0 4 5 6 2 .444 244 55.2 65 8 14 2 1 35 4 0 30 28 4.53 1.42
2009 10 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 45 9.2 12 2 4 0 1 4 1 0 9 9 8.38 1.66
2010 巨人 12 0 0 0 0 0 0 1 1 ---- 64 14.0 19 0 5 0 0 2 1 1 8 8 5.14 1.71
2011 オリックス 6 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 27 4.2 10 2 5 0 0 0 0 0 7 7 13.50 3.26
NPB:11年 463 13 3 0 0 36 34 228 4 .514 2449 599.0 536 42 180 23 14 465 17 5 217 195 2.93 1.20
MLB:2年 67 0 0 0 0 4 5 6 2 .444 289 65.1 77 10 18 2 2 39 5 0 39 37 5.10 1.45
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

  • 山梨県イメージアップ大賞特別賞(2003年)
前年の33試合連続セーブポイントのプロ野球日本新記録を樹立を称えて
  • 県知事賞(2004年) - 千葉県より
  • 市民栄誉賞(2004年) - 千葉県千葉市より
  • やまなしスポーツ賞(2004年) - 山梨県より
アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
  • ア・マン・オブ・ジュエリー賞(2006年) - 山梨県水晶宝飾連合会より
「宝石の街甲府」「貴金属の山梨」の輝く男性を代表して

記録

初記録
  • 初登板:1999年4月7日、対福岡ダイエーホークス2回戦(北九州市民球場)、7回裏1死に2番手で救援登板、1回2/3を無失点
  • 初奪三振:同上、7回裏に井口忠仁を見逃し三振
  • 初勝利:1999年5月16日、対日本ハムファイターズ8回戦(千葉マリンスタジアム)、7回表に4番手で救援登板、2回無失点
  • 初先発:1999年8月3日、対福岡ダイエーホークス16回戦(福岡ドーム)、8回1失点
  • 初先発勝利:1999年8月14日、対福岡ダイエーホークス19回戦(千葉マリンスタジアム)、7回無失点
  • 初完投勝利:1999年9月2日、対福岡ダイエーホークス23回戦(千葉マリンスタジアム) 、9回2失点
  • 初セーブ:2000年8月17日、対日本ハムファイターズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表1死に4番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
  • 初ホールド:2006年5月23日、対阪神タイガース3回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に2番手で救援登板、1回無失点
節目の記録
  • 100セーブ:2003年6月29日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上14人目(日本人投手最速)
  • 150セーブ:2005年5月17日、対広島東洋カープ1回戦(福山市民球場)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上4人目(最速)
  • 200セーブ:2006年8月18日、対北海道日本ハムファイターズ13回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上3人目(最速)
その他の記録
  • 打者0人で勝利投手:2000年7月2日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(函館オーシャンスタジアム)、8回裏2死1塁で2球目に暴投、一塁走者イチローを三塁で憤死 ※史上初
  • 6日6試合連続セーブ:2001年 ※史上初
  • 17試合連続セーブ:2002年 ※パ・リーグ記録
  • 33試合連続セーブポイント:2002年 ※新記録
  • アテネオリンピック野球日本代表:2004年
  • 1イニング3暴投:2004年5月15日、対福岡ダイエーホークス8回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に記録 ※タイ記録
  • 7年連続20セーブ(2001年 - 2007年) ※史上初
  • オールスターゲーム出場4回:2000、2001、2005、2006年

背番号

  • 30 (1999年 - 2010年)
  • 34 (2011年)
  • 73 (2012年 - 2014年)
  • 79 (2015年 - )

脚注

  1. ^ ロッテ勝利の方程式YFK復活!05年日本一から10周年記念 スポーツニッポン(2015年5月14日) 2016年1月10日閲覧
  2. ^ a b c d e 惜別球人『週刊ベースボール』2012年1月9.16日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-1/9.16, 47-51頁。
  3. ^ ベースボールマガジン社「2001ベースボール・レコード・ブック」 49頁。
  4. ^ 中華職業棒球大聯盟でも達成例が1例ある。2007年4月14日興農ブルズ芝草宇宙統一戦で記録。
  5. ^ 週刊ベースボール2002年12/16号 26~27頁 「2002年レコードの周辺3 小林雅英の33試合連続セーブポイント」より。
  6. ^ インディアンスが小林雅の契約を解除 日刊スポーツ・2009年7月19日
  7. ^ これは、「(登録名は)自由にしてよい」という球団の意向に対し、小林姓が他に在籍していなかったため、小林自身が「小林」を選んだもの。
  8. ^ 【オリックス】小林雅を獲得、背番号34
  9. ^ 小林雅英投手 引退およびコーチ就任のお知らせ”. オリックス・バファローズ (2011年11月1日). 2011年11月1日閲覧。
  10. ^ 週刊ベースボール2014年12月8日号、P30
  11. ^ オリックス 西本コーチら4コーチと契約結ばず 4選手に戦力外通告スポーツニッポン2014年10月1日配信
  12. ^ 小林雅英氏投手コーチ就任のお知らせ
  13. ^ 小林雅のはずが…吉野さっそう登場、慌ててベンチへ スポニチアネックス、2011年4月28日配信、2014年8月27日閲覧。

関連項目

外部リンク