宇垣一成

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宇垣 一成
自述『身辺雑話』より(本人署名)
生誕 1868年8月9日
岡山県
死没 (1956-04-30) 1956年4月30日(87歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1891 - 1931
最終階級 陸軍大将
指揮 陸軍大臣
第10師団
戦闘 第二次世界大戦
除隊後 朝鮮総督
外務大臣(兼・拓務大臣
拓殖大学学長
参議院議員
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宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日1868年8月9日) - 昭和31年(1956年4月30日)は日本陸軍軍人政治家である。成城学校から陸軍士官学校陸軍大学校卒。陸軍大将正二位勲一等[1]功四級拓殖大学第5代学長。元参議院議員

略年譜

事績

陸軍大臣当時

宇垣は大正後期から昭和初期にかけて陸軍の中心人物の一人として存在した。彼は戦闘の場での指揮官や軍略家ではなく、政治に長けた軍政家と言える。その彼の業績のうち歴史の表舞台に表れた代表的な出来事3点記載した。

宇垣軍縮について

加藤内閣の陸軍大臣在任中、軍縮を要求する世論の高まりを受け、陸軍省経理局長・三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けた(宇垣軍縮)。

具体的には21個師団のうち高田第13師団豊橋第15師団岡山第17師団久留米第18師団の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校も撤廃した。

だが、実はこれにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である[5]。主な近代化の内容として戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、自動車学校・通信学校の開校、飛行機戦車軽機関銃自動車牽引砲野戦重砲の配備を行った。

連隊旗天皇大元帥)より賜った神聖なものとされ、第二次世界大戦における玉砕や降伏の際には連隊旗が敵の手に渡らないようにする「軍旗奉焼」が行われた。乃木希典は、明治天皇殉死した際の遺書で「西南戦争で西郷軍に連隊旗を奪われた」ことを動機の一つとして書き残している。その連隊旗を連隊廃止により返還させられたことは陸軍内部に長く宇垣への遺恨として残った。またポスト的にも、師団長4人分、歩兵連隊長ポスト16人分などの削減は大きな怨念となった。

組閣流産について

組閣大命の下る前、昭和7年(1932年)の満州事変五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生、新聞報道による政治批判と政党政治の腐敗による国民の政治家不信などにより政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。

そこで加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた元老西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として昭和12年(1937年)1月に広田内閣が総辞職した後、宇垣が総理大臣に推挙されることになった。陸軍の大物でありながら軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣の首班登場は、世評も高かった。

しかし、石原莞爾大佐などの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた[6]軍部大臣現役武官制に目をつけた石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。当時予備役陸軍大将だった宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、湯浅に拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。

ちなみに大正デモクラシーのさなかの第1次山本内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強硬に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれたことになる(仮に、予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相を兼任すれば宇垣内閣が発足できた)。

この後も、重臣会議のたびに次期首相候補として名前が挙がるが(後述)、「陸軍が賛成しない」として大命降下には至らなかった。

外相として

組閣流産から半年後の昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋事件が勃発、日中戦争に突入した。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。事態を憂慮していた宇垣は昭和13年(1938年)5月の改造内閣に外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や「対手とせず」方針の撤回を条件に就任。早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使クレーギー・駐中大使カーなどを介し孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している。しかし近衛首相は蒋介石の下野など和平条件吊り上げの姿勢を見せ、近衛声明の維持を表明するなどした。また陸軍は宇垣の和平工作を妨害する意図もあっていわゆる興亜院の設置を働きかけ、対中外交の主導権を外務省から奪うことを画策、近衛も賛成した。こうして、近衛首相からも梯子を外された形となり、外相を辞任した。なお、在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件を外交交渉によって停戦させている。在任中には牛場信彦らいわゆる革新派とされる若手外交官が宇垣宅を訪問して対中強硬論や革新派のリーダー白鳥敏夫の次官就任といった外交刷新を訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立も宇垣の指導力発揮を困難なものにしていた。

以上のように首相や外務省の支えが無い中で、さしたる成果もあげられないまま辞任に至ったが、目下の課題を実務的に処理する堅実な姿勢を見せた。宇垣が国民政府から引き出した条件は後の日米交渉に比べてはるかに有利なものであるのはもちろん、交渉ルートが確実に国民政府中枢と通じた「筋の良い」ものであったこと、相互の信頼関係の存在などから、その後様々な形で行われた日中和平の試みのなかでも最も実現性が高く貴重なものであったとの評価もある[7]。満州事変以来の日本外交を厳しく批判していた外交評論家の清沢洌は宇垣外交を高く評価、「日本は久々に外交を持った。外交官ではない人物によって」と評したとされる[8]

人物評

岡山県護国神社の宇垣の像

上記のように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼をしても結局は時流に逆らえず、日本は敗戦への道をひた走っていく。

一方で、陸軍における二大勢力、薩摩閥と長州閥を巧みに利用し宇垣閥を形成していった。尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。その実力ゆえに野心家と目され、警戒感を持つ向きがあったことも事実であり薩摩閥より「蝙蝠のような男」と揶揄された。司馬遼太郎はその著書『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。しかしながら、尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。

また「聞き置く」など曖昧な表現を相手によっては多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件について陸軍にあたかも出兵を容認したかのように受け取られた。宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ[9]と酷評されていたことがよく知られている。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと思っていた節があったようである。このように、和平派グループの宇垣に対しての高評価と違い、昭和天皇は宇垣の政治手腕と人格に終始疑問をもっていた。

朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行う。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には農村振興政策は受け継がれなかった。またの産出を奨励したものの、ほとんどの利益は日本資本が占め、朝鮮人にまで利益は行き渡ら無かった。ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていたと回顧している。

宇垣が和平派グループに頼りにされていたことは、二次大戦下の1943年、東條内閣に対する批判が高まり、東條内閣打倒の急先鋒だった中野正剛らにより、宇垣が後継首班としてあげられ、重臣たちの了解も取り付けたことからもよくわかる。宇垣本人も中野の策を了承し、東條内閣打倒に賛意を示した。しかし中野たちのこの倒閣運動は東條に事前に弾圧され、ここでも宇垣内閣は誕生することはなく終わった。

自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星[10]と呼ばれるようになった。議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。

なお戦後、東京裁判を主導した主席検察官のキーナンは、米内光政若槻礼次郎岡田啓介と宇垣の四人を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。

脚注

  1. ^ 昭和31年5月3日、参議院から次の弔詞が贈られた。「参議院は正二位勲一等宇垣一成君の長逝に対しまして、つつしんで哀悼の意を表し、うやうやしく弔詞をささげます。」
  2. ^ 照沼康孝「宇垣陸相と軍制改革案 : 浜口内閣と陸軍」『史学雑誌』1989年12月
  3. ^ 当選圏は約15万票だったが、宇垣は未曾有の最高点51万3765票であった(額田坦『秘録宇垣一成』芙蓉書房、1973年、P382)
  4. ^ 山田風太郎によると「打ち合わせ中の火鉢の焚き過ぎによる一酸化炭素中毒」という(「人間臨終図巻」下巻、徳間書店、P376 。」
  5. ^ 日中戦争期の宇垣の日記では、その後の皇道派の進出により近代化が十分には達成されなかったため日中戦争長期化を招いた、という主張がなされている。
  6. ^ 宇垣自身、「「あいつが出てきたら、我々がわがままが出来ぬ」といふことに尽きるだろう」と書き残している(『宇垣一成日記』2)。
  7. ^ 大杉一雄『日米開戦への道』(講談社学術文庫)。なお、大杉自身はこのように宇垣外交を高く評価するがゆえに、外相を投げ出したことを「無責任」と厳しく批判するとともに、真意のはっきりしない突然の外相辞任を昭和史の謎の一つとしている。
  8. ^ 北岡伸一『政党から軍部へ』
  9. ^ 「昭和天皇独白録」より
  10. ^ 惑星は太陽(=首相)のまわりを回り続けるが、太陽(=首相)にはなれなかったため

関連書籍

  • 『宇垣一成日記1~3巻』(みすず書房 1968年 - 1971年
  • 『秘録宇垣一成』(額田坦・著 芙蓉書房 1973年
  • 『宇垣一成』(井上清・著 朝日新聞社 1975年
  • 『宇垣一成 悲運の将軍』(棟田博・著 光人社 1979年
  • 『陸軍に裏切られた陸軍大将 宇垣一成伝』(額田坦・著 芙蓉書房 1986年
  • 『宇垣一成―政軍関係の確執』(渡辺行男・著 中公新書 1993年
  • 『宇垣一成とその時代―大正・昭和前期の軍部・政党・官僚』(堀真清・編著 新評論 1999年
  • 『岡山人じゃが2 <ばらずし>的県民の底力』(岡山ペンクラブ・編 吉備人出版 2005年

関連項目

外部リンク

公職
先代
大谷尊由
日本の旗 拓務大臣
第12代:1938
次代
近衛文麿
先代
廣田弘毅
日本の旗 外務大臣
第56代:1938
次代
近衛文麿
先代
斎藤実
斎藤実
日本の旗 朝鮮総督
第4代:1927 - 1927
第7代:1931 - 1936
次代
山梨半造
南次郎
先代
田中義一
白川義則
日本の旗 陸軍大臣
第19代:1923 - 1927
第21代:1929 - 1931
次代
白川義則
南次郎
先代
白川義則
日本の旗 陸軍次官
第14代:1923 - 1924
次代
津野一輔
軍職
先代
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教育総監部本部長
第9代:1922 - 1923
次代
津野一輔
先代
金久保万吉
第10師団
第9代:1921 - 1922
次代
神頭勝弥
先代
浄法寺五郎
陸軍大学校
第20代:1919 - 1921
次代
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先代
菊池慎之助
参謀本部総務部長
1918 - 1919
次代
中島正武
先代
尾野実信
参謀本部第一部長
1916 - 1919
次代
武藤信義
先代
山田隆一
陸軍省軍務局軍事課長
1911 - 1913
次代
鈴木朝資
学職
先代
永田秀次郎
拓殖大学総長(学長)
第5代:1944 - 1945
次代
下村宏