ブラバム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。WCCbot (会話 | 投稿記録) による 2016年2月14日 (日) 12:55個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (WP:BOTREQ#アルファ・ロメオの移動に伴う修正 (oldid=58613423)による)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ブラバム
活動拠点 {{{活動拠点}}}
創設者 {{{創設者}}}
スタッフ {{{スタッフ}}}
ドライバー {{{ドライバー}}}
参戦年度 1962 - 1987 , 1989 - 1992
出走回数 394
コンストラクターズ
タイトル
2 (1966, 1967)
ドライバーズタイトル 4 (1966, 1967, 1981,
1983)
優勝回数 35
通算獲得ポイント 864
表彰台(3位以内)回数 124
ポールポジション 39
ファステストラップ 40
F1デビュー戦 1962年ドイツGP
初勝利 1964年フランスGP
最終勝利 1985年フランスGP
最終戦 1992年ハンガリーGP
テンプレートを表示

ブラバム: Brabham[※ 1])は、1962年から1992年まで存在したレーシングチーム・コンストラクターである。F1を中心に活動し、フェラーリロータス同様、名門チームのひとつに数えられていた。

マシンのシャーシ名に付けられていたBTは共同創設者であるジャック・ブラバムロン・トーラナックの頭文字から取られたものである。

概要

設立・第1次黄金期

ジャック・ブラバム

1959年1960年のF1チャンピオンに輝いたジャック・ブラバムクーパーから独立。同郷出身のマネージャー兼マシンデザイナー、ロン・トーラナックとともに、1962年にモーターレーシング・ディベロップメント (Motor Racing Development Ltd. ) を設立し、競技用スポーツカーフォーミュラカーの製造・販売を始めた。当初はマシンに社名を略した"MRD"と付けたが、すぐに"ブラバム"を用いるようになった。

ブラバム初のF1マシン、BT3(1962年)

F1には1962年開幕戦オランダGPよりブラバム・レーシング・オーガニゼーション (Brabham Racing Organization ) として参戦。当初はロータスの量販マシンで出走し、ドイツGPから自製のBT3を投入した[※ 2]。参戦3年目の1964年フランスGPにおいて、ダン・ガーニーがチームに初優勝をもたらした。

BT20(1966年)

1966年はレギュレーションの変更により、エンジン排気量の制限が1.5リッターから3リッターになる。多くのチームが苦戦する中、ブラバムは信頼性の高いレプコエンジンを選択したことが的中。ジャック・ブラバムが4勝を挙げ、自身3度目のチャンピオンに輝く。これはF1史上、自身の設立したチームでドラーバーズチャンピオンを獲得した唯一の例である。翌1967年、今度はチームメイトのデニス・ハルムがチャンピオンに輝く。どちらの年もコンストラクターズタイトルを獲得しており、2年連続の2冠を達成することとなった。1969年には市販化されたフォード・コスワース・DFVエンジンにスイッチし、ジャッキー・イクスの活躍でコンストラクターズ2位となった。

また、この時期ブラバムはF1以外のカテゴリーでも活躍していた。当時F1と掛け持ちで参戦するドライバーが多数を占めたF2においても、1966年ホンダエンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。ただし最終戦では、ジャック・ブラバムは理由も示さずに予選を欠場したため規定により最後尾スタートとなっており、このため「業界内での余計な軋轢を避けるためにわざと勝たなかった」と語られることがある。

ブラバムのシャーシは日本にも輸出され、創成期の国内4輪レース界に影響を与えた。国産初のプロトタイプレーシングカーである日産・R380BT8Aを参考に開発された。また、鈴鹿サーキットが大量購入したブラバム製フォーミュラマシンがプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献している。

新体制

BT46B(1978年)

ジャック・ブラバムは1970年に引退し、トーラナックにチームを任せ帰国するが、ヨッヘン・リントのマネージャーだった実業家バーニー・エクレストンがチームを買収し、1972年より新オーナーとなる(トーラナックはその後ラルトを設立する)。チーフデザイナー、ゴードン・マレーの個性的なマシンが徐々に戦闘力を発揮し、1975年にはカルロス・ロイテマンカルロス・パーチェの南米コンビで、フェラーリに次ぐコンストラクターズ2位に浮上した(ロイテマンは1972年にデビュー戦でポールポジションを獲得している)。

エクレストン体制では量販モデルの製造を止め、F1のみに活動を絞った。また、マルティニパルマラットの支援、アルファロメオエンジンの獲得など、イタリアカラーが混じるようになった。しかし、1976年からスイッチしたアルファ・ロメオエンジンの過大な燃料消費等に悩まされ、成績はしばし低迷する。1978年には表面冷却構造(レーサー的な航空機において既存のシステム)のマシンに興味を示した前年度のチャンピオンニキ・ラウダを迎え、ファン・カーとして知られるBT46Bで勝利を挙げたものの、1戦のみで使用禁止となった。

第2次黄金期

ネルソン・ピケが乗るBT49C(1981年)

1979年、シーズン終盤にラウダが引退したことを受け、新加入のネルソン・ピケがエースに昇格する。またエンジンもアルファ・ロメオを諦め、フォード・コスワース・DFVエンジンに戻った。ピケは翌1980年のアメリカ西GPで初優勝を挙げると一気に才能を開花させ、ウィリアムズアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを繰り広げた。この年はランキング2位に終わったが、翌1981年はロイテマンを破って初のドライバーズチャンピオンに輝いた。

1982年からは、BMWターボエンジンの供給を受ける。この年は初期不良に苦しんだが、レース中に燃料給油・タイヤ交換を行うピット作戦をF1に持ち込んだ。1983年にはアロウシェイプを纏ったBT52をドライブしたピケがアラン・プロストを下して再びチャンピオンとなり、ブラバムで2度王座に着いた唯一のドライバーとなった。

再び低迷

ネルソン・ピケが乗るBT53(1984年)
BT54(1985年)

その後は熾烈なターボ開発競争の中、予選こそ好走するものの、レースでは勝利に届かない状況となる。1986年には挽回を期し、BMWエンジンを傾けて搭載することで空力の向上を狙ったBT55を投入したが、当時としては革新的過ぎるコンセプトゆえにマシンの熟成に苦しみ、最高位6位2回に終わった[※ 3]。シーズン中盤にはピケの後任エリオ・デ・アンジェリスポール・リカールでのテスト中に事故死し、悲劇のマシンになってしまった。

その後、エクレストンはF1製造者協会(FOCA)会長職に専念し、マレーの離脱でチームは弱体化する。1987年アンドレア・デ・チェザリスリカルド・パトレーゼ活躍もあり数回入賞するなどまずまずの成績を収めたものの、1988年は資金難で1年間活動を休止。エクレストンは新しいプロカー選手権[※ 4]を立ち上げるためチームをアルファロメオに売却した[1]。しかし、プロカー・シリーズの立ち上げは頓挫し、チームは新オーナー、ヨアキム・ルーティーの手に渡った。

1989年はメインスポンサーが付かないままF1に復帰。セルジオ・リンランドの手によるニューカーBT58は、前年度にリジェが使用した中古のジャッドV8エンジンを搭載するものの、ピレリタイヤの特性にも助けられ、予備予選組ながらモナコGPステファノ・モデナが3位表彰台を獲得し、マーティン・ブランドルモナコGPイタリアGP日本GPでそれぞれ5位に1回、6位に2回入賞した。しかし、ルーティーが脱税容疑で逮捕され、チームは存続の危機に陥る

1990年より、リライアント・シミターGTの生産やクラシックカー収集などで知られていた日本人実業家の中内康児が率い、国際F3000に参戦していたミドルブリッジレーシングがチーム運営にあたった。レイトンハウスフットワークラルースに続く日本人オーナーチームとなり、以後は伊太利屋カルビーオートバックス住友海上火災三越マドラス山善などの日本企業がスポンサーとなった。ドライバーとして創始者の三男デビッド・ブラバムがF1デビューしたが成績は振るわず。(チームメイトは引き続きステファノ・モデナがアメリカGPで5位入賞1回を記録)

1991年にはヤマハV12エンジンを獲得したが、前半は予選落ちを喫した。しかし後半になるにつれ性能が上がり、最終的には新人マーク・ブランデルがベルギーGPで6位1ポイント、2年ぶり復帰のブランドルが日本GPで5位2ポイントと計3ポイント獲得。ヤマハとブラバムは良好な関係を築いていたため、一時はヤマハがブラバムをチームごと買い取る話も浮上するが、オーナーの中内が難色を示し、関係は1年で解消となった[2]。また、バブル景気の崩壊と、後述の中谷明彦の参戦白紙化が影響して、このシーズン限りで多くの日本企業のスポンサーが撤退した。 また中内康児は、自身が運営するミドルブリッジF3000チームの活動を優先させ、ブラバムF1チームには殆ど力を入れていなかったという説もあった。

消滅

BT60B(1992年)

1992年には当時全日本F3000選手権で活躍していた中谷明彦の起用を発表したものの、中谷に対し国際自動車連盟(FIA)がスーパーライセンスの発給を認めなかったため、代役にジョバンナ・アマティを起用した。F1史上5人目の女性ドライバーの参戦とあって話題にはなったが、アマティは参戦した3戦全てで予選不通過に終わり、また契約不履行(指定された期日に資金を入金しなかった)で解雇となった。

その後はアマティの後釜として加入したデーモン・ヒルの名前繋がりで、デーモン小暮率いる聖飢魔IIがスポンサーに付くなど、なりふり構わぬ姿勢で参戦を継続した。しかし、日本のバブル景気の終えんで資金難に落ち入り、ミドルブリッジレーシングの資金も枯渇し、いよいよ深刻となった資金難に伴い、ヒルのみが参戦した(この年の開幕からドイツGPまで在籍したエリック・ヴァン・デ・ポールはハンガリーGPからフォンドメタルに移籍していた)ハンガリーGPを最後にF1から撤退した。別のオーナーによる1993年の復帰を企図するも叶わず、結局そのままチームは消滅した。

その後

ブラバムの名はしばらくF1から遠ざかっていたが、2009年に再び聞かれることとなった。翌年の参戦可能台数が一挙に6台、3チーム分増加したため、その枠を狙い新チームとなるべく申請した15の候補のひとつが「ブラバム・グランプリ」だった。しかし申請したのはドイツのツール設計・製造会社フォームテックで、2008年撤退のスーパーアグリF1チームの固定資産を買収していた。チーム代表はフランツ・ヒルマー。つまり1992年まで参戦していたブラバムとの関係はない。FIAによる審査の結果、参戦が認められることはなく、プロジェクトは終わった。

ウェストロンドンのチェシントンにあるブラバムの旧ファクトリーは、2007年よりイギリスF3の名門カーリン・モータースポーツが使用している。

復活

創設者ジャック・ブラバムの三男であるデビッド・ブラバムが復活プロジェクトを立ち上げた。ブラバム・レーシングとして2015年から世界耐久選手権(WEC)のLMP2クラスに参戦予定。2018年からはコンストラクターとしてLMP1クラスへの参戦を目標としている[3]

シンボルマーク

バーニー・エクレストン時代のブラバムのシンボルマーク「ヒッシング・シド (Hissing Sid ) 」は、頭が「ライオン」・胴が「コブラ」・尾が「サソリ」という架空の怪物だった。1981年のシーズンオフにエクレストンとマネージャーのハービー・ブラッシュ、デザイナーのゴードン・マーレーらがロンドンの行きつけのパブで、「何かインパクトのあるシンボルマークをマシンに着けよう」と話し合い、このマークが生まれた[4]

名前の「ヒッシング・シド」は当時シルバーストン・サーキットにいた口うるさい (=Hissing) 有名なコースマーシャルの「シド」という人物から付いたとも言われている[5]

変遷表(F1)

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1962年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション ロータス・24
ブラバム・BT3
D コヴェントリー・クライマックス ジャック・ブラバム 7
1963年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT3
BT7
ロータス・25
D コヴェントリー・クライマックス ジャック・ブラバム
ダン・ガーニー
3
1964年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT7
BT11
D コヴェントリー・クライマックス ジャック・ブラバム
ダン・ガーニー
4 2
1965年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT7
BT11
D


G

コヴェントリー・クライマックス ジャック・ブラバム
ダン・ガーニー
デニス・ハルム
ジャンカルロ・バゲッティ
3
1966年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT19
BT20
BT22
G レプコ
コヴェントリー・クライマックス
ジャック・ブラバム
デニス・ハルム
クリス・アーウィン
1 4
1967年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT19
BT20
BT24
G レプコ ジャック・ブラバム
デニス・ハルム
1 4
1968年 ブラバム・レーシング・オーガニゼーション BT24
BT26
G レプコ ジャック・ブラバム
ヨッヘン・リント
ダン・ガーニー
8
1969年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT26
BT26A
G フォードDFV ジャック・ブラバム
ジャッキー・イクス
2 2
1970年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT33 G フォードDFV ジャック・ブラバム
ロルフ・シュトメレン
4 1
1971年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT33
BT34
G フォードDFV グラハム・ヒル
ティム・シェンケン
デイブ・チャールトン
9
1972年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT33
BT34
BT37
G フォードDFV グラハム・ヒル
カルロス・ロイテマン
ウィルソン・フィッティパルディ
9
1973年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd.
Ceramica Pagnossin Team
MRD
BT37
BT42
G フォードDFV カルロス・ロイテマン
ジョン・ワトソン
ウィルソン・フィッティパルディ
アンドレア・デ・アダミッチ
ロルフ・シュトメレン
4
1974年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT42
BT44
G フォードDFV カルロス・ロイテマン
ホセ・カルロス・パーチェ
リッキー・フォン・オペル
リチャード・ロバーツ
テディ・ピレット
5 3
1975年 マルティニ・レーシング BT44B G フォードDFV カルロス・ロイテマン
ホセ・カルロス・パーチェ
2 2
1976年 マルティニ・レーシング BT45 G アルファロメオ カルロス・ロイテマン
ホセ・カルロス・パーチェ
ロルフ・シュトメレン
ラリー・パーキンス
9
1977年 マルティニ・レーシング BT45
BT45B
G アルファロメオ ジョン・ワトソン
ハンス=ヨアヒム・スタック
ホセ・カルロス・パーチェ
ジョルジョ・フランチア
5
1978年 パルマラット・レーシングチーム BT45C
BT46
BT46B
G アルファロメオ ニキ・ラウダ
ネルソン・ピケ
ジョン・ワトソン
3 2
1979年 パルマラット・レーシングチーム BT46
BT48
BT49
G アルファロメオ
フォードDFV
ニキ・ラウダ
ネルソン・ピケ
リカルド・ズニーノ
8
1980年 パルマラット・レーシングチーム BT49 G フォードDFV ネルソン・ピケ
リカルド・ズニーノ
ヘクトール・レバーク
3 3
1981年 パルマラット・レーシングチーム BT49C M



G

フォードDFV ネルソン・ピケ
リカルド・ズニーノ
ヘクトール・レバーク
2 3
1982年 パルマラット・レーシングチーム BT49D
BT50
G フォードDFV
BMW M12/13
ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
5 2
1983年 フィラ・スポーツ BT52
BT52B
M BMW M12/13 ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
3 4
1984年 MRD インターナショナル BT53 M BMW M12/13 ネルソン・ピケ
テオ・ファビ
コラード・ファビ
マンフレート・ヴィンケルホック
4 2
1985年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT54 P BMW M12/13 ネルソン・ピケ
マルク・スレール
フランソワ・エスノー
5 1
1986年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT54
BT55
P BMW M12/13/1 リカルド・パトレーゼ
エリオ・デ・アンジェリス
デレック・ワーウィック
9
1987年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT56 G BMW M12/13/1 リカルド・パトレーゼ
アンドレア・デ・チェザリス
ステファノ・モデナ
8
1989年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT58 P ジャッド ステファノ・モデナ
マーティン・ブランドル
9
1990年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT58
BT59
P ジャッド ステファノ・モデナ
デビッド・ブラバム
グレガー・フォイテク
10
1991年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT59Y
BT60Y
P ヤマハ マーティン・ブランドル
マーク・ブランデル
9
1992年 モーターレーシング・ディベロップメンツ Ltd. BT60B G ジャッド エリック・ヴァン・デ・ポール
ジョバンナ・アマティ
デイモン・ヒル
NC

脚注

注釈

  1. ^ イギリス英語発音:[ˈbræbəm]
  2. ^ チームとしては第1戦オランダGP、コンストラクターとしては第6戦ドイツGPがデビュー戦となる。
  3. ^ 結局このコンセプトは、ゴードン・マレーがマクラーレンへ移籍後1988年にデザインしたマクラーレン・MP4/4によって、高いレベルで実現されることになる
  4. ^ FOCAが更なる開発競争、市販車の宣伝効果を狙いF1のサポートレースとして1988年に企画したカテゴリ。NA3.5リッターエンジンを搭載し、25000台以上を生産する量産車のスタイルを保っていればボディの材質やメカニカルな部分の制限は一切無いというWRCのグループSと同等のレギュレーションであったが、マシン製作間によるWRCグループB、S自粛の余波もありマシンを製作したアルファ・ロメオ以外のエントラントが現れず、企画が立ち消えしてしまった。

出典

  1. ^ 『ピラニア・クラブ F1マネーに食らいつけ』 ティモシー・コリンズ著、熊倉重春訳、二玄社
  2. ^ 『Racing on No.421』 イデア、2007年、p67。
  3. ^ “名門『ブラバム』復活へ。来季WECへの参戦を計画”. AUTOSPORT web. (2014年9月25日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=9&no=60146 2014年9月27日閲覧。 
  4. ^ 『レーシングオン ブラバム特集号』 イデア、2011年。
  5. ^ 「歴史を語るチームの顔“エンブレム”」『GPX 1992年』 山海堂、p15。

関連項目

外部リンク

  • www.forix.com Biography of Jack Brabham, with significant content on the early years of the Brabham team.
  • www.nvo.com Picture gallery of historic Brabhams.
  • www.motorracing-archive.com Summary history of Brabham 1961–1972, including significant race results and production numbers for all models. (Archived here).
  • www.oldracingcars.com Complete race history of all Brabham F1 models from 1966 to 1982 and links to Brabham research projects on other models.
  • www.f3history.co.uk History of Formula Three, including Brabham (under 'Manufacturers'). (Archived here)
  • www.autocoursegpa.com Complete world championship Brabham team statistics