多磨霊園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル)。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
目次 |
[編集] 歴史
もともと1900年ごろの東京市には5つの公営墓地、青山墓地・谷中墓地・染井墓地・雑司ヶ谷墓地・亀戸墓地があった(亀戸はのちに廃止された)。しかし東京市の市街地化と人口増加に伴い墓地不足となり、東京市外での墓地の造営が必要になった。
東京市公園課長井下清(1905年東京高等農学校卒業(東京農業大学の前身))は欧米諸国都市における墓地研究の結果、1919年に東京郊外の東・西・北に広い公園墓地を創設する計画を出した。そしてこの計画をもとにして、1920年に東京市の西にあたる多磨村が選ばれ、その2年後に多磨墓地の造営が開始した。この場所が選ばれた理由としては、同地はほぼ未開地であったことや、甲州街道や京王電気軌道・北多摩鉄道・中央線など郊外としては交通網がそろっていたからだと言われる。そして、1923年に開園した。なお計画における、残りの北・東の墓地はそれぞれ小平霊園と八柱霊園として完成した。
供用開始されたものの、東京市街から離れていたこともあり、使用する者はあまり多くなかった。しかし1934年に東郷平八郎元帥海軍大将が名誉霊域(7区特種1側1番)に埋葬された[1]ことにより多磨墓地の名前が広まり、これ以降利用者が大幅に増え現在のような人気の霊園の一つになった。
近くに調布飛行場があることなどから、太平洋戦争後期は三式戦闘機の隠蔽や修理するためにも使われた。一部の施設に機銃掃射の弾痕が残っている。
その後利用者が増え、1963年以降は新規区画がなくなり、現在では改葬整理などで空いた場所のみの使用募集となっている。また、1962年の芝生墓地や1993年の壁型墓地(13区)やロッカー式納骨堂であるみたま堂・合葬式墓地など土地を有効利用できる都市型の墓地も導入されている。
三億円事件の際、警察が当霊園内の墓を大量に暴いて捜索活動をおこなったところ、別の未解決事件の犠牲者や証拠物件が多数発見されたというエピソードがある。
[編集] 交通
- 西武多摩川線多磨駅から徒歩5分。かつては「多磨墓地前」であったが、2001年に改称。
- 京王線多磨霊園駅からバス霊園表門または表門下車。多磨霊園という名前が付いた駅だが、霊園正門まで2km弱程あり、徒歩で約20から25分かかる。
- 中央線武蔵小金井駅からバス霊園表門・霊園裏門または試験場代書前で下車。
- 中央自動車道調布インターチェンジから甲州街道と霊園南参道を経由。一番近い稲城インターチェンジは一般道への出口のみを備える。
[編集] 脚注
- ^ 生前、東郷は青山墓地に埋葬されることを希望していた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 東京都公園協会 都立霊園 - 多磨霊園の概要。
- 歴史が眠る多磨霊園 - 多磨霊園に眠る著名人に関する最大のデータベース。

