岩谷莫哀

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多磨霊園にある岩谷莫哀の墓

岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次[1]1888年明治21年)4月18日 - 1927年昭和2年)11月20日)は、日本の歌人編集者鹿児島県生まれ。

生涯[編集]

鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる[1]。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業[1]。東大では尾上柴舟に学んだ[2]

短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する[3]

1916年出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。しかし結核に罹り、以降は茅ヶ崎で療養しながら病床詠の数々を詠んだ。1927年、39歳で死去[3]

9歳で母を、22歳で父を亡くした。莫哀の名は若くして両親を失っていることを「哀しむなかれ」の意味である[2]。処女歌集『春の反逆』の冒頭にも「亡き父母の霊前に獻ぐ」とある[4]

故郷の宮之城温泉にある湯之神社に歌碑「み下ろせば薩摩の方へひと筋の川うねうねと流れたりけり」がある[2]。墓所は東京多磨霊園にあり、同区画に歌碑もある[3]

かつて薩摩川内市で開催されていた青少年対象の「まごころ青春短歌大会」には「岩谷莫哀賞」が設けられていた[5]

著書[編集]

歌集[編集]

  • 『春の反逆』(莫哀社)1915年
  • 『草路集』(岩谷禎次編、水甕叢書第5編、水甕発行所)1920年 - 尾上柴舟鈴木康文らとの共同歌集
  • 『仰望』(新詩壇社)1925年
  • 『岩谷莫哀短歌全集』(水甕社)1930年

編書[編集]

  • 『現代名歌選』(歌道協会)1926年

脚注[編集]

  1. ^ a b c 岩谷莫哀 川内まごころ文学館
  2. ^ a b c ふるさとウォッチング さつま町教育委員会。
  3. ^ a b c 岩谷莫哀 歴史が眠る多磨霊園
  4. ^ 『春の反逆』序文。
  5. ^ 岩谷莫哀(いわやばくあい)賞 鹿児島県立種子島高等学校

参考文献[編集]

  • 『春の反逆』(莫哀社)1915年
  • 内田守人『歌人岩谷莫哀研究』(短歌新聞社)1969年

外部リンク[編集]