伊藤真乗
伊藤真乗(いとう しんじょう、俗名・伊藤文明(いとう ふみあき)、明治39年(1906年)3月28日 - 平成元年(1989年)7月19日)は、日本の宗教家で、在家仏教教団・真如苑の開祖。また真如三昧耶流の創始者。なお俗名「文明」は「ふみあき」が正式名称であるが「ぶんめい」と音読みする場合も多い。
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[編集] 年譜
- 1906(明治39)年、3月28日に、伊藤文二郎・よしえの次男として出生。(6人兄弟姉妹の3番目)
- 1923(大正12)年、苦学を志し上京、中央電信局(現NTT)の購買部に勤務するかたわら夜学に励む。
- 1924(T13)年、正則英語学校(現・正則学園)の普通科に入学。
- 1925(T14)年、高等科に進学するが、1ヶ月後、規則により高等科を退学し青年訓練所に入る。また電信局の購買部を退社し写真機材店に勤務。
- 1927(昭和2)年、大正15年の徴集兵により、立川の近衛飛行第5連隊に入隊、写真科に編入。
- 1928(S3)年、12月10日に軍隊を除隊。
- 1929(S4)年、1月中旬に石川島飛行機の技術部に勤務。同僚との縁から浄土教学や易学、日蓮宗や法華経などを研鑚。
- 1932(S7)年 内田友司と結婚。文明と友司は同郷で、またいとこの続柄であったが、お互いの家系に伝わる宗教的背景を感得し、次第に仏教を研鑚する。
- 1935(S11)年に、大日大聖不動明王を勧請、友司と共に宗教専従の道に立つ。同年5月、真言宗醍醐派総本山醍醐寺(京都市)にて出家得度。
- 1936(S11)年、不動明王の縁から真言宗成田山新勝寺の講中として成田山立川立照講を設立。
- 1938(S13)年、鐙檠山真澄寺を建立、「真言宗醍醐派・立川不動尊教会」と改称する。
- 1939(S14)年、醍醐寺にて在家の大法である恵印灌頂を法畢する。
- 1941(S16)年、醍醐寺にて出家の大法である金胎両部伝法灌頂を法畢し、1943年春に大阿闍梨となるが、醍醐寺の座主を目指すことなく自身の教団運営と教法の確立に専念。戦後、真言宗から独立して「まこと教団」を設立。
- 1942(S17)4月20日に戸籍名を「伊藤文明」から「伊藤真乗」に変更。
- 1950(S25)年、以前の内弟子が告訴し、真乗逮捕(「まこと教団事件」発生)。
- 1951(S26)年、「まこと教団」を「真如苑」と改称。かねてから研鑚していた大般涅槃経を根本経典として教団の新体制を発足。
- 1953(S28)年、新たに施行された宗教法人法において文部省が「真如苑」を宗教法人として認証。
- 1957(S32)年、本尊となる久遠常住釈迦牟尼如来(大涅槃尊像)を謹刻。
- 1966(S41)年3月、祖山・醍醐寺から大僧正位を受ける。11月、タイ国で開催された「第8回世界仏教徒会議」に日本仏教界代表として出席。
- 1967(S42)年、「欧州宗教交流国際親善使節団」団長としてヨーロッパ8カ国を歴訪、ローマ法王パウロ6世と会見し涅槃像を贈る。
- 1970(S45)年、米国カリフォルニア州モンテベロ市に寄贈した聖徳太子像の贈呈式が行われ名誉市民となる。
- 1979(S54)年、発祥第二精舎落慶 本尊十一面観世音菩薩入仏開眼法要を厳修。
- 1979(S54)年、「真如苑宗教交流親善使節団」として欧州5カ国を巡教。
- 1984(S59)年、醍醐寺の命を受け、金堂において教主導師により弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要を執行。
- 1989(H1)年、7月19日(午前0時23分)遷化。享年83。醍醐寺より「真如教主金剛身院常住救鳳真乗大本位」の法号が贈られた。
[編集] 人物・エピソード
- 山梨県北巨摩郡長坂町出身。父・文二郎の本厄年に生まれたので、村の風習に随って、いったん路地に捨てられ、近所の人に拾ってもらい、1週間後に再び実家に戻されたという。幼少時から周囲より神童と呼ばれ、人の生死を予言するなど不思議な能力を持っていた。 - - 伊藤家は、作男を雇うほどの富裕農家で、父・文二郎は秋田村の役場で収入役職に就いていたが、後に村会議員にもなっている。当時は珍しかった新聞の定期購読を行っていたほどで、収入役の時分には税金を納められない村人の分を、自身が代りに納めていたという篤志家で、のちにたくさんの納税の領収書が入っていた大きな箱が伊藤家の土蔵の中から出てきたという。ただし裕福といわれるも、このような行為から決して楽ではなかったとされる。 - - また、母・よしえの旧姓は山本であるが、武田信玄の軍師である山本勘助の流れを汲む家系ともいわれる(ただし、その家系を辿るのは難しいとされる)。よしえの父・彙治(しげはる)は小学校校長を務めたほどの名士であり、その葬儀も村始まって以来の盛大なものだったという。しかし、これらのことから村では伊藤家は旧家の名士といわれた。 - - 父が曹洞宗の檀家総代を務めていたことから禅の影響を受けるとともに、伊藤家家伝の易学で武田信玄の兵法『甲陽軍鑑』をベースとする「甲陽流病筮鈔(びょうぜいしょう)」を口伝により6人兄弟姉妹の中でただ一人受け継ぐ。「甲斐国志」によると永田徳本という漢方医の達人がこの易学を以って武田家将軍の診察に当っており、また伊藤家の祖先の名前も万生山妙喜院(朝陽山清光禅寺の末寺)を寄進建立したとして記載されている。 - - この易学は口伝であるため書物がなく、「びょうぜいしょう」は父親が名付けたものであるが、どういう漢字で書くか父に教わっていなかったので文明(後の真乗)が「病筮鈔」と当て字した。 - - 苦学を志し英語を勉強するために上京、すぐに神田錦町の写真機材店「大盛堂」に勤める。英語で書かれたラジオの配線図を入手し、これを文明が翻訳して組み立てたものが同店から発売されると、当時のラジオブームに乗って大ヒット商品となった。また趣味の写真も相当なものであったという評判で、昭和9年の読売新聞立川専売局及び通信部主催のコンクールで1等を受賞、また翌10年にも多摩雅光会主催の「第1回写真展覧会」でも2等1席を獲得。さらに同年の月刊誌「現代」4月号の巻頭で、室生犀星の詩「光」と共に文明の写真が掲載されている。 - - 後に伊藤は立川飛行機の技術者になり、昭和7年には、またいとこの間柄にある内田友司と結婚する。技術者として勤務していたことで、「ライカ買おうか、家買おか」と言われた当時、高価なライカのカメラを買えるほど生活は安定していた。しかし、結婚直後に文明(真乗)の仕事面や健康面に変調があり、それらを通してお互いの背景にある宗教的使命を感じるようになる。なお、友司は祖母の宝珠院から薬師如来と観音の信仰をもっていた。また真乗は実姉の勧めでキリスト教のプロテスタントにも関心を持ち研鑚したが、友司が馴染めなかったという。この当時から観音信仰や病筮鈔によって同好者が増えてくるようになる。 - - 立川飛行機の同僚で先輩だったある人物が、池袋で占い師に見てもらったとき、伊藤の名前を出すと「立川の伊藤さんのお知り合いですか。それでは見料はいりません」といわれたという話がある。また陸軍の監督官までもが相談に訪れるほど信頼があったといわれる。また立川飛行機の庶務課より丑寅の方角を警戒するようにと示されたので関係者に注意し消化設備に万全を期したが、1週間後に当該場所より出火。しかし消火設備が万全だったので大事に至らずに済んだことから、会社側は金を払って諸問題の経決や経営診断などを専属でやってもらいたいと文明に申し出たが、営利の為の易は禁ずるという家訓により断ったという。 - - 昭和8,9年頃に1人の真言僧が「易学を教えてほしい。代わりに真言密教を呈上するので」と訪ねてきたことにより真言密教と結縁し、翌昭和10年に仏師の大家である仲丸奥堂師より運慶一刀三礼(いっとう・さんらい)の作で北条時政公の御持仏と口伝され、平常眼(へいじょうがん)という非常に珍しい大日大聖不動明王(だいにちだいしょう・ふどうみょうおう)像を勧請した。なお真乗は当初、その仏像と同じものを刻んでほしいと頼み、その仏像を購入する予定であった。しかし仲丸師によれば「どうしてもこの不動明王が先生(文明)のもとへ行きたいといって彫らせてくれない」という不思議な体験があったという。仲丸師はこの体験から家宝である不動明王像を無償で譲ることを申し出たが、伊藤はそれでは申し訳ないということから、金三百円を謝礼として払い自宅に迎えた。なおこれは、鎌倉期作といわれる仏像に払う金額としては破格の安さではあるが、決して少ない額ではない。当時の勤め人の平均月給は五十円程度の時代、伊藤はまだ会社勤務の技術者だったため、平均月給よりも高給を得ていたが、所持していた高価なカメラなどを処分しても三百円に足りず、病筮鈔を信じて集まっていた人々に不動尊像を迎えたいと洩らしたところ、賛同を得て浄財が集まり捻出されたものであるという。この事は立教前の時点で既に講組織が自然発生的に出来つつあったことを表している。 - - なお不動尊像譲渡当日の朝は雪が降っていたが午後1時ごろにはそれも止んで晴れ渡り、帰宅途中のタクシーの車中からエンジンのあたりに、夕方でもないのに五色の雲が棚引いて車と共に走っているのを文明や仲丸師の2人の娘など一行が見たが、これは仏教で非常によい兆しとされる瑞雲であったことが後にわかったという。 -
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- - 年明け早々・1月4日から寒修行として水垢離(みずごり)をとり、満願前の1月31日の友司の透視を切っ掛けに 2月8日に仕事を辞め宗教の道ひとすじに立つ。この寒修行満願の日(2月3日)前後に関して文明は、仕事をやめて宗教の道に入る不安が夫婦ともにあり、片一方が仏道を提唱すると片一方は反対し、また逆になったりして、仏と人間との斗(たたか)いであったと回想している。これを境に不自由のない安定した生活から一転し生活が困窮するようになった。 - - また不動明王を勧請して寒修行を行なった時に「このような立派な尊像は、普通の人では護り切れないから、自分の弟子になれ」と勧めた1人の先達がいたという。文明が一向に応じないため業を煮やして憤然として去ったが、未だにそのようにしか推量できないが、と断った上で「その先達は、この希有な尊像が欲しくなったのであろうが、価値あるモノと見るような、宗教家としてあるまじき相(すがた)に、かえって哀れを感じたが、これを狭量に解釈すれば、腹も立ち相手を責める気持ちに自分も苦しんでいったに違いなく、ひとたび自分を、相手の立場において考えてみると、この事象に対応して、常に不動心に燃え、その先達を凌駕するだけの宗教家になろう、と決意しさらに修行に徹したといい、それもみ仏が与えてくださったありがたい教訓であり、言外に余る慈悲溢れるお諭しであった、と述懐している。 - - 醍醐寺にて恵印灌頂に続き、金胎両部伝法灌頂を法畢した年(昭和16年)の12月8日は日米開戦の日であるが、その前年・15年暮れに「来年は、大変な年になりますよ。それも12月、よほど心していかないと……。」と友司から告げられ、真乗も16年の3月3日の晩に、ムッソリーニとヒットラーとスターリンが会談している夢を見て、“戦争”を感じ、しかも大戦争になることを予感したという。昭和19年になると戦争が更に激しくなり立川も爆撃されるが、友司と子供を疎開させたが、真乗が疎開先に訪ねる度に空襲になったので、周囲の人々から「本堂に無線装置があって連絡があるのではないか。でなければ、あんなに田舎に帰って避けられるはずがない」と、スパイの噂もかけられたという。なお昭和20年の終戦によって、合同真言宗は解体し、それぞれもとの宗派に分かれたが、「立川不動尊教会」は真言宗を離脱し、大般涅槃経を所依とする、いずれの束縛も受けない独立の教団として「まこと教団」を発足した。 - - のちに「まこと教団事件」と呼ばれる法難が勃発。一人の元弟子の告訴により監獄に入れられた際、「あなたが宗教家なら、このような人も助けることができるだろう」と兇暴な尊属殺人犯と同房にされたことがあった。(※真乗は「尊属」殺人犯と述べているが、彼は自分の甥を殺害した男なので、「尊属」殺人犯ではなく「卑属」殺人犯である)初めのうち、その殺人犯は真乗に乱暴を仕掛けてきたが、獄舎の中では貴重な水を手ぬぐいに浸して額を冷やし、不動明王の霊咒を唱えて看病すると、次第に素直になり、「お前」と呼ばれていたのが「旦那」、「先生」と変わり、素直に話を聞くようになった。これを見ていた別の罪人が「落魄(おちぶ)れて袖に涙のかかるとき 人の心の奥ぞ知らるる」という刺青を真乗に見せたという。こういうことがあり刑務所内で信者ができたという。また刑務所内では密教大辞典全3刊を何度も何度も読み返し本がボロボロになったという。 - - この法難における裁判では、当初は信徒の知り合いなどの弁護士がついた。しかし、どの方もあまり教団のためにならないと判断したため、摂受院が人づてから当時の第3次吉田内閣の国務大臣で、また同郷山梨の出身で法学者でもある樋貝詮三の自宅を訪ね、事情を懇々と説明したという。樋貝の子女の証言によると「伊藤さんは報じられているような人物ではない、あの教団は残しておかなければならない」と金銭抜きで教団の擁護として弁護士を紹介した。樋貝は事件の解決、裁判の行方を見届けず他界したが、のちに「まこと教団」は「真如苑」と改称許可が文部省から下り、教団の存続は許されたことで、真乗と摂受院は「お世話になった樋貝先生に報告かたがた、お墓参りをしたい」と申し出たという。樋貝の娘はこの1回きりだと思っていたが、それから毎月の命日に欠かさず千駄ヶ谷の墓地にお参りしたことに驚いたと述べている。 - - なお、裁判の方は「もう一歩で裁判上で無罪を勝ち取ることができる」と弁護士団から勧められたが、真乗自身は「裁判より人を救う時間が惜しい」として上告せず、有罪判決が確定している。 - - かつて増上慢から破戒行為を犯して、教師の資格を剥奪され追放(すなわち破門)となった弟子がいた。その弟子の話によると「師と弟子の縁はどんなことがあっても一生切らないから必ず帰ってきなさい」と言って世間に送り出したことがある。その弟子は懺悔してお参りに行くと、会った人の体調が悪くなったりして誰からも相手にしてもらえず、目の前で門を閉められたことも度々あったという。しかし真乗と摂受院だけは唯一「帰ってきたか」と温かく迎えられたという。この弟子はかつての罪障を滅し、その慈悲に報いるには布施波羅蜜しかないと立願し実践し再び教師となった。なお、これがのちに教団の歓喜制度になった(現在は制度としては廃止されている)。 - - また、真乗はヘビースモーカーで知られていたが、煙草をやめることを思い立った。ただしやめるというと寂しいので「休む」ことにしていたある日、信徒から最近煙草を吸わない事を問われて、「いや、今、休んでいる」と答えたことで、その信徒が他の人たちに「教主さまは、煙草を止め、私たち信徒のために健康に留意される云々」などと語ったため、それを聞いた真乗は「休む」という曖昧な心得を捨てなければいけないと意を決したという。 - - 真乗は、自分の長女と次女を破門しているが、釈尊の子であるといわれる善星と優波摩那が道をまっとうしなかったことに対し、羅ご羅だけが修行を終えて悟りを得た、という三子のたとえをもって教化(きょうげ)している。しかしこの件に関しては、他にも浄土真宗の開祖である親鸞が息子の善鸞を破門したことも例に挙げており、浄土真宗は「肉食妻帯」を肯定する在家仏教を唱導しているが、その中には法の道が枉(ま)げずに貫かれており、親鸞の家族に対する厳しい姿勢から思いを深くした、と語っている。 - - 真如苑は昭和50~60年に急激に信徒数が増えたことで、教団と共に伊藤真乗の名前も広く知られることになった。したがってそれまでは宗教界の一部でしか知られることがなかった。このため真乗は、当時の宗教界から「宗教界のいぶし銀」という評価があった。このことは真乗教主が遷化した際に、妙智会教団の会長であった宮本丈靖も中外日報紙上で述べている。[要出典] - - == 昭和の仏師 == - 真如苑の本尊など、多くの仏像は真乗自身の手による謹刻である。しかし空海や日蓮以降、近代に至るまで宗祖の立場にある人物がこのように尊像を刻んだり描いたりしたことがほとんどなくなっていた。昭和32年の接心道場の大涅槃像開眼式に招かれた新宗連の大石秀典はこの点を指摘したことから、宗教界から「昭和の仏師」などと称せられた。 - - 仏師の松本明慶は、真乗作の仏像を「今までになかった眼。仏の意味あいの姿が表現されているから高い評価を受けるのだと思う。我々職人の作るものとは違う。やっと私が境地に入ったところをもうすでに感じとられて作っておられたということに驚愕する」と評している。[要出典]
[編集] 関連項目
[編集] 出典
- 「燈火念念(ともしびねんねん)」(伊藤真乗著 真如苑教学部 1976年)
- 「常楽の華(よろこびのはな)」(伊藤真乗著、1979年)
- 「法の琴譜樹(のりのことぶき)」(伊藤真乗著、1983年)
- 「讃樹(さんじゅ)」(橘佐久夫編、立教五十年傘寿記念出版、伊藤真乗作品聚成、1986年)
- 以上、すべて真如苑内における刊行物。
- 「真乗 心に仏を刻む」 - 奈良康明著、中央公論社、2007年)ISBN 9784120038440
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
- 生誕100年記念「伊藤真乗の目と手」展
- 日本の墓 著名人のお墓