密教

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密教
仏教
金剛乗仏教
時代・地域
初期 中期 後期
インド チベット 中国 日本
主な宗派(日本)
東密
※は、「真言宗各山会」加入
- 古義真言宗系 -
高野山真言宗
東寺真言宗
真言宗善通寺派
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真言宗室生寺派
- 真言律 -
真言律宗
台密
〈日本〉天台宗
信仰対象
如来 菩薩 明王
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義 (広沢流 小野流) 新義
関連人物
東密
金剛薩埵 龍樹
龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
最澄 順暁 円仁 円珍
ウィキポータル 仏教

密教(みっきょう)とは、秘密仏教(ひみつぶっきょう)の略称であり[1]、「秘密の教え」を意味するともされる。密教徒の用語では「金剛乗」(vajrayāna、ヴァジラヤーナ)ともいう。これは、大乗(mahāyāna)、小乗(hīnayāna)と対比した表現である。あるいは真言乗(mantrayāna、マントラヤーナ)とも言う。 英語ではEsoteric buddhismと呼び、9世紀以降の後期密教についてはTantric Buddhismタントラ仏教と呼ぶ。

目次

[編集] 概要

一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。

「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされ、また、言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも言う[2]

師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶の如し(瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ)」という。インド密教を継承したチベット仏教がかつて「ラマ教」と俗称されたのは、師資相承における「師(ラマ)」に絶対的に帰依する特徴を捉えたものである。

これらとは異なり、密教の「密」とは、顕に対する密ではなく、ソグド語で「日、太陽」を意味する「ミール」(Mir)を漢字で「密、蜜」と音訳した物とする説もある。

密教は一般に仏教のひとつだとされている。[3]

[編集] インド密教の歴史

概略を説明すると、密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことで、インド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛とインド仏教の衰退を変えられなかった。やがて、西アジアからのイスラム勢力のインド北部から侵攻してきたイスラム教徒政権(デリー・スルタン朝)とインド南部のヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭った。イスラム教徒から偶像崇拝や呪術要素を徹底攻撃されて、インドにおける密教は最後の段階のインド仏教として歴史的に消滅に追い込まれることになった。

[編集] 初期密教

呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。密教経典があった訳ではなく、各種の大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていた。

[編集] 中期密教

密教は新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として理論体系化が試みられて中期密教が誕生した。中期密教では釈尊(Bhagavān)が説法する形式をとる大乗経典とは異なって、その別名を大日如来と呼ぶ大毘盧遮那仏(Mahāvairocana)が説法する形で密教経典を編纂していった。『大日経』や『初会金剛頂経』(Sarvatathāgatatattvasaṃgraha)、またその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来(大日如来を中心とした五仏:五智如来)からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。

中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、かえってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点をおいた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった[4]。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

[編集] 後期密教

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽タントラの経典類を中心とする後期密教が誕生した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、それに伴って法身普賢金剛薩埵金剛総持が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。

また、インドにおいてはヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)を修行する無上瑜伽の修行(瞑想・修法)も無上瑜伽タントラとしての後期密教の特徴であり、男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。顕教では主に名称のみであった瑜伽行が、密教においてはヨーガやタントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、しばしば性交がその最も効果的な方法と思われていた。時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要したために、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教上座部仏教)や大乗仏教への回帰もみられた。それ故、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の教義も実際の性行為ではなくクンダリニー・ヨーガによる生理的な瞑想へと移行する動きも生じたが、これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。

さらには、当時の政治社会情勢からイスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラ・チャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興迄の期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。

インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系は今日もチベット仏教の中に見ることができる。

[編集] 中国の密教

中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの、初期の密教経典が翻訳され、紹介されてはいた。その後、善無畏一行が『大日経』の翻訳を行い、さらに金剛智不空が『金剛頂経』系密教を紹介することで、本格的に伝来することになった。なかでも不空は、唐の王室の帰依を得て、させさまざまな力を得たことで、中国密教の最盛期をもたらすことになった。だがその後、武宗が廃仏を行ったため衰退した。そしてモンゴル系のの時代以降はチベット系の密教が採用されることになった。

中華人民共和国では、唐代に盛んだった中期密教を唐密宗、現代まで続くチベット仏教における密教を西蔵密宗と呼んでいる。前者は唐代以降は浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて衰退・途絶した[5]。後者は文化大革命などの政府の政策を乗り越えてチベット人を中心に現在もチベット密教の信仰が続いている。

[編集] 日本の密教

[編集] 密教の伝来

日本に密教が初めて紹介されたのは、から帰国した最澄(伝教大師)によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していた訳ではなかった。

よって、本格的に紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が、806年に日本に帰国して本格的に日本に紹介されてからであるとされる。 あるいは空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行円仁(慈覚大師)、恵運円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることもある。

日本に伝わったのは中期密教であり、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受けいられなかったという説がある[6]

[編集] 密教の宗派

日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗東密即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗台密とも呼ばれる)が密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。なお、東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台密教」の意味である。体系的に請来された東密、台密を純密というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された密教を雑密という。

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の神仏習合の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

[編集] チベットの密教

チベット仏教は、主に「無上瑜伽タントラ」と呼ばれるインドの後期密教を継承している。

[編集] その他の国の密教

密教は韓国越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々中心に広がっている。このほか、モンゴルでは中世のモンゴル帝国でチベット仏教が国教であった流れから、現在もチベット密教の信仰が続いている。 また、カンボジアのアンコール王朝にも密教は伝来しており、密教で用いられる祭具や、とくにヘーヴァジュラを象った銅像や祭具が出土している。

また、欧米での展開も起きている。 チベットにおける1950~1951年のチベット侵攻 から1959年のチベット動乱という大混乱の後は、ダライ・ラマ14世をはじめとする多くのチベット僧がチベット国外へと出て活動したことにより、ヨーロッパや米国へで本格的な布教がなされるようになり、欧米の思想界にも様々な影響を与えることになった。アメリカ合衆国ニューヨークでは、ダライ・ラマ14世と親交のあるロバート・サーマンにより1987年チベットハウスが設立・運営され、チベット密教も含めチベットの思想や文化が広報されている。欧米でEsoteric Budhismと言う場合は、チベット系の密教を指していることが多い。

[編集] インド錬金術に関する仮説

なお、インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説[7]があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。

[編集] 「密教」のその他の用法

密教という言葉を「秘密宗教」としてとらえ転じて、地中海地域の諸宗教(オルフェウス教など)、カバラ道教ブードゥー教など、神秘主義象徴主義的な教義を持つ仏教以外の宗教宗派も、密教と呼ばれる場合がある。それゆえ両者を区別するために、仏教以外の教えを密儀宗教みつぎしゅうきょう)と言い替える人もいる。[要出典] 

具体例として「図説古代密儀宗教」(ジョスリン・ゴドウィン、吉村正和訳 平凡社 1995年)

[編集] 脚注・参考文献

  1. ^ 天台寺門宗のHP解説
  2. ^ 『哲学・思想事典』
  3. ^ だが、密教が仏教に含まれるかどうかは学者の間でも見解が分かれる場合があるのだという[要出典](掲載ページを表示していただきたい。それと、どの学者の考え方なのかも。末木本人?仏教でないとしたら、何教だと主張されているの?そのあたりも記述していただきたい)。(末木文美士『日本仏教史―思想史としてのアプローチ―』)
  4. ^ 密教という潮流にあっても、当時のインド仏教界では伝統的な部派仏教の1つである正量部の勢力が強かった[要出典]という見解もある。
  5. ^ 上海市静安寺にみられるように、日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる動きもあるがマイナーな動向である。
  6. ^ 密教とマンダラ(NHKライブラリー), 頼富本宏, 2003年4月, ISBN 978-4140841617
  7. ^ 密教の秘密の扉を開く―アーユルヴェーダの秘鍵 佐藤 任 ISBN 978-4915497254

[編集] 関連項目

無上瑜伽タントラ

[編集] 外部リンク

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