三遊亭圓楽 (5代目)
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| さんゆうてい えんらく 五代目 三遊亭 圓楽 |
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三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である。 |
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| 本名 | 吉河 寛海 |
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| 生年月日 | 1933年1月3日(76歳) |
| 出生地 | |
| 活動期間 | 1955年 - |
| 活動内容 | 落語家 |
| 受賞 | |
| 旭日小綬章 | |
| 備考 | |
| 落語家としては引退を表明しているが、真打昇進前の弟子を抱えているため、彼らの育成が現在の主な活動となっている。 | |
5代目三遊亭 圓楽(さんゆうてい えんらく、1933年1月3日(ただし、実際は1932年12月29日であり、1月3日は出生届の提出された日である) - )は、東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の円楽一門会総帥。元落語家。実家は寺院(日照山不退寺易行院。通称助六寺)。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。通称「馬圓楽」(面長であることから)。現役時の芸能事務所の所属は星企画→若竹カンパニー。
目次 |
[編集] 人物
生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興(現在の住所上は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線の竹の塚駅)に移転しており、圓楽自身も長くこの地に住んでいる。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。かつて演芸番組『笑点』(日テレ)の大喜利メンバー・司会者を務めていた事で知られる。身長177cmと長身。
若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊り』。
[編集] 素顔
- 幼い頃は病弱で、腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
- 生まれ育った寺には修行僧や使用人など年上の男性と一緒に住んでいた為、自分の父親がどの人か分かったのは5歳ぐらいだった。食事時の無作法をたしなめられて初めてわかったという。
- 東京大空襲にあったが、家族は一命をとりとめ、終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで農業学校に入る。
- 上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦時中は暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせる事が出来る落語は凄い」と落語家になる事を決意する。
- 6代目圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。
- 落語家になって数年経っても、「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ、圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり、自殺未遂をしかけるほどだった。しかし、母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるとなんとかスランプを脱出。
- のちにそれをネタにして、若き自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名人とは生意気でげす」と怒られ、キャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。
- 本人は落語家としてやっていくつもりはなく、事実上テレビ専業のタレントであった。その代りレギュラーは多く、バラエティ、ドラマ何でもこなした。圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。
- 前田憲男とプレイボーイズのLP「円楽のプレイボーイ講座 12章」がそのあらわれである。このLPは横山剣(クレイジーケンバンド)により絶賛され、2001年にCD化(2008年紙ジャケットCDとして再発)。
- 師匠の厳命により1977年に「タレント廃業宣言」をするまで落語に全力を注ぐことはなかった。タレント廃業宣言は徹底したもので、笑点を含む全レギュラー出演から降板した(1983年に司会者として「笑点」に復帰した後もテレビのレギュラー番組は「笑点」以外に持たなかった)。6代目圓生・圓楽らはその翌年落語協会分裂騒動を起こす。
- 麻雀の腕前はプロ級である。行きつけの雀荘は旧日テレ本社ビル近く・二番町にある「サラブレッド」。これが故で、馬面も相成って弟子の三遊亭楽太郎や笑点で共演していた歌丸に馬扱いされる事があった(「馬刺し」→「圓楽スライス」、馬頭観音、「黒圓楽の師匠は馬圓楽」など)。
- 上記の事項ではずぶの素人が「図書券が家にあるけど、どぉ?」と誘われたら最後、と玄人筋が戦々恐々するほどの「雀鬼」であり、事実自宅での賭け麻雀で負かした者は誰もなく、必ずすっからかんになるとの事。本人曰く「ケツの毛まで抜かれる運命よ、ガハハハハ…」。
- 読売ジャイアンツのファンであり、ジャビットの絵が描かれた扇子を持っている。
- 血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかないという。
- 鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔を自称している。
- 圓楽本人に拠れば、衆議院議長/文部大臣を務めた灘尾弘吉自由民主党元代議士と親戚関係にあるとのこと。この件はテレビや雑誌でも本人が語っている。また、三木武夫、福田赳夫、といった政治家との交友もあり、1986年の参議院選挙の際には出馬を打診されてもいるが、実現はしなかった。
- 1972年6月14日に起こった日本航空ニューデリー墜落事故で、客室乗務員だった実妹を亡くしている(事故直前、実家の本堂で睡眠中に、誰も叩いてないはずの木魚の音に目を覚まさせられ、その直後に、実妹の訃報が届いたという)。
- 師匠圓生に諭されて本格的に落語を精進するまでは、バラエティータレントの一人として数多くのテレビ番組に出演していた。圓楽主演のテレビドラマ『笑ってヨイショ!』(東映製作・日本テレビ系)までが制作され、三遊亭圓楽、野末陳平としてドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。後にソニーミュージックで発売されたコミックソングを集めたコンピレーションCD・「SMILE」に収録された。そのライナーノーツによると「ソニーミュージック最古のコミックソング」と言う。)また、日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。圓生に諭された以降は『笑点』で卒業式を行って卒業し、寄席の活動にシフトした。しかしその後も『笑点』の正月特番師弟大喜利に参加したり、NHKテレビの『お好み演芸会』のレギュラーは継続していた。
- 「星の王子さま」で売っていた時期に発売したレコード『円楽のプレイボーイ講座』は、ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。因みに、クレイジーケンバンドのボーカル・横山剣は少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。更に、この頃よりパンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
- 「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと『いつみても波瀾万丈』出演時に語っていた。ちなみに圓楽がタブーとしていた事の一つは「キザになってはいけない」ことだそうである。なお、圓楽を除く圓楽一門の落語家が所属する芸能事務所『星企画』の名はこの「星の王子さま」に由来している。
- プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。
- 本人が後に語ったところによると、1978年の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。圓楽は6代目圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい、自分が弟弟子と行動を共にすることなぞ出来ないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。もしあの当時圓生が引退していたならば、分裂はもちろん死後に第3の行動に出る事もなかったとされる。因みに分裂の過程では弟弟子三遊亭さん生・三遊亭好生が残留し脱落(結果破門された)。行動を共にした6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈等の他の弟弟子は6代目圓生の死後落語協会に復帰している。
- 立川談志は「嫌い」と公言しているが、本当の意味での仲違いはしていない模様(と言うよりも、笑点開始以前から続く「悪友」関係とされる)。圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。ただし、分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。
- 東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。「噺家の純粋培養」を企て、寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが、弟子達はその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の『若竹』の出番を休んでいたりしたため、これを憤った圓楽は遂に「若竹」の閉鎖を決意。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。なお、不動産会社・永谷商事が東京都墨田区両国に設置した貸ホール「お江戸両国亭」では、圓楽一門による定席が執り行われている。
- 二つ目の全生時代、火事場に余興に行って「『全焼』じゃシャレにならない」として断られたことがある。だが逆に、大相撲の春日山部屋を訪問した時は「全勝」で縁起がいいと歓迎された。
- 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目林家正蔵は、師匠圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目圓楽を襲名させたとされる。なお8代目正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。「くれ」と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。
- 2008年には、弟子の楽太郎に「弟子も誰も来ないのか…5代目圓楽の墓」とネタにされたことがある(元は、歌丸死去ネタを遮られたため、師匠に置き換えたというだけである)が、既に十数年前に自身の墓を生前建立している(従って、弟子が墓参りに来なくとも不思議ではない)。いわゆる「寿陵」と呼ばれ、生前に自身の墓を建立することは縁起のいいこととされるが、自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため、自分の墓を建立したとのこと。楽太郎に六代目圓楽を継がせることについても、死んでから誰か解らないものに襲名させるよりは、自分が健在であるうちに決めてしまおうというと言う意向から、林家木久扇が子息に2代目木久蔵を襲名させたのに続く生前贈与になったとのこと。因縁めいているかもしれないが、上述のように、木久扇の師匠・彦六は3代目圓楽を襲名していた時期がある。
[編集] 経歴
- 1955年(昭和30年)2月 - 6代目三遊亭圓生に入門、「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。
- 1958年(昭和33年)3月 - 二つ目昇進。
- 1962年(昭和37年)10月 - 真打昇進し「5代目 三遊亭圓楽」襲名。
- 1966年(昭和41年)5月15日 - 『笑点』放送開始。第1回から出演。
- 1968年(昭和43年)- 日本テレビ系で主役のドラマ「笑ってよいしょ」放送開始。
- 1969年(昭和44年)3月30日 - 『笑点』降板。
- 1970年(昭和45年)6月21日 - 『笑点』復帰(復帰の際、弟弟子6代目圓窓を連れて来ていた)。
- 1977年(昭和52年)3月27日 - 『笑点』卒業(8月には弟弟子6代目圓窓も卒業している)。
- 1978年(昭和53年)6月1日 - 落語協会真打乱造事件で師匠圓生一門と共に落語協会脱退し、「落語三遊協会」創設。
- 1979年(昭和54年)9月3日 - 師匠圓生死去。
- 1980年(昭和55年)2月1日 - 圓楽一門以外の弟弟子達は全員落語協会復帰。「大日本落語すみれ会」に名称変更。
- 1983年(昭和58年)1月9日 - 4代目司会者として『笑点』復帰。
- 1985年(昭和60年) - 「大日本落語すみれ会」を、「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し、「円楽一門会」に落ち着く。
- 1985年(昭和60年)3月 - 私財を投げ打って東京都江東区東陽に寄席「若竹」開館。
- 1989年(平成元年)11月25日- 経営難のため若竹閉館。
- 2005年(平成17年)5月31日 - 六人の会が主催した「余一会」で27年ぶりに新宿末廣亭出演。
- 2005年(平成17年)10月23日 - 人工透析のため通院していた病院で脳梗塞の症状が現れたため入院。
- 2006年(平成18年) 5月14日 - 『笑点』勇退。高座復帰として9月に好楽の会で小咄、10月に鶴瓶の会で落語(『紺屋高尾』)をそれぞれ披露。
- 2007年(平成19年)2月4日 - 「第23回浅草芸能大賞」大賞。授賞式で『芝浜』を口演、本格復帰表明。
- 2007年(平成19年)2月25日 - 国立演芸場での「国立名人会」で復帰と同じ『芝浜』を口演後、現役引退表明。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 日本テレビ系列放送の『いつみても波瀾万丈』をもってテレビ出演引退。
- 2007年(平成19年)7月15日 - 東京・銀座の中央会館で行われた「大銀座落語祭」のトークショーを、風邪による体調不良の為欠席した。圓楽の5ヶ月ぶり登場を待ち望んでいたファンも多かっただけに、同祭を主催する「六人の会」の春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、春風亭昇太、9代目林家正蔵、「笑点」で共演していた林家木久蔵(現:林家木久扇、電話で急遽呼びつけられたと高座での本人談)ら豪華メンバーが代演に駆け付けた。鶴瓶は「対談と思って着物を持ってこなかった」と浴衣姿で大先輩の穴を埋めた。結果、観客からの不満は漏れなかったという。
- 2007年(平成19年)11月3日 - 旭日小綬章叙勲受章。
- 2007年(平成19年)11月19日 - 胃癌発病による手術のため、慶應義塾大学病院入院。
- 2007年(平成19年)12月16日 - 叙勲を祝う会に出演。
- 2008年(平成20年)3月9日 - 円楽一門会新真打披露口上のため、『笑点』に出演。
- 2008年(平成20年)4月 - 肺癌発病による手術を行う。
[編集] 笑点4代目司会者として
歌丸やこん平ともに第1回放送からのメンバーである。1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか、司会就任後数ヵ月の放送ではカラー高座着ではなく普通の羽織と袴を着用していた)。
就任して暫くは答えの合間にその博識を生かした都々逸をよく披露していたり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かし「よろずガイダンス」というコーナーで落語に纏わる話を披露していたが、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていた頃の司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組からスピーディーにやり取りする中からメンバーのキャラクターをクローズアップすることで司会者だけでなくメンバー全員を主役とする新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんどやらなかった。23年間司会を務めながらその間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからはたい平が加入するまで16年間メンバーチェンジなしで通した。
歴代司会者としては最も長く務めていたが、2001年2月11日の放送で本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった(ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗を2回やってしまい、2008年2月10日放送の時は楽太郎に「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされた。またさらに同年11月16日の放送でも同様の失敗をしている。)。その後2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養する事となった。2006年1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で、久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月18日から笑点の収録に復帰したものの、やはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。
『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)にて、落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また2006年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演した。
2007年1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年3月9日には、高座・テレビ引退後久々に、弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して、三本締めの音頭は惣領弟子三遊亭鳳楽が行った。
[編集] 大喜利でのキャラクター
後任司会者の歌丸曰く「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、好楽、楽太郎ら弟子はもちろん他の落語家からも尊敬されているが「司会がうまい」などと揶揄されることもある。蛇足だが、落語家に向かって「司会がうまい」と言うのは純粋な褒め言葉ではなく、裏に「落語は司会ほどうまくない」という含みがある。
- 大喜利メンバー時代初期は挨拶の際「湯上がりの顔です」と言い一旦降板直前頃には「星の王子さま」と言っていた。復帰後は「ラベンダーマン」や「ベルサイユのばら」などもあった。
- メンバー時代に座布団10枚獲得した経験があるが、その内容は「イギリスに行って本場のダービーが見られるが、旅費は自腹(結局キャンセル)」「メンバーから胴上げされる(落とされて足をくじいた)」などの、ろくでもないものばかりだったという。
- 媚に弱く、大喜利メンバーが圓楽を称えるヨイショをすると「山田君、座布団持ってくるのが遅いんだよ!」や「山田君、こういう時はすぐに座布団を持ってくるもんだよ!」などと言う。
- 「ガハハ!」という豪快な笑い声が特徴で、木久蔵(現・木久扇)が与太郎(=バカ)ネタを披露すると決まって大笑いした後「バカだねぇ~」とあきれる。また、歌丸が木久蔵の与太郎(=バカ)ネタを披露されたのを嘆き「ね、ね。換えようよぉ~バカがうつるよぉ~」と訴えられると「我慢しなさい。木久ちゃんはあれが持ち味なんです」とたしなめる。その一方で木久蔵が自らの落語や落語会の自虐ネタをやると「木久蔵さんの落語で笑わない奴はいない」とフォローを入れることもあった。(圓楽が引退した後のインタビューで木久扇を「馬鹿を言ってスターになった。あのキャラクターを確立したのは大したものだ」と評価しているように、落語家としての木久扇の実力を認めているからこその発言である)
- 外来語の発音を、「チーム(team)」でなく「ティーム」と発音するなど意識している。対して、語りではタメのある江戸言葉を交え、『笑点』でも、山田隆夫が座布団を運ぶ折に「座布団を“あげつかあさい”」(”つかあさい”→江戸言葉で「~してください」)などと軽妙に話した。
- メンバーを指名する際は基本的に全員「さん」付けで呼んでいたが、答えのフォローの時などは長幼の序や自分との関係を重視してか、歌丸には「歌さん」木久蔵には「木久ちゃん」こん平には「こんちゃん」と呼んでいた(3人ともメンバー時代の圓楽と大喜利で共演している)が、他のメンバーには亭号抜きの「**さん」と呼んでいた。特に弟子の好楽・楽太郎には顕著である(司会担当当初、楽太郎は呼び捨てにしていた)。なお、逆にメンバーが圓楽を呼ぶ場合、歌丸、こん平、木久蔵は「圓楽さん」、他のメンバーは「圓楽師匠」と呼んでいた。
- お下劣系(下ネタ・不潔ネタなど)を好まず小遊三のエロネタやこん平の肥溜めネタには「下品だよ~」とあきれ、ひどい場合には「○枚(あるいは全部)持っていきなさい」と言っていた。
- 指名してから名前が出るまでに(明らかに名前が出て来ない)間が空く事や新メンバー(当時はこん平の代理)の林家たい平に「誰だっけ?」と名前を忘却したことなどが大喜利のネタとされた(なお後任の歌丸も誤ってたい平を「こん平さん」と呼んだり改名後の木久扇に対して「木久蔵さん」と呼ぶなどしてネタにされている)。
- 他にも、司会奪還、居眠りや若竹などがネタとなる(特に歌丸や楽太郎、降板した現在でも使用している)。
- オープニングで憲法改正やサマータイム導入を訴えるなど、保守派・右派的視点からの時局的発言も度々見られた。
[編集] 現役引退
2007年2月25日に落語会「国立名人会」の後の記者会見で現役引退を表明した。圓楽はこの高座に自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだが、口演後、その出来に納得がいかずに引退を決意した。弟弟子の6代目圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていない事から、この日演じた『芝浜』が最後の高座となる模様である。
また、2007年4月1日放送「いつみても波瀾万丈」の出演を以って、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送「笑点」には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、1967年から続く日本香堂のCM出演は2009年現在も継続中(本人曰く「ギャラ貰ってるからね」)である。
2008年8月、愛弟子の三遊亭楽太郎に6代目『三遊亭圓楽』の名跡を襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与)。当代圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として、楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明している。名前については三遊亭を名乗らずに、本名の『吉河寛海』に戻す事を明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により『5代目圓楽』『6代目圓楽』とを並立させることとなった。
[編集] 弟子
(香盤順)
- 三遊亭鳳楽
- 三遊亭好楽(元は林家彦六の弟子だが、師匠彦六死去後に圓楽一門に移籍)
- 6代目三遊亭圓橘(元は3代目三遊亭小圓朝の弟子だが、師匠小圓朝死去に伴い圓楽一門に移籍)
- 三遊亭楽太郎- 2010年春に6代目圓楽襲名予定。
- 三遊亭楽之介
- 三遊亭貴楽
- 三遊亭小圓楽
- 三遊亭喜八楽
- 三遊亭五九楽
- 三遊亭楽麻呂
- 三遊亭圓左衛門
- 三遊亭道楽
- 三遊亭栄楽
- 三遊亭とん楽
- 三遊亭楽春
- 三遊亭洋楽
- 三遊亭真楽
- 三遊亭竜楽
- 三遊亭良楽
- 三遊亭愛楽
- 三遊亭京楽
- 三遊亭全楽
- 三遊亭神楽
- 三遊亭上楽
- 三遊亭圓福(福楽改め)
- 三遊亭大楽
- 三遊亭王楽(三遊亭好楽の息子、圓楽の引退に伴い最後の弟子になる)
- 現在門下のみ。孫弟子は円楽一門会を参照。
- 7代目三遊亭圓好は当初は圓楽門下に入門して三遊亭甘楽と名乗っていた。しかし、後に、大師匠である6代目圓生に前座がいなかったため圓生門下に移籍している。その後も圓楽の弟子として復帰することなく、6代目圓生の直弟子として振る舞った(6代目圓生死後、圓楽以外の他の弟子とともに落語協会に復帰)。
[編集] 関連項目
- 笑点
- 落語家一覧
- ボンさん
- 御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち(著者:三遊亭圓丈)
- 落語協会分裂騒動
- 日本香堂(CMの語り手で出演)
- 井上織姫 - 自分の縫い包みに「エンラク」という名前を付けている。
- 江戸噺家
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| 日本放送演芸大賞受賞者 |
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